第89話


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 ミモザの唇から溢れた無意識のため息には、その呼気からは想像もつかないほどの重苦しさがあった。
 報告は受けていた。
 負傷したアクセルにエルザが見舞いに行ったと伝えに来たのは、フレイムローズだ。
 仕えるべきコウェルズがラムタルに向かってしまい、今は魔術師団側に近い任務ばかり与えられているフレイムローズ。
 その理由はファントム襲撃において敵側に手を貸してしまったが故に騎士達に死者まで出したというのに不問とされ、騎士達からの不満が今も募るからだ。
 他者の目にも分かりやすい罰を与えなかったことにはミモザも反対はしたが、コウェルズはクルーガーとフレイムローズは不問であると譲らなかった。
 それこそが二人への罰だと察したのは、二人が解放されてすぐだった。
 人の目はどう足掻いても、良くも悪くも精神に影響を及ぼす。
 特にフレイムローズは、コウェルズが歴代最強の魔眼に育て上げた自負がある。
 精神攻撃に特化した魔眼を、物理攻撃も出来るよう育てた。そして王家への絶対的な忠誠心。
 その忠誠心をファントムに使われて、コウェルズはひどくプライドを傷付けられたことだろう。
 だからこそ、コウェルズはクルーガー共々フレイムローズを守らなかった。
 守られない。それこそが最大の罰だと。
 コウェルズがラムタルに行ってしまったショックで少しばかり痩せてしまったフレイムローズからエルザの報告を受けた後、ミモザはフレイムローズにも休むよう告げた。
 本当は一度赤都の家族の元に帰してゆっくりと休ませてやりたいと思うが、いつまたファントムとの戦闘があるかわからない状況でフレイムローズを無闇に城外には出せなかった。
 中途半端な優しさしか与えられない自分にまた重いため息をつきながら、エルザの部屋まで向かって。
 エルザの騎士達は、普段の二人体制より多く扉の前に待機していた。
 ミモザが訪れたことで全員が頭を下げてくるから、入室すると合図する。
 扉はすぐに開けられて、ミモザは自分の騎士達も待機させて自分だけがエルザの部屋へと足を踏み入れた。
 侍女達が気を使ったのか少しだけ窓は開けられているが、重いカーテンが部屋を暗くしている。
 室内に優しく焚かれた香はエルザの好きな野苺の香りだが、鬱々とした雰囲気は消えてはくれない。
 エル・フェアリア国内は王の突然の死去に騒然となっているだろうが、王城内では姿を見せなかった父王のことよりも、泣き濡れるエルザへの哀れみの方が強かった。
 エルザの涙の理由も既に知れ渡ってしまっている。
 エルザを守る騎士達の怒りが、口に鍵をかけることを許さなかったのだ。
「…エルザ」
 ベッドの上で、布団にくるまりながら座り、露台へ続く外を静かに見つめているエルザ。
 その隣に座りながら名前を呼べば、弱りきった妹の泣き顔が振り向いた。
「…………お姉様」
 涙の理由が父王でないことは知っている。もしかしたら、自分の殻に篭り続けるエルザには父王の件すら頭にないかも知れない。
 それほど、ニコルへの愛を渇望して涙をこぼし続けていた。
「魔術師団のアクセルに会いに行ったと聞きましたよ」
 責めているわけではなかったが、ミモザの言葉にエルザは小さな声で謝罪を呟いた。
 ほんの微かな、吐息程度の声で。
「…責めているわけではないの」
 そっと肩を抱き寄せれば、エルザからも甘えるように身を寄せてくる。
 アクセルの元に訪れたということは、ニコルが戻ってきていることも分かっているのだ。
 ニコルに会いに行かなかっただけ、自分を抑えているのだと思いたかった。
「…怖い夢を見ました」
 ゆるやかな小川の流れかのように涙を止められないままのエルザが、ポツリとまた口を開く。
「……本当に怖かったんです」
 不安から逃れたいのか、ミモザの手をキュッと握りしめて。
「…ニコルが…他の女性を……」
 言葉はそこで途切れる。
 それでもミモザは思わず息をひそめてしまった。
 ニコルが遊郭の娘を一年間買い占めた事実は三団長以下には伝わっていないはずだというのに。
 それとも偶然が見せた夢なのか。
「…おかしな夢を見たのね」
 せめて今は、単なる夢だと思わせたかった。
「お姉様…ニコルは今、どこにいますの?」
 ニコルが戻った知らせも、誰から受けたのか。
 恐らく騎士達なのだろうが、エルザの為にもしばらくはニコルのことを考えないようにしてほかった。
 無理だとわかっていても、他のことを。
「ニコル達には新しい任務が与えられてあるから、忙しく駆け回ることになるでしょう。あなたにも、山積みのお仕事がありますからね」
 だから早く元気になってね、と。
 そこまで言わずとも、エルザはクスクスと笑ってくれた。
 久しぶりに見せてくれた笑顔。
 でも、涙に濡れて、とても痛ましい。
「やるべきことが本当に山積みなのよ。ここからでもいいから、手伝ってくれる?」
 気を紛らわせる為にも、何かさせたくて。
「…はい」
 エルザも少しは冷静さを取り戻してくれているのか、弱々しいが頷いてくれた。
 少しずつでも前を向いてくれる努力が嬉しくて、両手でぎゅっと抱きしめて。
「…では、私も政務に戻りますわね。何かあったらすぐに来るからね」
「……はい」
 エルザの笑顔に少しだけ胸を撫で下ろしながら、一度だけ髪を梳くように頭を撫でて。
 本当はもっとエルザと共にゆっくり時間を使いたかったが、現状、ミモザにのしかかる政務と重圧は凄まじいのだ。
 また来るからね、と別れを告げて、せめて少しだけでも元気になってほしいから、重いカーテンの代わりにレースカーテンで窓辺を包んで。
 エルザの部屋を出た時、いつ訪れたのか、騎士達と共にいたヴァルツと目が合った。
「……ヴァルツ様?」
「ここに寄っていると聞いてな。エルザは無事か?」
 状況を知って、いつもより大人っぽく立ち振る舞って。
 真剣な眼差しはまだまだ幼さが強く残るが、バインド王に似て精悍で、思わず見惚れてしまった。
「…ミモザ?」
 見惚れてしまった理由はきっと、自分自身も泣きたいくらい苦しいからだ。
 それでもミモザの中途半端に強い精神力が、甘えを許さない。
「……エルザはもう少し時間が必要でしょう」
 エルザの騎士達に後を頼み、ヴァルツと共に連れ立って歩く。その後をミモザの騎士達も付いてきてくれるが、気を使うようにいつもより距離は離れていた。
「時間が本当に解決するのだろうか…」
 エルザの状況の悪さを重く受け取るように、ヴァルツは肯定してくれなかった。
 否定というわけでもないが、その言葉がひどく胸に突き刺さる。
「…それと、ラムタルと連絡を取ったのだが、デルグ王の逝去に伴い、ラムタルからの使節団を私が指揮することになった」
「……ヴァルツ様がですか?」
 思わず足を止めてしまう。その理由は、ヴァルツが一番よく理解している。
「私だって、もう充分に外交もこなせる」
 ヴァルツは今まで一度も、ラムタル国内でも政務を任されたことがないのだ。
 それは不安定なラムタルからヴァルツを守る為でもあったが、ヴァルツ本人の能力不足も原因の中に確かに存在していた。
 それでも、ヴァルツはエル・フェアリアに単独で訪れて、随分と成長した。
「私が使節団の長となった方が、ミモザ達にも都合が良いだろう。誤魔化せる所は私が誤魔化してやる」
 父王の死は、細部にまで目を通せば不審なところも多く、リーンとファントムの件で揺れるエル・フェアリアの足元を掬おうと画策する輩にとっては甘い蜜だろう。
 特にラムタルは、自国と並ぶエル・フェアリアを敵視する者も少なくない。
 そんな者達から、エル・フェアリアを、ミモザを守ってくれると。
 意志強い優しさが、胸に染み渡るようだった。
「とりあえずはコウェルズがラムタルから戻ってからのことにはなるが、ミモザは安心しているのだぞ」
 年下の婚約者がとてもたくましく見えて、また涙が滲みそうになった。
「ありがとうございます。とても心強いですわ」
 身体ごとヴァルツの方を向いて、改めてその手を握って感謝を伝える。
「そ、それくらい任せるのだ!…それより私が貸した絡繰り達をなぜ誰も出しておらんのだ…」
 頬を赤くしてから、不貞腐れるようにわざと顔をそらすヴァルツ。
 訊ねてきたのはヴァルツが姫達に貸し出してくれたラムタル秘蔵の絡繰りの行方だが、それならここに、とミモザは手首の袖を少しまくり金縁の美しい腕輪を五本見せる。
「絡繰りを使うにも魔力が必要となるでしょう?今は少しでも魔力を温存しておきたいので、緊急時にだけ使わせていただくことに皆で決めました」
 魔力を込めて発動すれば、巨大な獣となり身を守ってくれる絡繰り達。
 貸し出されてすぐの頃は物珍しさから獣達を出してはいたが、今は魔力を優先することに妹達と話し合ったのだ。
 絡繰りは元は腕輪なので、万が一に応じてすぐに魔力を込めて獣型に変えることが出来るから。
 それでも幼い妹達は、夜にこっそりと絡繰りを出しているみたいだが。
「何が起きるかわからない状況ですので、全てを大切に使いたいのです」
「…それはわかるが…せめてミモザは一体くらい…私が魔力を込めた絡繰りくらいは…」
 ミモザはナイナーダに襲われた過程があった為に他の姫達と違い五体も提供されていたが、魔力提供の内訳にヴァルツも当然いる。
「私にはヴァルツ様が個人的に下さった守護の髪飾りもありますし…………いえ、では、夜にお守りいただきますわね」
 感謝だけ述べようとしたが、ヴァルツがみるみるうちに口をへの字に曲げていったので、ミモザが折れることにした。
 途端に笑顔を見せてくれるから、やはり年下の婚約者はまだまだこの幼さが可愛いと思えた。
「絶対だぞ!」
 ナイナーダに襲われて以降、ヨーシュカと彼に近い魔術兵団の者達が影から見守ってくれていることにも気付いていたので、実はもうナイナーダのことは怖くはなかったのだが、それは言わないまま。
 多くの人達に守られて、本当に幸運だと思う。
 だがその守護は、ミモザがこの国の為に立つ存在だからでもある。
 感謝の気持ちと、時おりくじけそうになる重圧と。
「…ヴァルツ様……今夜…」
 誰かの肩に身を委ねたい感情が口からこぼれそうになって、
「……いいえ、何でもありませんわ」
 寸前で止めて。
 ミモザの途中で切った言葉を、ヴァルツは深く探らずにいてくれた。
「ミモザは、今から応接室に戻るのだろう?」
「はい。ヴァルツ様も来られますか?」
「残念だが書物庫でフェントの調べ物の手伝いをする約束をしているのだ…昨日は凄まじい勢いで文献が運ばれていったが、応接室内は無事なのか?」
 ミモザの王城内の応接室はミモザの好きなものばかりを集めたシンプルに品の良い部屋だったが、運ばれた量を知るらしく、心配する顔が少し引き攣っていて面白かった。
「ご安心ください。優秀な者達ばかりですので、戻る頃には少しは片付いているでしょう」
「…ということは雑多に積まれたのだな」
「量が量ですし、急遽与えた任務でしたので。ですが行動が早くて素晴らしいですわよ。我が国の治癒魔術の指南書もきっと、予想以上に早く完成することでしょう」
 ニコルとアリアをしばらく他者の目から隠す為に籠らせようと与えた任務ではあったが、物事が思った以上に良く進んでいるのだ。
 どうやら治癒魔術師護衛部隊の中でも何かしら考えていたことがあったらしく、ミモザの与えた任務とその考えの方向性がほとんど一致していた様子だ。
 このまま良い方向に進んでほしいと、切実に思う。
 暗い出来事ばかりだったから、せめて、と。
「……今からは無理だが…」
 どちらともなく改めて足を進め始めた頃合いで、ヴァルツは少しだけ口篭りながらミモザの手を取る。
「…夕食後に少しだけ、私に時間をくれないか?…ミモザも少しは休むべきだ」
 ここ数日はエルザの政務もこなしていた為に夜遅くまで起きていたのだが、ヴァルツも気付いていたらしい。
「私に出来ることなら何でもしてやる!…だから」
 自分が周りに色々と気付いているように、周りの者達もミモザを見てくれている。
 胸の重みが少しだけ解放された気分だった。
「…ありがとうございます。では少しだけ…二人だけで過ごさせてほしいです」
 思い切って、甘えてみる。
 恥ずかしくて、心臓の鼓動は早まった。
「い、いつでもよいぞ!私は!!」
 ヴァルツの方も照れながら了承してくれて、嬉しくて、微笑んで。
 心なしか後ろを歩く騎士達がさらに遠くにいる気がしたが、目の前のヴァルツの表情に見惚れることの方が今は重要だった。
「では、フェントをお願いしますね」
「任せておくのだ!」
 約束があるのなら、今はフェントに譲る。
 でも夜は自分と約束してくれたから。
 微笑み続けるミモザを名残惜しみつつもヴァルツは大きく手を振って、嬉しそうに表情を緩めたまま走り去ってしまった。
 その背中を見守りながら、ミモザは少し楽になった胸にそっと手を置いた。

第89話 終
 
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