第55話


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 薄く照らされたその室内にいるのは部屋の主であるニコルと、アリアとエルザの姿だった。
 傷は癒されたが休息を取るように言われたニコルは自室に戻り、ベッドに寝転がりながら腑抜けのようにただ天井を眺めていたのだ。
 部屋のもう一人の主であるガウェは戻らず、時間だけが過ぎて。
 先に部屋に訪れたのはエルザだった。
 夕暮れ時、簡単な食事を持って訪れたエルザにニコルは立ち上がろうとしたが、何か知っているかのような面持ちの彼女はニコルに立ち上がることを許さなかった。
 扉の向こうまで気配を感じさせていたエルザの騎士達は気を使うように部屋から離れて完全にニコルとエルザの二人きりにして。
 昨晩から何も口にしてはいなかったが、ニコルはエルザの持ってきてくれた食事に手をつけることはなかった。
 アリアが訪れたのはその少し後か。
 完全に夜に移った空が窓から見える時間に、訪れたアリアはニコルを見るなり涙を浮かべながら駆け寄った。
 ベッドを椅子のようにして座っていたニコルの足元に膝をついて、下半身を抱き締めるようにうずくまって噎び泣く。
 まるでエルザなど見えていないかの様子に戸惑ったが、中央の椅子に座っていたエルザはニコルに“気にしないで”と少し寂しげに微笑んだ。
「…治癒は全部終わったのか?」
 アリアの震える背中を撫でながら訊ねれば、ニコルの足に顔を埋めたまま鼻をすすりながら何度も頷かれる。
「そうか…ありがとうな」
 どれほど心配させたかわからない。
 アリアにとってニコルは、唯一残された肉親なのだから、と。
「ごめんな…心配かけたな」
 囁くような声でも静まり返る室内ではよく響き、アリアはニコルの謝罪にゆっくりと顔を上げた。
 見上げてくるその顔は涙でぐちゃぐちゃになっており、頬を拭ってみるがすぐに涙のあとが付く。
 すでに赤く腫れている目元はここに来る前からアリアが何度も泣いてしまったことを知らせ、ニコルの胸を強く握り潰すようだった。
 謝罪の言葉しか浮かばない口を閉じて何度もアリアの涙を拭って。
「…石が、ずっと鳴いてたんだよ」
 少し落ち着いたのか、震わせながらもようやく口を開くアリアは、ニコルを見上げたまま首にかけたネックレスの石を取り出した。
「--…」
 それはニコルも首にかけている、父から送られた共鳴石で。
 言葉に詰まったのは、ファントムの言葉を思い出したからだ。
 ニコルにとっては血の繋がった父親で、恨みながらも憧れていた人で。
 しかし彼は、ニコルなど何とも思っていなかった。
 アリアが泣きじゃくる理由となった傷を負わせたのが彼だなどと知ったら、アリアはどう思うのだろうか。
 アリアは家族の絆を信じて疑わない。
 ニコルも、疑い半分に荒んではいたが、彼との絆を心の奥底では信じ続けていた。
 なのに、彼は。
 彼にとってニコルは、何の価値も存在しない物質だったのだ。
 その真実にまた心が掻き乱される。
「ずっと石が鳴いてて…あたし、兄さんに何かあったら…もう…」
 何も知らないアリアは共鳴石を握り締めたまま再び強く泣き始める。
「…お前が治してくれたから、俺はもう平気だ」
「でも!!…もしまた兄さんが…」
 その先の言葉は、アリア自身が拒絶した。アリアはすでに、両親を亡くしているのだから。
「……俺はまだ死なないさ」
 アリアが何を怖がっているのか気付いて、何度も何度も頭を撫でてやる。
 アリアの両親は死んでしまった。
 アリアにはもうニコルしかいないのだから、ニコルまで死に別れていいはずがない。
 大切な妹を残して、死ねるはずがない。
 たとえ、ニコルが無意味な物質であったとしても。
「--ニコル、入りますよ」
 アリアが何度も頷くと同時に、部屋の扉を軽く叩く音を響かせてモーティシアが顔を見せた。
 モーティシアは部屋にいるエルザにすぐに気付いて頭を下げ、エルザの無言の了承を得てから室内に入ってくる。
「すみません。負傷者の治癒が終わった途端に走り出してしまったんです」
「いや、俺は大丈夫だ」
 モーティシアはアリアの後を追いかけてきたらしく静かに近付くと、離されることを察してニコルに強くすがるアリアの肩に手を置いた。
「アリア、戻りますよ。ニコルもあなたも休まないといけないのですからね」
 諭すように肩を引かれるが、アリアは顔を上げずに嫌だと拒絶し、さらにニコルに強くすがった。
「…その我が儘で困るのはニコルですよ」
 モーティシアはやれやれと溜め息をつきながらもう一度アリアの肩を引き、アリアが一番気を使うだろう言葉でニコルから離させる。
 ハッと顔を上げるアリアは自分の行いを恥じるようにまた涙を浮かべるが、ニコルは微笑み返すだけに留めた。
「…兄さん」
「アリア、行きますよ。ニコルはもう大丈夫ですから、せめて明日まで我慢しなさい」
 モーティシアの言葉はニコルへの思いやりが見えるようだが、実際はそう口にすることでニコルとアリアを離し、アリアを休ませることだけを考えているはずだ。
 そしてニコルも、今はそちらの方が有り難い。
 今のニコルは、あまりにも心が不安定なのだから。
 不安定なのに、アリアがいるだけでアリアを思い、その悲しみの解消を優先させようとしてしまう。
 そうすることで、彼を思い出す結果となってしまっても。
 彼との思い出を無理矢理美化することになってしまっても。
 だから。
「さあ…行きますよ、アリア」
 モーティシアに促されて立ち上がるアリアは、それでもニコルの服の裾を最後まで掴んで離そうとしなかった。
 そのわずかな我が儘だけは受け入れてほしいと言わんばかりの仕草だったが、モーティシアはその手を離させ、名残惜しむようなアリアを連れて部屋を出ていってしまった。
 モーティシアは最後にまたエルザに頭を下げたが、アリアはやはりニコルしか見えていなかった様子で、扉が閉まる瞬間までニコルから目を離さなかった。
 パタンと軽く扉は締まり、静寂が室内に満ちる。
「…アリアもとても心配している様子ですわね」
 アリアが来てからずっと静かに様子を見守ってくれていたエルザはようやくと言わんばかりにそっとニコルの傍に寄る。
 同じベッドに腰を下ろして、ニコルの手に触れて。
「…お兄様から経緯は聞いております」
 そして、本題だとばかりに。
 どんな経緯を聞いたのか。それはひとつしかないのだろう。
 無言になるニコルを、エルザは優しく抱き締める。
「あなたに何かあったとは…私も気付いていました」
 アリアだけではない、自分も、と。
 少し嫉妬を含ませたような声色のまま、エルザは互いの吐息がかかる程度にだけ離れて、ニコルの前に雫の形をした緋色の小さな宝石を見せた。
「…これは」
「…あなたから頂いた指輪が朝に消えてしまって…それで、あなたに何かあったのだと気付きましたの」
 それは、ニコルがエルザに贈った緋の宝石だった。
 ニコルの魔力を台座にした、小指の指輪。
「…あなたが…自分が死ぬまで指輪は壊れないなんて言うから…」
 責めるような、苦しむような。
 わずかに涙を滲ませた声で、エルザは震えながらその宝石を強く握り締める。
 ニコルは無意識下でも自身の魔具は形を留めておけるように訓練をしている。
 しかしそれすら消えてしまったのだから、自分の心がどれほど苛まれたかは容易に想像できた。
 自分が死なない限り、指輪は壊れないとエルザに約束したのだ。
 だから、もしかしたら。
 自分の心は、父に殺されてしまったのだろうか。
 彼にとってニコルは、何の意味もないと気付かされた瞬間に。
「……」
 無言のままニコルはエルザの手のひらの宝石をつまむと、再び魔力を込めて台座となる指輪を生み出した。
 エルザの為の指輪をいとも簡単に生み出して、再び右手の小指にはめてやる。
 エルザは自分の小指に戻った指輪を愛しげに見つめると、そっと宝石に唇を落とした。
 そしてニコルに目を向けて。
「…あなたには私がいますわ」
 エルザから、ニコルに。
 唇が重なるだけの軽いものだったが、癒すように柔らかな唇がニコルに捧げられた。
 甘い吐息を震わせながら、数秒をニコルに。
 やがて静かに唇は離れたが、その距離は指先一本分程度だった。
「…私は…何があってもあなたの傍にいます…私にはあなたが必要なのですから」
 囁きはニコルを思うが故なのだろう。
 コウェルズから何があったのか聞かされた上で、ファントムが、父がニコルに何を言い捨てたか知った上で。
 優しい姫はニコルを癒そうとしてくれる。
「ですから…ファントムのことは…もう…」
 そのエルザを、ニコルは両腕を掴んで引き剥がした。
 突然のことにエルザは目を丸くする。
「…ニコル?」
「…やめてくれ」
 エルザを、ニコルは俯いて拒絶した。
 優しいエルザ。
 だが今は、その優しさが傷をえぐる。
 今は考えたくないのだ。
 何もかも。
 父も、自分も、全て。
 考えたくない。
 しかしアリアは特別で、自分の心を傷付けたとしても癒してやりたかった。
 不安を取り除いてやりたくなる。
 だがエルザにはその思いを自分の中に感じられない。
 大切で、守られるべき、優先されるべき姫。だが。
「…一人になりたいんだ」
 エルザ自らコウェルズに何があったか訊ねたのか、それともコウェルズがエルザに、ニコルの心を捕らえる為に口添えしたのか。
 真意はどうであれ、エルザは本気でニコルを思ってくれているのだろう。
 しかし今はそれが重荷だった。
 アリアといると、彼との思い出が浮かんでくる。憎しみを抱きながらも、待ち焦がれていた思い出を。
 かわってエルザは。
 エルザがいたら。
 王家の為にと使われるエルザが傍にいるだけで、今のファントムがニコルを苦しめた。
 美化される思い出などでなく、現実の彼が。
 そして、エル・フェアリア王家という逃れられない鎖が。
「ニコル…私は…」
「…疲れたんだ…休ませてくれ」
 アリアに抱けない劣情の捌け口にするようにエルザを選んだ。
 アリアの代わりに愛そうと。
 大切にしようと。
 しかし。
「…無理だ」
 もう。
「ニコル…」
「…一人にしてくれ」
 俯いたままエルザの方を見なかったから、ニコルには彼女の悲しげな表情を確認することは出来なかった。
 確認したところで、どうすることもないのだろうが。
 拒絶されて数秒経ってから、エルザはベッドから立ち上がる。
 ニコルから離れて、健気な眼差しを一心にニコルに向けて。
「…お休みなさいませ、ニコル」
 小さな足音を響かせて、部屋を出ていく。
 その間もニコルは、一度もエルザに目を向けはしなかった。
 護衛も付けずにたった一人で廊下を歩く微かな足音を余韻のようにニコルの耳に残して、やがてそれも薄れて消えた。

--何の価値もない

 消えた瞬間に。
 苛むように脳裏に流れる彼の声に、ニコルは強く拳を握り締める。
 何の価値も。
 エレッテの術を解かせる為にニコルに刃を向け、傷付けることなど出来るはずがないと告げたコウェルズを嘲笑い。
 いや。
 傷付けることなど出来ないと誰よりも信じて疑わなかったのはニコル自身だ。
 父子の繋がりがあるからと、それだけの理由にすがって。
 見事なほど無惨に切り捨てられた。
 何の価値も存在しないと。
「…はは」
 渇いた笑いが勝手に口から溢れて消える。
 同時に涙も。
 面白くも何ともないのに。
 悲しくも何ともないのに。
 あの時、ニコルの中で何かが壊れた。
「ははは…」
 何かが壊れて。
 ニコルは自分を見失った。


第55話 終
 
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