第87話


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 父の去った空中庭園内で、ルクレスティードは一人でつまらない船内を歩いていた。
 ウインドはとっとと地上に降りてしまうし、母はリーンと大切な話があるとかで置いてけぼりにされた。
 魔力を持つ白い蝶も姿を消してしまい、退屈でたまらない。
 部屋に寝かされたミュズに会うのは怖いし、ラムタル王城で仲良くなった庭師の老人も今日は孫と会う日だから城にはいない。
「……あ」
 つまらない。誰か構ってくれないだろうか。そうぼんやり考えていたルクレスティードは、最近船内に住み始めた二人の部屋の扉が少し開いていることに気付いて近付いてみた。
 二人は遊んでくれるだろうか。恐る恐る扉から中を覗き込んでみれば、熊のように大きなおじさんが、綺麗な女の人をそっとベッドに寝かせているところで。
 最初この二人が船内に訪れた時は汚れた服を着ていたが、今は綺麗な服を着て、元々闇市という汚い場所にいたなどと信じられないほどだ。
 男の方は少し整えた程度の無精髭が野性味を見せるが、女の人は淡い色のゆったりとしたドレスを着て、昔からのお姫様のようで。
 女の人にじっと見惚れてしまったルクレスティードは、ふいに視線が合ったことで慌てて扉から身体を離した。
「…そんなところにいないで入ってこい」
 ドキドキと慌て始める心臓の音に緊張していると、男が扉を全開にしてくれて、ルクレスティードを招き入れてくれる。
「…入っていいの?ソリッドさん」
 男の名を呼べば、ソリッドは大人の余裕のある笑みを浮かべた。
「俺がいない時にはアエルの世話をしてくれてるんだろ?恩人を蔑ろには出来ないな」
 怖そうな見た目に反して、口調は優しい。
 だが子供を相手にするような口調は、今はやめてほしかった。
 子供扱いしてくれる大人達はいつもルクレスティードを甘やかしてはくれたが、アエルのいる前でだけはどうしても嫌で。
 少しだけ膨れながら、部屋のベッドに寝かされたアエルに近付く。
「…まだ動かないの?」
 何を、とは言わないまま訊ねれば、アエルは横になったまま頷いた。
 何があったのかは知らない。ルクレスティードが初めて会った時から、アエルは話すことは出来ず、歩行能力もなかった。
 以前はたくさんお喋りをして、好き勝手に動き回っていたと聞かされた。
 でもエル・フェアリアで魔術兵団のナイナーダに捕まり、助けた時にはもうこんな身体になっていた。
 母の治癒魔術でも治らなかったのは、精神的な苦痛が酷すぎたからではないかと。
 歩けず、話せず。
 それでも辛そうな表情は見せずに綺麗な笑顔を浮かべ続けるアエルに、ソリッドはほとんど付きっきりで世話をしていた。
 離れる時はアエルが眠っている時や休ませている最中くらいで、ソリッドが言ったような、彼のいない間にアエルの世話をしたことなんて本当はない。
 ただ話し相手になった程度だ。
 ルクレスティードが話して、アエルがうんうんと聞いてくれて。ただ、その程度だけ。
 手が空いた時にはウインドの手合わせの相手をするソリッドも、まるで嫌なことを忘れる為のように鋭く撃ち込み、武術はウインドが後ずさるほどの力量だ。
 突然現れた二人だが、この船に馴染むのは不思議と早かった気がした。
「なんか食うか?下でもらった面白い食いもんがあるぞ」
 アエルのそばの椅子に座れば、ソリッドが少し離れて引き出しからお菓子を持ってきてくれる。
 ラムタル城で手に入れたらしいそれは小石サイズの無色透明な氷のような見た目で、口に入れてみると不思議な弾力があり、噛んでみるとパシャ、と弾けて甘い水が口内に満ちた。
「……レイノール国の水甘露だよ!」
「そんな名前なのか。大会中だから色んな食いもんが集まるんだな」
 以前に何度か食べたことのあるお菓子だと思い出して、国名も思い出せて。
 ソリッドがアエルにもひとつ食べさせてやり、自分は甘いものが苦手だからと食べなかった。
「それにしても、お前の父親はすごいもんを出せるんだな」
 ソリッドがガラスの皿ごと甘露を渡してくれるから、首を傾げながらもうひとつ口に入れた。
「あんな大きな生き物も出せるなんてな。あれも魔力なのか?」
「龍のこと?お父様の生体魔具…魔力の塊だよ」
 父がパージャと共に去っていく時に乗っていた龍のことを言っているのだとわかったが、魔力が日常にはなかったらしいソリッドとアエルには驚くべきものだった様子だ。
 ルクレスティードには日常だというのに、魔力を持たない人間達はどんな生活をしているというのだろうか。
「お前もあんなの出せるのか?」
「僕はまだ生体魔具は出せないよ。でもパージャはすっごく大きなお花を出せるし、ウインドも大きなシャチを何頭も出せるし、エレッテはちょっと生体魔具っぽくないんだけど、すごい規模の珊瑚礁で要塞みたいな防御壁を出せるよ。ただウインドが大変な時しか出せないみたいだけど。お母様は治癒魔術だけだから、生体魔具は出せない」
 みんなそれぞれ、得意の生体魔具がある。
「それでお前は練習中なのか?」
 まだ自分の生体魔具がないことを指摘されて少しだけ頬を膨らませた。
「…僕は千里眼の訓練があるの!」
 本当はあまり訓練をしていないが、そこは隠して。
「千里眼?」
「うん。壁の向こうとか、遠くの街を見ることができるんだよ。それが僕の目。すごく珍しいんだよ!」
 自慢してみれば、アエルが楽しそうに笑ってくれて、嬉しくなって頬も赤くなる。
「何か見てあげよっか?」
 甘露の入ったお皿をアエルのそばに置いて、ベッドの近くに身を寄せる。
「エル・フェアリアも見ることができるよ!二人がいた場所も見てあげよっか?」
 自分が自慢できるところは今のところ千里眼しかなくて、ドキドキしながら訊ねてみる。
「……闇市はやめとけ。ガキが見るもんじゃない」
「僕もう子供じゃないよ!」
 二人がどんな場所にいたかは知らないが、血生臭い世界を知らないわけではない。それでもソリッドは鼻で笑いながら、強い力でルクレスティードの頭を撫でた。
「お前が今までどんなもん見てきたは知らないが、それでも今はまだ見る必要のないもんだ。そうだな…王城裏の森に、そろそろ冬の花が咲く頃だろ。咲いてるかどうか見てくれよ。アエルの好きな花だ」
 ルクレスティードの見てきたものを察しながら、優しいものを見せようとしてくる。
「…花って、どんな?」
 子供扱いされることだけは少しだけ気に入らないが、アエルの好きな花だというなら見てみたかった。
「かすみ草に似てる花なんだが、花は薄い橙色で、茎が緑じゃなくて薄茶色なんだ。貧相な花だが馬みたいな匂いがするから好きなんだとよ」
 花束の脇役にも使ってもらえない花だとソリッドが笑い、アエルも笑いながらルクレスティードに目だけで「探してみて」と訴えてくる。
 聞いただけでも目立たなさそうな花がどうして好きなのか首を傾げながらも、神経を目に集中させた。
 自分の体内を巡る魔力を目に集めて、見たい場所を望む。
 エル・フェアリア王城の裏の森を見たかったのに、千里眼を通して見えたのは王城内だった。
「どうだ?見えたか?」
「んー、お城に入っちゃった…」
 遠ければ遠いほど、見たい場所のコントロールは難しい。城内から離れて森に行きたかったが、今までさぼり続けてきたツケは大きかった。
 王城の中庭、噴水、慌てたように走り回る人たち。
「何かあったのかなぁ?」
 エル・フェアリア王城はたまに覗き見ていたが、騎士や侍女たち、政務官達までもが騒々しく駆け回る姿など初めて見た。
 何かあったのなら父に報告した方が良いのかもしれないが、残念ながら父はパージャと共に遠く離れてしまっている。
「王城か。どんな所なんだ?」
「お城の中?普通だよ?」
「お前らの普通は俺たちの普通じゃねぇんだよ」
 問われたから答えたのに、呆れられてしまった。
「そんなこといったって…ラムタル城みたいにからくりがあるわけじゃないし、スアタニラ城みたいに宝石がたくさん埋め込まれた壁とかもないし…あ、でも模様は綺麗かな」
 今まで見てきた他国の城と比較しても、大きくて立派というくらいで、これといった特徴はわからない。
 エル・フェアリア城は清潔で美しいが、ルクレスティード達が暮らす空中庭園の方が古臭さもなくよっぽど綺麗だ。
 何とかして見える場所を城から森に向かわせたいが、コントロールはどうしても難しく、奮闘を続けてしまう。
 十数秒ほど無言で頑張っていた頃だった。
「ーーあ、お兄様…」
 城内の一室にいたニコルに、ルクレスティードは思わず声を上げた。
「兄貴なんているのか?」
「うん。…お兄様は僕のこと知らないけど……」
 父によく似た背格好。でも長かった銀髪は短く切られてしまっていた。
 隣にいるアリアも長かった髪が肩にかかる程度の短さになっていて、二人が揃って髪を短くしたことが羨ましかった。
 仲が良いんだ。それが羨ましい。
 ルクレスティードだってニコルと話してみたいのに。
「…大丈夫か?」
 不貞腐れてしまい、ソリッドに心配されてしまった。
 うん、と掠れるほど小さな声で頷いて、視界をニコルのいる部屋から抜け出させる。
 ニコルとアリアが仲良さそうにいる姿は、どうしても嫉妬心が芽生えて仕方がなかったから。
 自分だってその間にいたいのに。いていいはずなのに、と。
 森に向かって、アエルの好きな花が咲いているか確認しなきゃ。
 そう念じて、だが突然、吸い寄せられるように視界がガクンと下へ落ちた。
 今まで感じたこともない強制的な視界の移動に、ビク、と肩が跳ねる。
「おい、本当に大丈夫か?無理するなよ」
「……うん」
 連続して集中したことなどなかったから、その弊害かと千里眼を遮断しようとして、だが脳裏を駆け巡る視界は消えてはくれなくて。
「え…どうしよう…」
 ズルズルと引きずりこまれるような感覚に目の奥が痛くなる。
 誰かが眼球を目のさらに奥に引っ張っているような。
痛くて、気持ち悪い感覚。
「お、父さま…」
 怖くて、父を呼ぶ。
 だが父は今、遥か彼方だ。
 千里眼の能力が消えないなど初めての経験で、不安に震えた。
「もう見なくていいから、落ち着け」
 ソリッドが両肩を掴んでくるが、それでも視界は通常に戻ってはくれなかった。
 視界がおかしな力に引きずられて、どこかに連れていかれる。
 怖くなって固まるルクレスティードに見えたものは、奇妙な目の若者だった。
 ニコルより年下に見える。ウインドと同じくらいだろうか。
 影の薄そうな、どこか頼りなさそうな若い男の人。だというのに、視界は彼の目に向かっていた。
 彼の目に引き寄せられている。
 そう直感した。
「ソリッドさん、僕の目を潰して!」
「はぁ?何言ってるんだ!」
「治るから!お願い早く!!」
 彼の目に奪われる。
 本能がそう告げてくるから、今も肩を掴むソリッドの手を掴み、その指を自分の目に近づけた。
「おい、やめろ!」
「お願い!ソリッドさん!!」
 千里眼の見せるその先で、彼と目が合った。
「ーーっくそ!!」
 次の瞬間、激痛が両目を苛んだ。
「うっっっ…わあああああああああああああああああ!!!!」
 絶叫するほどの激痛。
 ソリッドが両方の親指で一気に目を潰し、引き抜かれると同時にボトボトと熱い液体が頬を大量に流れ落ちた。
 何かがおかしいと感じたのはすぐだった。
 いつもなら、痛みは数秒と続かないはずなのに。
 血も体内に戻り、傷も癒えるはずなのに。
 痛みが離れない。
 何も見えないまま、痛みの恐怖に全身が侵されていく。
「痛いぃぃぃ!!やだああああああああああああぁぁぁ!!!!」
 怖くてたまらない。
 何も見えないまま、このままずっと痛みが続くのかと震えて。
「お父様!!お母さまあぁぁ!!」
 パニックになる身体を、誰かが抱き上げた。
「アエル!ここにいろよ!」
 ソリッドの声がすぐ近くで聞こえて、抱き上げられたままの移動に目の痛みがさらに引き攣れて激痛に変わる。
 叫び声を抑えられなくて、叫びながらソリッドに強くしがみついて。
「すぐにガイアのとこに連れてってやる!男なら我慢しろ!!」
 そんなことを言われても、今のルクレスティードの耳には入っては来なかった。
 痛い。
 痛い
 永遠に苛まれそうな痛みの中で、あの若者の顔だけが脳裏に焼き付いて離れなかった。

第87話 終
 
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