第87話


第87話

 ラムタル王城上空に浮かぶ飛行船、空中庭園の後方デッキは、ダンスホールとして使えるほど広く、ラムタル王バインドが考えた初期の設定では災害から救い出した民達を最初に受け入れる場となる予定だった。
 広さだけを考えた慎ましい作りとなるはずだった後方デッキは、今や支柱や手すり、細部の本当に細やかな装飾に至るまで計算し尽くされた華やかな作りとなっている。
 その中央に、見上げなければならないほどの巨大な龍が生み出された。夜の闇をさらなる闇で埋め尽くすかのような、巨大なシルエット。
 過程を見守っていたガイアは不安を隠せずに胸元で両手を握り合わせ、龍の前に立つロードに視線を移す。
 ロードより何倍も大きなその龍は、ロードの生体魔具だ。
 赤黒い身体、鳥とコウモリと蝶を思わせる三対の翼、何百本もありそうな巨大な鎖の尾。硬い鉄の鱗に覆われた龍の頭部には、いくつもの生物の顔が。
「…相変わらずデカすぎだろ…」
 ガイアの隣に訪れるウインドが、その大きさとおぞましさにに舌打ちする。
 後方デッキの壁際にはパージャと、彼に抱きしめられたミュズ、そしてルクレスティードもいる。
 ソリッドはアエルを椅子に座らせ、初めて見る龍に驚いて言葉を失っていた。
 無邪気なルクレスティードだけが嬉しそうに龍に駆け寄るが、触れようとした手をロードに掴まれていた。
 その掴み方に、振り払うような煩わしそうな感情は見えない。
「離れていろ」と、ロードが呟いたそれだけの言葉にも、優しさが垣間見える。
 ルクレスティードも普段の父とは異なる反応に戸惑いはするが、優しく掴まれた手を嬉しそうに見つめ、素直に頷いてガイアの元へと走り戻ってきた。
 ルクレスティードはガイアとウインドの間で少し興奮したように龍を眺め続け、そわそわと落ち着きがない。
 それも仕方ないだろう。ロードが龍を出したことは数える程度しかなく、ルクレスティードがその背中に乗せてもらえたのも二度だけだ。
 ロードが遊びで龍を出すはずもなく、その二度の体験はルクレスティードにとって貴重で興奮する思い出だろう。
 今回この龍が現れた理由は、クィルモアの墓に向かう為だ。
 ミュズの祖母であり、パージャを匿ってくれたメディウムの一族、クィルモア。
 魔術兵団に殺された彼女の遺体を埋めたのはガイアとロードで、その墓を暴きに向かうのだ。
 クィルモアには予知の能力が少し備わっていた。
 その能力で、いつかクィルモアの墓をロードが掘り起こすことになると生前に伝えていたという。
 クィルモアが死んだのはもう十年も前のことで、骨が残っていれば良い方なのだろうが。
「…パージャ、準備をしろ」
 ロードが振り返り、ミュズを抱きしめたままのパージャを呼ぶ。
 何の反応も見せなくなった、死んだようなミュズ。抱きしめていた彼女をさらに強く抱きしめて、小さな細い手を自分の口元まで持っていく。
 そして、噛んだ。
 皆の見る前で、パージャはミュズの手首からこぼれる血を舐めていく。
 ミュズの、メディウム家の隠された治癒能力。
 その血に癒しの力が宿るなど、誰が想像できただろうか。
 ウインドですら冷やかすことはせず恐ろしげに見守り、やがてパージャがミュズを抱いたままガイアの元に訪れた。
 口元に血の赤を貼り付けたまま、俯くパージャはガイアにミュズを託してくる。
 よくよく観察しなければ死んでいるのではないかと思えるほど静かなミュズは、小柄な見た目よりさらに軽く、ガイアでも抱き上げることが可能だった。
 恐らくルクレスティードよりも軽いのだろう。元々少食ではあったが、ミュズが意識を手放してからは、ガイアが生命維持の治癒を施すことしかできなくなっているのだから。
 まるで幼い我が子にするようにミュズを預かって、目も合わせないパージャに心配の眼差しだけを向ける。
 パージャはしばらくミュズのそばを離れなかった。それでもずっここのまま立ち尽くすことはせず、俯いたままロードと龍の元に向かって。
「…ガイア」
 名前を呼ぶのは、ロードだった。
 パージャと変わるように龍から離れ、ガイアを見つめて。
「…戻れるのは恐らく二日後だろう。クィルモアの墓で何か発覚すれば、すぐに知らせる」
 今までのロードなら、ガイアに何も言わず、何の説明もせずにとっとと去っていただろう。
 そして戻った後も、ガイアが訊ねても教えてくれるかどうかは半々だった。
 それが、言葉は少なくても説明をくれて。
 会話をしようとしてくれる。その努力が嬉しくて、少しだけ微笑んだ。
「…お花を準備できたらよかったのに…」
 ガイアは話したこともない、メディウム家の家族。クィルモアの墓に捧げるせめてもの花束を用意する時間もなかった。
 それだけが心残りで。
「全てが済んだら……皆の墓に行こうか」
 ロードからの提案。
 まさかそんな言葉が聞けるなんて想像もつかなかったから呆けてしまい。
「マリラとニケの墓も隣合わせている」
 告げられた名前に、思考がわずかに停止した。
 そして、涙はこぼれた。
 マリラ。ニコルを育ててくれたガイアの実の姉と、その夫であるニケ。
 皆の墓があるなんて、今まで言ってくれなかったのに。
「…どうして…」
 教えてくれなかったのか。いや、そんなことより。
「…お前を魔術兵団から守る為に、メディウム家の者達は王城の天空塔から降りた。その選択がどんな結果になるかも分かった上で。…そして全員、私が同じ土地に弔った」
 全員。
 それがどういう意味なのか。
「…それって、もうメディウムは他にいないってことなのかよ」
 呆然とするガイアの隣で質問を投げかけるウインドに、ファントムは静かに頷く。
 皆死んだのだと。生き残れなかったのだと。
 そしてその遺体を、ロードは。
「…あなたは…みんなを……」
 覚えている。ファントムがクィルモアの遺体を抱き上げ、土地を移動し、埋葬した場所を。
 多くの花々に溢れた穏やかな広野。朝も夜も、全てが金色に輝く美しく優しい場所。
 そこにロードは、クィルモアの遺体を丁寧に弔った。
 ガイアが見た埋葬はその一度きり。
 ロードは全員を、クィルモアと同じように弔ったというのか。
 たった一人で。
 誰にも告げずに。
 全てを背負って。
 涙がいく筋もこぼれ始めるが、ミュズを抱き上げていた為に拭うことができず。
「…帰ったら、詳しく話す」
 ガイアの代わりにロードが頬を指の腹で拭ってくれた。
 言葉を交わさずに見つめ合う時間は数秒ほど。
 背中を向けて龍の元に戻るロードに、ガイアは行ってらっしゃいの言葉も掛けられなかった。
 こんなにも一人で背負い込んでいるなど知らなかった。
 ガイアの為にメディウム家の者達が地上に降りたことは知っていた。でも、それ以降どうなっているのか、知りもしなかった。
 気にはしていたのに、聞かなかったのはガイアだ。
 その間ずっと、ロードは一人で彼女達を弔っていたのなら。
 ガイア達の見守る中で、ロードがパージャと共に龍に乗り上げる。
 その後すぐに三対の翼が動き、デッキから龍が浮いた。
「……ロード」
 ようやく呟けた言葉は、翼が空を打つ音に掻き消される。
 龍はしばらくの間デッキ上に留まり、やがて一瞬のうちに空高くへと舞い上がった。
 夜空に吸い込まれていく龍は、星々の煌めきをちらちらと隠しながら離れていって。
 互いに会話をしようと、ようやく胸の思いを伝えられた後だったのに。
 あまりにも対話をしなかった時間が長すぎた。その事実に、ガイアはまた涙を溢れさせる。
 その涙を拭ってくれる唯一の人は、もう肉眼では認識できないほど遠くに行ってしまった。

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