第89話
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「ーーでは、よろしくお願いします」
「こっちこそ。ありがとな」
ミモザの個人応接室の隅でニコルがモーティシアと静かにやり取りをしたのは、彼らがそれぞれ大切に思う娘達を繋げるための手紙の手渡しだった。
昨夜自宅に戻ったモーティシアはマリオンにテューラ宛の手紙を書かせ、それを今ニコルに預けてきたのだ。
手紙はそこまで厚みがあるわけではないが、封はされていない。
「…読んだのか?」
「……」
まさかとは思い訊ねてみたが、わざとらしく返事はされなかった。
応接室内にはつい先ほどジャスミンが戻り、口では「無事に伝えてきた」と話してはいたが、表情は固かった。
嫌味のいくつかをもらったのだろうと少しだけ休憩をしてから、今はアリアと共に他国の治癒魔術の指南書を読んでいる所だ。
アリアもまだ不慣れな国の言語を、ジャスミンがサポートしながら読み進めている。
アリアがブツブツと小声で何やら口走りながらメモ用紙に書き込んだ単語はこれで何個目になるだろうか。
応接室の壁伝いにトリッシュとセクトルが文献の仕分けをして、レイトルはラムタル語で書かれた指南書を個別に読んでいた。
セクトルは一昨日殴られた頬の痣を先ほどアリアに治してもらっており、突然の治癒に皮膚に違和感があるのか、たまに指先で触って確認している様子が見れた。
「さあ、私たちも仕事に取り掛かりましょうか。団長達への大まかな伝言は伝えてあるので、今日は仕分け整頓に集中しましょう」
「ああ」
預かった手紙を胸ポケットにしまって、モーティシアはトリッシュの元へ、ニコルはセクトルの元へ足を運ぶ。
「ーーなあ、薬草とか得意だったろ?あっちに固めてるから用途で分けてくれ」
セクトルからはすぐに指示が来て、ニコルは部屋の隅に纏められた文献に目を向けた。
どれこもれと大切な文献だというのに、今は雑多にしか見えない。
「薬草資料なんているのか?」
思わず口にしてしまい、もー!と反論してくるのはアリアだった。
「組み合わせとか、色々あるの!治癒魔術だけで疲労は回復できてもそれは一時凌ぎ!衛生面とか薬草とか、大切なんだから!」
「…治癒が済んだ後に医師団に任せたらいいんじゃないのか?」
「なんでそういうこと言うのー!!」
憤慨するアリアをジャスミンがまぁまぁ、となだめ、ニコルは両サイドからセクトルとトリッシュに同時に頭を叩かれた。アリアはどうやら不慣れな他国の文章に少し苛立っている様子だ。
「治癒魔術を施す間に、その人体においてどんな成分が今後必要か、何が危険かを魔力越しに察する事ができるみたいですよ。医師団の問診だけでは難しい箇所を治癒魔術はカバーしてくれるんです。それを踏まえて、薬草の知識も必要になってくるんですよ」
モーティシアの説明にようやく納得する。
「よく知ってるな」
「おや、興味が?詳しい薬草の図鑑をお貸ししましょう。あなたの薬草の知識をさらに活かせるように」
「いや、やめとく…」
自分も勉強させられそうな状況を半笑いで何とか回避すれば、周りからドッと笑われてしまった。
不満顔なのはモーティシアだけだ。
「さぁ、今日中にせめて綺麗に整頓したいので、手を早めますよ」
パンパン、と空気を変えるようにモーティシアは指示を出し、男性陣は動くスピードを早める。その動きにそろそろと近付いてきたのはレイトルだった。
「私もちょっと煮詰まってきてるから、仕分けの手伝いしようかな…」
「そうですか?ではあちらの重い文献をお願いします」
「え……」
読まされていた指南書から逃げ出した先に待っていたのは、誰も手をつけなかった縦にも横にも幅にも貫禄のある資料軍団だ。
鍛えた騎士でさえ後に回していた分厚い文献を任されて、レイトルも流石に半笑いとなった。
来客を告げるノック音が扉から響いたのは、レイトルが極厚文献まで足を運んで渋々手を伸ばした時だ。
皆の手が止まり、緊張するように扉に目を移す。
「ーーおーい、俺だー!入っていいかー?」
響いてくるどこか間抜けな大きな声は、一言目から誰だか見当がついた。
「スカイ殿?」
名を呼ぶのはレイトルで、扉に近づいて開けるのはモーティシアだ。
「ご用件、は…」
開けると共にモーティシアは口も開くが。
「スカイ殿!少しは気を遣ってくれませんか!?」
「いいだろ別に、こっちも急ぎなんだよ」
扉の向こうで慌てていたのはニコラだけで、共にいたはずのミシェルの姿は見えない。
モーティシアがさらに扉を開いてくれて、ニコル達の目に入ってきたのは数名の騎士達と共に訪れた、第六姫コレーと第七姫オデットの姿だった。
ミシェルは二人の姫のそばに片膝をついて何やら話し込んでいる最中だ。
「……どういったご用件でしょうか…私たちは訳あってミモザ様からこの応接室をお借りしていますし、その訳もご存じのはずかと…」
「突然で悪いな。ミモザ様からアリア嬢の疲労回復の治癒がかなり良いってきいたから、ちょっと急ぎでな」
スカイは今現在の城内や騎士団内に流れる不穏な空気をあまり深く考えていない様子で、ニコル達全員に気楽に手を振って挨拶をしてくる。
それでもモーティシアはスカイをすぐに入室させることはしなかった。
「…申し訳ありませんが、アリアの治癒魔術は医師団を通して計画的に行うことになっています。どなたかは分かりませんが治癒が必要なら、まずは医師団に伝えてください」
「急ぎだって言っただろ?…疲労回復を頼みたいのはコレー様とオデット様なんだよ」
はっきりと伝えるモーティシアとは異なり、スカイは普段の大きな声をわざと小さくして誰に治癒が必要なのかを伝えてくる。
「…ただでさえ新緑宮の魔術補強にコレー様とオデット様は休みなしで連日働いてくれてるんだ。なのに陛下の件で…頼む、少しでいいんだ。わかってくれないか?」
理由は切実であると。
スカイの真剣な言葉に、モーティシアは様子を伺うようにアリアに目を向けてくる。
「…あたしに出来ることなら!」
理由を聞かされて、それでも拒否出来る人間はここにはいない。
コレー姫とオデット姫が壊れた新緑宮の結界の補強をしていることを知らない者はいないから。
リーン姫がファントムに攫われたその日から、二人の姫が心からゆっくりと休めた日はないだろう。
ただでさえ幼い姫達に疲労が蓄積しているはずなのに、昨日、彼女達の父親は亡くなった。
心労がどこまで影響をもたらしているかはわからないが、幼い心が耐えられるとは到底思えなかった。
「…わかりました。ですが護衛の皆様はご遠慮ください。姫様方と、あなただけです」
「助かる」
スカイはすぐに姫達の元に戻り、共に付いて来ていた護衛の騎士達に説明をしていた。
騎士達は少し思うところがありそうな様子で応接室内に窺うような視線を向けたきたが、二人の姫の方が大切な様子を見せた。
そばにいたミシェルが不安そうな二人の背中を押してくれて、姫達はスカイと共に入室する。
部屋の扉を閉めてくれたのはニコラだった。
幼い姫達の顔色は確かに悪く、コレー姫の方は少し赤く腫れた重そうな瞼が涙の面影を知らしめてくる。
父王の訃報に泣いて、泣いて、それでも今日も国の為に新緑宮の結界の補助を務めたのだろう。
ミモザが受けた疲労回復の治癒魔術は、ミモザがスカイに直々に話したのか、それともミモザが誰かに話し、それが流れ流れてスカイ達の耳に届いたのか。
「…お前達も大変だったみたいだな」
小さな声で、スカイはレイトルとセクトルを労ってくれる。
「……お前も、メシ食えてるか?」
ニコルにも目を向けたスカイは、責めずに思いやりをくれて。
王城にいたなら、きっとエルザを憐れむ話ばかりを耳にしていたはずだ。だというのにスカイは中立でいてくれた。
「…すみません」
「俺に謝んな。お前がクズじゃないことくらい知ってる」
ニコルの味方というわけではない。だが理由も聞かずに敵視もしない、と。
「アリア嬢、急で悪いが、よろしく頼む」
改めてアリアの元へと足を運ぶスカイが、互いに手を取り合ったままのコレーとオデットを呼び寄せる。
コレーはすぐにスカイに身を寄せて、オデットはコレーの背中に隠れるようにしながら俯いてしまう。
スカイは中立の立場を取ったとしても、二人にとってはエルザを悲しませたニコルに今まで通り無邪気に接することが出来なかったのだろう。
オデットの方はちらりちらりとニコルに目を向けてくるが、コレーは完全にニコルに背を向けて口を閉じていた。
「…ではコレー様から見させてもらいますね」
それを察したように、アリアは先にコレーの前にしゃがみ込む。
ミモザの時のようにすぐには治癒を施さない。肩や頭、腕や腹部、脚などに少しずつ手をかざして。
「コレー様、疲労が全身に溜まっているので、しっかりと疲労を取り除く術を施してもいいでしょうか?」
手を離したアリアは、コレーの疲労の度合いが重いことに気付いたように、少しだけ眉間に皺を寄せながら話した。
「……何をするの?」
その表情を見て不安そうに身を縮こめるコレーに。
「…お身体にしっかりと触れることをお許しください。…少しの間だけ、抱きしめさせてほしいのです」
最良の治癒を施す為に、と。
アリアの言葉に、誰もが驚きながらアリアを見つめた。
今までのアリアの術は、手をかざして白い魔力を負傷部や身体に充てがうものばかりだった。
魔力を使いすぎれば長時間眠りについてしまう為に、ニコル達は医師団と共に相談しながらアリアの治癒魔術を使わせていたが。
今まで見たこともない治癒方法に、思わずモーティシアと顔を合わせてしまう。
他の者達も、どういうことかと不安そうにしていた。
「…構いません」
コレーはアリアの治癒をあまり知らない為か、そこまで不思議がることはしない。
自ら一歩前に出て、同時に腕を広げたアリアの腕の中に収まった。
コレーを抱きしめるアリアの身体全身から、白い清涼な魔力が溢れ出す。
誰もが少し不安げに見守る中で白い光はあまり周りに溢れることもなく、コレーを純白に染めていく。
時間はそこまで長くはかからず、十数秒程度のものだった。
心地良いのかコレーは目を閉じていて、光の落ち着くと共にゆっくりと淡い藍の瞳を見せてくれる。
「……いかがですか?」
「…すごいです…身体がとっても軽いですわ!腕も、目も、脚も重くありません!!」
自分の身に起きた出来事に驚きながら、コレーは先ほどの緊張も忘れて無邪気な笑顔をアリアに向けてくれる。
指先を何度も開けては閉めてを繰り返しており、コレーの疲労が細部にまで溜まっていたことが知れた。
「よかったです」
アリアもつられるように笑顔を向けるが、その顔色は少し青白くなっている。
強い治癒魔術を施したのだと、すぐに察した。
「オデット様も、すぐに治癒を施しますね」
誰かに止められるよりも先に、アリアはオデットへと手を広げる。
恐る恐る近付くオデットへと、先ほどと同じようにゆっくりと全身に手をかざし、やはり同じように抱きしめることへの了承を得てからオデットに治癒を施した。
再びの光の後、オデットも驚いたように自分の体の軽さを体感して。
「…お身体、とっても軽いですの…」
「ね!これでまた、たくさん頑張れますわ!!」
無邪気な二人に笑顔を向けた後、アリアはそっと立ち上がってスカイへと真剣な表情を向ける。
「…休養が必要です。蓄積した疲労を回復したとしても一過性に過ぎませんから…効果が下がるのも早いんです」
強い魔術を使ったせいか少しふらつきながら、それでもアリアはスカイから目を離さなかった。
「わ、私たちなら大丈夫ですわ!」
「ご飯もたくさん食べて、たくさん寝てますもの!」
コレーとオデットは慌てながら伝えてくるが、それでは足りないのです、とアリアははっきりと口にする。
「すでに成長し終えた大人の身体なら、たいていの無茶は平気です。ですがまだ成長途中の身体にここまでの疲労は…見過ごせないです」
それほどの疲労だったと。
一般的な疲労と、魔力を大量に消費したが故の疲労は大幅に異なるものだ。
スカイはしばらく二人の姫へと目を向けながら口を閉じて。
「…わかった。隊長達に話して休憩を入れてもらう」
強く頷き、あまり見せない真剣な表情を姫達にも向けていた。
「スカイ!私たちなら大丈夫ですわ」
「無理をさせていることには我々も気付いていたのです。…結界の補強はしばらく、魔術師団に任せましょう」
役に立ちたい、そう言ってくれる二人の幼い姫達の優しさに甘え過ぎたのだと、スカイの声は姫相手にもはっきりとしていた。
「…スカイ」
「そんな顔をしないでください。お二人の力を今後もお貸しいただきたいからこそ、今は休んでください」
泣きそうになるオデットの前にスカイが膝をつくから、コレーが少し慌てながらスカイの腕にすがりついた。
幼い姫達が唯一出来た緊急事態の手助けだが、これ以上は、と。
「…結界に必要な魔力量はどれくらいですか?」
数秒ほど静まり返っていた室内で、ニコルは自然と訊ねていた。
壊れてしまった新緑宮の結界維持に必要なのは、ただひたすら魔力を供給し続けることだ。
だからこそ幼いオデットや、魔力量は膨大だが制御する能力に劣るコレーでも従事できた。
「…そりゃ、ケタ違いの量だな。平均的な貴族の魔力量なら、半日で枯渇するだろう」
幸いにも魔術師団員達はその全てが平均を凌駕する者達ばかりだ。
だが、それでも特殊なほどの魔力量を持つ者には敵わない。
「それなら…せめて夜だけでも、私に立たせてください」
願い出たのは、どんな感情からだったのだろうか。
自分でもわからない。
ただ、自分の魔力の元が何であるのかは知っている。魔力量が優秀な者達ですら圧倒することも。
だから、まるで何かの罪滅ぼしであるかのように、ニコルはポツリと呟くように願い出た。
「…兄さん」
「いけませんよニコル。今あなたが人前に出ることは許容できません」
不安そうなアリアと、城内の現状を知るからこそ止めるモーティシアと。
「思いつきで軽々しく話さないで下さい。…申し訳ありません、スカイ殿」
強い口調で咎めて、スカイには謝罪して。
「…でも俺に出来ることは……」
「アリアを守ることがあなたが今最もするべきことです。魔術師団の総力を侮らないでください。コレー様やオデット様の魔力ならともかく、あなた一人の魔力量など知れています」
ニコルの魔力の元を知らないからこそのモーティシアの強い言葉。だが、とまた反論しようとして、アリアにそっと袖を摘まれて止められた。
口を閉じたニコルの元へ、近付いて来たのはオデットで。
「オデット!だめ!!」
まるでニコルを毛嫌いするように、コレーはオデットを引き離そうとした。それでもオデットはニコルから離れず、見上げてくる。
多感な年頃と共に恋愛にも興味と理解を持ち始めたコレーよりも、オデットの方がニコルを嫌わずにいてくれているのだろうか。
「…ニコルは、エルザお姉様のことが嫌いになったの?」
悲しそうな表情と声。
胸を掻きむしられるように、罪悪感は重苦しく全身を苛んだ。
片膝をついて、オデットと頭の高さを合わせて。
「……嫌いになったわけではありません。今でも大切な、守るべきお方です」
幼い姫にどう伝えればいいのかわからない。
何をどこまで理解しているかもわからないのに、エルザを守る護衛騎士達に告げたような残酷な事実も口には出来なかった。
「…では、エルザお姉様のことは好き?」
幼い、素直なままの質問。
単純だからこそ、言葉はとても重く感じた。
「…オデット様達の安全を思うのと同じように、大切に思っていますよ」
選ぶ言葉の難しさが身に染みる。
嫌いになったわけではない。愛せないだけだ。
単純だが、残酷すぎる現実。
愛が一番欲しいものだろうに、偽りとはいえエルザはそれを一度は手に入れながら、身勝手に奪われ捨てられたのだ。
どんな贖罪も、無意味だと改めて痛感した。
オデットはその残酷さをまだ知らない。
コレーは恐らく、気付き始めている。
だから、強くニコルを睨みつけるのだ。
「オデット!!」
命じるように呼びつけて、オデットの手首を強引に引っ張る。
今度はオデットも素直に姉に付いて行き、スカイが静かに扉を開けて二人を逃した。
「…アリア嬢、コレー様とオデット様を癒してくれて感謝する。二人はしっかり休ませるから、安心してくれ」
悪くなってしまった場の空気を誤魔化すように笑うスカイだったが、その笑顔も普段通りのカラッとした快活さはなかった。
「…ニコル、新緑宮ならこっちで十分回せるから、自分のことだけ考えてろ」
彼らしい優しさを最後に残してくれて、またな、と去っていく。
誰もが呆けて立ち尽くしそうになる中で、唯一動いたのはレイトルだけだった。
「……アリア、休んで」
強力な治癒魔術で一気に力を使ったアリアを、すぐにソファーに座らせる。顔色はさらに悪くなっていた。
「…今日はもう無理ですね。アリアは休ませます。ジャスミン嬢はアリアに付いていて下さい」
モーティシアもアリアの側に寄り、ジャスミンに世話を頼んだ後はニコルの方へと足を運んで。
「…あなた達は整理の続きをお願いします」
セクトルとトリッシュにも指示を出し、改めてニコルを強く睨みつけてきた。
「…己を抑える術を知りなさい。あなたが今守るべき者は、あなた自身でもエルザ様でもなく、アリアただ一人です」
先ほどのニコルの身勝手な発言。
暗に、ふざけるな、と。
周りのことを考えない発言だったと、理解して思い知った。
「…悪かった。……頭が回ってなかった」
重苦しい謝罪。
その後は誰も、ニコルに慰めの言葉はかけずにそっとしておいてくれた。
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