第87話
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『ーーこちらも、とても美味しいですね』
流暢なバオル国の言語を口にしながら、ジュエルは向かいに座る同じ年頃の少女に優しく微笑みかけた。
『お口に合って嬉しいです。このムースは私も大好きなので』
アン王女も安心しきったように嬉しそうに微笑んでおり、朝食後のデザートは昨日のお茶会の時間よりも穏やかな気がした。
昨日はまだ互いに探り探り話していたが、今日は気持ちの余裕が格段に違う。
イリュシーが朝食の時間を作ったことはアン王女も知らなかった様子で、贈り物と共に挨拶をした時は驚きながらもとても喜んでくれた。
オリクスが共にいたことにはジュエルの方も驚いたが、今はジャックと壁の隅で談笑している。
オリクスはバオル国の剣術試合代表として出場するので、ジャックと言葉を交わせることが光栄だとばかりに頬が少しゆるんでいる。
その表情を、アン王女達が「珍しい」と口にしていたのは聞き逃さなかった。
『オリクス様は度々ラムタルに来られるのですか?』
『はい。バインド陛下と親交がありますので、数ヶ月おきに。お手紙は数日おきに欠かさず送ってくれます』
『素敵ですね。オリクス様なら何でもスマートにこなせてしまうのでしょうね』
オリクスをよく知るわけではないが、寡黙で生真面目そうな見た目に反して行動や仕草は穏やかにゆるく優しく、恐らくアン王女の前だからなのだろうがとても好感が持てた。
アン王女がオリクスの柔らかなエスコートを受けながら朝食の席に訪れた時は羨ましく思ってしまったのだから。
ジュエルをエスコートしてくれるのはいつだってミシェルだったが、いつかは自分だけを見てくれる優しい人の手に触れて歩きたい。
その相手が誰なのか想像しても、もう憧れていたレイトルは浮かばなかった。
代わりに想像の中でジュエルの手を引いてくれるのは、銀色の癖毛をふわりと風に泳がせる、目線の近い少年だ。
またルクレスティードに会えるだろうか。
一瞬惚けてしまうが、頬が赤くなることに気付いてすぐに気持ちを引き締めた。
ルクレスティードは恐らく、ファントムの仲間だから。
『…オリクス様に婚約者はいませんの?それとも、もうされていますか?』
自分の中の気持ちに蓋をするように訊ねてみれば、いいえ、と首を横に振られてしまった。
『私が国に戻れるまでは、私だけを守ると言って…懇意の方がいるのかどうかも教えてくれないので、早く国に戻らねばと思っていますわ』
少しいたずらっぽく笑いながら、それでも芯の深さを示しながら。
アン王女がバオル国に戻るまでは。
それは、オリクスだけでなく、アン王女を守る為にここにいる全員に言えることなのだろう。
彼らの為にも、アン王女は早く力を付けようと努力している。
『…でしたら、バオル国に戻られる際は、ぜひ藍都にご連絡くださいね。総力を上げて、他にはないほど美しいレースと刺繍のドレスを沢山贈らせていただきますわ。ドレスは私達にとって最大の武器ですもの』
ジュエルに出来る手助けはそれくらいしかないが、自分が生まれ育った藍都の特産を余すことなく使ったドレスがどれほど世界中の王族貴族の娘たちの心を躍らせるかは知っている。
『…本当ですか?』
そしてアン王女も、驚いたように、信じられないと言い出しそうなほどに目を大きく開けて。
『もちろんですわ!お父様やミシェルお兄様にお願いすれば、絶対に作ってくださいますもの!』
藍都領主である父と、世界的に有名なデザイナーだった兄。きっとアン王女を助けてくれると思えた。
『……すごく嬉しいです。…実は、オリクスが用意してくれるドレスは、あまり私の好みではなくて…』
アン王女はアン王女で、ジュエルが思うよりもっと単純なところで喜んでいる様子だった。
品は良いが、地味なデザインのドレス。
バオル国の経済事情にもよるのだろうが。
『どんなドレスがお好きですの?』
純粋に気になって訊ねてみれば、アン王女の頬は恥ずかしそうに少しだけ赤く染まった。
『あの…ラムタル国から出版された“妖精国の牡丹姫”を知っていますか?挿絵に描かれた牡丹姫のような、ふんわりとした可愛らしいドレスが大好きで…』
少しだけ小さくなる声が、半年ほど前にエル・フェアリアでも出版されたラムタルの絵本を伝えてくる。
『知っていますわ!エル・フェアリアでもとても人気なのですよ!私も何度も読みましたもの!』
ジュエルも持っている花の妖精達の絵本は、主人公の牡丹姫だけでなく、他の多くの花の妖精達もそれぞれの名前にちなんだ美しいドレスを纏った、芸術性の高い絵本だった。
エル・フェアリア王都でなら、その絵本を持っていない女の子はいないだろうほどに人気のある本だ。
『私は去年にバインド様からお誕生日の贈り物として頂いて、今になるまで毎日眠る前に読んでいるのです。本当に綺麗で、可愛くて…すごく憧れていて…』
王女であるが故に暗殺されかけ、他国へと逃げて隠れ続けているアン王女にとって、その絵本を読む間は過酷な現実を唯一忘れさせてくれる時間なのだろう。
眠る前に読むのはきっと、せめて夢の世界では可愛らしいドレスを着たいから。
『…約束しますわ。アン王女様がバオル国に戻られる際、必ずバオル国の女王に相応しいドレスをお祝いに贈らせていただきます』
彼女が祖国に戻る時。
それはきっと、彼女が王位を継ぐ時だから。
幼くして王位を継ぐことになるだろう。
幼さ故に懐柔しようとする者が二の足を踏むほどに美しく荘厳なドレスをきっと。
もちろん、牡丹姫のドレスに似た愛らしいドレスも。
『…ありがとうございます。必ず祖国に戻りますわね』
ジュエルの激励を受け入れてくれて、アン王女の微笑みに威厳が宿る。
達観した大人の表情が、アン王女の努力を告げていた。
『ーーなぜここにいる!?』
ふと緊張感の強い怒声が響き渡り、ジュエルとアン王女は同時に声のした方へと顔を向けた。
怒声を上げたのはオリクスで、壁際にいた彼らの目線が向かう先にいたのはマガだった。
ジャックが素早くジュエルの元に訪れて、マガの視界からジュエルを隠す。
『兄様…俺……』
『誰が連れてきた!?』
以前見せた尊大な様子など見せないマガは、頭に包帯を巻いたまま、迷子の幼子のように途方に暮れて、大きな身体が小さく見えるほどに怯えて縮こまっていた。
突然のマガの登場に、バオル国の者達が慌て始める。
その中に数名、マガの側に寄る者達がいた。
『オリクス様、勝手をして申し訳ありません。ですがエル・フェアリアのお二方がいるのなら、ぜひ我々の話をもう一度!』
『馬鹿者が!!』
誰がここにマガを連れて来たのか。
その者達がマガを守るように囲いながらオリクスに頼み込むが、オリクスは最大級の怒声を浴びせた。
あまりの声量にびくりと身体を強張らせてしまい、気付いたジャックが肩を引き寄せてくれる。
まるで兄のような温もりに安心すれば、マガがジュエルの方へと目を向けてきた。
しかしすぐに、マガが目に映すのはアン王女だと気付く。
マガはアン王女に毒を盛った実行犯だ。
マガの表情はアン王女の健在を目にして何よりも安堵の色となり、だが自分が犯した罪を自分自身が最も許せないかのように口元を引き結んで辛そうに俯いた。
『……マガ』
包帯を巻いたマガの痛ましい姿に、アンが苦しそうにその名前を呼ぶ。
『ジャック殿、ジュエル様!どうかもう一度我々に機会をお与えください!話を』
『いい加減にしろ!話がしたいなら正式な申し入れをするんだ!』
オリクスの合図に、彼の後ろに控えていたバオル国の者達がマガを引き入れた者達に退出を促す。
マガも俯かせていた顔をオリクスの方に向けたが、すぐにこちらに身体を向けて深く頭を下げ、素直に出て行った。
嵐のように突然訪れて、すぐに去って。
オリクスは怒りを抑えられずに苛立っていたが、全員の姿が見えなくなってからすぐにジュエル達の元に訪れ、最大級の謝罪の姿勢を取った。
「何度も不快な思いをさせてしまったというのに、また同じことを繰り返してしまい、申し開きもございません」
少し固いエル・フェアリア語が、オリクスの口から溢れる。
「…マガを引き取るかどうかだが…ここまでこけにされてしまうとな」
オリクスの頭上へと言葉を落とすジャックに、周りの者達が全身を強張らせた。
アン王女も動揺して瞳を震わせるが、ジュエルも何の擁護も出来なかった。
ここにマガを連れて来て良いわけがない。
最も被害を被ったジュエルがいるこの場所に。
ジュエルはここに呼ばれた側だというのに、無理やりマガと会わせるなど、その為に呼ばれたと思われても仕方がない。
ルードヴィッヒが共にいなかったことだけが不幸中の幸いだ。
彼がいたらきっと、今頃かなりの大事になっていただろう。
一瞬でマガと犬猿の仲になってしまったルードヴィッヒは、何としてでもジュエルを二度とバオル国の誰にも近付かせないようにしそうだから。
「…誠に申し訳ございません」
深すぎるほど頭を下げるオリクスの声も、終わった、とばかりに掠れていた。
「……そこまでマガをエル・フェアリアに引き取らせたい理由はなんだ?バオル国から逃したいだけなら、エル・フェアリアじゃなくてもいいはずだ」
以前の説明では、マガはアン王女に毒を盛った実行犯である為に、アン王女が国を取り戻した暁にはマガは捕らえられることになると聞いた。
だが本当にそれだけなら、エル・フェアリアである必要はないはずなのだ。
もっと遠い国もある。逃したいだけなら、隣国程度でも充分だろう。
ラムタル王バインドまで引き連れて、マガをエル・フェアリアに託そうとコウェルズに頼み込んだ理由は。
オリクスが数秒固まるが、顔を上げて口を開く。
それより先に理由を口にしたのは、アン王女だった。
「……マガは、私専属の宮廷道化師でした」
つらそうに眉尻を下げながら、瞳いっぱいに涙を浮かべて。
エル・フェアリアには存在しない、他国の教養の為に読んだ本でしか知らない宮廷道化師という言葉に、ジュエルは驚いた。
マガは、幼いアン王女を笑わせ、楽しませていたのだ。
「…マガだけではありません。ここにいる、今マガを連れて来てくれた者達も、私の専属の道化師です。今は教師や護衛として共にいてくれていますが…以前は…」
マガを強引に連れて来た数名が。
「……私達がマガをエル・フェアリアへと向かわせたい理由は、マガの名前にあります」
名前。それを聞いて思い出すのは、マガが自分のことを“マガイモノなんかじゃない”と叫んだ時のことだった。
ジュエルを手に入れれば名前を与えてやると言われた、とマガは言った。
「マガとは、彼の本当の名前ではありません。本当の名前を知るのは、彼を産んだ母親だけなのです」
淡々と語ろうとして、だが昔を思い出すのか、感情がアン王女の瞳をゆらし。
変わるように、その続きをオリクスが語った。
「マガは流浪民族の踊り子が我が国で無理やり手篭めにされ、産まれたのです。母親である女性はマガを産んだ後、マガに名前を授けるより先に追い出されてしまいました」
何があってマガが産まれたのか。説明するオリクスは、その女性を手篭めにした男が自分の実の父親であることに目を逸らした。
「…流浪民族は結束が非常に強く…最低限の礼儀すら取らなかった我が国に対し、それ以降誰一人として足を踏み入れることはなくなりました」
あらゆる得意分野に分かれて旅を続ける流浪民族達。舞踏だけでなく、傭兵、独自の装身具、各国の特産品から情報まで。
それらはどこの国でも重宝されてきたが、その恩恵を受けられなくなった国は等しくゆるやかに衰退していった。
国土を持たず流れ者も受け入れる流浪民族は蔑まれる対象になることも多かったが、最低限の礼儀さえ守られていれば、彼らはさして気にする素振りを見せなかった。
かつて礼儀を怠った国は、今や弱小国ばかりで。
バオル国もそのひとつだったとは。
マガの産まれた歳から流浪民族がバオル国を訪れなかったのなら、まだ目に見えて衰退してはいないのだろうが、時間の問題だ。
「……流浪民族最上の踊り子達がエル・フェアリア王城に訪れるのは、毎年、春の始まるころですわ」
ジュエルの呟きに、ジャックも小さく頷く。
エル・フェアリア中心部では流浪民族の美術品や舞踏などの娯楽が非常に好まれ、彼らの為に準備された市場があるほどだ。
中でもエル・フェアリア王城に呼ばれるほどの腕前を持つ踊り子達は、毎年王族を喜ばせてきたが。
「まさか、マガの母親がその中にいるのか?」
コウェルズのいる前でマガを頼んできたということは、ただエル・フェアリアに彼を連れて行けばいいわけではない。
コウェルズのそばに、王城近くにマガを置けというのなら。
「…お察しの通りです」
再び深く頭を下げるオリクスに、ジュエルはジャックと目を合わせた。
オリクス達の本当の目的は、エル・フェアリアではなかったのだ。
「愚かな我が父がマガの名前を知っているとは思えません。ですがマガは、自分と母親を繋ぐ名前を欲し、父の言うことをひたすら聞き続けているのです。父も、そんなマガの心を弄び、奴隷のように扱っています…」
実の子供でありながら、虐待を繰り返して。
「…我々は、マガを母親の元に戻したいと考えています。無理やり我が国に産まれ落ちたのだとしても、マガには流浪民族の血が強く巡っているのです」
その為にエル・フェアリアに頼みたいのだとオリクスは言葉を続けた。
流浪民族は数多くに分かれて旅をしているが、確実にマガと母親が会える場所があるなら、と。
「…マガ様が私に言い寄ったのも、ご自分のお名前を知りたかったからなのですね」
同情するジュエルの言葉に、バオル国の者達が一斉に希望に満ちた視線をジュエルに送ってくる。
ジュエルも自分が決めていいなら、マガをエル・フェアリアに連れて帰り、春の始まりと共に訪れる流浪民族達に引き合わせたいが。
「本当にそれだけか?」
ジュエルに向けられたいくつもの視線を遮るように、ジャックの声は鋭さを増した。
「…本当にそんな美談だけか?俺にはまだ裏があるように聞こえるんだが」
腕を組み、威圧するように深く静かに問いかける。
そうすれば、ジュエルに向けられていたバオル国の者達の視線は、俯く者とオリクスに移す者とに分かれて。
「悪いが、全て話せないなら俺の独断で断らせてもらう。コウェルズ様は俺の判断を聞き入れてくれるだろう」
同情したジュエルとは違い、ジャックにはさらに深い部分が見えていたというのか。
哀れで可哀想なマガを救う為だけではないとなると、他にどんな理由があるのか。
「…黙り込むなら当ててやろうか?本当の狙いは流浪民族の戦力だろう」
大戦中はエル・フェアリアも苦戦を強いられたといわれるほどの戦力を持つ、流浪民族の傭兵部隊。
「ですが、エル・フェアリア王城に訪れるのは踊り子たちだけのはずですわ!」
思わずバオル国の肩を持ってしまうが、ジャックはジュエルの無知を否定しなかった。
「王城に入れるのは、な。流浪民族の戦士達はどこのグループにも何人かはいるものだし、特に傭兵達は互いに殺し合わないよう連絡を密に取っている。流浪民族の結束は固いから、マガが無事に母親と会えて、マガがどんな扱いを受けていたか、そして誰がマガを救ったかを知れば、戦士達はすぐにオリクス殿と連絡を取ろうとするだろうな」
本当の狙いはそれだろう、と改めて告げるジャックに、オリクスは強い眼差しを外さなかった。
「…確かにそれも視野に入れてはいます。ですが本当の狙いと決めつけられるのは心外です。…我々がどれほどマガを救いたいか、あなたはわかっていません」
言葉の端々に見える怒りは、何を意味するのか。
ぴりついた空気に、アン王女の顔色が悪くなっていく。
「ジャック様、一度コウェルズ様とも話した方が良いと思いますわ」
口を挟んでしまったのは、アン王女の為だった。
「私には…マガ様をお母様と会わせることこそが皆様の本当の狙いだとしか思えません!昨日のお茶会でお話しした際も、マガ様の為に切実な顔をしていましたもの!」
自分の思いや考えを言葉にする難しさを痛感しながら、それでも必死に説得する。
ジュエルはジャックよりもここにいる皆と顔を合わせ、話をした。特にアン王女の切実な言葉と眼差しは、きっと長い年月が経っても忘れないだろう。
「ジュエル嬢、あまり深入りはするな。俺たちはバオル国と話す為にラムタルに来たんじゃない」
「ですが!」
どう言葉にすればわかってもらえるのか。
頭が混乱し始める中で、ジャックがイリュシーに数歩近付いて。
「我々がラムタルに滞在する間はジュエル嬢を毎朝ここに連れてくる約束だったが…すまないが、こんなことになってしまってはな」
元はと言えば、バオル国側が許可もなくマガを連れてきてしまったことが原因だ。イリュシーも自分の失態だとばかりに深く頭を下げて。
「待ってください!私、明日もここに来ますわ!」
はっきりと宣言するジュエルに、ジャックが呆れた表情を浮かべるが、本気だった。
助けたい。
マガではなく、アン王女を。
「私は、大切なお友達を蔑ろには出来ません!」
ただその思いで。
ジュエルの言葉に、アン王女が口元を手で覆って涙を浮かべ始める。
彼女の助けになりたい。
その為に何と説得すればいいのか、ジュエルはまだ幼すぎる脳を必死に働かせ続けた。
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