第88話
ーーーーー
程よく動く程度の訓練を終えて、ジャックとジュエルとも合流して。
訓練場の端に寄るルードヴィッヒは、ため息を同時についたジャックとダニエル、そして鼻を鳴らす勢いで腕を組んで顎も高く上向けて仁王立ちとなるジュエルに、恐れていた予想が的中したと心の中で肩を落とした。
ジュエルがアン王女に同情するかも知れないとダニエルに伝えた通り、朝食の席でジュエルはアン王女を見捨てないとジャックに宣言したらしい。
ジャックはどうやらジュエルを説得しようと試みたが、説得などしようとすればするほどジュエルの気持ちが頑なになることは目に見えた。
「……あの顔に見覚えがある。アンジェ嬢だ。あの傲慢な表情は姉妹そっくりだ…」
ボソリと呟くのはジャックか、ダニエルか。どちらかなど考える必要もない。どちらもだろうから。
「ーーですので、私はあの子を見捨てるつもりはありませんから!」
場所が場所だけにアン王女の名前を口にすることはしないが、ジュエルはさらに顎を高く上げている。
「…はぁ……なあジュエル嬢、俺達はやるべきことをするためにここにいるんだ。それは理解しているんだな?」
「勿論ですわ!」
どうやらジャックは自分が折れることに決めた様子だった。
「…そのやるべきことの邪魔にならないと誓えるな?」
「当然ですわ!!」
鼻息が随分と荒いので、ここに至るまでジャックとはかなりやり合ったのだろうと思えた。
確かにルードヴィッヒもアン王女を可哀想な少女だとは感じだが、ここまで気にかける様子に少し苛立ってしまう。
それでもジュエルに噛み付かず冷静でいられたのは、マガが関係していないからなのだろう。
「…エテルネルには話したのか?」
ダニエルが小声でジャックに訊ねて、首を横に振ったことに少しだけ安堵の表情を浮かべて。
ジュエルの口にする「見捨てない」が何を指すのかはわからないまま、ジュエルは目が合ったとたんルードヴィッヒまで敵とばかりに強くそっぽをむいた。
「こうなるまでに何があったんだ?」
「それは…」
再度小声で話しかけられて、ジャックもルードヴィッヒに目を向けてから口籠る。
「…エテルネルと合流してからだな」
ここでは話せない、というよりはまるで、ルードヴィッヒには聞かせられないとでも言い出しそうなジャックの様子に強く眉を顰める。
「あの、」
まさかマガが関わっているのかと訊ねようとした言葉は、視界の端に映る二色の闇色によって無意識に止まってしまった。
「ーーお前は…」
「うっわ、増えてやがる。さすが双子、激似じゃねーか」
立ち去ったはずのウインドが、仲間を連れて再び現れた。
嫌味を込めながらも嬉しそうな顔は、目当てのジャックが今回はいたからだろうか。
突然現れたことに全員が一気に警戒し、一番前に出たのはダニエルだった。
相手側はウインドと、見知らぬ髭面の熊のような男と、そして。
「…………ルクレスティード様?」
「……ジュエル」
大柄な二人の後ろにいた少年が、不安そうにジュエルの名前を口にした。
その髪の色は闇色の紫で。
「…どうして……その髪の色は…」
信じられないとでも言い出しそうなジュエルの悲しい口調に、ルードヴィッヒの頭はカッと熱くなった。
「突然何の用だ!!」
「ルードヴィッヒ、下がれ」
噛みつこうと足を踏み出したのに、ダニエルに強い力と言葉で即座に制されてしまう。それでも相手を睨みつけることはやめなかった。
「おいおい、こっちは穏便に会いに来たってのによ、態度悪すぎだろ」
「お前も落ち着け。…そこの君に用がある。少し話せないか」
ルードヴィッヒの売る喧嘩を買うかのようにウインドも足を踏み出そうとして、隣の男に止められていた。
そして呼ばれるのは、ルードヴィッヒだけだ。
「…こちらの武術出場者に何の用事でしょうか?」
ルードヴィッヒを止めるダニエルが、ウインドを止める男に静かに訊ねる。
ルードヴィッヒの後ろではジャックがジュエルを遠ざけようとしていたが、ジュエルは少しも動こうとはしなかった。
ジュエルの視線の先にいるのはルクレスティードで、その事実にさらに苛立つ。まだ冷静でいられた理由は、おそらくジュエルが目当てというわけではないからか。
だとしても、訓練場という人目のある中で何の用事があるのか。
ぴりつく空気の中、男は数秒ほど考え込んで。
「…移動しないか?そっちも訊ねたいことがあるはずだ」
流暢なエル・フェアリア語、というよりはエル・フェアリアの血が流れているだろう男からの提案。
ダニエルがジャックと目を合わせたのは一瞬だけだった。
「俺達は先に戻る」
「待ってください!私もルクレスティード様と!」
ジュエルを離す為にジャックが連れて行こうとするが、ジュエルは離れる様子を見せなかった。
その姿勢に、とうとうジャックが強制的にジュエルの腕を掴む。その暴挙にはさすがに我慢できなかった。
「ジャック殿!!」
「これ以上の迷惑は許さないぞ」
ルードヴィッヒの批判を気にすることもなく、ジャックはジュエルに低い声を叩き落とす。
びくりとジュエルの肩が跳ねて、状況を理解したのだろう、大人しくジャックに連れて行かれて。
「……おいおい、あっちが武術出場の伝説の方だろ?またハズレかよ」
離れていくジャックとジュエルの背中を眺めながら、ウインドは挑発を続ける。それでもダニエルは冷静なままだった。
「目的は大会訓練ではなくルードヴィッヒなんだろう?なら私でも構わないはずだ」
今まで聞いたこともないような冷たい声が、ダニエルから響き渡る。
ジャックと比べればどこか穏やかな空気を持っているのがダニエルだという認識を持っていた。だが今のダニエルに、穏やかさは微塵も感じられない。
喧嘩腰のウインドの腕を引いて後ろに下がらせて、再び熊のような男が前に出る。
「ソリッドだ」
「…ダニエル・サンシャインだ。見たところエル・フェアリアの人間のようだが?」
「ああ。生まれも育ちもな」
ソリッドと名乗る男は一瞬だけウインドへと目を向けて、暴れる様子を見せないことに安堵するように再び視線を戻してきた。
「俺達はそこの少年に少しだけ用がある。休戦ってわけじゃないが…こっちの用に付き合ってくれるなら、お前達が知りたい事を一つ教える」
「おいおっさん!勝手に決めんな!!」
話を進めていくソリッドの肩を、ウインドが背後から掴もうとする。その腕を、寸前の所で見もせずにソリッドが掴み止めた。
まるで型のような一縷の隙もないその動作に、ルードヴィッヒは思わず息を止める。彼もまた武術の実力者だと、本能が教えてくる様だった。
「無駄話も腹の探り合いも必要無い。互いの持つ情報を一つずつ、だ。時間もかからねぇ。シンプルだが手っ取り早いだろ」
ウインドの手を掴んだまま、ソリッドはダニエルを真正面から見据えながら訊ねてくる。
ダニエルもソリッドからわずかも視線を逸らさないまま、数秒後に微かに頷いた。
「だ…ダニエル殿!」
「チッ…離せよ」
ルードヴィッヒとウインドの声が重なり、異様な雰囲気に辺りの目がさらに集まってくる。
「…移動しよう。近場の応接室を借りればいい」
先に動き始めるのはダニエルで、その後ろをソリッドが無言のままウインドとルクレスティードの背を押しながらついて行く。
ルードヴィッヒに用があると告げてきた中で、ジュエルを拐ったルクレスティードと見知らぬソリッドまでいる現状のわけがわからないまま。
「…ルードヴィッヒ、早く来い」
理由など不要とばかりに、ダニエルに呼ばれる。
それがたまらなく不快なのに、否定できる雰囲気もなく、ルードヴィッヒは渋々最後尾についた。
重苦しい空気の中で、ルクレスティードが闇色の髪を揺らしながらルードヴィッヒへと目を向けようとして、ソリッドに止められて。
突然現れて、何の用があるというのだ。
わからないまま。
ダニエルがラムタルの大会関係者に話しかけて応接室を借りる様子を、強く警戒しながら見守り続けた。
ーーー
ルードヴィッヒを背中に隠しながら、ダニエルは目の前の男を睨む様に見据える。
場所はラムタルの大会関係者が用意してくれた小さめの応接室で、何かあった時にすぐ逃げられるよう、ルードヴィッヒが扉と最も近い場所になるように入室した。
応接室に先に入ったのはウインドで、その手を握りながら幼いルクレスティード、そしてソリッドと名乗った男が二人を従える様に窓側に立つ。
ソリッドから醸し出される気配は、昔感じたことのある恐ろしいものだった。
まるで針を全身にゆっくり刺すかのような、奇妙な恐ろしさ。
その感覚を初めて味わったのは、ダニエルが成人したての頃だ。
ジャックと共に、父に放り込まれた場所。
大戦が終わってなお戦火の残り火が燻る前線で。
ソリッドの年齢はダニエルより数歳年上程度に思えた。それでも、恐らく、戦闘経験は彼の方が格段に上だ。
剣術という枠にはめた試合でならダニエルが勝つだろう。
でも実戦ならーー
その後を考えそうになって、わずかなプライドが結果を考える事を放棄した。
「…ルードヴィッヒに用があると言っていたが…用件は?」
先に口を開きながら、ダニエルはルードヴィッヒをさらに彼らの目線から隠すように少しだけ身じろいだ。
背後にルードヴィッヒの不満そうな気配を感じたが、気付かないふりをして。
「…そうだな。さっさと済ませたい。こっちの用件は一つだが…先にお前達の知りたい事を話そう。俺達に逃げられたら厄介だろ?」
ソリッドの返答に、その後ろでウインドが苛立たしげに舌打ちを響かせる。
「とっとと情報盗りゃいいだろ。クッソ面倒臭ぇ!!」
「穏便、って言葉の意味を理解できないなら黙ってろ。俺は早く戻りたいんだ」
仲間割れとまではいかない程度の口論に、幼いルクレスティードがウインドとソリッドを交互に目に映しながら慌てる。
ウインドは再び口を開こうとするが、ルクレスティードに袖を掴まれ、再びの舌打ちと共に何とか自身を抑えていた。
壁際に強く背中を預けて、ダニエルを睨みつけて。
「…本当に何でも話すんだな?」
「ああ。…といっても俺達が持ってる情報の中からしか教えられないがな」
ソリッドの言葉に強く反応を見せるのは背後のルードヴィッヒだった。
「それではお前達が知っていても“知らない”と言えば終わってしまうじゃないか!!」
「ルードヴィッヒ!」
前に出ようとするルードヴィッヒを押さえて、離れていろと強く睨み付けて。
「…それで、知りたいことはあるか?」
本当に時間が惜しいのか、ソリッドの声色に少しだけ催促するような焦りが含まれる。
知りたい事を一つ。
だがファントムではない彼らが何をどこまで知っているかは未知数で。
もしかしたら本当に貴重な情報交換の時間かもしれないとダニエルもわずかに緊張しながら。
「……リーン様の現状を教えろ…」
一瞬だけフル回転で働いた頭が導き出した質問。
掠れる声は、その言葉を思いつくよりも先にするりと口から溢れた。
守れなかった大切な姫。
五年間、後悔し続けた。
何度も何度も、あらゆる神にどんな懺悔を口にしても、多くのものにどんな贖罪を行っても、己を地獄に落とし続けた時間。
ダニエルにとってリーン姫を奪ったファントム達は、大罪人である以上に、救世主だった。
ぽろりと溢れた言葉に、ソリッドが呆けたようにダニエルを見てくる。
呆けた理由が質問の内容ではないとわかったのは、ソリッドと目が合い続けたからだった。
自分では見えない。だが確実に、今のダニエルの表情は誰よりも情けないものになっているとわかるから。
唯一の救いは、ルードヴィッヒがダニエルの背後にいることだった。
ソリッドはダニエルの表情の変化に驚きながら、一度ウインドに目を向けて。
「…わかったよ。俺が話してやるよ」
苛立ち紛れのため息をつきながら、ウインドが強く頭を掻いた。
「助け出した最初の頃は全っ然動けねぇ棒ッキレみたいだったぜ。食えば吐く、声は出せねぇ、何をするにも人手がいった。…今は身体にちょっとは肉がついた。少しくらいなら自力で動けるようにもなった。声も魔力の補助無しで出せてる。メシは吐かなくなったが相変わらず流動食。これで満足か?」
鼻で笑いながら伝えられるリーン姫の現状。
五年もの長い時間を土中深くに埋められていたと聞かされた時は、意味がわからなかった。
不老不死など、説明されても理解など出来なくて。
それでも回復しているという言葉に縋りたくなるような感情に、強く拳を握りしめた。
ダニエルでは出来なかったことを、彼らはしてみせたのだ。
リーン姫を救い出した。
確実に回復もさせている。
それは言いようもないもどかしさだった。
目の前の敵が敵でなくなる感覚を、爪の食い込んだ手のひらの痛みで何とか打ち消す。
「こんなくだらない質問でチャンスを逃すなんて、おっさんヤバすぎだろ」
ゲラゲラと大声でわざとらしく笑うウインドにルードヴィッヒが再び噛みつこうとするが、ソリッドが強く睨み据える方が早かった。
「お前もそろそろいい加減にしろ。子供より子供みたいな態度を子供の前で取るな」
「なんだと!?」
辛辣な言葉にキレるように、ウインドはソリッドに掴みかかろうとする。その寸前で止めに入ったのはルクレスティードで、ウインドの腕にすがりながら、ブンブンと頭を横に振っていた。
キレやすいウインドもルクレスティードには弱いのか、何度目かの舌打ちと共に怒りを鎮めて。
だがウインドの言葉はダニエルには残ったままだった。
もっと他に質問するべき事はあったのだろう。
そう痛感するから。
それでもダニエルは、リーン姫の現状がどうしても知りたかった。
五年分の苦しみは、それほど大きかったのだ。
ダニエルだけではないはずだ。
ジャックと、そしてガウェにとっても。
何より重要なのは、リーン姫が今現在穏やかでいるのかどうかだ。
もし穏やかだというなら。
もしファントム達に保護されている方が幸福だというなら。
「…じゃあ、俺たちの知りたい事を教えてもらうぞ」
思考が途切れたのは、ソリッドが不意をつくように話しかけてきた時だった。
瞬時に変化する緊迫する空気に瞬発的に身構える。
たった一瞬の間に、ソリッドはダニエルへと向かってきていた。
攻撃をしかけてくる拳から身を逸らして魔具で長剣を生み出す。
だが一瞬とはいえ失念していた。
彼らが目的としていたのが、ルードヴィッヒであったことを。
「ーールードヴィッヒ!!」
ソリッドはダニエルを抑える役割だったのだ。
一瞬という時間は、経験を積んでいるだろう彼には充分すぎるほどの時間だったはずだ。
どこから取り出したのか、暗器の短刀でダニエルの魔具と強く鍔迫り合う中で。
視界の横で、ルードヴィッヒはウインドからの素手で掴みかかる攻撃に重心を低くして耐えていた。
ルードヴィッヒもしっかりと警戒はしていた様子で完全な不意打ちを喰らったわけではない。
ダニエルとソリッド、ルードヴィッヒとウインド。
互いの攻撃を牽制し合う中で。
それは本当に、数秒も経ってはいない程度の時の間隔。
戦闘力の無さそうな闇色の紫の髪を揺らした少年は、身を逸らしたウインドの隣からルードヴィッヒへと目を合わせた。
「っうわああ!!!」
「ルードヴィッヒ!?」
ルクレスティードの癖のある長い前髪に隠れていた瞳が瞬きの瞬間だけ強く閃光を放ち、光が蛇のようにルードヴィッヒの瞳、そして頭部へと絡みつくのを目の当たりにする。
魔術というには奇妙すぎる光は、たった一瞬の出来事として消えていった。
何が起きたかなど理解できるはずもないなかで、迫り合っていた短刀の感触がふっと消える。
「ーー見えた!!いたよ!!」
ルクレスティードの言葉に、ソリッドとウインドが一瞬にして窓から身を投げる。
ルクレスティードはウインドに抱きかかえられ、最後にルードヴィッヒを見つめていた。
部屋は一階に位置しており、逃げるのは容易い。ダニエルはすぐに窓から外を覗くが。
「……いない」
右も左も、下も上も。
まるで最初からいなかったかのように、彼らの姿はどこにも見えなかった。
「ダニエル殿!!」
「…逃げられたな…怪我は!?」
そしてすぐにルードヴィッヒがおかしな攻撃を受けていた事を思い出してその頭を掴むが、見た目には何の異常も見当たらない。
「何もありません…強い光のせいで目は眩みましたが、今はもう」
一応後頭部なども探るが、少し嫌そうにルードヴィッヒは離れ、自分には何の変化もないと告げてくる。
それを素直に信じることができないのは、彼らが何を知りたかったのか結局わからないままだったからだ。
「“見えた、いた”と言っていたな…」
「はい。…目の光ったあいつと目が合ってすぐでした」
言葉だけなら、ルードヴィッヒに何か攻撃を仕掛けた様子ではなさそうだが。
ルードヴィッヒに用があったのは、何か知りたかったからなのだろうが、それをルードヴィッヒの口を割らせることなく知ったというなら、いったい何をしたというのか。
「……戻ろう。すぐにな」
「…彼らを追わなくてもいいのですか?」
「見つけられるのか?痕跡すら残さず消えた奴らを」
彼らがどこへ行ったのか。それよりも、ルードヴィッヒの状況を伝えることの方が先決だ。
ルードヴィッヒは彼らを捜索したかったのか、不満そうに視線を落とすから。
「…ジュエル嬢を安心させてやる方が先決じゃないか?きっと心配しているはずだ」
納得させる為に口にした名前に、ルードヴィッヒはハッと表情を強ばらせてダニエルを見上げた。
ーーーーー