第89話
第89話
ニコルとアリアが簡単な朝食を済ませた場所は、アクセルが休む医師団の救護室内だった。
城内のあまり良くない状況から隠すように医師達がこっそりと持ってきてくれた食事と、アクセルには特製の薬膳。
昨日酷い怪我を目に負ったというのに、アクセルはもう目に違和感を訴えることはなかった。
それでも様子を見て今日も一日休ませると決めたのは医師達で、フレイムローズも何度か魔眼の使いすぎによる疲労を訴えていた前例がある為の措置だ。
原子眼だと言われたアクセルの能力についてはまだ分からないままで、アクセルは不安を払拭するように、昨日モーティシアが命じた治癒魔術師育成の為の計画書をほとんど完璧にまとめ上げて。
「簡単な部分しか出来てないから、必要な資料や物があるならその都度アリアが追加で書き出して。気を使って物資追加を後回しにしたらモーティシアすごく怒るから気をつけてね。必要か不要かわからない時は必要なものとして書いておくといいよ。必要度小、とでも書いておけばそれで察してくれるから」
普段は頼りなく見えるアクセルの仕事ぶりは迅速で、モーティシアのような冷たさがないので下手に怯えることもなく無事に済んだ。
「ほぼ全部任せて悪かったな。助かった」
「ありがとうございます!」
感謝の言葉にアクセルは照れながら笑い、そろそろ時間になる為に部屋を出て。
「ーー準備は整ったようだな」
扉の向こうで待っていたのはニコラで、目の下に出来た隈がガウェを彷彿とさせた。
「…おはようございます、ニコラさん。えっと…ちょっとだけすみません」
そのあまりの疲れた顔に驚くニコルの隣で、アリアが驚きながらもそっとニコラの顔に両手を近付ける。
アリアの手からふわりと少しだけ溢れた白い魔力は、そのままニコラの顔の辺りでしばらく漂い。
「…もしかして、疲労を回復してくれたのか?」
「はい。何だかすごく疲れて見えたので…」
白い魔力が消える頃には、ニコラの表情は一気に目が覚めたかのような明るさを灯していた。
「…すごいな。感謝するよアリア嬢!治癒魔術の疲労回復でここまで楽になるとはな…」
ニコル達護衛部隊と騎士達の摩擦を回避する為に貸し出されたミシェルとニコラだったが、モーティシアに容赦なくこき使われた様子で、ミモザ姫のいる個人応接室に向かう最中に聞かされたのはゲンナリとした愚痴だった。
一晩で治癒魔術師を育成する為の資料となる文献書物を揃えろ、と命じたモーティシア。トリッシュの婚約者であるジャスミンまで巻き込みながらも、王城の巨大な書物庫からミモザの個人応接室までの長い距離を何往復もさせられたらしい。
さすがにジャスミンには重い荷物は持たせられないということで彼女は書物をひたすら書物庫内からかき集める作業をしていたらしいが、それでも明け方までかかったというのだから、恐ろしい量になっているだろうとは想像できた。
当のモーティシアは手伝いもせず城下の個人邸に戻ったらしいが、少し前に戻ってきてから今に至るまで、恐ろしいほどの集中力を発揮して何やら奇妙な人選を行ないながら、準備した資料を凄まじい速さで整頓していったらしい。
何をしているのか問おうとすれば、じろりと睨まれて「邪魔をする暇があるなら己の職務を全うしろ」と鼻であしらわれたらしい。
少しの休憩も許してくれなさそうな様子に、ニコラは荷物の持ち運びの残りを全てミシェルに投げてこちらへ逃げてきたのだと心から疲弊するかのように話してくれた。
せめて筋肉くらいは役に立て、と騎士達を脳筋扱いしていたモーティシアらしい扱いに、ニコルはアリアと顔を見合わせて苦笑いを浮かべるしか出来なかった。
「…にしても、本当によくあの男の下で働けているな…」
たった一晩でモーティシアが苦手になった様子を見せるニコラに、アリアはまた少しだけ苦笑いを浮かべて。
「でもモーティシアさんって、何だかんだで一番働いてるし、支離滅裂なことは言わないから」
「それはお前にだけだぞ」
アリアのフォローには、思わずツッコミを入れてしまった。
そうかなぁ?とアリアは首を傾げるが、その辺りは男と女の差なのだろう。
「…まあ、無理難題は言ってはこないな」
「ほとんどモーティシアさんが解決しちゃうもんね」
頼りになる隊長であることに変わりはない。
ニコラは「そうなのか?」と懐疑的ではあったが。
「それと、アクセル殿はどうなんだ?皆心配していたが」
「今日は様子見だけど、もう大丈夫みたいです!」
「そうか。なら安心だな」
ようやくフッと力を抜きながら笑ってくれるニコラに、アリアも笑顔を返して。
それからしばらく他愛無い話をしながら到着したミモザの応接室の扉前には、ミモザ姫付き達を束ねる隊長のジョーカーが護衛として立っていた。
恐らく他の騎士達がニコル達に会いにこないようにする為の人選なのだろう。
挨拶もそこそこに応接室への扉を開けてくれるジョーカーは、改めてニコルを前にしても表情を変えずにいてくれた。
その普段と変わらない様子に安心して、
「おはようございまーー」
ミモザ達に挨拶をしようとするが、目の前に広がる応接室内の光景にアリアと共に絶句してしまった。
部屋の中心のソファーで休憩を兼ねるように優雅にお茶を飲むミモザの周りで、レイトル、セクトル、トリッシュ、ジャスミン、ミシェルが疲れ切るように項垂れている。さらにその周りを取り囲んでいるのは、大量の書物の山だ。机の上どころではない。床に布を敷き、そこからうず高く積まれている。
「おや、早かったですね。お早うございます。アクセルの容体はどうですか?」
唯一モーティシアだけはキビキビと動きながら書物の山を行ったり来たりしているが、シンプルで美しかった応接室が雑多となってしまったというのに申し訳なさそうな様子は欠片も見えない。
「…何だこれ」
思わず呟いてしまった言葉に、休んでいたセクトル達の目がいっせいに向けられる。
「これ、全部、一晩でだぞ」
ミモザの前だと言うのに言葉遣いもそのままに、セクトルは厳しい訓練を受けた時以上にやつれながら口を開いた。
「……え、あたしこれ全部に目を通さなきゃいけないってことですか?」
凄まじい量にアリアは唖然とするが、
「安心しなさい。あなたは必要な箇所だけを目に留めて改めて指南書を作ればいいのです。大まかな内容はジャスミン嬢の頭の中に記録されていますから、文献の選定は彼女がしてくれますよ」
さらりと告げてくる今後の動きに、ジャスミンとトリッシュがその人使いの荒さを非難するように愕然とした目をモーティシアに向けていた。
「本当に優秀なのですね。私の専属の執事として欲しいくらいです」
「光栄です。アリアの護衛任務を終えた暁には是非」
唯一涼しげに休んでいたミモザだけが、モーティシアの働きっぷりを惚れ惚れするように褒めて。
さらに笑顔で返すモーティシアに、ミシェルとニコラの目つきが鋭く変わる。
王族付きである騎士達は必然的に執事に似た仕事も請け負っていたのだ。ミモザ姫付きである二人には聞き捨てならないスカウトだっただろう。
「あの、じゃあえっと、ジャスミンさんもしばらくあたし達と一緒にいるってことですか?」
侍女としての職務がジャスミンにはあるはずだが、その辺りはどうなっているのか。
「そうなります。侍女長には先ほど話してきましたので、ジャスミン嬢はしばらくアリアの手助けをお願いしますよ。レイトル、あなたもね」
「え、私も!?」
「勿論です。あなたを治癒魔術師育成枠の一人目にしたいという話もクルーガー団長に話して了承を得たので、あなたは今後しばらくは護衛を兼ねながら、アリアが効率よく治癒魔術を教える為の被検体となって下さい」
ついでとばかりに名前を出されたレイトルも、まさか本当に自分が治癒魔術を会得させられるとは、と改めて驚いて。
「本当に何から何まで、素晴らしい効率の良さですわ。魔力の操作力が高いレイトルを選んだことも、他の者達では考えもしなかったことでしょう」
「アリアの治癒魔術を見る限り、重要なのは魔力の質量ではなく操作力だと判断しましたので」
惚れ惚れとモーティシアを褒めるミモザに、そろそろミシェルとニコラの嫉妬の眼力が殺意に変わりそうになっている。
「…本当にお前が第一号になるんだな」
そしてセクトルは、レイトルが選ばれたことに少し嫉妬するような声を出して。
アリアとレイトルの関係があるからモーティシアがレイトルを選んだのではないと、わかっているからこその声色だった。
レイトルの魔力の操作力は、上質な魔力を持つセクトルや、ニコルも持たない努力の結晶だ。
それを理解しているからこその、尊敬と嫉妬。
「…努力、して良かったよ」
レイトルの呟きも、自分という存在を認められたことに対する喜びが含まれていた。
今まで散々、魔力量の少なさで蔑まれて来たのだ。
生まれ持った不利を凌駕するほどの努力。
地味で人目に付かなかった、それでも血の滲むほどの努力は、確かな結果としてレイトルの誇りとなった。
まさかこんな形で生かされるとは思わなかっただろうが。
「それでは私は政務棟に行きますわね。昼頃には戻れるでしょうが、それまではあまりここから出ないでね。ミシェルとニコラは扉の前でしっかりと見張りをお願い」
休憩を終えたミモザが美しく立ち上がりながら、ニコル達をぐるりと見渡す。
デルグ王の訃報の件でかなり疲弊しているはずだが、少しも顔には出してはいなかった。
「ジャスミン、あなたの淹れてくれたお茶もとても美味しかったわ。また後でお願いするわね」
「ぇ、あ、ありがとうございます!!」
優しく微笑みながらジャスミンのことも労って、ミシェルとニコラが見送る為に近くに寄っていく。
「あの、少しだけ待ってください!」
忙しいミモザの足を止めたのは、アリアだった。
慌てるようにミモザの前に近付いて、先ほどニコラに行った疲労回復を、今回はミモザの全身にふわりと施す。
白い霧の魔力はミモザの周りにやわらかく漂い、ミモザの顔色が少しだけ健康的に変わるのを見た。
薄い化粧で誤魔化していた顔色の悪さ。
アリアは気付いていたのだろう。
「…少しは良くなりましたか?」
「……少しなんてものではないわ…とても楽になりました。ありがとう、アリア」
アリアの手を取りながら感謝するミモザ。
しかし疲労回復がミモザの緊張をも和らげてしまったのか、凛々しい美貌に僅かに涙が浮かんで。
「…ぁ」
「ごめんなさい、私ったら人前で…本当にもう大丈夫よ。ありがとう」
溢れてしまったものは仕方ないとばかりに、ミモザは少しだけ情けなく笑いながら、細い指先で目尻の涙を拭う。
とたんに室内はシン、とさらに静まり返ってしまうが、ミモザは気丈だった。
「心配しないでね。私には沢山の心強い人たちが側にいるから、そんな人達の前ではたまにこうして気が緩んでしまうの」
アリア達に気を許しているのだと、涙の理由を隠さず告げてくれる。
己の弱さとも向き合って、他者の優しさをも受け入れて。
応接室を出て行くミモザに、礼儀だからというわけではなく、全員の頭が自然と下がった。
開いたままの扉の向こうで、ジョーカーがミモザと共に離れていく。
「…では我々はここで待機している。何か必要なものがあるなら何でも言ってくれ」
ニコラがミシェルと共に待機姿勢を取りながら扉を閉めて、主人の不在となった応接室にまた数秒の静けさが溢れた。
ふう、と誰ともなくため息が溢れる室内で、一番最初に声を上げたのはジャスミンだった。
「あの、私はしばらくここにいることになるんですよね?」
「…ええ。突然で申し訳ありませんが、アリアのサポートをお願いします」
なぜかジャスミンには目を合わせないまま、モーティシアは止まっていた資料の整頓を再開する。
「あの…それなら少しだけ、同じ班の子達に連絡だけしてきてもいいですか?」
ジャスミンの方も目を伏せながら、モーティシアに頼み込む。
「その必要はありませんよ。侍女長が全て通達してくれているでしょう」
「えっと…そうじゃなくて…」
さらに口籠るジャスミンの隣で、庇ったのはトリッシュだった。
「侍女達の暗黙のルールみたいなのがあるんだよ。わかってくれよ」
肩を抱きながら助け舟をくれる婚約者へと、ジャスミンは嬉しそうに頬を染める。
「…そういうことでしたら仕方ありませんね。あなたを一人にするのも少し怖いですから、ミシェル殿かニコラ殿と共に行ってください」
「いやいや…火に油注いでどうするんだよ」
モーティシアの提案も半ば呆れながら否定するトリッシュに、モーティシアが首を傾げていた。
「私は一人で行けますから。すぐに戻りますね」
ぱたぱたとせわしなく出て行ってしまうジャスミンに、モーティシアと同じように首を傾げたのはセクトルだった。
「なんで騎士連れてくのがやばいんだ?ジャスミン嬢も俺たちと行動始めてるんだから、万が一他の王族付きに絡まれるよりマシだろ」
「女の世界は俺たちが思うより複雑なんだよ。ただでさえ俺との婚約のせいでジャスミンの立場が浮いてんのに、ほかの独身騎士侍らせて侍女達と話したらどうなると思う?」
トリッシュの説明に、ようやくモーティシアとセクトルの表情が納得するものとなった。
侍女達の大半が優秀な騎士や魔術師との婚姻を求めている中で、家柄としての立場が低く、なおかつ内向的なジャスミンがどのような状況に陥るか。
「女の世界かぁ…」
アリアも深く察したように呟くので、侍女達の世界は男が思う以上に複雑なのだろう。
「では全員揃っていますし、改めて今後の説明をしますよ」
気持ちを切り替えるようにパン、と一度だけ両手を叩いて、モーティシアは全員の注目を自分へと向けた。
説明は本当に改めてのものだった。
アリアが今日から行う治癒魔術師育成の為の指南書作りと、効率良く育成を行う為にレイトルがこれからは護衛を兼ねながら治癒魔術を習得する為のほぼ実験台となる事。
同時進行で行われるのは治癒魔術師の休暇や自由に王城から外出出来ることの重要性と、天空塔を拠点とする為の明確な提示資料作り。
モーティシアは個別に、新たな治癒魔術師となり得そうな若く魔力の質の良い人選を行なっていた様子で、一枚の紙に簡単に書き出された名前にアリアが「あ」と小さく声を上げていた。
「ロアとケルトなら知ってます。ジュエルと仲の良い侍女達ですよね」
十数名ほどの名前が書かれている中で、二人の侍女の名前は比較的歳の若い項目に入れられていた。
「おや、ご存知でしたか。彼女達はあなたへの信仰具合も考慮しての人選です。治癒魔術師の必要性に懐疑的な者は最初から選んではいませんが、女性からは今のところこの二人だけですね。ひとまずは王城内だけで見繕いましたが、上手く行けば数年後には外部からも選出できる事でしょう」
モーティシアの中でどこまでまとまっているのかは知らないが、昨日の今日ですでに数年先まで考えているらしい。
「そうなんだ…ジュエルはダメなんですか?」
その名前に、反応を見せたのはモーティシアだけではなかった。
「……ジュエル嬢も一番に候補にと思いましたが…彼女を選べば、ミシェル殿も付いてくるでしょうからね」
今後十年近くの訓練を積むことに加えて魔力の質量共にジュエルは非常に良い人材だっただろう。
だがミシェルが兄である為に候補には挙げられなかった様子だ。
「治癒魔術師の育成となれば、必然的に騎士達の護衛部隊枠にも手が入ることになりますからね。治癒魔術師が増えれば護衛部隊も我々だけでは足りなくなります。ミシェル殿はアリアの護衛を兼ねてくれたこともありますから、ジュエル嬢の護衛に手を上げれば誰も止めることはしないでしょう」
そうなれば、必然的にアリアと近くなってしまう。
今はなるべく離れていてほしいのだ。
「それと、アクセルの目に特殊な能力が備わっている可能性がありますので、もしかしたら彼は護衛部隊自体を離れてしまうかも知れません。アクセルには後で個別に話しますが、護衛部隊から外されないようにリナト団長には強く訴えるつもりでいます。…セクトルと共に、二人がアリアに興味を示していると伝えて。宜しいですね」
改めて訊ねてくるから、神妙な面持ちでセクトルは頷いていた。
「上位貴族の皆様がこちら側に付いてくれるまでの目眩しとはなりますが、今後のアリアの護衛はアクセルとセクトルを中心に回します。レイトルは別件があるのでアリアと共にいるでしょうが、トリッシュとニコルは少々雑用が多くなることを理解しておいて下さい」
「はいよ」
「…わかった」
忙しく走り回ることになるなら、ニコルにはそちらの方が気分を変えられるのではないかと少し考えて。
「国王陛下崩御についての今後の動向はミモザ様がその都度教えて下さるでしょう。考えるなとは言いませんが、我々から訊ねることはしないでください。…皆さんわかっているとは思いますが」
個人応接室を提供してくれているミモザの心労を増やさない為にも、些細ではあるが重要な通達だ。
「それ、アクセルにしっっっかりクギ刺しとけよ。あいつポロっと口にするぞ」
「…そうですね」
ここにはいない護衛部隊の最年少は、ついうっかりが最も多い。
モーティシアがやや疲れた表情になったことで、ようやく皆が少しだけ笑った。
「では仕事に取り掛かりましょう。しばらくの間は指南書作りだけを考えて下さい」
「…でも、何から書いたらいいのかわからないですよ…」
不安になるアリアに、モーティシアは数冊の本を見繕って手渡す。
それらはどれも異国の治癒魔術の指南書だ。
「完璧に指南書を作り上げるなら、かなりの時間が必要になります。何度も作り直すことにもなるでしょう。ですのであなたは他国の文字に触れつつ、指南書の流れを学んでください。その間に我々で資料文献をみっちり部門分けしておきますから」
ついでと言わんばかりに異国の言語と文字に触れさせる辺り、モーティシアの効率重視は相変わらずだ。
勉強も同時にさせられる現実に救いを求めて見つめてくるアリアに、ニコルは諦めろ、と両手を上げてみせた。
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