第88話


第88話

 広すぎる美しい室内は淡い薄明かりと大量に飾られた花の香りで、まるで夢の中みたいだと錯覚させられる。
 そこはリーンの為に用意された小さな世界だ。
 ガイアが先ほどここを訪れた時、初めて嗅いだ花の香りに一瞬戸惑ったが、バインド王がリーンの為に用意したのだとすぐに理解した。
 昨日リーンはバインドよりガイアを選んだから。
「……やはり母の気配を感じるが、母が乗り移ったわけではなさそうだな」
 ベッドに座るリーンは、ガイアの少し不安そうな表情を笑ってくる。
 ロードが出発してすぐにリーンの元に訪れたガイアだったが、何を話していいのかもわからず困惑していた。
 昨日のことがあったので、リーンはすぐにガイアの中に宿ったクリスタルの魂の気配に集中を始めたのだが。
 静かな時間が過ぎていき、リーンは今まで見たこともないような表情を浮かべる。
 懐かしそうな、嬉しそうな眼差し。
 ガイアを見つめながらも、リーンは母を愛おしむようだった。
 目の前にいる今のリーンは自分のことを本物ではないと言うが、母を懐かしむ表情は本当に心穏やかそうで。
「…不思議なものだ。私に見えた未来は、お前と父上の別れだったというのに。…今こうやって私に会いに来ている理由は、父上への不満や不安からではないなんて」
 ようやく視線が外れ、疲れてしまったのかリーンはゆっくりとベッドに身体を預けた。
 リーンに見えていた、あったかもしれない別れという未来は訪れなかった。
 それがもしクリスタルの魂のおかげだというなら、自分が不甲斐なく感じてしまう。
「……そうですね。今は…聞きたいことや言いたいことが沢山あるんです。不満も不安も沢山ありますよ。ただ、別れたいなんて、離れたいなんて思わないだけで」
 ロードに対する不安も不満も、消え去ったわけではない。今でも許せないことも多い。思い返して腹が立つものも。
 それでも、愛が勝った。
 彼がガイアには告げずにただ一人だけで背負ってきたものの多さを知ったから。
「少し不思議に思ったのは、私の中に宿ったクリスタル王妃の記憶は、子供に関するものばかりだったことで。それ以外は一切……デルグ王のことすら記憶として存在しなくて」
 ガイアが気になったのは魂に刻まれた記憶だった。
 自分の過去であるかのようにエル・フェアリア王家の子供達の記憶が鮮明に浮かぶのに、そこに父親であるはずのデルグ王の姿は残っていなかった。
 記憶の中のクリスタル王妃は子供達が成長するにつれてベッド上での生活ばかりになっていくが、デルグ王の姿はどれだけ探ろうとも出てこなかった。
 リーンも少しだけ考えるように口を閉じていたが、すぐに何か察した様子だった。
「それは恐らく、母上が伴侶としてのデルグ王に満足していたからなのだろう。あの二人は本当に愛し合い、心を通わせていたから。心残りは、子供達だけだったのだ。だから子供を思う記憶を持った魂だけが残り、同じく子供を思うその身に宿ったのだろう」
 クリスタルにとってデルグ王は素晴らしい夫だったということなのだろうか。
 それでも、魂に残らなかった理由が本当に満足したからだというなら、少し悲しくはないか。
「…魂って何なんでしょうか」
 恨みつらみに染まった魂が呪いとなって地上に残ることがあると知っている。
 それでも、喜びや楽しみもあったはずなのに。それだけが残らないなんて。
「私にもわからん。それがわかるものは、この世にもあの世にもいないだろうな」
 何でも知っていそうなリーンでさえ、その答えはわからないという。
「他に何か変わったことはなかったか?未来が本当に変わったのだとするなら、別の者達の未来も変わっている可能性がある」
「…未来が…変わる……」
「そうやってゆっくりと帳尻を合わせているのだろう。あるいは、私に見えた未来など単なる可能性の一つでしかなかったのだ」
 未来が何かわからないまま、魂が何かわからないまま。
 身の回りに起きた出来事といえば、悲しいことも多すぎて。
「…そういえば以前、私がロードから離れることになる理由が、パージャが私に子供の存在を話したからだと言っていましたが…」
 それはリーンに見えた、あったはずの未来だ。実際は、絡繰り妖精の悪戯によりガイアの前にコウェルズが現れ、ガイアが記憶を取り戻した。
 そしてロードに、全てを話させた。
「パージャに何かあったか?」
 問われて、ガイアはゆっくりと一部始終を話した。
 深手を追ったパージャのこと、生きる気力を無くしたミュズのこと、そしてパージャの呪いを癒したメディウム家の血の謎、ロードがパージャと共に今どこに向かっているのか。
 時間の感覚がおかしくなるほど間を置かない濃密な出来事の数々。
 リーンはそれらを質問もせずただじっと聞いてくれて。
「……ミュズは今、呼吸すら浅く危険な状況で…」
 ロードとの関係が改善したガイア。それと真逆の運命を辿るかのように、ミュズは生きているのが不思議なほどだ。
「……ミュズか。以前は何度か世話をしに来てくれていたな。最近は見ないと思っていたが…やはり私の見えた未来とは多少異なっているな」
 リーンも体力を回復する上でミュズと関わりを持っていた様子で、見えた未来と異なるのはガイアだけではないと教えてくれて。
「あなたの見た未来のミュズは、いったい…」
 気になったのは、今のミュズを何とかしたかったから。ミュズがあんな状況に陥ってしまった理由は、ロードの命令だから。
「私に見えていたものは、気の狂ったミュズだ。まるで幼子のように無邪気に狂ってしまった。パージャはそうなってしまった理由に怒り、お前と父上の仲を壊す為にお前に子供の名を告げた。そして、お前と父上の間に完全な亀裂が生じた」
 それが見えていた未来だと。
 結局ミュズが狂うことに変わりはない。だが今の状況の方が危険なのだろう。
「いったい何があって未来が変わったのか…」
「……カトレア王妃」
 未来が変わった理由。
 もし本当にガイアとロードの未来が良い方向へと変わったのだとするなら、それは彼女の存在以外には有り得ない。
 ルクレスティードが連れてきた、エル・フェアリアの女の子。
 ジュエル。
 その魂はかつて、ロードを深く愛し、ロードに深く愛された女性だった。
 ロードはジュエルからカトレアの魂に触れ、そして未来は。
「…………カトレア」
 リーンはぽつりとその名を呟き、一雫だけ涙をこぼした。
 頬をつたう涙に少し驚いた表情となり、リーンの魂がカトレアを覚えているのだと告げる。
 カトレアは、彼女の存在は、ガイア達の魂に刻み込まれた深い悲しみの記憶なのだろう。
 でも彼女の魂があったから、ガイアとロードは良い方向へ向かおうとしている。
「…ミュズの魂は恐らくもうあの身体には無い」
 涙の雫が完全に頬を落ちた後で、リーンは諦めじみた声色でミュズの今を教えてくれた。
「……どういうことですか?」
「身体の機能がわずかに残るだけの、死体だと思えばいい」
「----っ」
 死体。
 その言葉に凍り付く。
 ミュズが死んでいるなど。
「そんな…でもまだ生きて…」
「魂はない」
 淡々と告げられて、両手が恐怖で震えた。
 大切な仲間が死んでいるなど、受け入れられるはずもなくて。
 でもミュズに治癒を施しているガイア自身が、ミュズの現状を一番理解しているから。
 本能的に察していたミュズの死を、認めようとしてしまう。
「……ミュズの魂が戻れば、また以前のミュズに戻りますか?」切実に訊ねる。
 ミュズの身体に魂がないというなら、魂が戻ってくれれば。だが。
「蒸発した水が、同じ場所に同じ状態で完全に戻ると思えるか?」
 問われて、唇を噛んだ。
 想像もつかない。
 未知の領域に足を踏み込むなど、怖くて。
「とにかく、父上が戻るまで何とか生命維持を続けろ。私も色々と解決法を探っておく」
「……ありがとうございます」
 俯きながら、建前程度の感謝の言葉を告げて。
「…ルクレスティード?」
 ふと、リーンが天井に目を向けながらその名を呟いた。
 大切な息子の名を、どうして呼んだのか。
「あの…ルクレスティードに何か?」
 天井を見上げたままのリーンはガイアの言葉に返答もくれず、集中するように眉を顰めていく。
 不安になるほどの沈黙の時間は、数秒程度。
 天井とリーンを交互に見ることしかできないガイアは、息子の名前を呟かれたことに不安しか感じることができないまま。
「……様子がおかしい。行くぞ」
「え…」
 何が起きているのかなどわからないガイアの目の前で、リーンは己の魔力を放出した。
 闇色の緑が噴き出すようにリーンを包み込み、魔力はリーンを背中に乗せて浮かび上がり、淡い緑色の美しい鴉へと変化する。
「生体魔具…いつから」
 淡く美しい鴉の生体魔具は小柄なリーンを乗せる程度の大きさしかないが、あまりの美しさに言葉を無くす。
 ガイアが痛感したのは、リーンがエル・フェアリア王家の血を完全に受け継いでいるという事実だった。
 エル・フェアリア王家の子供達は、それぞれが虹色の魔力を操った。リーンの美しい緑は、リーンが高貴な存在であると知らしめてくる。
「行くぞ」
「え…待って!」
 体力を回復し、筋力を取り戻す為にひたすらこの美しい部屋にいたリーンが、自ら部屋を飛び出ていく。
 バインド王が用意した大量の花々を無惨に散らす風を起こしながら。
 その後を慌てて追えば、扉を出た先で待機していたらしいアダムとイヴが見開いた目を向けてきた。
「リーン様!?」
「ガイア様!?」
 二人同時に驚いた声を上げて、戸惑い慌てて。
「あなた達、どうしてここに!?」
 ガイアが訪れた際に双子はいなかった。
 だとすれば恐らく、ガイアが訪れたことに気付いたバインド王が二人に待機を命じたのだろう。
 聞き耳を立てていた様子ではないが、生体魔具上とはいえ動きまわるリーンに驚いて固まっている。
「お前達も来い。ルクレスティードの様子がおかしい」
 言い放って先陣を切るリーンの後を、全力で追いかけて。
「待って!!ルクレスティードに何が!?」
 大切な子供に何があったというのか。
 焦り慌てるガイアの心臓は突然の全力疾走と、ルクレスティードの身に何があったのかわからない不安から激しく脈打っていた。
「早いな」
 ぐんぐんと先に進むリーンが聞き取れないほどの声量で何かをポツリと呟いてから、突然スピードを落として前方を強く睨みつけた。
「何があったかは奴に聞け」
「奴?」
 リーンの隣に追いついてから、廊下の向こうからこちらへと走ってくる存在に目を凝らして。
「ガイア様!お待ちください!!」
 数秒遅れて到着するアダムとイヴは、こちらに向かってくる男の存在にすぐ気付き、ガイアとリーンを守るように戦闘体勢に入った。
「……あれは…ソリッド?」
 近付く男がソリッドだと気付いたと同時にアダムとイヴも警戒を緩めるが、戦闘体勢を崩しはしなかった。
 そして不可思議な体勢。
 何かを担ぎ上げているような。
 それがルクレスティードだと気付き、ガイアは再び走った。
「ーーガイア!!」
 ソリッドも叫び、ガイアとの距離を測ってからルクレスティードを下ろして。
「ひっっ…ルクレスティード!!」
 潰された息子の顔面に、絶叫した。
 顔面全てがどろりとした赤黒い血にまみれ、顔のパーツが把握できない。
「か……さま……」
 弱々しい声が震えて、ルクレスティードが手を伸ばした。
 その手を掴んで、頬に触れる。
 触れた途端、ルクレスティードの浅い呼吸に嗚咽が混じった。
 なぜルクレスティードがこんな目にあっているのだ。
 治らない傷など、パージャとウインドが受けた呪い以外にわからない。
 恐怖に全身を掴まれるより先に、ガイアは己の全ての力を搾り出すように治癒魔術をルクレスティードに叩きつけた。
 辺りが真っ白に染まる。
 両手でルクレスティードの顔に触れて、眼球が潰れていることに気付いて。
 どれほど治癒魔術を強く放っても、ルクレスティードの眼球は戻らない。焦りが増していく中で。
「ーーそこか」
 ガイアの背後で、ガイアには見えないまま、リーンがルクレスティードの上の空間を魔力で切り裂いた。
 一瞬の闇と、何かがぶつりと千切れる音。
 リーンが何かしてくれた。それを背中に感じた瞬間から、ルクレスティードの傷が治っていく手応えを感じて。
「う、わああああっ」
 治る寸前の微細な傷の痛みに身をよじるルクレスティードを、ソリッドが強く止める。
 そして、数秒。
 確かな治癒の手応えを感じ、同時にルクレスティードの顔中にまとわりついていた鮮血が黒い霧へと代わり、ルクレスティードへと戻っていった。
 呪いではなかった。
 冷や汗を浮かべたままほっと胸を撫で下ろすが、すぐに警戒を戻す。
「…お母様……」
 ソリッドの手を借りて身を起こすルクレスティードが恐る恐るガイアを見上げてくるから、まだ強張った顔に何とか笑みを浮かべると、すぐに腕の中へと抱きついてきた。
 本当に恐ろしかったのだろう。震える身体を安心させるように優しく撫でてなだめて。
「いったい何があったの?」
 少し離して訊ねれば、ルクレスティードは不安そうにソリッドへと目を向けた。
 有り得ない状況の理由は。
「…俺が」
「僕が話すから!!…僕が……」
 口を開こうとするソリッドを止めるルクレスティードが、癖毛の前髪に隠れた瞳で見上げてくる。
 千里眼を持つ希少な瞳がなぜ潰れていたのか。
 ルクレスティードの声は怒られることを恐れるように小さくなるが、それでも最初から全て話してくれた。

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