第89話
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「ーーアクセル、無事か?」
一人になった救護室内で少しだけ重い瞼を半分閉じながらボーっとしていたアクセルは、ふいに開いた扉に急いでベッドの上から背筋を伸ばした。
「おはようございます、リナト団長」
顔を見せるのは魔術師団の団長で、突然の来訪ではあったが、来る可能性には気付いていたので慌てはしなかった。
「目はもう何ともありません。ご心配おかけしました」
「構わん構わん。本当に大丈夫なのか?無理をしているのではないか?」
近寄ったかと思えば孫を心配する祖父のように顔をこねくり回し始めるリナト。それで安心するならとされるがままになっていたアクセルは、扉近くにもう一人いることに気付いてそちらに目を向けた。
「フレイムローズ殿」
「おはよー」
扉前に立っていたのは魔眼を持つフレイムローズで、名前を呼べば気安く近づいてきてくれる。
トリッシュはフレイムローズと親しくはしていたが、アクセルはそこまで親しいというわけではない。それでもアリアを通じて何度も話していたから、妙な緊張などは互いになかった。
フレイムローズがここに来たのも、目の不思議な力についてなのだろう。
「あの、俺の目…何かわかったんですか?」
自分の目に不思議な力が宿る可能性を告げられたのは昨日だ。
原子眼。
聞いたこともないその能力がどんなものかなど、アクセルは知らない。
今までずっと、自分が見えているものが他者には見えていないなど思いもしなかったから。
「一晩調べてみたが、原子眼についての文献は本当に少なくてな…それに、どれもこれもが“存在する可能性”程度のもので、どういった能力なのかなども不明な点が多くてな…」
自分のことのようにしょんぼりと肩を落としながら、リナトは手を止めてフレイムローズを隣に呼び寄せる。
「せめてフレイムローズなら何かわからないかと連れて来たんだが…」
「私も原子眼なんて初めて聞いたし、見てもわかりませんよ…」
フレイムローズも戸惑い、三人で同時にため息を付く。
「アクセルに魔眼をかけるわけにもいかんからなぁ」
「え、それはちょっと…」
「わかっておる……」
どうしたものか、と考え込むリナトに、うーんと首を捻りながらフレイムローズは閉じたままの目でアクセルを見つめて。
「アクセル殿はパージャのこと覚えてる?」
問われて、え、あ、と思考を働かせて。
「ファントムの仲間だった者ですよね」
「そうそう。俺の目にはあの人の髪の色が闇色に見えてたんだけど、アクセル殿にはどう見えてたの?」
「髪の色って…レイトルとよく似た薄茶でしたよね。正体が分かった時は闇色に見えましたけど」
「うーーーーん…じゃあパージャの周りで変な魔力の流れとかは見えなかった?」
「あの頃は王城全体に魔眼蝶がいたので、どこもかしこも魔力の流れが渦巻いていて…」
当時はファントム対策で非日常すぎたのだ。どこに目をやっても魔力と術式の渦ばかりだった。目まぐるしい極彩色に煽られて、個人個人の違和感など気付けもしなかった。それにあの頃は初めて見るアリアの治癒魔術に目を奪われていた頃でもある。
「…うぅー俺のせいでわからずじまい…」
頭を抱えるフレイムローズには申し訳ないが、アクセルも愛想笑いしか浮かべられなくて。
「魔術兵団長は何か言ってなかったんですか?」
昨日誰よりもアクセルの目に執着したのはヨーシュカで、何か新情報はないものかと口にした言葉にリナトがクワッと強く目を剥いた。
「あ奴には絶対に近付くんじゃないぞ!近付かれてもすぐに離れろ!お前の片目をほじくることしか考えとらん!!」
「ぇ…」
冗談だと思いたかった「片目を譲れ」発言は、どうやら本気だったらしい。
ここにはいないヨーシュカに引きながら、わかったな?と両肩を掴んで諭してくるリナトに強く何度も頷いた。
「お前の目のことは長くかかるかも知れんな…何せ本当に原子眼の持ち主だというなら…恐らく初めて見つかった者ということになるんだからな」
「…千里眼とはまた違うんですね」
魔眼や千里眼ならば、今までも何度か産まれている記録が残されているが、原子眼の記録は存在しない。
「遥か遠くを鮮明に見ることは出来んのだろう?」
「…はい」
「ならば千里眼ではないだろうな」
ため息をつかれて、自分が悪いわけではないのに俯いてしまう。
「…それでな、アクセル。その目がどんな能力なのかもはっきりとわからないから、お前を護衛から外そうと思うのだが」
俯いてしまったアクセルの顔を上げさせたのは、リナトの提案だった。
え、と訊ねてしまったのは、アリアを大切な仲間として思うからで。
だがリナトはアクセルの複雑な感情までは気付かないまま。
「アリアの治癒魔術とお前の能力がどう反応を起こすかもわからんからな。コウェルズ様が命じた術式の解析などの方がお前の力も発揮されるだろうし、護衛部隊から術式部へと移動してはどうかと思ってな」
「ま、待ってください!!」
提案を、大きな声で制した。
アリアの為にも、自分とセクトルがアリアに好意を向けていると思わせる手筈だったのに、今離れるわけにはいかないのだ。
「その、俺、私は……えっと…」
どう話せばいいかなどわからない。頭は一気に混乱して、あわあわと焦って両手が動き回った。
「あの、私はアリアと離れたくは…」
こんな時にモーティシアかトリッシュがいてくれたら上手く話してくれたと思うが、今は自分しかいないから。
「…あれ?アクセル殿もしかして、アリアのこと好きになっちゃったとかー?」
必死にすがるアクセルを見て冷やかすように笑ってくるフレイムローズの言葉は、今はまさに助け舟となってくれた。
思わずフレイムローズを凝視して。
「…え、そうなの?」
「……まさか、そうなのか?」
フレイムローズはアリアの側にいる護衛部隊達がどういった人選なのかは知らないだろう。だがリナトは違う。
そもそも自分の孫であるトリックをアリアに当てがいたかったリナトだ。報告は上がっているだろうが、騎士団のミシェルよりも魔術師団からアリアの夫を出したいと思うはずだと、眼差しに力を込める。
「お前、まさか…いやでも…今まで……」
リナトも今までのアクセルを知るからか混乱の様子を見せるが、畳み掛けるなら今しかないだろう。
「…えっと、実は前からちょっと思ってて…それで、昨日…俺の目を治してくれたアリアが…その……」
口はうまく回らないが、必死にリナトを見上げ続けた。
アリアのことを恋という形で好きになったわけではない。でも恋という感情以上に大切な仲間だから、国の為に泣かせたくはなかった。
「とにかく、アリアの護衛をやめたくはないです!!」
必死に縋りつきながら、切実に願う。
大声すぎる宣言に、その後の室内の静かさは耳に痛いほどだった。
一気に恥ずかしくなり、頬が真っ赤に火照り上がるのが見ずともわかる。
「…お前…そうかそうか」
静寂後のリナトの笑顔は、とても嬉しそうなものだった。
リナトが何を考えているのかわかる。
だがそう思わせないといけないのだ。
「わしの孫にもお前ほどの甲斐性があれば良かったのだがなぁ」
嬉しそうに笑う様子にホッと胸を撫で下ろす。
口はうまく回らなかったが、リナトは丸め込めたはずだから。
「そうかそうかぁ、いや、お前がなぁ。一番期待してなかったんだがなぁ」
「…団長?」
嬉しそうなリナトと、首を傾げるフレイムローズと。
「アクセル殿、本当にアリアに気があるの?」
こちらに目を向けてくるフレイムローズは、首を傾げたままだ。
「えっと、まぁ…」
はっきり訊ねられるとそれはそれで気恥ずかしいもので、頬が赤いまま思わず目を逸らして。
「そっかー…じゃあレイトルとライバルになる感じかなぁ?アリアもレイトルのこと気にしてるっぽいから、頑張らないとだね!」
何気なく口にしただけなのだろう。だがフレイムローズのその発言に、火照っていた頬は一気に血の気を引かせた。
なぜ今それを言ってしまうのだ。
アリアを取り巻く闇を知らないとはいえ、リナトの前で。
逸らしていた顔をリナトへと向ける。
老いたその表情は、恐ろしいほど眉間に皺を寄せていた。
「ぁーー」
やばい。
そう直感する中で。
「ーーアクセル殿、体調はどうだ?」
開けられたままだった扉から聞こえてきた新たな声が、一気に張り詰めた空気をかき混ぜる。
「クルーガー団長!」
そこに立っていたのは、騎士団長だった。
「クルーガーか…なぜここに」
「昨日の件があったから気になってな…フレイムローズを探していたんだが、お前が連れて来ていたのか」
考えることは同じだとばかりに、クルーガーは救護室に足を踏み入れながらフレイムローズの肩を叩き、リナトへとため息をつく。
「フレイムローズは騎士団の管轄だ。あまり勝手はするな」
「わかっておるわ…」
眉間に深い皺を刻んでいたリナトは、クルーガーの登場に別の意味でバツ悪く眉間に皺を寄せた。
「その様子だと大丈夫そうだな」
改めてアクセルに目をやるクルーガーは、無事に傷が癒えて後遺症もない様子に安堵してくれる。
クルーガーもフレイムローズを探していたというなら、恐らくアクセルと合わせる為だったのだろうと思えた。
魔術師団側で原子眼について調べられなかったというなら騎士団側でわかるはずもないだろうし、なにか手があるとすればフレイムローズくらいだから。
「ヨーシュカはここに来たのか?」
「いや、あいつのことは昨夜から見とらん…」
クルーガーとリナトが不穏な名前を出すものだから、少しだけ寒気がした。
「そうか…それとな、アクセル殿。申し訳ないが、少しだけ頼まれてほしい事があるんだが…」
すぐにこちらへと視線を戻しながら、クルーガーが申し訳なさそうに声を低く落とす。落とすというよりは、小声に近い。
「何ですか?」
どうしたのだろうと問えば、
「ここへ来る途中でエルザ様に見つかってな。…ニコルが戻っている件で、少しだけエルザ様と話をしてくれないか?」
「え…そんな」
エルザ姫とその護衛達が現在どのような状況なのか知っているというのに、合わせようとするなど。
「クルーガー!アクセルはまだ病み上がりなのだぞ!!」
「わかっている。だがエルザ様にどうしてもと言われてしまってな。まだ体調が回復していないと話したから、少しだけで構わないんだ」
驚き固まるアクセルに、すでに姫が近くまで来ている状況で断れるはずがない。
しかもアクセルは昨日、ニコルに新たに恋人が出来ていることを聞かされたばかりだ。
「あの、昨日……ニコルから…」
三団長はニコルに恋人が出来たことを知っていると聞かされたが、フレイムローズは恐らくまだ知らないはずだ。そう気付いて口を閉じたアクセルの肩を、リナトは助け舟を出すように叩いてくれた。
「エルザ様だけなら入室を許可しよう。だが護衛達は外せ。フレイムローズも席を外す。ワシとお前と、エルザ様だけだ」
それなら話すことを許そうと言うリナトへ、クルーガーは頷いてくれた。
「あ、じゃあ私はこれで…」
フレイムローズも妙な空気を察して、先に席を外してくれる。
「…アクセル殿、本当にすまない」
「いえ、こちらは別に…」
クルーガーも部屋を出て、しばらくしてから戻ってきた時、可憐で美しい姫を伴っていた。
「エルザ様、お見苦しい姿で申し訳ございません…」
ベッドの上から頭を下げて、またエルザへと目を向ける。
エル・フェアリアで最も美しいと謳われる姫は、庇護欲が湧くほどに美しいまま病的なほどの弱々しさを醸し出していた。
健康的で愛らしかった姫がここまで弱々しくなるなら、それを目の当たりにしていた騎士達が荒れ狂うのも頷けるほどだ。
クルーガーとリナトがすぐそばで緊張しながら待機していることに少しだけ気を落ち着かせて、エルザの言葉を待つ。
「……昨日怪我をしたと聞きました。今は大丈夫なのですか?」
優しい姫は優しさを忘れないまま、アクセルへと少し眉尻を下げながら微笑んでくれる。
どう見てもエルザの方が病人のようだというのに。
「アリア嬢がすぐに治癒魔術を施してくださり、今はほとんど回復しています」
完全に回復してはいないと少しだけ嘘をついたのは、クルーガーの言葉を思い出したからだ。
申し訳ないが、逃げ道は用意しておく。
「…ではやはり、ニコルは戻っているのですね?」
アリアの名前しか出していないのに、エルザはすぐにニコルと結びつけてしまった。
どうしよう、と固まるアクセルへと、エルザは少しだけ近付いて。
「ニコルは無事ですか?少しは体調が戻りましたか?しっかりと休むことは出来ましたか?」
エルザの目の色が変わる。
物理的に変わったわけではない。だが愛らしい美しさが、狂気のように恐ろしく変貌して。
ここまで人が変わるとは思っていなかった。ニコルが休暇に行く前に精神的に様子がおかしかったように、エルザも。
もしかしたらエルザの方がひどいかも知れない。
恋がここまで人を変えてしまうのだろうかと、恐ろしく感じるほどだった。
「元気になったかどうかは…そこまでは話せていないので……でもきっと大丈夫ですよ!」
逃げるように身を引きながら、曖昧な言葉と共に少しだけ笑ってみせた。
笑うしか出来なかった。
でも。
「本当ですか?本当に大丈夫なのですか?」
エルザは詰め寄る。
「エルザ様、どうか…彼は絶対安静中の身です」
クルーガーが引き離してくれるが、エルザの視線はアクセルから離れなかった。
必死に縋るのは、それほどニコルを愛しているからだ。
ニコルは「別れた」と言っているが、納得などいっさいしていないことがはっきりわかる。
それどころか。
「…あの、エルザ様……本当はニコルは全然休めていないんです…だから…」
アクセルにせめて出来ることはニコルと姫が会わないようにすることだと思ってそう話して。
「なの、でーー」
立ち尽くすエルザに、黒い糸が一本、見えた。
まるで髪の毛のような細さで、ふわりと。
その糸を覚えている。
ヒュ、と、呼吸が止まった。
幽棲の間で見た大量に絡まるどす黒い糸。ヨーシュカの胸部にも一本、刺さるように絡んでいた。
それが、アクセルの目の前で、エルザに絡みついていく。
何本も何本も。
「…アクセル?どうしたんだ?」
隣で心配そうにしてくれるリナトの声も耳には入らなかった。
何十、何百、何千、何万と。
エルザに絡みついていく糸は、アクセルにしか見えていないのだろう。
直感する。
闇、呪い、その類のもの。
黒い糸は無数にエルザにまとわりつき、やがてエルザを完全な黒に染め上げた。
今のアクセルの目に美しい姫は映ってはいない。
闇色そのものの、恐ろしいほどの、おぞましいほどの。
「…休めていないのなら…私が休ませてあげたいですわ…」
黒い塊が、可憐な声を響かせる。
アクセルにはもうエルザを見る事ができなかった。
誰の目にもこれが見えていないのだ。
アクセルにしか、この異常は見えていない。
「クルーガー、ぜひニコルを私の部屋に呼んでくださいませ。ゆっくりと休んでほしいのです」
「エルザ様…」
姫の提案を、クルーガーはため息と共に首を振って却下する。
「ニコルはすでに、ミモザ様から新たな任務を与えられています。次の任務は治癒魔術師護衛部隊総出となるので、邪魔をしてはいけませんよ」
王族相手にあくまで優しく、だがはっきりと言えるのは、クルーガーが立場のある人間だからだろう。
「そんな、私はニコルが心配で…充分休まないと…以前のニコルには戻ってくださらないのでしょう?」
切実な声。
それだけならよかったのに、アクセルの目に映るのは。
「ーーリナト団長!!…目が…」
恐怖が昂り、耐えられなくなった。
目の前の姫が呪いに包まれているなど。
「大丈夫かアクセル!!」
リナトはすぐにアクセルの顔を両手で掴んで上向かせてくる。
「…あ、だ、大丈夫、ですの?」
「エルザ様、我々はこちらへ。…リナト、医師団を呼んでくる」
「すぐに頼む!!」
リナトが壁になって全ては見えなかった。
それでもクルーガーが姫を部屋から出してくれたことに、ひどく安堵して。
「冷や汗がひどいぞ…突然どうしたんだ?目に何があった?」
狼狽えて心配してくれるリナトには悪いが、目に何か違和感が出たわけではない。
クルーガーは医師団を呼んでくれると言ったが。
「…リナト団長……魔術兵団長を呼んでもらえませんか?…大切な話があるんです」
エルザに大量に絡みついた呪いの糸は、ヨーシュカにも絡みついていたものだ。
そしてヨーシュカは、そのことを指摘されて明らかに顔色を変えた。
もし見えているのなら。
もし糸の正体が何なのか知っているのなら。
アクセルの頼みにリナトは眉を顰めるが、アクセルも引きはしなかった。
「大切なことです!どうか!」
恐ろしく、おぞましく。
たとえアクセルにしか見えていなかったとしても。
あんな状態のエルザが平常でいられるはずがないことだけは強く確信できた。
ーーーーー