第88話


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 謝罪の場を離れた後すぐに訓練場に訪れたルードヴィッヒは、ダニエルと共に簡単な組み手を行いながら、辺りの奇妙な視線に居心地の悪さを感じていた。
 デルグ王が亡くなったという知らせは大会の為に訪れている者たち全員の耳に入っている様子で、こちらを窺ってくる気配はどれもこれも重苦しい。
 単純に同情の目を向ける者、何か裏がありそうだと探るような目つきの者。
 どんな目を向けられてもルードヴィッヒにはどうしようもないのだが、彼らの目が離れることはないだろう。
 こんな時に限って親しい他国の者達もおらず、奇妙な孤立に苛立ちが込み上げてくる。トウヤも訓練に付き合ってくれると言ってくれたはずなのに、スアタニラの仲間の目を盗んでまたテテの元へと行ってしまうし。
 ダニエルが簡単な組み手訓練しかしてくれないことも原因の一つだろうが。
 もっと身体をがむしゃらに動かしたいのに、大会に向けてだと言って簡単な訓練しかさせてもらえない。
 戦闘欲求を溜めておけ、とはジャックにも言われたことだが、ルードヴィッヒには苛立ちが溜まっていくようにしか思えなかった。
 大会以外でも苛立ちが溜まっているから尚更。
「…ダニエル殿」
 緩やかな動きでしかない組み手の後のほんの少しの休憩中、ふと気になってしまったことが頭から離れず、身体を軽くほぐしていたダニエルを呼んでしまった。
「どうした?訓練が不満か?」
「いえ、そういうわけでは…」
 その不満も確かにあるが。
「……あの、ジュエルは大丈夫でしょうか」
 気になるのは幼馴染のことだ。
 気が強くて我儘で傲慢なジュエル。だが妙なところで世話焼きであることは、ジュエルの姉であるガブリエルを見ていればわかる。
 ガブリエルも他人の恋路に良くも悪くも介入していたから。
 ミシェルもジュエルのことになると異常なほど過保護に世話を焼いていたから、ジュエルも今回特別に世話を焼こうとするはずだ。
 不遇の対応を受けているマガと、王族であるはずなのに可哀想な状況下にあるアン王女に。
 ジュエルの庇護欲がどこで生まれるのか今回わかった気がしたから、不安と心配は苛立ちと同量にあった。僅差で苛立ちの方が勝るのは、マガの顔がチラつくからか。
「ジャックも一緒にいるからそこまで心配する必要はない。気にせずこちらに集中すればいいさ」
 人の耳があるのであまり詳しくは話せない中で、ダニエルは察していたかのような返事をする。
 今まで散々カッとなった否定しかしてこなかったからダニエルの返答がそうなることはわかっていたが、冷静な頭はルードヴィッヒにも存在する。
「あの、そうではなくて……ガードナーロッド家の人間は、変なところで世話焼きじゃないですか」
 ルードヴィッヒがよく知るのはジュエルとミシェルとガブリエルくらいのものだが、ダニエルは藍都の長女アンジェをよく知るはずだ。
「私は幼い頃にアンジェ嬢に遊んでもらった記憶しかないのですが、あの方もたしか、天災孤児に対してよく面倒を見ていたと聞いているのですが…」
 上位貴族にとって位の低い者達に救いの手を差し伸べるのはある種の義務のようなものでもあり、ルードヴィッヒも紫都ラシェルスコット家の人間として苦しむ平民に救貧活動を行ったことはある。
 なので取り立ててそこだけに注目する必要はないかもしれないが、今は状況が状況だけに、もしジュエルの庇護欲がバオル国の者達に向いてしまっていたらと思うと気が気ではない。
 ルードヴィッヒの言葉に、ダニエルも深く吟味するような表情になる。
「……アンジェ嬢のことは知らないが、たしかにミシェルもガブリエル嬢も、おかしな所で世話焼きといえば世話焼きだったな。ジュエル嬢もそうだと?」
「それは…わかりませんが、でも……」
 口籠ってしまうのは自信がないからだ。ルードヴィッヒは今までジュエルを避けていたから。避けていた理由はミシェルだったが。
「マガに対して、心配しすぎているではないですか」
 言葉尻が少し荒くなって、慌てて少し俯いて視線を逸らす。自分が言った言葉だというのに、まるで嫉妬のように聞こえてしまったから。
「い、いくら目の前でマガが怪我を負わされたのだとしても、介入しすぎているとは思いませんか!?」
 目は逸らしたまま、それでも感情は止められなかった。
「…考えすぎだろう。ジュエル嬢くらいの年齢なら彼のような生い立ちの者を憐れんでしまうだろうが、だからって小さな女の子に何ができる?」
 ルードヴィッヒがマガと呼んだ名前を「彼」と隠して。ダニエルの口調はジュエルだけでなくルードヴィッヒのことも子供扱いするようで少し腹が立つ。
 それが顔に出てしまったらしく、すまないすまない、と笑いながら肩を叩かれた。
「ジュエル嬢はここにあくまでもサポートとして来ているだけなんだ。エル・フェアリアにいたなら何かしら出来るかもしれないが、何の準備もなく手助けなんてできないだろう?お前なら、彼を助けてやりたいと思うなら今の状況で何をする?」
 マガを助けるつもりなんて永遠に無いが、それでも考えてみる。
 コウェルズの説得くらいしかできそうにないが。
 もしそれ以外で方法があるとするなら。
「……私なら…………………」
そして、ある方法に気付いてサァ、と血の気が引いた。
「…どうしたんだ?」
「いえ…たぶん考えすぎなだけなので……」
 考えすぎているだけだと思いたいが、ルードヴィッヒでは無理でも、ジュエルなら可能かもしれない方法があった。
「気になるな。教えてくれないか?」
「いえ、あの……藍都の特産であるレースや刺繍は、世界各国に巨大な支部を構えるほどで、その支部は他国とはいえ全て藍都領主の管轄下ですので……」
 治外法権と同等の場が、ラムタルにも存在する。そこでならマガをうまく隠し、エル・フェアリアまで連れて行くことも可能だろう。
 ダニエルも、ルードヴィッヒの説明だけで察した様子だった。
「……まぁ…だが、ジュエル嬢もそこまでは頭は回らないだろう。それにもし大会期間中に藍都領主に連絡を取ったとしても、結局は藍都領主からコウェルズ様に連絡が入り、そこで止まるさ」
「ですよね…私の考えすぎでした」
「いや、考えるに越したことはないからな。よく冷静に考えついた」
 感心されて、素直に嬉しくなる。
「ジュエル嬢も冷静になれば、彼の件はリスクばかりだと気付くだろう」
 情勢の混乱しているバオル国のマガを連れて帰るなど、介入と捉えられても仕方ない。
 エル・フェアリアとしては痛くも痒くもないが。
「それにうちのお坊ちゃまは不要な面倒ごとに相当苛立っているみたいだから、万が一が起きる可能性は無いに等しい」
 お坊ちゃまとは、コウェルズのことなのどろう。
「そうなのですか?」
「ああ。顔を見ていればわかるさ。想定外のことが起きすぎて相当苛立っているよ」
「想定外……」
 大会出場する闇色の若者やその仲間達と接触できたことは前進だが、たしかに足を引っ張るほどの想定外が多すぎた。
 バオル国だけではないのだ。
 特にコウェルズにとって、イリュエノッド国のルリア王女が訪れたことは非常に足を引っ張ったことだろう。
 ただ大会観戦に訪れただけならまだしも、ルリア王女は確実にコウェルズを狙って訪れている。
「あの…もしイリュエノッド国側が改めて正式な面会を望んだ場合はどうなるのですか?」
 無いとはいえない、可能性の高い未来。
 サリア王女がエル・フェアリアに滞在していることは多くの国々が情報を掴んでいるはずなので、面会自体を怪しむ者もいないだろう。
 そうなればコウェルズは面会を受けるのだろうか。それとも断るのだろうか。
 ルードヴィッヒは僅かな不安に眉を顰めるが。
「向こう側から面会を求めてくることはもう無いから安心していろ」
 ダニエルの返答はとても軽い口調だった。
「…なぜわかるのですか?」
「向こうにレバン様が居てくれたお陰だよ。どうやら昨夜、みっちりとルリア王女を叱ったらしい」
「え、第一王女をですか?」
「ある意味、王より偉い人だからな」
 ルードヴィッヒにはわからないレバンという人物に、ダニエルは苦笑いを浮かべて。
「身体が弱かったから蝶よ花よと甘やかされて育ったお姫様だ。戦闘経験のある男に頭から罵声を落とされたなら、まあ相当怖かっただろうな」
 どうやら謝罪の場の後でダニエルがレバンとホズと三人で話していたのは、その件だったらしい。
 それでルリア王女があれほど落ち込んでいたのかと妙に納得してしまった。ルードヴィッヒもクルーガー団長に凄まじく怒られたなら、数日は立ち直れないだろう。
「…いっそジュエルを強く叱ることはできませんか?」
 ひどく落ち込んでいたルリア王女のように、ジュエルのことも大人しくさせられたら。
 そう思うが、ダニエルは呆れるばかりだ。
「どこに強く叱る所があるんだ?注意をするならせいぜいジャックだろう。勝手にジュエル嬢を、情報を受ける代わりに朝食への招待というカードに使ったんだ。まぁ、それでもお前ほどの失態とは言えないがな」
 呆れた顔のまま言われて、言葉に詰まる。
 ラムタルに訪れてからのルードヴィッヒの失態は確かに目に余るので、何も言い返せないが。
 とくに城内でジュエルと離れてしまった失態については、強い叱責を受けた方がマシだと思えるほど信用を失った。
「…安心しろ。藍都の末姫は、五人兄弟の中で一番のしっかり者じゃないか」
「そうですか?」
「そうだと思うぞ。年齢での経験の差があるから一番未熟に見えるだけだ。ミシェルでもジュエルと同じ年齢の頃はもっと幼稚だったと思うぞ」
 あまり知らないはずなのに、なぜそこまで言えるのだろうか。
「俺の嫁は緑都の孤児院に援助しているんだ。俺も何度も子供達を見てきたが、面倒見の良いしっかり者の子たちにジュエル嬢はよく似ているよ」
 その理由を教えてくれても、納得は半分程度だった。
 侍女として働いているのだからしっかりしているのは当然だと思うし、それとは逆にミシェルを前にしたジュエルは甘えてばかりだ。
「…私の12歳の頃の方がよっぽどしっかりしていた自信があります」
「どこで張り合ってるんだ……」
 今度は優しい目つきで呆れられて、頭を何度か叩かれて。
「さ、そろそろ訓練の続きをしよーー」
 準備運動を始めようとしていたダニエルの声は、おかしな箇所で途切れた。
 驚いた表情の後すぐに、真剣な眼差しを一点に向けて。
「ダニエル殿?」
 何を見ているのか。
 ダニエルの目線の向かう先へと目を向ければ、人目も気にせず堂々と近付いてくる若者の姿にルードヴィッヒも驚いた。
 異様な空気を纏いながら、近付いてくるのは。
「ーーなあ、あんた“大会の生きる伝説”って言われてんだろ?武術と剣術どっちの方?」
 闇色の青い髪を目に煩い柄のバンダナでラフに覆った、ファントムの仲間。見下すようにダニエルを指差している。
 ラムタルの武術出場者であるというのに滅多に姿を見せなかった彼が、サポートも付けずに一人でいた。
 同じ訓練場を使う他国の戦士達も、珍しいラムタルの出場者に様子を窺う鋭い視線を向けている。
「…ウインド君、だったかな?」
「君付けすんなよ。気持ち悪いな」
 蔑むように口元を歪めて笑いながら、ウインドはダニエルだけを目に留めていた。ルードヴィッヒのことは視界の片隅にも入っていない様子で完全に無視される。
「あんたどっちの伝説なんだよ?」
「ダニエル・サンシャイン。剣術試合に出た方だ」
「マジかよ、ハズレじゃん」
 ハズレと言いながらも楽しそうにケラケラと笑うが、ルードヴィッヒでも気付けるほどに、瞳の奥に宿る闇は目の色より暗く重い。
 他人として隣を横切っただけなら快活そうに見えただろうが、背負っている闇が可視化して見えるようだった。
 笑みの奥に潜む闇がまとわりついてきて、ふるりと悪寒を走らせる。
「なあ、剣持って俺と手合わせしてくれよ。真剣でも魔具でも構わねぇからよ」
 訊ねておきながら、体勢はすでに構えを取っていた。その構えは、ラムタルの伝統武術の型と同じものだ。
「何を勝手なことを!」
「…ルードヴィッヒ、下がれ」
 一向にルードヴィッヒを視界に入れようとしない様子に苛立ってダニエルの前に出ようとしても、かばうように片腕で制されてしまう。
「……前も思ったけど、マジで弱そうだな」
「何だと!?」
 ようやく視界に入れられても、蔑むように鼻で笑われてカッと頭に血がのぼった。
「ルードヴィッヒ、下がるんだ。見るのも訓練だとわかっているだろう?」
 ダニエルはどこまでも冷静で、それがさらに苛立ちを膨らませる。
「ダニエル殿…彼は」
「わかっている。だが今の彼は訓練に訪れたラムタルの武術出場者というだけだ。訓練を願う者に指導してやるのも、私の義務だ」
 問い詰めたい気持ちはダニエルの方が上であることは、握り締められた拳から察することが出来た。
「別に訓練付けてほしいわけじゃねーんだけどな。エル・フェアリアのぼんくらがどれほどのもんか、気になっただけだ」
 ダニエルの口調に苛立ったのか、眉間に皺を寄せて睨みつけてくる。
 その眉間に一瞬にして刃が突き立てられた。
 僅かに遅れて風を斬る音。
 ふわり、と。
 ウインドの髪もバンダナと共に揺れた。
 驚くルードヴィッヒとウインドは同じように目を見開き、刃が突き立てられたと思ってしまったものは、凄まじい速さで眉間を狙ったダニエルの蹴りの踵だと理解する。
 早すぎる。
 訓練場内にいた者たち全員が、ダニエルの実力に言葉を無くした。
「ぼんくらのただの蹴りだから、身を守る必要も無かったのか?」
 何をされたかもわからず、身動きすらとれない僅かの間の出来事を、ダニエルは侮辱で返す。
「今のは見えたか?ルードヴィッヒ」
「え……あ、いえ…」
 話しかけられて、思考が混乱する。見えたといえば見えていたのだろう。
 だがどう動いたかの正確な説明など不可能で。
 ダニエルはいつだってコウェルズ相手に剣術指南をしていた。だから彼の武術の腕前など知らなかった。
 ルードヴィッヒの目に映ったダニエルの動きは、ジャックそのもののように見えた。
「簡単な話だ。一切の無駄を省いた。…だが無駄ばかりのお前達にはこの単純な動きも難しいだろうな」
 綺麗に上がっていた脚を下ろすダニエルに、ウインドは二歩分ほど離れた。
「…てめぇ……」
「教えを請うなら君の出場する武術試合に合わせて見てやろう。今この場所にいる君は、ただの未熟な戦士の一人だ」
 爽やかな笑顔は口元だけだ。
「“君達”に優しくできるほど、私も人間が出来てはいないぞ。口を割る覚悟があるならかかってきなさい」
 君達が誰を指すのか。わかったからこそ、ルードヴィッヒもダニエルの背中を見守りながら息を呑んだ。
「死なない、傷も付かないなら、何でも出来るからな」
 吐息混じりの微かな声は、ルードヴィッヒとウインドにしか聞こえなかっただろう。
「チッ…」
 離れたのは、ウインドからだった。苛立った様子で背中を向けて去っていくウインドを見守ってから、ルードヴィッヒも慌ててダニエルの隣に寄って。
「…あれじゃただのイキリだな」
「よかったのですか?捕らえなくて」
「ここでか?」
 訊ねて、場所的に無理だと気付かされて悔しくなる。
「…どうしてここに……」
「さあな。冷やかしに来たのか…向こうも何かしら鬱憤が溜まっているのか」
「ですがダニエル殿目当てだったではありませんか。もしかしたらまた来るかも」
「そうなってくれると有難い話だ。こちらは彼に聞きたいことが山ほどあるんだからな」
 突然の出現。だが年齢分の余裕なのか、ダニエルの方が何枚も上手だった。
 ルードヴィッヒだったら、きっと喧嘩に発展している。
「…技を磨いて力をつければいい。身も心も強くなればなるほど、視野は広がる」
 ルードヴィッヒの感情を悟ったのか、ダニエルの言葉は頼もしく、優しかった。
「それにしても一人で来るとは…本当に何かあったのかも知れないな。まぁ、挑発に乗らない辺り頭が悪いわけではなさそうだな」
 誰かと違って、と続く言葉が聞こえそうだった。
 そしてそれは、正解だ。
「…私が彼の立場だったら、ダニエル殿に反撃していたかもしれません」
 素直に認めて、大声で笑われた。
 笑われるままにするのは癪に触るが、言い返せるほどの実力もなくて。
「お前の場合はそもそも彼のように挑発なんてしてこないだろう。根本が違う種類だ」
 バシバシと強く肩を叩かれて、でもまぁ、と言葉はまだ続いた。
「あれは手合わせすると厄介なタイプだろうな。反則技も余裕で使ってくる。だが怒り狂っていたとしても、戦いの中で冷静さを取り戻すタイプだ」
「……そこまでわかるのですか?」
「勘だ」
 はっきりと宣言しておきながら勘だとは。
 ややあきれ顔になった表情を見られて、また笑われてしまった。
「勘は大事だぞ。経験から察するものだからな。彼は相当場数を踏んでいるんだろう。だから離れた」
「それは…ダニエル殿に勝てないとわかったからですか?」
「いや、違うな。恐らくだが…互いに簡単な怪我では済まないと察したんだ。もし彼が挑発に乗っていたら、互いに相当な傷を負っていたかもしれないな。向こうの傷がすぐに治るなら、俺の方が不利だ」
「そんな…ダニエル殿が負けるなんて思えません」
「誰が負けると言った?それに勝ち負けじゃないんだよ。大会が始まる前にそんな騒動を起こすことを彼は冷静な頭で理解して止めたんだ。…この大会、向こう側も何かしらの思惑があるのかもしれないな」
 ウインドの去っていった方向に目を向けながら、ダニエルは彼を高く評価する。
 それが少し気に入らなくて。
「…ダニエル殿、訓練の続きを…」
「そうだな。悪かった悪かった」
 またルードヴィッヒの胸の内を理解されて、今度こそブスっと頬をむくれさせた。

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