第87話


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 妙な静けさと、不気味な慌ただしさ。
 大きな窓から朝日を浴びながら、コウェルズは少し前にラムタルに届いた訃報が城内中にじわりと広がるのを感じていた。
 いつもなら明け方まで大会関係者達の宴が聞こえてくるというのに、日の出から少し経ってから、突如場内は静まり返った。
 エル・フェアリア王の訃報は、大会に訪れている者達の耳にどう入ったか。
 そしてコウェルズの存在に気付きつつある者達は何を思うのか。
 彼らがどう思おうが、コウェルズには関係ない。
 ただ心配するのは、妹達とサリアのことで。
 エル・フェアリアがどうなっているのか想像もつかない。まだエル・フェアリアは深夜帯のはずだが、訃報は早々に全土に届くことだろう。
 ファントムの噂が流れ始めた時よりも今の方が焦る気持ちがあるのは、きっと自分がうまく動けないでいるからだ。
 全てがトントン拍子に上手く行くなど思ってはいなかった。だが改めて足踏みばかりさせられる現状に、苛立ちばかり膨れ上がる。
 窓からただ静かに空を見上げ続けて、貴賓室の扉が開かれたのはしばらく経ってからだった。
 昨夜から出ていたジャックの帰還に、疲れを隠して微笑んで。
 瞬時に貼る結界に、室内中が金色の輝きに一瞬だけ満たされる。
「おかえり。どうだった?」
「…確かな情報はありませんでした」
 ジャックが昨夜から共にいたのは、ラムタルの侍女であるイリュシーだ。
 一昨日はその若い身体にパージャやファントムの件を聞いてくれたが、昨夜はどう聞いたというのか。
 ジャックの髪や服装には、わずかな乱れも見えはしないから。
「一晩中、どこで何を?」
「…わかってて聞いているんですか?」
「その身なりなら、“そういう意味”では何もなかったことくらいわかるよ。だから聞いてるんだ」
 少し言いづらそうにするから、恥ずかしがるなと手を振って。
「…情報は無くても、憶測はあったんじゃないか?」
 ジャックがどれほどリーンを救い出したいかは、痛いほどわかる。そんな彼が、一晩中外にいて本当に何の情報も得ていないなど思えなかった。
「その通りです。確証はありませんが、リーン様のいそうな場所があります」
 探している妹の名前を出されて、表情が強張る。
「イリュシー嬢は一晩中、大会関係者の立ち入りを禁じられている場所の散歩に付き合ってくれたんです。以前リーン様と歩いた場所を」
 強く深い思い出の場所。その道を知るのはジャック以外ではダニエルとガウェだけなのだろう。
 リーンと、彼女を守っていた護衛部隊だけの散歩道。
 巨大な絡繰りの城は、どれほどリーンを喜ばせてくれただろう。
「…イリュシー嬢は優しいね。立ち入り禁止の場所なのに一晩中付き合ってくれるなんて」
「はい。…実は何人かラムタルの者達と遭遇してしまったのですが、リーン様との思い出の場所だと伝えると、誰もが見逃してくれました」
 優しいのはイリュシーだけではないと、ジャックは少しだけ罪悪感に苛まれた表情で笑う。
「…それで、リーンの居場所は?」
「恐らくですが、王族が住む西奥の宮殿に。パージャともそこに繋がる通路で遭遇しましたし、何よりその辺りを歩くラムタルの者達が皆、ラムタルに強く忠誠を誓う者達ばかりでした」
 誰かから聞いたわけではない。改めて、ジャックの憶測でしかないのだと暗に思い知らされる。だが、憶測でも構わない。
「アン王女が守られている場所とは正反対の位置ですし、ラムタル王城最大の庭園もあります。癒術騎士の双子に用意された部屋も近いので、リーン様を保護するには最も適した場所かと」
「…なるほどね。私がバインド王に呼び出された場所からも離れているし。…無意識に避けたのかな?」
 憶測が、胸の奥だけで確証に変わろうとする。
 迅る気持ちを何とか堪えて、コウェルズは深く息を吸って気持ちを落ち着けた。
 全ては手がかり程度でしかないのだ。
 その事実が苛立ちを加速させていく。
「そうこうしている間に、ラムタルにも王の訃報が届いたので、イリュシー嬢とは離れたのですが…一つだけ、約束をしてしまいまして…」
 言いにくそうに目を泳がせるジャックに、珍しいものだとコウェルズは首を傾げた。コウェルズの知る彼は、口籠ることなどしなかったから。
「私では立ち入れない場所にイリュシー嬢が入れてくれる条件に、我々がエル・フェアリアに帰るまでの間、ジュエルをアン王女との朝食の席に、と」
「……朝食?ジュエルを?」
「はい。それを交換条件に立ち入り禁止区画を歩き回りました」
 勝手なことをしたと、ジャックは謝罪する。
「…まあ、それくらいならいいんじゃないかな?いずれアン王女がバオル国に戻って女王になるなら、親しい交流を持っておいて損はないだろうし」
 いったいどんな交換条件なのかと一瞬身構えてしまったから、何とも可愛らしい条件に一気に脱力してしまった。
「…よろしいのですか?」
「マガの件を言っているなら、それとこれとは話が別とだけ返しておくよ。交換条件の内容は、ジュエルの朝食時間だけだろう?それより、イリュシー嬢とアン王女の仲はどんなものなんだい?昨日のお茶会も、彼女が早々に準備してしまったけど」
 昨日もダニエルから、イリュシーがアン王女をとても気にかけていたと報告を受けている。
 いくら幼い王女が可哀想な状況に置かれていたとしても、感情移入しすぎていると言えるほどに。
「どうもイリュシー嬢の王城での職務に関係がある様子です。今でこそ大会運営に駆り出されていますが、彼女は元々アン王女の身の回りの世話をする侍女として王城に訪れたらしいので」
 説明されて思い出すのは、コウェルズ達がラムタルに到着した際に出迎えたイリュシーが、絡繰りの腕輪を付けていたことだ。
「…なるほど。たしかイリュシー嬢はマオット家の第四女だったね」
 あの腕輪は、バインド王が信頼する臣下にのみ与えられるものだったから。
「マオット家はどんな家柄なのですか?」
「エル・フェアリアでなら上位下家と同列くらいかな。しかもマオット家は全員がバインド王の幼い頃から忠誠を誓い、優秀な手足として働いている」
 十四ある上位貴族の、虹の色を持たない下七家と同列の家柄の第四女。
 まだ若い娘らしい未熟さを残すが、バインドから信頼され、アン王女の身の回りの世話をする侍女として抜擢されたのだろう。
 その若さもアン王女の世話役としてちょうど良かったのかもしれない。
「とにかく、彼女から色々聞き出してくれて感謝するよ。あまり深入りしないよう、もう会わなくてもいいんじゃないかな」
「そうですね。彼女自身にはもう情報は無さそうですし、見たい場所も見ることが出来たので」
 憶測とはいえ、リーンの居場所を知ることが出来たのは大きい。
 それにイリュシーの気持ちがジャックに向いてしまってはいけない。
 ジャックも同意見であると頷くのは、これ以上気持ちを踏み躙らないようにする為だろう。
「じゃあ、少し早いけど皆を起こしてきてくれる?」
 まだ朝早くはあるが、ジュエルをアン王女との朝食に向かわせる為に事情を話さなければならない。
 その時間を考慮して皆を呼びに行けば、ルードヴィッヒは用意ができていたのかすぐに出てきてしまった。
 ダニエルもすぐに現れて、ジュエルだけは身支度に少しだけ時間を使ってしまう。
 そわそわと落ち着きのないルードヴィッヒはジュエルの部屋に繋がる扉から離れようとせず、ようやく登場したジュエルに大声で朝の挨拶をしてしまい、嫌そうな目で睨まれていた。
 意欲的なのは嬉しいことだが、空回りはやめてほしい。
 全員集まったところで最初にジュエルにアン王女との朝食の件を話すと、語気を荒らげて否定してきたのもやはりルードヴィッヒだった。
 決定事項だとコウェルズがさらりと流せば、不満そうに不貞腐れてしまう。
 ジュエルの方は突然の決定に不安そうな表情になったが、深呼吸一度だけでとっとと腹を括ってくれた。
 理由を深く話さずとも理解して協力する様は、まだ未成年だというのに優秀すぎるほどだ。
 恐らくジュエルは言われずとも自分のするべき事を理解して動いてくれるだろう。
 問題なのはルードヴィッヒだ。ジュエルが心配なのは仕方ないが、原因は相手側がバオル国であることで間違いない。
 バオル国はジュエルに対して無礼な行動を取りすぎた。一部の人間であろうが、バオル国という一括りに代わりはない。
 ルードヴィッヒは己の腕を磨くことには雑草根性を見せるが、芯には上位貴族の誇りが大きく存在するから。
「ルードヴィッヒには今からダニエルと一緒にイリュエノッドとスアタニラからの謝罪を受けてきてもらうが、もしバオル国と遭遇しても絶対に絡んではいけないよ」
 一応注意しておけば、とたんに不満を強く顔に出す。
 呆れたように笑うのはダニエルで、隣に座るルードヴィッヒに視線を向けて。
「謝罪は昨日の件だから、会うのはイリュエノッド国とスアタニラ国だけだ。バインド王がジュエル嬢に絡繰りの髪飾りも贈ってくれたことだし、バオル国も滅多な事ではもう近付いて来ないはずだ」
「ですが向こうはマガをこちらに押し付けようとしているじゃないですか!私がバオル国と遭遇しなかったとしても、今から朝食に向かうジュエルだけでは心配です!」
 安心しろと告げてくれる言葉に、ルードヴィッヒは耳を傾けない。
 自分もジュエルについて行くとでも言い出しそうな雰囲気を察したのかジュエルが立ち上がる。そして冷めた目でちらりとルードヴィッヒを睨みつけて。
「準備をして参ります」
「な、ジュエーー」
 咄嗟にジュエルの腕を掴もうとするルードヴィッヒをダニエルが止めて、ジャックが呆れながらジュエルに「行ってこい」と促して。
 ジュエルが寝室へ戻り、その扉が閉められて。
「…危険です!」
 数秒間の沈黙を破るルードヴィッヒは、全てが気に入らないかのように強い不快感を表情に出していた。
「落ち着け。ジュエル嬢が戻ったら、もっと大事な話をするんだからな」
 ジャックに頭を軽く数発殴られて、ルードヴィッヒは不満そうに俯く。
 まだエル・フェアリア王の訃報を伝えていないのに、これでは先が思いやられる。
 それとももしかしたら、訃報を聞けばルードヴィッヒも驚いて静かになるだろうか。
 どちらになるかと考えながら待つコウェルズへとルードヴィッヒは一度だけ視線を向けてきたが、不満を一対一で告げる勇気はまだ無い様子で再び俯いてしまった。
 やれやれと目配せをしているジャックとダニエルも目に留めていれば、ジュエルはそう時間をかけずに出てきた。
 手には豪華な箱。中にあるのは恐らくミシェルが持たせたハンカチなのだろう。
 しかも恐らく、大会出場者のサポートの娘達にお礼として渡したハンカチとは別格の代物だ。
 いったいミシェルはどこまで想定してジュエルに手土産を持たせているというのか。しかも藍都特産のレースや刺繍の美しい逸品ばかりなのだから、抜け目のなさも流石と言える。
 元々世界で人気の藍都特産だ。サポートの娘達が自国で自慢すれば、さらに売れる事だろう。
「お帰り。じゃあ、重要な本題を話しておくよ」
 ジュエルが戻ったところで会話の続きだとばかりに話そうとすれば、ジュエルは自分が話の途中に抜け出したことを恥じるように少しだけ顔色を赤くしてしまった。
 微笑ましく見守ってから、改めて皆に向き直って。
 知らないのはルードヴィッヒとジュエルだけだが。
「昨夜、デルグ王が亡くなった」
 自ら口にしてみても、何の感情も湧きはしない。
 口調も日報を告げる程度の簡単なもので、ルードヴィッヒとジュエルは意味を理解できずに口をぽかんと開けていた。
「ラムタル城中にも連絡がされ始めている頃だ。大会関係者の中には私の正体に気づき始めている者もいるから、私はもう試合当日まであまりここから出るつもりはないが、君たちは外でも普段通り行動してほしい」
 驚いたままのルードヴィッヒとジュエルを置き去りにするように、さらさらと簡単にだけ話して終わらせようとする。
 もちろんそんな簡単にこの重要な本題が終わるはずもなく、先に我に返ったのはルードヴィッヒだった。
「あの、えっと…なぜ?」
 何を聞きたいのか、ルードヴィッヒ自身もわからない様子で、先ほどの不満や苛立ちも忘れて漠然とした何かを訊ねてくる。
「何を知りたいんだい?」
 首を傾げて訊ねて返せば、ルードヴィッヒはしばらく固まり。
「……本当なのですか?王が?」
 信じられないのだと、言葉の端々が震えている。上位貴族である二人は、幼い頃から何度も王とは言葉を交わしていた。
 それだけでも、他の者達より衝撃は大きいのかもしれない。
「…実は、デルグ王が亡くなったのは昨日じゃない。ファントムが城を襲った翌日なんだよ。恐らく心労が祟ったんだろうね。…隠していたのは、私がここに来た理由の一つだからだ」
 固まったままの二人の耳にどこまで届いているかはわからないが、本当の真実だけは隠して、コウェルズがラムタルに訪れた理由の一つだと伝える。
「…………まさか、ここで王位を?」
 先に理由に気付いたのはルードヴィッヒの方で、ジュエルはその言葉にパッと口元を両手で覆う。
「その通りだよ。リーン捜索が基本だけど、面倒な行事もついでに済ませてしまおうと思って」
 新たな王が他国との和平を願う外交行事を、ついでであると簡単に口にする。
「君たちは何か訊かれても、王の訃報しか聞かされていないと言えばいい。現にエル・フェアリアでも死去以外はまだ何も公にはしていないから。心労が理由だとはしばらく経ったらまた情報が届くけど、それだけだ」
 それ以外は何もない。必要もない、と。
「…本当なのですね?」
 ルードヴィッヒよりもジュエルの方がまだ冷静な様子を見せるのは、ジュエルにはそこまで王との思い出も無いからなのだろう。
 不安そうではあるが、動揺を見せるルードヴィッヒとは正反対なほどだ。
 ルードヴィッヒもそんなジュエルを見て、少し目を閉じてから落ち着く為にため息をひとつ吐いて。
「…コウェルズ様は…その、大丈夫ですか?」
 目を開けたルードヴィッヒが心配してくれる。
 ジュエルも、ルードヴィッヒと同様の視線を向けてくれていた。
 その視線の中にあるのは、デルグ王死去への哀しみなどではない。コウェルズを心配する純粋な憐れみだ。
「…そうだね。これは本心なんだけど、本当に何も思わないかな。…父は私とリーンには冷たい人だったから」
 思い入れなど何もない、と。
 それは父親から沢山の愛情を受けている二人には理解できないものなのだろう。それでもコウェルズの言葉が誇張でも何でもないことを二人とも知っているから、口は閉じられてしまった。
 思い返せば淡白な思い出ばかりだ。
 避けられ、逃げられ、会話の多くは侍女や騎士を介していた。
 リーンに至っては、命を奪えとクルーガーに命じていたという。
 たとえ本当に死因が心労だったとしても、コウェルズの心は今と同じく何も感じないだろうと思えた。
「だから、何も気にせず普段通りいればいい。周りが煩いのは仕方ないことだけど、君たちは最初に言った通りに頑張ってくれたらそれでいいから」
 最初に言った通りに。
 リーンの為に。
「…よし、じゃあ行こうか」
 黙った二人を立ち上がらせて、ジャックとダニエルがそれぞれを連れて行く。
 ジャックはジュエルと共にアン王女の元へ。
 ダニエルはルードヴィッヒと共に謝罪を受けに。
 ルードヴィッヒとジュエルは意外にもすぐに冷静になってくれて、そのことには少しだけ笑ってしまった。
 デルグ王は虹を司る七都の若者達にも見放されていたのだ。
 その事実はもはや滑稽とも思えないほどだった。

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