第86話
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幼少の頃から、物はよく見える方だった。
遠くのものが見えるわけではない。だが近くにあるものが、より鮮明に見えていた。
小さな昆虫の被毛や、衣服の繊維も細やかに。
それだけではない。時おり目の前を通る光の筋や、黒ずんだ何かが流れていく様子も、波打つような風の淡色もアクセルには幼少期からの日常だった。
私達にも見えるよ、と両親も空にかかる防御結界の虹を指さして言うものだから、魔力の高い者はみんな見えるのだと思っていた。
時おり見えていた光の筋は色の異なるいくつもの輝きが混ざり合っており、それが術式なのだと知ってからは解読が趣味になっていた。
君は魔力が高いから、と王城の魔術師に言われた時、自分も魔術師団に入りたいと思ったのだ。
騎士団よりも狭いと言われる魔術師団へ続く門。
その門は広すぎる扉を開けてアクセルを歓迎してくれた。
門の向こう側にいる仲間達は、自分と同じような世界が見えているのだと信じて疑わなかった。
「ーーそれで、術式の波長はどんな色で見えるんだ。形は?触れる事はできるのか?呪いとの違いはどうなんだ?」
王城地下の幽棲の間へと続く長い階段を降りながら、隣に張り付いて質問を矢継ぎ早に繰り出してくる見知らぬ老人に、アクセルは完全に萎縮していた。
魔術兵団長ヨーシュカだとリナト団長から教えられたが、吐息のかかるほどの距離の近さが恐怖でしかない。
共に地下を降りていくのはリナトと騎士団長クルーガーの二人で、セクトルとミシェルは扉の前で待機を言い渡されてしまった。
「いい加減にしろヨーシュカ!!本当に原子眼かどうかもわからないんだぞ!!」
「何をいう。波長という形で見えているとこの小僧が言ったのだ。しかもあの短剣と同じ波長をここから見たと言うなら、原子眼の能力としか思えんだろう」
リナトが庇うようにヨーシュカから引き剥がしてくれるが、ヨーシュカは構わずアクセルの背後に張り付いた。
魔眼や千里眼は聞いたことがある。だが原子眼など、書物でも読んだことがなかった。
「あの…原子眼とは、どういったものなんですか?」
突然自分が原子眼だと言われても、そうなんだ、と受け入れられるわけもなくて。
リナトはクルーガーやヨーシュカと視線を交わすと、困ったように眉を顰めてしまう。
「…それが、ワシらにも分からんのだ。今まで原子眼の持ち主が見つかったという話も聞かん。……ただ、古代文字で書かれた非常に古い文献に記されていたんだ。人の身体の最小の部位まで鮮明に見据えることのできる目がある、と。しかもそれは、魔力や呪いまではっきりと目にすることができる、とな」
御伽噺のような、不思議な能力。
「…魔眼とは別物なのですか?」
「似たようなものなのかもしれんな。魔眼と違い、他者に介入する事はできんが」
「小僧、アクセルと言ったな」
リナトの言葉を遮ってまたヨーシュカが間近に迫ってくるものだから、恐怖が背筋を舐めた。
魔術兵団というだけでも不気味だというのに、リナトやクルーガーとは醸し出す気配が異様すぎて余計に恐ろしく感じる。
「は、はい…何でしょうか」
「どうだ、片目を売らんか?痛くはせんし、悪いようにもせんぞ?」
嬉々とした表情で訊ねられて、今度こそ本気で固まった。ヨーシュカの口調は冗談を言っているようにも思えない。
「ヨーシュカ…貴様……」
リナトも本気で怒り出しそうになっており、救いを求めてクルーガーに縋る目を向けた。
「はぁ…アクセル殿、何も気にする必要はない。魔眼や千里眼とは違って原子眼は本当に何もわかっていない未知の能力だ。君が見えるという術式や呪いについて今後調べることになるだろうが、目を奪うことはないし、管轄も魔術師団と医師団だけだから安心しなさい」
魔術兵団は関係ないと断言してくれる声が心強いが、ヨーシュカの獲物を狙う目は緩んではいなかった。
「あの…本当に皆さんには見えていないんですか?」
自分だけにしか見えていないなど思いもしなかった。
「空にかかる防御結界は他国の侵入を防ぐために、魔力を持つ者にあえて見えるような術式も組まれている。他にも強力な術式なら何かしらの形で目には映るが…呪いは魔力とは完全に別物だ」
クルーガーの説明は、どこか緊張するような様子も窺える。それはおそらく、未知の能力に対する畏怖もあるのだろう。
「…小僧、呪いとはどういう風に見えるものなんだ?」
「え……と、黒ずんだシミみたいな感じでしょうか…そのシミのひとつひとつに苦しそうな顔があって…それが波長…というか、波動というか…音の振動と似た感じで頭の中に見えるんです。音って、聞こえないほどの低音や高音になっても振動は見え続けるじゃないですか。そんな感じで」
「音も見えているのか!?」
何とか説明しようとして、リナトが驚愕の声を上げた。
「え……え?音って見えるものじゃないんですか?」
思わず訊ね返してしまい、三人の眼差しが一気に険しくなった。
「…リナト。この小僧は危険かも知れんぞ。一般と特殊の区別もついておらん。よくこんな状況の者を気付かず放置しておったものだ」
ヨーシュカの声にも緊張が含まれて。
「…ま、待ってください…だって私にはこれが普通で…」
「その普通は、多くの者達にとって有り得んものだ。…リナト、悪い事は言わん。一度こちらに小僧を預けんか?」
「そこまでにしておけ。…今はとにかく、一度幽棲の間まで降りよう。そこであの短剣と同じ何かを見つけられたなら…ヨーシュカ、お前は原子眼に関わってはいられなくなるぞ」
いつの間にか止まってしまっていた足を、クルーガーが全員の背中を押すように進めさせて。
「あの短剣と幽棲の間に何か関係があるのでしょうか?」
重すぎる空気が恐ろしくて話題を逸らすように訊ねてみたというのに、まるで本質を隠すように誰も口を開きはしなかった。
階段を降りる度に重くなる空気に緊張しながら、ようやく辿り着く幽棲の間。その巨大な扉を開けたのは、クルーガーとヨーシュカだった。
「さあ、入ってみなさい。…何か見えたらすぐに言うんだ」
リナトに背中を押されながら、扉の向こうに一歩だけ入り、何もない闇の中を見渡す。
ただの広間で、明かりもないのでどこまで広いのか検討も付かない。
本当に何もない場所だった。
静かで、音の振動も光の波長も見えない。
そっと手のひらを幽棲の間に伸ばしてみて。
体温を保つ自分の腕がじわりと光っている以外、何も見えなかった。
いくら光の届かない地下だとしても、ここまで何も無いのも珍しい。
「…なにも見えません…今だけかも知れませんが、あの短剣と同じ呪いの波長も見つかりません」
しんと鎮まりかえる空間に、アクセルの声がさざなみのように広がって消えていった。こだまとして返ってくる音もないことに、ゾクリと悪寒が走る中で。
「小僧、さらに地下深くを見る事はできるか?」
隣に訪れたヨーシュカが、床を指差した。
「……やってみます」
千里眼の持ち主は透視の力も持つと聞くが、アクセルは透視など出来たことはない。それでも視界に魔力を込めて集中を続けていく。
未知の力だというなら、何かしら見えるかもしれないと自分に少しだけ期待しながら。
何もないただの空間。光もないせいで床すら見えない場所をひたすら見つめて。
「……?」
地面に何か蠢くものが見えた気がして、アクセルは眉を顰めた。
「ーーーー」
微かに口を開き、音を飛ばす。
誰にも聞こえないほどの高音が、薄墨色の光を放って床にぶつかり。
「ーーうわ!」
一瞬見えたおぞましい物体に、思わず身を仰け反らせた。
「どうしたんだ!?」
慌てて背中を庇ってくれるリナトに縋って。
「闇色の……糸」
たった一瞬ではあるが、見えたものは糸だった。
絶望的なまでの闇色が絡まった、大量の糸。のような何か。
「…あなたの体にも巻き付いてます…」
視界から消え去るよりわずかに早く見えたのは、その糸の一本がヨーシュカに絡みつき、胸部に潜り込んでいる様子だった。
ヨーシュカが強く不快感を表情にするが、見えた真実はどうしようもない。
そしてヨーシュカも、まるで心臓を庇うように自らの胸部に手を置いた。
「アクセル、他には何か見えたのか?」
「えっと……もう少し見てみます」
本当はこれ以上見たくなかったが、恐怖心よりわずかに好奇心が勝り、もう一度幽棲の間に目を凝らして。
「ーーいたっ…」
突然ちくりと両目が痛み、両手のひらで瞼を覆った。
「どうした!?」
「目が…何か……」
ちくちくと、瞼を開けようとする度に目が痛んで涙が溢れてくる。
「見せてみろ」
リナトに手を引かれて幽棲の間を出され、階段をゆるく照らす光の下で上向かされて瞼を指でこじ開けられた。
「いたい…団長……」
強引な手に痛みが増すから、情けない声が漏れて。
「……ええい、老眼でよくわからん。クルーガー、見てやってくれ」
すぐに手は離れたが、今度はクルーガーの方へと背中を押されてしまった。
「…痛むか?」
「はい…何か刺さったみたいな感じです」
「酷使しすぎたのだろう。もうやめておけ」
クルーガーは目を覗き込むことはせずにいてくれて、これ以上は仕方ないと幽棲の間の扉を片方閉める。
そうすればヨーシュカも無言のまま出てきて扉を閉め、まるで何事もなかったかのようにただの巨大な扉があるだけになった。
幽棲の間の扉からは何も感じはしない、見えるものもない。
階段を上がるが、痛む目のせいでうまく足場が見えない。
リナトとクルーガーがフォローしてくれる中でゆっくりと階段を登っていき、その間も何粒かの涙を頬に流し、その度に親指の腹で拭った。
「下手に触るんじゃないぞ。地上に戻ったらアリアに見てもらおう」
「はい…」
ちくりちくりと嫌な痛みのせいで、うまく目を開けていられなくなる中で。
「……小僧、見えた糸はどこに繋がっていた?」
ヨーシュカに問われて、たった一瞬の出来事を思い出した。
「少ししか見えていませんが…絡まるみたいに床から出てて…一本はあなたの胸に、他はたぶん、散らばるみたいに多方面に伸びていました」
闇色のおぞましい糸。
それは。
「それは呪いだったか?」
問われて、迷って。
「…すみません、そこまではっきり確認できたわけじゃなくて……」
呪いと言われると納得できるほどのおぞましさだ。
だが、アクセルが見た呪いとは、何かが異なる。
もちろん術式などでもなくて。
もっとはっきり見ることができれば良いのだろうが、今の目では無理だ。
「……まぶしっ…」
到着する地上の明かりが傷付いた目に染みて、思わず両手で強く抑えてしまった。
「こら、抑えるな……」
その手をリナトに剥がされて、ゆっくりと光に目を馴染ませていく。
「セクトル、彼の目を見てやってくれ。何か刺さっているかもしれない」
クルーガーが待機していたセクトルを呼びつけ、リナトと変わるように目の前にセクトルが来てくれた。
「どうしたんだよ…」
「たぶん棘みたいなのが刺さったみたいで…今も取れないんだ」
セクトルに誘導されて、恐る恐る目を開いて。
「…私は医師団を呼んできます」
「いや、上階にアリアがいるならそちらの方が早いだろう」
ミシェルが医師団を呼びに行くのをリナトが止めるのを、痛みで閉じようとする瞼の隙間から確認した。
視界が涙で滲むから、うまく確認できない中で。
ふと。
「ーーえ…誰?」
ふと、脳裏に突然少年が見えた。
「…アクセル?」
目の前にいるセクトルではない。
もっと幼い、闇色の髪の少年。
誰、と訊ねたアクセルの声に反応するように、少年は前髪に隠された眼差しをアクセルに向けてーー
パン、と
何かが割れて弾ける音と、水飛沫。
「ーーえ…」
一拍置いて、視界が赤い闇に染まった。
凄まじい痛みに襲われたのは、その直後のことだった。
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