第84話
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『ーー…また来ていただけますか?』
不安そうに問いかけられて、ジュエルは笑顔で『もちろん』と返した。
こちらが笑ったからか、向こうも嬉しそうに微笑んでくれる。
表情に乏しいのかぎこちない笑顔だったが、本当に嬉しそうな様子に心がちくりと少し痛んだ。
お茶会という名の探りが終わった後、ジュエルはダニエルの隣を歩きながら疲れきったため息を静かについた。
バオル国のアン王女と仲良くなり、ファントムやその仲間をラムタル城内で見たか確かめてみよう。
藁にもすがるような策。当然のように良い結果など有りはしなかった。
時間にすれば三時間ほど前だったか。コウェルズ、ダニエルと共に訓練場から客室に戻り、作戦を立てている最中に訪れたイリュシーに、コウェルズはジュエルをアン王女の話し相手にどうかと尋ねてみた。
イリュシーはすぐに行動に出てくれて、あまり待たない間にアン王女とのお茶会をセッティングしてくれた。
幼くして暗殺されかけ、それ以降ラムタルに隔離されて息を潜めていたアン王女にとって、同年代の少女との朗らかなひとときは長く憧れていたものらしい。
ダニエルと共にイリュシーについてすぐ向かえば、即席とは思えないほど小さくも可愛らしいお茶会の席が用意されていた。参加人数はジュエルとアン王女だけ。その周りには物々しくバオル国の護衛達がアン王女を見守る。
場所は静かな庭園のひとつ。でもそこは、ジュエルが迷い込んだ庭園とは違っていた。
ジュエルとあまり歳の変わらないアン王女はすぐに心を開いてくれて、その無邪気さはジュエルの目から見ても少し危うく感じた。
向こう側も思うところがあってのお茶会の席だと気付いたのは、会話が盛り上がり始めた頃だ。
探るようにぽつりぽつり出てくるマガの名前。
エル・フェアリア側がファントム達の所在を知りたいのと同じくらい、アン王女達はマガをどうしてもエル・フェアリア側へ連れて逃げてもらいたいのだと察する。
アン王女の後ろに侍るバオル国の者達の表情も、マガの名前が出るたびにつらそうな様子で俯いて。
なぜそこまで彼を逃したいのか。少し気にはなった。
気にはなったが、気付かないふりをした。
そこはジュエルの領分ではないから。
ラムタルの準備したお茶菓子を味わいながら、エル・フェアリアから持参したお茶を飲みながら、歳も近いこともあって楽しく会話して。
だが会話の節々にアン王女の隔離された世界が見えて、同情心は強く芽生えて。
結論から言えば、アン王女は隔離されすぎて、ラムタル城内すら知らなかった。アン王女に許された世界は、隔離された一室とこの庭園だけだったのだ。
知識は凄まじくある。なのに経験が異常に少ない。
身に纏うドレスすら、いくら隔離保護された王女とはいえ無難なものしか揃えられていなかった。
それだけバオル国が困窮を進めているのだと気付いても、ジュエルは口にはしなかった。
「……大丈夫か?」
お茶会が無事に終わり、イリュシーの後をついて戻る道中。思い詰めて足元に目を向けてしまっていたジュエルにダニエルは心配そうに声をかけてくれた。
「はい…すみません」
咄嗟に出た謝罪は、ファントム達の所在を聞き出せなかったからか、それともアン王女に同情したからか。
「…何も謝ることはないのに」
「ですが…」
「彼女もとても喜んでいたでしょう。突然だったとはいえ、他国との外交を無事に乗り越えたんです。…誇りに思っていいんだよ」
「外交!?」
たったその一言だけで物々しい政治色に脳内が染まってしまい、思わず固まってしまった。
その様子を見ていたのか、イリュシーも微笑ましそうな笑顔を見せてくる。
「あのお方は長く寂しい思いをされていました。ジュエルお嬢様がお話相手になってくださったことは、あのお方の今後にとって非常に重要な思い出となりますわ」
アン王女の名前は出さずに話してくれる様子から、まるで妹を思いやるような優しさを垣間見る。
「でも…お話をしただけですわ」
「それが大事なんです。あの子は特に」
ダニエルの話す意味は、まだジュエルには難しい。
「エル・フェアリアの皆様がよろしいなら、いつでもお茶会の連絡と準備をさせていただきますわ」
「それは有難い。是非とも頼みます」
笑いながら感謝の言葉を贈るダニエルに、イリュシーが不必然に頬を朱に染める。
「イリュシー嬢?どうかされましたか?」
「いえ!別に…。あの、ジャック様…ではないのですよね?」
「残念ながら、私はダニエルですよ?」
「す、すみません!!…あの、もう後の道はお分かりかと思いますので、ここで失礼致します!」
ダニエルの名前を確認してきたイリュシーが、慌てた様子で走り去ってしまった。
場所は確かに大会関係者達が自由に往来出来る場所まで来ていたが、突然すぎて驚いた。
「…どうされたのでしょうか?」
「さあ。ジャックと何かあったのかもしれない」
「何ですか?」
「それは残念だがわからないな。戻ったら聞いてみよう」
早く戻って、コウェルズにも報告をして。
だが報告できるようなものなど無くて、また俯いてしまう。
「あまり落ち込まなくていいんだよ。充分な情報は得たから」
「…そうなのですか?」
「よく頑張ったな」
褒められて、素直に嬉しくて頬はゆるんだ。
少しでもリーン姫の役に立てただろうか、少しでもコウェルズの苦しみを癒せただろうか。
ジュエルにも心から愛しい兄姉達がいる。
だからこそ、役に立ちたかった。
「……あれは、ルードヴィッヒ様?」
少し離れた前方に見慣れた髪色の若者を見かけて、ジュエルは首を傾げる。
何年も長髪の彼しか見てこなかったから、短髪になった姿は未だに違和感が胸に宿る。装飾の凝った魔具の髪飾りも今は消えてしまっているから、余計に確信が持てなかった。
「みたいだ。…一人で風呂か。おーい!ルードヴィッヒ!」
ダニエルの方は確信を持った様子で、大きな声でルードヴィッヒを呼ぶ。
突然呼ばれて背中をびくりと驚かせたルードヴィッヒは、こちらに振り向いてくると同時に全力で駆け寄ってきた。
「ーージュエル!!」
「!?」
駆け寄ってきて目の前で名を呼ばれながら急停止されて、今度はジュエルがびくりと震えた。
いつになく真剣な様子に何かあったのかと不安になるが、ルードヴィッヒは入浴直後のようで濡れた髪から雫を何粒も落とし続けている。
「あの…どうしましたの?」
「…………っ、い、今から戻るのですか?」
訊ねてみれば、なぜかぷいとそっぽを向かれ、ルードヴィッヒは何事もなかったかのようにダニエルに向きを変える。
「あ、ああ…何かあったのか?」
ダニエルの方もルードヴィッヒの様子のおかしさに、少し困惑気味だ。
「私は何でもありません!」
「…ならいいが」
全身全霊で強く言いきるから、ルードヴィッヒの髪から弾き飛ばされた雫がパタパタとジュエルの頬を叩いた。
「…ちょっと」
「どうしたんだ!?」
非難しようとした途端にまたこちらに強く振り向いてくるから、今度は鼻の頭を雫で殴られた。
「…お風呂上がりなのでしょう!?きちんと髪くらい拭いてくださいませ!!」
顔を袖で拭いながら注意すれば、ウッと怒られることに怯えるように身を引いて。
「す、すまない」
慌てて手荷物の中のタオルを頭に置いて、ルードヴィッヒは子犬のようにシュンとうなだれた。
「一人だけで風呂か?」
「はい。訓練でひどく汚れてしまったので…もう汗臭くはないと思うんですが」
自分の二の腕の匂いを嗅ぎながら、ルードヴィッヒがちらりと目をやるのはジュエルの方だ。
「本当に何もなかったんだな?」
「え?はい」
「ならいいが…こっちも戻る所だったから、一緒に戻ろうか」
用事がないならとっとと戻って今までの話を早く伝えておきたいと、ダニエルは先頭に立って先を進んでいってしまう。
ジュエルはすぐにその後を追い、ルードヴィッヒは離れる気がないかのように隣に付いてきた。
「どこに行っていたんだ?」
「どこって…」
突然訊ねられても、こんな人通りの多い場所でアン王女とお茶会を楽しんできたなど言えるわけもない。
困ったようにダニエルに目を向けるが、ルードヴィッヒの質問が聞こえていなかったのか振り返ってくれることはなかった。
仕方なくもう一度視線を戻せば、なぜか不満そうに眉間に皺を刻んでいて。
「…何ですの?」
「気分転換の散歩に出ていたと聞いたけど、違うのか?ならどこに行ってたんだ?」
「どこでもいいでしょう?」
残ったコウェルズがそう説明していたなら、それでいいはずなのに。
咎められることなどしていないというのに責めるような口調で訊ねられて、少し腹が立った。
「また変な奴に絡まれたらどうするんだ!」
「ダニエル様が一緒なのにそんなこと起こるはずありませんでしょう?あなたじゃあるまいし」
「そ…んなこと、わかるわけないじゃないか!」
「…何なんですのいったい……」
自分の犯した過ちを思い出して一瞬ひるみながらも責めてくる様子は、いつもとどこか違う。
「ルードヴィッヒ、本当にどうしたんだ?何かあったなら気にせず言えばいいんだぞ」
声を荒らげ始めたルードヴィッヒにさすがにダニエルも振り返ってくれて。
「……いえ、何も…」
「何もないならジュエル嬢に絡むんじゃない。どこにいたかは戻ったら説明する。人の目のある場所では話せないこともあるだろう?」
心身共に大人であるダニエルは、比較的優しい口調でルードヴィッヒを宥めてくれる。
ルードヴィッヒもさすがにバツが悪そうに俯いて、だがジュエルの隣から離れることはしなかった。
ちらりとこちらを気にするように目を向けてきて、目が合うとたちまち顔を背けて。
うまく説明は出来ないが、やはりどこか、普段の彼とは様子が違って。
「…本当に何もありませんのね?」
さすがに心配になってもう一度訊ねたのは、ラムタルに来てからルードヴィッヒはルードヴィッヒなりにジュエルをかばって助けてくれていたからだ。
他国に対して喧嘩腰はいただけないが。
ジュエルの心配する眼差しをどう解釈したのか、ルードヴィッヒは顔を赤くしてしまう。
「……まだ…いか?」
「え?聞こえませんでしたわ?」
小さな声で何か話してくるから、聴き取れなくて首を傾げて。
「……まだ私のことは嫌いなのか?」
もう一度改めて訊ねられて、何のことだと強めに眉を顰めた。
ルードヴィッヒのことが、まだ嫌い、とは、何が言いたいのかと思考を巡らせて。
一つだけ、思い当たる節はあった。
彼はジュエルの恋心を冒涜したから。
でもジュエルの片思いがとっくに沈んでしまっていることなど、ジュエル自身が気付いている。
憧れにも近い恋心の相手であるレイトルの愛おしむような眼差しは、アリアにだけ向けられていたのだから。
姉達と両親が動いてレイトルの実家に婚約の申し込みをしたと聞いたときは、どれほど恥ずかしい思いをしたことか。
あの日ばかりは、恥ずかしさと悔しさで涙が止まらなくて、侍女となって初めて仕事が手につかず休む羽目になってしまったのだから。
それでも爪先程度の期待を少しだけ持ってしまった為に、その後の展開は今までで一番涙を流したほどだ。
ようやく癒え始めていた失恋に苦しむ心を、ルードヴィッヒは土足で踏み躙った。それでも、本気で嫌えるほど彼を軽蔑してはいないから。
「…本気で嫌ってなどいません。もう気になさらないでくださいませ」
忘れてと暗に伝えれば、隣を歩く彼の気配から緊張が消えた。気がした。
「…本当か?」
「……何がですの?」
「嫌っているわけではないんだな?」
「そう言ってますでしょう?」
確認を取るほどのものかと呆れるが、ルードヴィッヒなりに気にしてくれていたのだろうと、思わず微笑みかけてしまって。
とたんにルードヴィッヒが嬉しそうに微笑み返してくるから、仲直りをしたかったのかと思い至ってさらに笑ってしまった。
「そんなことより、大会に向けてきちんと身体を調整してくださいませ」
「わかっている!必ず優勝を手にしてみせる!」
突然大きく出るものだから、前を歩くダニエルが強く吹き出していた。
「なぜ笑うのですか!私は本気です!」
「ああ…はは!良い心構えだよ」
元気を取り戻した様子のルードヴィッヒに、ほっと安心して。
「もし本当に優勝されましたら、いつでもいくらでも、お菓子を焼いて差し上げますわ」
甘いものが好きだと言っていたルードヴィッヒの為にジュエルができることといえばそれくらいだ。もし優勝できたなら、お菓子くらいならいくつでも焼こうと思えた。
「…本当か?」
「ええ」
「……いつでも?」
「任せてくださいませ。…でも味の保証はしませんわよ」
ジュエルの約束に少し固まったルードヴィッヒが、さらに嬉しそうに顔を赤くして笑顔になるから。
「本当に好きですのね」
甘いもの好きなルードヴィッヒの為に、クッキー以外のレシピをそろそろ覚えてもいいかもしれないと思ってしまった。
「……あ、ああ!本当に好きだ!」
「私もですわ」
パウンドケーキならミシェルが教えてくれるかもしれない。アリアに訊ねたら、もしかしたら平民のお菓子というものも学べるかもしれない。
もし勝てなくても、ルードヴィッヒの為にそれくらいのご褒美は必要だろうと、ジュエルは笑いかけてくるルードヴィッヒにつられて笑顔を返し続けた。
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