第85話


第85話

「…どうしたんだよ」
 寝ていると思っていたニコルに話しかけられて、窓の外を眺めていたテューラは視線をベッドへと向ける。
 昨夜からテューラの元に訪れていた愛しい人は、重そうな瞼と格闘しながら上半身を上げるところだった。
「おはよ。…ちょっと外が騒がしい気がして」
 何度もテューラを求めてくれた逞しい身体から目を逸らして、もう一度空を見上げる。
 朝日もまだ顔を出さない薄白い空。その空を舞う伝達鳥の数が、普段よりも多いのだ。騒がしいほどに。
「何かあったのかな…」
「さあな」
 見上げて、少しだけ不安になって。ニコルがベッドから降りる音を耳にはしたが、そのまま空を見上げ続けていると、ふわりと背中から抱きしめられた。
「…確かに伝達鳥が多いな」
「でしょ?」
 素肌が触れ合い熱いほどの温もりに抱かれながら、二人で見上げる世界。静かな室内だというのに、窓の向こうはあまりにも騒々しかった。
「どうしたんだろ…」
「そんなことより、こっち見ろよ」
 外ばかり気にするテューラが気に入らないのか、強引に横抱きにされて、ベッドに連れ戻されてしまった。
「もう少し優しくしてほしいな?」
「…充分優しいだろ」
 ポスン、とベッドに軽く落とされて、甘えるように胸元にニコルの顔が触れてくるから、クスクスと笑いながら短くなった髪を撫で梳いて。
 昨日から何度も互いを求めて、そして沢山話した。おかげで二人とも寝不足だ。
 ニコルも自分の多くを話してくれた。
 全ては話せないと言いながら、恐らくニコルが“この程度なら話しても大丈夫だろう”と聞かせてくれた過去は、壮絶だった。
 大戦が終わり、言葉だけの平和に満ちた国の端で、終わらない戦闘に幼い頃から参加し続けていたニコル。
 彼にとっての“笑って話せるこの程度”は、テューラですら心苦しくなるものだった。
 人の目につきやすい美貌と生まれ持った魔力が、ニコルをさらに苦しみの渦に巻き込んだかのように。
 エルザ姫との別れの経緯も聞いた。
 まだ泥沼が続いていることも。
「…ねえ、ニコル」
「ん?」
 呼び掛ければ、顔を上げてくれる。
 眠たそうな顔が、少しだけ間抜けで愛しい。
「…いつでも会いに来てね」
 城に残る泥沼は、長く消えることはないだろう。
 テューラに出来ることは、ニコルを抱きしめることくらいだから。
 まだ互いを手探りで知ろうとしている段階の中で、テューラがニコルの為に出来る唯一のこと。
 そっと抱きしめて、額に口付けをして。
「…お腹空かない?」
 口付けを合図にするかのようにニコルの手が不穏にテューラの胸を寄せて揉むから、逃れる為に先手を打つ。
「……わかったよ」
 不貞腐れながら手を離して、抱き起こしてくれて。
「…これくらいは許せよ」
 少し強引に抱き寄せられて、テューラの耳元でニコルは何度か深呼吸を繰り返した。
「昨日も思ったけど、もしかして髪の匂い嗅ぐの好き?」
「……まあ、好きな匂いだな」
「この香りが好きなんだ。使ってる香油分けてあげよっか?」
「お前が付けてなきゃ意味無ぇよ」
 テューラの髪をいじり始めたニコルが雰囲気を作るように唇を合わせようとしてくるから、にこりと微笑んで指先ひとつで拒絶した。
「またお前って言ったから、させてあげない」
 逞しい腕の中からするりと逃げ出して、ベッドを降りて。
「悪かったよ。どこ行くつもりだ?」
「ごーはーん。あなたのせいで体力使い過ぎて、お腹ぺこぺこ。持ってくるから待っててね」
 用意されているだろう朝食は普段なら部屋まで持ってきてもらえるが、今日は窓の向こうの騒がしさが気になって、楼主達と話したい気分なのだ。
 ニコルは素直にベッドの上で待つ様子を見せてくるから、簡単にガウンを羽織って部屋を出た。
 伝達鳥が飛び交う外とは違って妓楼の廊下は静かなものだが、楼主のいる場所に向かえば、テューラと同じように外が気になったらしい遊女達と出くわした。
「おはよー、この騒ぎ何?」
「私もわからないから出てきちゃった」
 外の騒がしさを小声で訊ねられて、わからないと返しながら共に楼主の元へ向かう。
「ねぇ、噂の平民騎士様、まだいるの?」
「いるけど会いに来ないでよ」
「えー、まだ見てないのに!」
 若い娘らしい反応を見せてくる仲間たちに笑いかけながら、楼主のいる部屋を開けて。
「…………楼、主?」
 楼主と、他の遊女達。それに警備隊の青年と遊郭の働き手達が神妙に何かを相談している重苦しい室内に、思わず皆で表情を強張らせた。
「…えー、みんな、何かあったの?」
 テューラの隣に立つ遊女が場を和ませるように明るい声を出すが、こちらに目を向けてくる彼らは少しも笑いはしなくて。
 本当に何があったのか。
 不安が募る中で、楼主が口を開く。
「……昨夜、国王陛下が亡くなったそうだ」
 仕事についていたテューラ達は知らなかった、国の一大事。
「…え?」
「うそ…」
 伝達鳥達が空を騒がしく飛び交う、その理由。
 一瞬にして静まり返る室内。テューラも、事態を飲み込めなかった。
「王城に関わりある方のお相手をしていた者はすぐに戻って伝えてきなさい。それ以外の者たちも、お客様の様子を窺ってから順次話すように。…部屋にすぐ戻るんだ」
 国王が亡くなった以外の情報を与えられないまま、テューラ達はすぐに追い出されてしまう。
「え、どうすればいいの?テューラ」
 追い出されて混乱する遊女達がすがるのは、この妓楼では古参であるテューラだ。
「…とにかく、楼主の言う通りにしましょう」
「でも、他の子は?」
「楼主が順次話すはずだわ。みんな、自分のお客様のことだけ考えて。わからないことはわからないと伝えていいから」
 不安がる仲間達の背中を押して、各自出来ることをするように教えて。
 テューラだって訳がわからないのに、それでも懸命に頭を働かせた。
 他の客のことまでテューラが考える必要などないが、テューラの元にいるニコルは城勤めなのだ。すぐに伝えなければならない。
 国王が死んだ。それだけしか分からないままテューラも急ぎ自室に戻ろうとして。
「ーーテューラ!」
 呼び止められて、振り返った。
 こちらに駆け寄ってくるのは、見慣れた警備隊の青年だった。
「エリダ…」
 歳も近い馴染みの青年に安堵の表情を浮かべながら、テューラも一歩分彼に足を進めて。
「国王様が亡くなったって…いつ頃なの?」
 恐らく警備隊の者達が妓楼に訃報を伝えに来たのだろうと思い訊ねれば、返ってくるのは「わからない」という曖昧なものだ。
「亡くなったとだけ未明に聞かされて、それ以外の情報は今も無いんだ」
 未明。それは恐らく、伝達鳥が飛び回り始め、テューラの目も覚めてしまった頃なのだろう。
「そうなんだ…ありがと。私も戻るね」
「待って!」
 腕を強い力で引かれて、眉を顰めながら足を止める。
「何?城勤めの人だから早く伝えないといけないの」
 いくらニコルが城から逃げての休暇中だとしても、早く伝えるべき内容だ。
 だというのに、掴まれた腕は離してもらえなかった。
「ちょっと、何なのよ」
 さすがに苛立った声を出せば、真面目な表情で見つめられて。
「…本当なのか」
「何が?」
「騎士と一緒になるって」
 小さな声で、ニコルのことを問われる。
「誰とも一緒になるつもりないって…言ってたじゃないか」
 まるでニコルとの件は嘘であると言ってほしそうな顔をしてくるから、掴まれていた腕を強く振り払った。
「なあ、テューラ…」
「あの人と出会うまでの私はそうだったってだけよ」
「なんでだよ!」
 エリダは声を荒らげてしまい、場所が遊郭内であることを思い出してハッと表情を強張らせていた。
「…彼が待ってるから、もう行くわ」
 昔馴染みのエリダがテューラに淡い期待を抱いていたことは知っている。だがテューラは一度たりとも彼に絆されたことはない。
「騎士なんて…遊ばれてるだけだぞ!」
「うるさい」
 言いたいことは言わせておいて、もう振り返ることはしなかった。
 エリダもそれ以上追いかけてくることはせず、テューラはすぐにニコルの待つ部屋へと戻る。
 下だけをはいたニコルは窓辺から外を眺めながら、昨夜外していた赤色の石の首飾りを付けているところだった。
 脱ぎ散らかされていたシャツを手に取りながら近付いて、そっと差し出して。
「…メシは?」
「…それどころじゃないの…」
 シャツを手にしたニコルは無意識のように袖を通しながらテューラの言葉を待ってくれて。
「……国王陛下が亡くなったって」
 テューラが唯一伝えられた情報を教えれば、ニコルの動きはやはり、完全に停止してしまった。

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