第86話
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「……具合はどうですか?」
アリアに訊ねられて、ベッドに座るアクセルは少しだけ情けなく眉尻を下げてはにかんだ。
「まだ変な違和感はあるけど大丈夫。さっきクルーガー団長にも言われたんだけど、目を酷使したんじゃないかと思ってる。治してくれてありがとう」
「変な感じが取れないならすぐ言ってくださいね」
場所は医師団の救護室で、アリアと護衛部隊は全員揃っており、ベッドに座るアクセルを皆で不安げに見守っていた。
アクセルの目が突然破裂したのは一時間ほど前だろうか。
何かが刺さったというアクセルの目を覗き込むセクトルの目の前で、両目が突然潰されるように破裂したという。
アリア達が呼ばれるままに一階に降りれば、そこにはうずくまって痛みを激しく訴えるアクセルがいた。
あまりにも痛ましすぎる長い絶叫。パニックに陥るアクセルをミシェルとクルーガーが何とか抑え、アリアがすぐに止血を行った。
止血程度ならすぐに済む。だがアリアは親しいアクセルの眼球がぐずぐずに崩れている状況に震え、すぐに治療を行えなかった。
ミシェルとニコラはクルーガーと共に血に塗れた床を清掃する為に残り、他の者達はアクセルをすぐに医師団の救護室へと連れて行った。茜と小鳥はセクトルについていき、真っ青になってしまったアリアには、ニコルとレイトルが落ち着かせる為に両側を囲い。
今まで何度も酷い傷跡を目にしてきたアリアでも、親しい人物の凄惨な傷跡を前に冷静に戻るには時間がかかった。
それでも何とか気持ちを落ち着かせ、奮い立たせて。
少し遅れて救護室に到着したアリアは、震える手に懸命に力を込めながら、アクセルの目を何とか治してみせた。
「……ほんとにありがとう。あのまま目が見えなくなったらって、すごく怖かったんだ」
パニックに陥った自身を恥ずかしく感じているのか、アクセルは俯いたままで。
そこへ、救護室のドアが開かれ、席を外していたリナトとヨーシュカが医師団長と共に戻ってきた。
この三人はアクセルの目が治癒魔術により回復した後すぐに少し部屋を出ていたのだが。
「アクセル殿、少し確認させてもらいますよ」
医師団長が近付き、アクセルの目の前に魔力で小さな光の玉を出した。
突然の明かりにアクセルは少し眉を顰めるが、医師団長が覗き込んでくるままに目を開け続けて。
「…見た目にはもう何もおかしな点はありませんね。フレイムローズ殿も魔眼を使用しすぎて目を酷使した時は違和感を訴えていたので、アクセル殿に残る目の違和感も、突然酷使したことが原因なのでしょう。原子眼については何もわかっていない状態ですから、調べられるかぎり調べてきます。明日まではひとまず、救護室で休んでください」
アクセルの目を確認して、光の玉を消して。
原子眼という言葉に、アクセルとセクトル以外は顔を見合わせていた。
「ではリナト団長、共に調べていただきたいのですが」
「アクセルは大丈夫なんだろうな?」
「今のところは、としか言えませんよ」
狼狽えながら医師団長に訊ねるリナトの様子は、完全に孫を心配する祖父のようだ。
「クルーガー達にはこちらから報告しておこう。…小僧、お前の目が落ち着いたら、また糸について聞かせてもらうぞ」
「え、あの……でも」
ヨーシュカはとっとと部屋を出て行ってしまい、リナトと医師団長もその後に続いて。
「今のが…魔術兵団長…」
レイトルの呟きは、ニコル以外の誰もが思ったことだろう。まさかこんな所で、多くの者が存在すら疑うほど秘密の多い機関の長に会うなど、と。
「アクセル、何か地下で見たのか?糸って?」
共に地下には降りなかったセクトルがヨーシュカの残した糸という言葉に反応するが、アクセルも首を横に振って。
「ほんの一瞬、何か変な糸が見えただけなんだ。それ以外は何も…短剣と同じ呪いも見えなかったし」
アクセルが目にしたのは、地下深くから伸びる奇妙な闇色の糸だけだった。だがそれは大量にもつれ絡まり、一本はヨーシュカの心臓を貫いていて。
「その糸がアクセルさんの目を…あんな風にしたんでしょうか?」
治癒の為とはいえ、アリアには酷すぎたアクセルの怪我。少し思い出したのかアリアの顔色がまた少し白くなるから、レイトルが温めるようにその肩に触れてやっていた。
「どうだろ…それはわからないけど…目が見えなくなる前に、男の子を見たんだ」
「…男の子?」
「……闇色の髪の子だった」
闇色の髪。それが表すものに、救護室内がシンと静まり返る。今のエル・フェアリア城内で、闇色の髪が示すのは。
「闇色って…まさかファントムの?」
死んだとされていたリーン姫を救い攫ったファントムと、その仲間達。
だがアクセルは、また首を横に振った。
「ほんとにわからないんだ。その子と目が合った途端に……その…見えなくなったから」
断言するには一瞬すぎた。そして、突然の眼球の破裂に全ての思考が奪われすぎた。
アクセルに明言できるものは、今はないのだ。
「……原子眼、と言っていましたね。その眼と何か関係あるのでしょうか」
誰もが初めて耳にした言葉。最も知識に富んだモーティシアが考え込むなら、誰にもわからないはずだ。
「モーティシアは何か知らないのか?原子眼って」
「いえ、聞いたこともありませんね…」
「だよなぁ…知ってたらそんな顔してないか」
トリッシュの軽口も、アクセルが負傷した今はどこか落ち込んで聞こえた。
「俺も今日初めて原子眼って聞いたし…自分がそんな眼を持ってるなんて言われてもわからないし…」
唯一ベッドに座ったアクセルは、声を沈ませ、俯いて。
「…みんなが見えてるものと俺が見えてるものって…ほんとに違うのかな」
信じられないというよりは、信じたくないと言いたそうな口調だった。自分だけに与えられた力を特別だと思えないのは、大怪我をしたことによる不安が勝るからなのだろう。
「それは分かりませんが…時おり、あなたの目に何が映っているのか疑問に感じた事はありましたね。今思えば、もう少しその疑問を深く考えるべきでした」
「えぇー…やっぱ俺ってなんか変だったんだ」
落ち込んだ情けない声に、ようやく少しだけ皆に笑顔が浮かんだ。
「原子眼についてはリナト団長と医師団長に任せておきましょう。デルグ様の事についても、私たちが頭を働かせる必要はありません。アクセル、あなたは明日までゆっくり休んでください」
突然すぎる能力。城内に溢れる国王の死の混乱。それは今は考えないようにして。
「それとレイトル、話したいことがあると言っていましたが、今は私たちしかいませんので、ここでも大丈夫ですか?」
「ああ、そうだね」
今日中に時間を取ると話していた件について、邪魔者がいないこの状況は好ましい。
「ビデンス殿が何か教えてくれたとか。改まるような話ですか?」
「…治癒魔術師の扱いについて色々と教えてくれたよ。今と過去で、あまりにも違いすぎる。そしてその違いを全て、アリア一人に押し付けすぎだとね」
レイトルがビデンスから教えられたという内容は、治癒魔術師の一族であるメディウム家がいた時代を知らない全員にとってかなりの朗報だった。
行動制限などの自由度の低さは今まで仕方なかったとしても、アリアが訪れるまで治癒魔術師を育てようとしなかったのは確実に国の落ち度だ。
他の多くの国々のように、魔術師を特別に訓練して治癒魔術の力を会得させるべきだった。
だがそれをせず、ようやく戻ったアリア一人に全てを押しつけて。
レイトルがビデンスからの話を教えてくれた後、皆の視線は無意識にモーティシアへと向かっていた。
これからどうするのか。何から行動していけばいいのか。
「…幸い、アリアはしばらくミモザ様のそばで治癒魔術の教本の制作を始めます。その時に、ミモザ様に掛け合いましょう。エルザ様だけでなく、優秀な魔力を持つ人物を治癒魔術師に育てる為に」
ミモザが先ほどアリアに命じた教本作成を、好機として。
「お母さんの残してくれた本はほとんど覚えてるから、本を作るのはすぐ出来ると思います。…でもあたしに教えられるでしょうか…エルザ様でも独学の予習があったから何とか教えられたけど…」
「手探り状態になるのは仕方ないよ。それもアリアのせいじゃない」
不安がるアリアの肩を優しく抱きながら、レイトルの微笑みはどこまでも優しかった。
「同感だな。アリアがもっと自由に外出できるようにする手筈は俺とモーティシアでリナト団長を説得するか」
「そうですね。まあ今回の外泊が無事だったのですから、そこまで難しいことはないでしょう。外出自体は我々が無意識に避けていたところもありますし」
「それもそうだな。むしろ積極的に外出するようにしたら、周りもそれが普通だって思うようになるかもな」
モーティシアとトリッシュがさらさらと今後を話していき、展開の速さにアリアとニコルが目を合わせる。
「…そんなに簡単に上手くいくでしょうか…」
「今は俺のこともあるから、余計に反発喰らわないか?」
悪目立ちすることになれば、今のニコルの評判の悪さからさらに酷いことになるのではないかと不安視するが、それも理解している様子だった。
「簡単に進むとは思っていません。想像もつかない障害は今後も数多く出てくるでしょう。…ですが、やらなければならないことですから」
いっそ爽やかなほど笑いながら、当然起こりうる未知の難題も受け入れて。
「モーティシアは特に力を入れて進めていかなきゃダメだろうな」
屈託のなかった笑顔に鋭い眼差しを追加したのはトリッシュだった。
モーティシアを名指ししたのは、今までのことがあるからで。
「…治癒魔術師の次代の確保。それがモーティシアが命じられたことなんだったら…これも次代の確保につながることだ。アリア個人の幸せを本当に選んだっていうなら…出来るよな」
まだ完全には信用していないと暗に示して、
「当然、俺も全力でサポートするぜ」
信頼も同時にするとまた笑って。
「…そうですね。時間のかかる取り組みにはなりますが、こちらの方が確実に治癒魔術師を獲得できますから」
まだ完全に信じてもらうことは無理だとモーティシアも理解している声に、困惑の表情を一番強くしたのはアリアだった。
そんなアリアを見ながら、ニコルは少しだけ笑って。
「俺なんかより、トリッシュの方が副隊長に向いてるんじゃないか?王族の護衛と治癒魔術師の護衛は訳が違いすぎる」
ただ護衛としてそばに付くことが大半だった王族付きと違い、治癒魔術師の護衛には書類作業だけでなく患者の整理からアリアの教育から、護衛以外の仕事の方が大半だ。
「確かに、本来の護衛だけの意味なら私たち騎士で済むんだろうけど、やるべきことが山積みというか、勝手が本当に違うからね」
レイトルも苦笑いを浮かべ、隣ではセクトルが茜に髪をつつかれながら同意の表情を浮かべて。
「え、でも護衛仕事と書類仕事で基本分けてるから今さらじゃないの?ニコル達にさせても時間かかるだけだから筋肉だけ提供させてようって話だったし」
スコンと口を割るアクセルに、モーティシアとトリッシュが一気に視線を明後日の方へと向けた。
「…何だそれ?」
「……薄々気付いてはいたけど、筋肉だけ?」
「…………あれ?」
レイトルとセクトルの不穏な口調に、アクセルが首を傾げる。
「え、どういうことですか?」
アリアは訳もわからず全員を見回す中で、ニコルも気付いた様だった。
「つまり、俺は本当にお飾りの副隊長だったってわけか」
少し肩の力を抜くように呟いて、数秒経ってから思わず吹き出して。
「アクセル!口滑らすなよ!!」
「あれ言っちゃダメだったの!?」
「ちょっと、トリッシュさん!アクセルさんはまだ絶対安静です!!」
アクセルの首を絞めにかかるトリッシュをさらにアリアが慌てて止めて、今度こそニコルが腹を抱えて大笑いした。
「まったく……誤解しないでくださいね。適材適所というものがあるだけです」
「脳筋だから君たちの言いたいことは全部理解できないけど、それ何のフォローにもなってないからね」
一応言葉を付け足すモーティシアだが、レイトルの微笑と言葉の棘は肌にちくりと刺さり続けるものがあった。
「ニコル、そろそろ笑いを抑えなさい……本題に入りますが、今までの話をまとめるなら、この人数では無理がすぐに来ます」
「実質三人だからね」
「…レイトル…今は許してください……護衛の数はあなた達だけで足りるでしょうが、今後治癒魔術師を増やそうと思うなら……ニコル!!」
いまだに床にうずくまって笑い続けるニコルに、モーティシアがさすがに頭を引っ叩く。
「わ、悪い…ははっ……なんか、気が抜けたんだ」
その笑い方は自暴自棄からくるものではなく、ただ純粋にツボにハマったような笑いで。その笑い方に、なんとか真面目な話で場を誤魔化そうとしたモーティシアもつられて少し笑ってしまった。
「…本当に誤解しないでくださいね。あなた達が不要というわけではありません。副隊長という立場も、アリアの護衛として先陣を切ってもらう為にもあなたが適任なのですから」
「わかってるよ…適材適所、なんだろ?」
ようやく笑いを少し堪えて、ニコルはその場に立ち上がる。
「俺たちは治癒魔術師を守る為の部隊だ。目に見える護衛として今を守るのが俺たちで、治癒魔術師の未来まで守ってくれるのがお前らなんだろ」
アリアの為に、今後増えるだろう治癒魔術師達の為に。
未来を縛られない為に。
「…ええ。幸福な未来を掴み取りますよ」
最善を尽くすのではなく、必ず手に入れる、と。
「その為には目の前のことから何とかしていかなければなりませんがね。アリアの夫候補のこともそうですし、ニコルのこともしばらくは続くでしょうし」
さすがに逃げられない目先の山に、すこし緩んでいた空気は少しだけまた張り詰めた。
「ニコルとエルザ様の件については…時間に任せましょう。アリアの夫候補からミシェル殿を剥がすことは…」
「先にひとつだけ、いいか?」
数多く存在する話し合いの中で、まず話し合っておきたいことを口にするモーティシアを、ニコルは真剣に止めて。
何を話すのか、気付いたアリアとレイトルだけが一瞬だけ視線を合わせ、そしてニコルを見守った。
「エルザ様の件でしたら、ここで気にする必要は」
「そうじゃないんだ。…悪い、もっとやばいことになるかもしれない」
視線を俯かせ、そして戻して。
「…エルザ様はまだ俺とは別れてないつもりなんだろうが…俺は…」
静まり返る室内で、空気が冷たく凍り付いていくような感覚の中で。
「…俺にはもう、別の女がいる」
その告白は、誰の耳をも疑わせた。
「…………は?」
誰の口から漏れた疑問の声だったのか。
わからないほどに、アリアとレイトル以外は同じことを考えただろう。
いや、考えも出来ないでいるかもしれない。
「…別の女って何だよ…」
ようやく訊ねてきたのはセクトルだった。
共に姫達を守ってきた分、セクトルはここにいる誰よりもその言葉を重く受け取ったはずだ。
「ニコル!」
「クズなことしてんのはわかってる!…悪い、でもその子が俺を救ってくれたんだ…」
詰め寄るセクトルをレイトルが引き剥がしたことで、レイトルも何かしらの事情を知っているとセクトルは気付いた様子だった。
眉間に皺を刻みながら、それでもニコルの言葉を待ってくれて。
「前に俺が薬盛られた時あっただろ?その時に助けてくれた遊郭の子と、何度か再開したんだ。その子に惚れた」
誰もが唖然とする中で。
「まさか…テューラ嬢、ですか?」
モーティシアは面識がある遊女。
「ああ…エルザ様の件が片付いてないが…その子を独占で一年買い占めた。…一年後に一緒になるつもりだ」
ニコルの言葉の終わりと同時にセクトルは胸ぐらを掴みかかりにいき、寸前でまたレイトルが止める。
「止めんなよ!!」
「落ち着け!!」
「ニコルとエルザ様の二人のことに口出しするつもりはない!!だけどな、今の状況で他に女作るのは別の話だろうが!!何やってんだよ!!」
軽薄に映っただろう。本能のままに軽々しく行動していると。セクトルだけでなく、トリッシュやアクセルの眼差しも険しいものに変わっていた。
モーティシアは考え込むように無言を貫いて。
「なんで…何で今なんだよ!!せめてエルザ様の気持ちが落ち着いてからだろ!!」
「わかってる…でも止められなかったんだ…」
「お前…そんなやつだったのかよ!」
セクトルが暴れるから、頭上の茜は部屋の隅に避難して。その隣に小鳥が不安そうに向かって二羽で様子を窺ってくるが、セクトルの怒りは収まりそうにはなかった。
「セクトル落ち着け…私からも補足させてくれないか?」
一触即発の雰囲気を悟り、ニコルとセクトルの間に入るレイトルが口を開く。
「お前に関係ないだろ!!」
「関係はないさ。…でもビデンス殿からメディウム家の男達の本質は聞かされた。…ニコルの選択は今は誉められたものではないだろうけど…仕方のない面もあるんだ」
メディウム家という単語に、誰もがレイトルに視線を向ける。
「メディウム家は治癒魔術師の女性達だけを指す言葉じゃない。メディウム家に産まれた男性達もいたんだ。彼らは治癒魔術こそ持たなかったけど…心に決めた女性を見つけると衝動を止められなかったらしい。…恐らく治癒魔術を持つ子供を早く産ませる為に」
メディウム家と聞けば誰もが女性ばかりを思い浮かべるが、男性も確かにいて。
ビデンスはその男達の行動をよく覚えていたのだと。
「ニコルの行動は完全にメディウム家の男達の性質によるものだとビデンス殿から今朝聞かされたんだ…思いを寄せる女性から引き離されれば、暴れる可能性も少なくない、と」
昨夜から今朝までテューラといたことを知るのはアリアとレイトルだけだが、そこまで詳しくは話さないまま。
「…俺が?」
「ビデンス殿が見てきたメディウム家の男性達はそうだったみたいだよ。それだけ本当に、その女性のことを愛してしまったんだね」
ニコルも驚いた表情を隠そうとしない。
「理性も無いんじゃ、ただのケモノと同じじゃないか!」
セクトルはまだ納得できない様子を見せて。
「だとしても…私たちは治癒魔術師を…メディウム家を守らなければならないなら、ニコルの選んだ女性も守るべきなんじゃないかな。ニコルの魔力は膨大だ。もしその女性が平民であれ身籠ったなら…アリアのように国に捕われる可能性が高い」
愛し合う先に存在する結晶は、あまりにも存在価値が大きすぎた。
「…このことってさ…他に誰が知ってるかわかる?」
ぽつりと呟くように訊ねてきたアクセルの言葉に、ハッと皆が反応する。
「…ミモザ様はすでに知っていた。上にはもう知られてるんだろう…」
情報が届くのはあまりにも早い。
「三団長以下にはまだ知られてはいない。全てはコウェルズ様が戻り次第だとミモザ様には言われたんだ…」
ニコルがミモザと話した情報。レイトルがビデンスから与えられた情報。
モーティシアが考え込むように少し頭を抱え、セクトルは怒りを抑えるように腕を組んで茜のいる壁に歩いていき、ドンと強く背を預けた。
「…エルザ様を説得できていない状態で最悪なことをしたのはわかってるんだ。だから俺はせめて、エルザ様がわかってくれるまでは黙っておくつもりでいる」
「当たり前だろ!!」
セクトルの怒声がバリバリと窓を震わせるようで。
「…テューラ嬢のことを上がすでに掴んでいるというなら、もう仕方のないことです。私達は早急に新たな治癒魔術師を迎える為の行動に移りましょう。何が必要なのか、アリアの教本制作にしても、人材にしても、まずはそこから詰めていきますよ。国が夫候補のことなど後回しにするほどに、こちらに力を入れます。一先ずはコウェルズ様が戻るまでに、コウェルズ様を納得させられるだけの材料を揃えましょう」
まるでそれ以外はなるべく考えないようにするほど、モーティシアの声は張っていた。
眉間の皺の深さからも、ニコルの件が頭を抱えるほどのことなのだと察してしまう。
それほどのことをしたのだ。だがそれほどのことをしてでも、ニコルにはテューラが必要だった。
「あたしが作る本は、お母さんがくれた本を軸にすればすぐに完成すると思います。ただ元々治癒魔術を扱えるあたしや、予習があったエルザ様だから有効な本になる可能性が高いので…」
「完全に一からの教本としては難しいのですね。なら最初の段階は他国の教本を軸にしましょう。…トリッシュ、今日中にジャスミン嬢に書物庫内の治癒魔術に関する本を集めるよう頼んでください。全てミモザ様の応接室に持っていくように」
「はぁ!?今日中に!?」
モーティシアの素早い命令にトリッシュは慌てるが、
「なら明日の朝までにお願いします。それ以外は考えなくてよろしい」
今までになく強い口調に、言葉を詰まらせながら頷いていた。
「アクセルはとにかく目を休めてください。アリアとニコルはアクセルと共にここにいてください。治癒魔術の訓練に関する大まかな流れを明日までに組むんです」
「え、俺も一緒に考えた方がいいんだよな?」
「目に負担がかかるようなら休んでください」
次に命じられたアクセルはすぐに考え込む様子を見せて、アリアとニコルは展開に付いていけずに顔を見合わせる。
「…セクトルはトリッシュを手伝い、レイトルは私に付いてきてください。治癒魔術師を増やす件について話す為にリナト団長とクルーガー団長の元に向かいます」
モーティシアの言葉にトリッシュは頭を掻きながら部屋を出ようとし、アクセルは手近に紙とペンを用意する中で、困惑するのは騎士三人だ。
「待って、まだ内容も定まっていないのに」
「大まかにはすでに考えました。後はだらだらと考え続けるよりリナト団長達の考えを借りながら枠を作ればいいだけですから、移動がてら話します」
詳しい説明を求めるレイトルを、モーティシアはさらりと躱す。
「万が一ミシェル殿とニコラ殿が来た場合は、ニコラ殿にここに留まるよう頼み、ミシェル殿には書物庫に向かってもらってジャスミン嬢の手伝いをさせてください。では明日の朝にミモザ様の応接室で会いましょう。解散」
早すぎる展開の中でトリッシュはセクトルを、モーティシアはレイトルを連れてとっとと出て行ってしまう。
説明は移動がてらと言ったモーティシアがここにいない以上、ニコルやアリアにはモーティシアの詳しい考えはわからないままで。
「…久しぶりに見たよ。モーティシアの速攻」
モーティシア達がいなくなった後で少し肩の力を抜きがてら呟くアクセルは、ため息をひとつ吐いてから改めて紙にペンを走らせていく。
いったい何を書き始めたというのか。
「速攻って?」
「モーティシア、魔術師団の中でもかなり頭の回転早い方なんだ。集中したらすぐに答えとその最短を見つけて指示しつつ動くから、あの状況になったらみんなで速攻って呼んでるんだ」
そう説明してくれるアクセルも、背中を丸めてペンを走らせることに集中して。
「何を書いてるんだ?」
「治癒魔術師を一から育てる為の大まかな流れ。何が必要になりそうか、どの段階でどれだけの日数使うか、必要な人員、とにかくざっくり書いてみるから、アリアは治癒魔術の訓練がどんなだったか、子供の頃からのを最初から思い出して」
モーティシアの変化を教えてくれるアクセルも普段の頼りない様子はなく、先ほどの大怪我を忘れたかのように集中する姿は真剣そのものだ。
「…アクセルさんは目を休ませて、今はあまり無理しないでください。あたしと兄さんで考えてみますから」
「いや、俺にも考えさせて。…正直今ちょっと、あんまり目のこと考えたくないんだ」
動き続ける手を休ませることなく、アクセルは少しだけ眉尻を下げて笑う。
「…怖いからさ」
ポツリと呟く本音。
バタバタと騒がしい中で、自分の目のおかしな能力のことも片隅にしまい込んでおきたいと。
突然両目が破裂したのだ。原子眼などと初めて聞かされた何も知らない能力が引き起こした大怪我だと言うなら、アリアもニコルもアクセルのように怯えるだろう。
「……まあ、とにかくさ、モーティシアが速攻状態になったら、俺たちも及第点取れるくらいに考え纏めとかないと後でめちゃくちゃ小言言われまくるから、一晩使ってまとめていこうよ」
わざとらしく話題を逸らして、少しだけペンを止めて。
顔を上げたアクセルの目に、怪我の痕跡はどこにも見当たらない。
だというのにその表情は、怯えを消せないかのように憂いを帯びていた。
「アリア、今日はほんとにありがとう。お礼に、モーティシアが絶対に納得するくらいのまとめ作るよ」
再びペンを走らせていくアクセルを見守ってから、アリアとニコルも自分達に課された仕事を完璧にこなす為に少しだけベッドへと近付いた。
アクセルは恐ろしかった怪我を忘れる為に、ニコルは負い目を償うように。
無理やり真面目に取り組もうとする二人を、アリアはただ不安げに見守ることしか出来なかった。
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