第86話
第86話
「父は…エル・フェアリア国王が亡くなったのは昨夜ではありません。ファントムが訪れた後すぐのことです」
他者の耳を遠ざけた後のミモザの説明に、アリアは一瞬頭の中が真っ白になった。
今朝突然聞かされたエル・フェアリア王の死に、ハイドランジア夫妻と約束していた食事も全て白紙にして戻ってきた王城。
両親の形見も荷物も何もかもガウェの個人邸宅に置いてニコルと共に戻ったアリアは、王の死が自分のせいではないと言われても自分を責めずにはいられなかった。
だが、王の死はもっと以前だったと告げられて。
「…あ、の……でも、その時にあたしが力を使っていれば…」
思考能力の戻った頭が真っ先に浮かんだのは自分の責任ではないという安堵で、その思いがひどく罪悪感を苛むから、無意識に自分の非を探した。
たとえ昨夜ではなかったとしても、アリアがいれば救えた命だったかもしれないのに、と。
それも、少し俯いたミモザが小さく首を横に振って。
「…王の死は、誰にも救えるものではありませんでした…お兄様が討たれたのです」
ポツリと、かすれた小さな声で。
討たれという言葉の意味が理解できずにまた思考が停止する。
誰が討った?
ゆっくり考えて、お兄様という言葉がコウェルズ王子だけを指すと無意識のように理解して。
「…うそ」
信じられるはずがない真実に、自然と拒絶の言葉は溢れた。
「……本当です。ファントムがリーンを攫った翌日、それでも表に出ようとしない父を、父の代わりとなる為にお兄様が…討ちました」
「え…でも、そんな…そんなことまでする必要…」
「あったのです。リーンを救う為に…リーンを死んだと偽って捕え続けていた魔術兵団を掌握せねばなりませんでした。しかし魔術兵団は国王直下。王が動かない限りどうすることも出来なかったのです。…動かない父に代わる為に、兄が動きました」
その手を汚してでも。
「……そんな」
ファントムが現れた後、アリアは連日負傷者を癒し続けていた。その合間にもコウェルズは何度か顔を出して、アリア達を労ってくれていた。
いつもと変わらない、普段通りの気さくな振る舞いで。
「…兄さん……」
救いを求めるように、ニコルに目を向ける。
何から救われたいのかはわからない。だが今アリアの胸を苛む不気味な恐怖を消してほしくて。
「…大丈夫だ」
肩を引き寄せられて、安心させてくれる温もりが伝わる。
アリアが少し落ち着いた頃合いで。
「王が昨夜亡くなったことにしたのは、お兄様がラムタルでその存在に気付かれ始める頃合いだろうと見計らってのことです。ニコルもこの事は知っていますよ」
どうしてこのタイミングであったのか、その事実とニコルも知るという言葉に肩を抱いてくれる兄を見上げた。
「…いつ発表するかまでは知らなかったが…コウェルズ様がラムタルでやるべき事の一つが王位継承宣言だったんだ。…近いタイミングだろうとは思っていた」
「…どうしてそんな、他国で?」
「大戦後に多くの国同士で取り決めた、近隣諸国との融和の為の政務なのです」
ミモザの説明に、アリアは眉を顰めながらも静かに聴き入る。
大戦がようやく終結した頃、人々は生きることにも疲弊していた。終わったとはいってもいつまた戦争が始まるかわからない残酷な時代の疑心暗鬼。
同盟国ですら足元を掬う世界、そして多くの国々で何度も統治者の顔は変わった。
世界中に蔓延する猜疑心を打ち消す為に、統治者同士の絆を深める名目の下、新たな統治者となる者は同盟国や絆を深めたい国へと赴く外交行事が発案された。
国王自ら向かうことで、我々は敵ではない、あなた方を敵とは思っていないと伝える為。そして国を空にしても国力を保っていられると暗に告げる為。
「…そしてその条約の基礎を最初に発案したのは我が国の…ロスト・ロード様なのです。我が国が世界に向けて生み出したものを、我が国が反故にするわけにはまいりません。たとえどんな状況であろうとも」
誰が最初に口にしたのか。
ロスト・ロードという名に。
「……ととさんが?」
何もかもに困惑して、また兄を見上げて。
ニコルも知らなかった様子で、アリア以上に困惑の表情をミモザに向けていた。
「…アリア、あなたまさか、ファントムが誰であるのか知っていたのですか?」
そしてミモザも、アリアがファントムとロスト・ロードを繋げたことに驚いて。
「…つい先日、兄から直接聞かされました」
それは数日間の休暇に出る前の、捕らえられたエレッテと話した時のことだ。
大切な家族の話。
そこで血のつながらない兄が王族であることを知った。
「……そう。話していたのね」
「はい。私達はそれでも家族だと、お互い改めて話し合いました」
そこだけは絶対に譲れないと、少しだけ声を強くして伝える。
ニコルが話していたことが意外だったのかミモザは少し考え込むが、やがて不安を取り払ったような笑顔になった。
「それでも家族だなんて、当然ですのに…不安にさせていたのですね。でもあなた達を見て安心しました。お兄様はこれからも暴走するでしょうが、私がしっかり手綱を引きますわ」
真面目なミモザが、珍しく冗談を言う。
そのことに驚いて一瞬きょとんとしてしまったが、すぐにミモザの伝えたいことを理解してアリアはニコルと共に笑顔を返した。
ひとしきり微笑んでから、少し影を落として。
「…それと、エルザの件なのですが…」
いつまでも微笑んでばかりはいられない現実。
「……遊郭の娘を一年独占的に買い上げたという話は届いています。…それが何を示すのかも」
恋人の件を口にされて、隣の兄が強く身を強ばらせる気配を察する。
こんなにも早く、情報が届いているなど。アリアも自分の身に当てはめるように身を震わせた。
「…私からは何も言う事はありません。ただ、三団長だけは知っています。…どうか、お兄様が戻るまでは内密にしていてください。今の状況でこのことが騎士達やエルザに知られてしまうと、どうなるのか検討も付きませんから…」
今現在唯一出来るだろう賢明な手段。黙ることしかできないが、それ以外アリアにも考えることはできない。
ただでさえ騎士達が不穏な状況なのだから。
それでも兄はどう思っているのか。
恐る恐る向けた視線に気付くように、ニコルは少しだけ情けなく眉尻を落としながら力なく微笑んでくれた。そしてミモザに視線を移して。
「…彼女に危険は?」
少し低い声が、威嚇するようにテューラの身の安全を願う。
「騎士達からその女性に近付くことは恐らくないでしょう。遊郭を敵に回せばどうなるかは流石に理解できるはずです」
ミモザの確信するような声に、ニコルがホッと胸を撫で下ろすのを見て。
「…あの、何でなんですか?」
遊郭の深い事情までは知らないので、ミモザが強く断言することもニコルが安堵することもわからず訊ねてしまった。
「遊郭は王都中に人脈を持っています。騎士達が個人的に遊女を攻撃などすれば、遊郭の機嫌を損ねることになり、遊郭側が“騎士が原因”と門を閉じるのです。そうなれば、遊郭に入れない王都中の顧客達の怒りが騎士団に向かい……酷いことになります。…十年ほど前に一度ありましたから」
そこでミモザが疲れ切るような表情になった。恐らく十年前の当時を思い出したのだろう。
その頃といえばミモザはまだ11歳のはずだが、その幼さで何を体験したというのか。
とにかく本当に散々な目にあったのだろう。
「…あ、安心ならよかったです。ね、兄さん」
「ああ、そうだな」
ほっとひと息つくように少しだけ背筋を緩めたアリアの隣で、ニコルは逆に背筋を正していた。
「…ミモザ様」
改まる声が、ミモザを呼ぶ。
「……エルザ様を苦しめる結果になってしまい…本当に申し訳ございません」
下がる銀髪の頭。
ミモザは凍りついたように固まって。
「…ここまでこじれてしまったのは、全て私の責任です。……エルザ様に偽りの愛を語りました…」
なぜエルザが泣き続けているのか、なぜ騎士達がこれほどまでニコルを責め立てるのか。その原因を。
それは違う、とはアリアも言えなかった。
アリアは、エルザの気持ちも痛いほど身に染みてわかるから。
しかもエルザに追い討ちをかけるように、ニコルは別の女性を早々に選んだ。
ニコルの精神面を理解するからこそアリアはニコルの気持ちに寄り添えるが、エルザは更なる絶望感を味わうはずだ。
残酷すぎる仕打ちをニコルはしたのだ。
「…全て、お兄様が戻ってから進めましょう。それまでは決して…エルザには知られないようにして」
そしてミモザも、エルザをひどく憐れむ様子を見せる。
全てはコウェルズが戻ってから。今は確かにそれ以外に道がないだろう。
ニコルが追い縋るようにまた謝罪を口にしようとするから、袖をそっと掴んで止めた。
これ以上はやめて、と。
その謝罪は、ミモザを傷付けるだけだから。
アリアの言いたいところを察して、ニコルも口を閉じて。
「……何かしら?」
外が騒がしくなったのは、沈黙がほんの少し続いた頃だった。
ミモザが怪訝な眼差しを扉に向けて、ニコルはアリアとミモザを守るように立ち上がって移動して。
妙に騒しい扉の向こう側。
何の合図もなく扉が突然押し開けられて。
「ーーアリア!すぐに来てくれ!!」
切羽詰まった声を発して押し入ってきたのはセクトルで、殴られた傷の残る頬とは逆の頬には、真っ赤な血を大量に浴びていた。
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