第55話


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「いやああぁぁぁっ!!兄さん!!にいさんっっ!!」
 王城に戻った一行を一番に迎えた声は、悲痛すぎるアリアの涙だった。
 正門でなく裏門から王城内に戻ってすぐに、アリアは馬に乗せられたニコルに駆け寄ろうと我を失う。
 それを止めるのはレイトルとアクセルで、モーティシアはコウェルズに近付くとまず頭を下げた。
「…ニコルの傷のことは伝えないように言っておいただろう」
 アリアがニコルの負傷にショックを受けることは明白だったのでぎりぎりまで隠しておきたかったのにとコウェルズは軽くモーティシアを睨み付けたが、
「それが…共鳴石がずっと鳴いている、と言うのです…ニコルの父親に持たされた石の首飾りだそうで、ニコルの危機をアリアの持つ対の首飾りに知らせるのだと」
 モーティシアはアリアがニコルの負傷を知った理由を告げるが、父親ということは、ファントムに持たされたものだというのか。
「アリア、怪我人の治癒を」
「いやぁ!兄さんを見るの!離してよ!!」
 ニコルの腹部の傷は浅くはなかったが、戦闘でニコル以上に重傷を負った者がいるのだ。
 トリッシュがアリアをなだめて優先順位の高い怪我人の元に連れていこうとしたが、アリアはニコルのいる場所に向かおうとして言うことを聞かなかった。
「…仕方ないね。先にニコルを見させよう」
「申し訳ございません。ニコルを癒し次第すぐに他の方々の治癒も行わせますので」
「頼んだよ」
 幸いにも瀕死の者はいないのでアリアの好きにさせてやれと許してやれば、モーティシアは深く頭を下げてアリアの元に戻っていく。
 アリアの護衛は全員揃っていたが、セクトルとミシェルは真っ先に怪我人達の応対に出ていた。
 離れたモーティシアと代わるようにコウェルズに近付くのは王城に残したジャックだ。
 ダニエルはまだ侍女のジュエルと共にハイドランジア家の老夫婦の側にいるはずで、コウェルズは双子の片割れであるジャックにすぐに現状を訊ねた。
「人払いは?」
「済ませております」
 王城に戻る間にコウェルズが命じたことはいくつかある。
 ひとつは治癒魔術師であるアリアの準備。
 そして今回の部隊の出動を隠す為に裏門の警備を隊長クラスに任せたのもそのひとつだった。
 突然の警備交代に騎士達は当然ざわつくだろうが、その程度なら口先だけで上手く丸め込んでみせる。
 問題は負傷した者達を見られる訳にはいかないということだ。
 騎士が負傷したとなれば、そこには必ず戦闘の背景が見えるのだから。
「酷く負傷した者はいないからアリアが落ち着きさえすればこっちはすぐに治癒は終わるだろう。ハイドランジア家の皆はどうなっている?」
「魔術兵団にかけられた術を魔術師達が何とか解いてくれました。今はまだ記憶が曖昧な状態ですが、明日になればはっきりするだろうとのことです。術式がその場凌ぎのような簡易の術であったことが幸いした様子です」
「そう。ならよかった。一晩王城でゆっくりしてもらって、明日話を聞こうか」
「わかりました」
 魔術兵団に無理矢理記憶をゆがめられたハイドランジアの老夫婦達。そちらから手に入る情報などたかが知れているが、パージャとエレッテは数日間ハイドランジア家で世話になっていたと聞くので、何かしらファントムの手がかりが掴めれば良しといったところだろう。
 問題はこちらにばかりある。
「…彼女の…あの蝶は?逃がさない為の結界には思えないのですが」
 ジャックが目に映すのは今も馬に乗せられたままのエレッテだ。
 エレッテの馬の手綱を引くのはフレイムローズで、エレッテの周りをふわふわと飛ぶ巨大な蝶が魔眼から生まれたことを示している。
「…君は察しがいいね。あの魔眼蝶は彼女を逃がさない為の力じゃなくて、彼女を守る為の力さ。護衛蝶とでも名付けようか」
 ファントムから直々にエレッテを守るよう命じられ、フレイムローズが生み出した産物。
 エレッテはコウェルズや他の男が自分の側にいることに強く拒否反応を見せたが、フレイムローズには拒絶を見せなかった。
 わずかな時間だったとしても側にいたからかニコルとルードヴィッヒに対してもまだ近付くことを許すような姿勢を見せたが、それ以外には容赦なく両手首を飾る古代兵器のブレスレットで威嚇したのだ。
 フレイムローズも様子が少しおかしく、エレッテに関することはコウェルズの言葉であっても受け付けようとしない。
 史上類を見ない最高で最強の魔眼を育てたのは自分であるという自負があるからこそ言うことを聞かないフレイムローズに苛立ちを覚えたが、エル・フェアリア王家に絶対の忠誠を誓うよう躾けてしまったのも自分だ。
 ファントムの命令と同時に彼女もファントムの分身だなどと言われてしまったら、フレイムローズが素直に従ってしまうことも仕方無いのだろう。
 コウェルズもエレッテを魔術兵団からは守りたいところなので、ファントムの命を聞くなというつもりも今のところは無い。
「彼女は普通の牢には入れられない。リナトに城内に特別な部屋を用意するよう伝えておいてくれないか?」
 なるべくコウェルズの目の届く範囲に檻を用意させる。エレッテにかけた術に関しては、彼女を移動させる際に上手く言いくるめれば平気だろう。
 コウェルズから離れると全身に強烈な痛みを生じさせる術式。それは暗示の要素が大半を占めるのだから。
「そうだな…王城上層階がいい。部屋は有り余っているし、どのみち彼女の存在は秘匿するからそっちの方が好都合だろう。ついでにあれくらいの年頃の子が喜ぶ贈り物も見繕うよう言っておいてくれ。ドレスでも花でも本でも宝石でも、何でも構わないから」
 なるべくなら穏便にエレッテをこちらの意思に従わせたい。その為の策に、ジャックは困惑するように眉をひそめた。
「…よろしいのですか?」
 問うてくる声には、ファントムはリーン姫を拐った敵であるという認識が強く出ている。
「…ファントム曰く、彼女はファントムの分身なんだそうだよ。そんな女性を、これから冬に向けてもっと寒くなる場所に置いてはおけないさ」
「…分身?」
「それがどういう意味なのかは、これから少しずつ解明していくよ。君にもちゃんと説明するから、今は何も聞かずに従ってくれないか?」
 我ながら疲れた声を出すものだとコウェルズは苦笑いを浮かべる。
「…わかりました」
 ジャックもそれ以上エレッテに不満を向ける様子は隠してくれた。
 一礼をしてから背中を向けるジャックを見送り、自ら選んだ捜索隊の面々を順番に見つめていく。
 負傷した者は全体の半数弱といったところか。
 動ける者達が馬の管理や負傷者の手助けをして、治癒魔術護衛部隊達の指示に素直に従っていく。
「---兄さん!!」
 ニコルの傷の手当ても丁度終わった様子で、コウェルズがニコル達に目を移した時にはすでにアリアがニコルに強くすがっている最中だった。
 泣きじゃくりながらニコルの胸にすりより、ニコルもアリアを抱き締めて頭を撫でてやっている。
 しかしその表情はあまりにも空虚なものだった。
“何の価値もない人間”
 ファントムは息子であるはずのニコルに目を向けることもなく、いとも簡単にそう告げたのだ。
 その言葉にどれほどの威力があるのか。
 言葉だけなら酷いと思えるものだが、父母に興味のなかったコウェルズには完全に理解することは叶わなかった。
「…ガウェ、少しいいかい?」
 アリアを安心させる機械のように頭を撫で続けるニコルから目を逸らして、コウェルズはもう一人様子のおかしい人物へと身体を向ける。
 ファントムに薄皮一枚傷をつけることは叶わなかったが、それでも唯一戦力を意識させたガウェ。
 だが戦闘が終わってからこちら、ニコルとは別の意味で府抜けたように呆けてしまっている。
 最後の一太刀をファントムに向けた直後に、何かファントムに耳打ちされた様子があったが。
 ガウェはコウェルズに呼ばれるままに近付いてくる。その普段と変わり無い自分のペースで歩むガウェを待ちながら、コウェルズはもう一度、捜索隊の負傷した姿をしっかりと頭に焼き付けた。
 完全な負け戦。
 それはコウェルズに今まで味わったことのない屈辱を深く刻み込み、どうしようもないほどの苛立ちと情けなさに全身を震わせる結果となった。

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 ソリッドにとって、そこは未知の空間だった。

 パージャは切り落とされた手首もアエルも治してやれると有り得ないような約束を勝手に口にして、だが話半分にしか聞いていなかったソリッドは果たされた約束に我が目を疑った。
 傷付いたアエルと深手を負ったパージャと共に、自身も片手を失いながら身を隠していた先で出会った一組の男女。
 パージャやエレッテと同じく闇色の髪を持つ男は隣に控えるように立った女に命じて、まずソリッドの落ちた手首を繋げてしまった。
 女はアエルが大切に抱えていたソリッドの手首を引き取ると、それをソリッドの傷口に宛がい、白く輝く霧を産み出したのだ。
 わけなどわからない状況のまま、ソリッドはまるで最初から傷など存在しなかったかのように綺麗に繋がった自分の手を見た。
 ソリッドも、そしてアエルも声にならなかった。
 その間に男とパージャはその場からいなくなっていて。
「…彼女の傷は…集中したいから、彼女を連れてついてきて」
 女はアエルの下腹部に手を添えると、何かに気付いたかのように表情を険しくひそめてしまった。
 何に気付いたのか。それは訊ねずともわかっていた。
 アエルはソリッドにナイナーダの言うことを聞かせるためだけに人質として捕らえられ、外傷だけでなく内側も痛め付けられたのだ。
 どんな酷い強姦を受けたのか。
 人が持つはずの喜怒哀楽の大半を持たずに育ってしまったアエルは、自分の苦しみを一切口にしようとはしなかった。
 ただソリッドに笑顔を向けようとする。
 ボコボコに腫れ上がった顔で、赤と青、痛ましすぎる痣で斑に染まる肌で。
 アエルをしっかりと抱き上げて女の導きに続くソリッドが目の当たりにしたのは、有り得ない光景だった。
 海に浮かぶはずの巨大な船が陸に浮いていたのだ。
 それは木々のさらに上に浮かび、遠くからでも気付けるほどの質量をしていたというのに、近くに寄るまで一切気付くことが出来なかった。
 これが、自分達には縁のない魔力という力なのか。
 言葉を失うソリッドとアエルを、女は不思議な浮力を使って浮かせ、船内へと誘った。
 説明のつかない状況にアエルは身を強張らせ、ソリッドは安心させるように強くアエルを抱き締めて。
「…こっちよ」
 広すぎる船内は船というよりも巨大で豪華すぎる宿泊施設のようで、案内されるままに到着したのは、大きなベッドをひとつ用意した一室だった。
「そこに寝かせて」
 女の指示に従い、ソリッドはアエルをベッドの端に寝かせる。
 そのまま女と場所を交代しようとしたが、見知らぬ場所が不安なのか、アエルはソリッドの繋がった手を弱々しく握り締めて離れることを拒んだ。
 行かないで、と全身で訴えるような姿にソリッドもそれ以上離れることは出来なくなり、女が仕方無いと少しだけ微笑んで反対側へと回る。
 ソリッドはベッドの端から中心へとアエルを寝かせ直し、その細い手を強く握りしめた。
「…外傷を先に治しましょう。それだけでも痛みは充分緩和されるはずだわ」
 女の言葉に「頼む」と頭を下げて、ソリッドの手首が繋がった時のように女から溢れ出す白い霧を目の当たりにする。
 その不思議な力はするするとアエルを包み込み、不安から強くソリッドの手を握り締めていたアエルの緊張をいっそう強いものにさせた。
 しかしそれも数秒程度のことで、全身の打撲が薄れていくごとにアエルは指先から力を少しずつ抜いていった。
 外傷はみるみるうちに癒されて、すぐに元のアエルの容姿が取り戻される。
「…ぁ」
「あまり動かないで…あなたの内側はまだ酷いままなのよ」
 痛みも引いたのかアエルは身体を起こそうとしたが、女はそっとアエルの肩に手を置くと、起き上がろうとするのをベッドに留めた。
「…体が綺麗に…」
「見える場所だけよ。難しいのは…ここから」
 驚くソリッドにも問題はこれからだと告げて。
 女の両手は、完全にアエルの下腹部に置かれていた。
「…必ず“全て取り除く”わ…だから、気を落ち着かせていて」
 意味のわからない言葉と共に目を閉じて、意識を集中させるように深く呼吸をして。
 女のかざす両手にまたあの白い霧が発生して、それはゆっくり労るようにアエルの下腹部へと吸収されていき。
「---…何だよ…これは」
 不気味に下腹部の皮膚がよじれ動いたとは思った。
 アエルも不安が再び首をびもたげたかのように強くソリッドの手を握り直す。
 女の白い霧に導かれるように下腹部が奇妙にボコボコと盛り上がり、そこから皮を破き出てきたのは。
「--何なんだよこれは!!お前何されたんだ!!」
 繋がる手をさらに強く、その指の骨が折れてしまいそうなほどの強さで握り返して怒声を撒き散らしてしまい、アエルがびくりと全身を強張らせた。
 アエルの下腹部から皮を裂いて出てきたのは、大小異なる大きさをした、いくつもの石だ。
 赤子の握り拳ほどもある大きさから、指先程度のものまで。
 それは明らかに、その辺りに適当に落ちているようなどこにでもあるだろう石だった。 
「ふざけんなっ!!こんな…こんなこと!!」
 強姦されてしまったことは知っている。アエルを捕らえた男、ナイナーダが自らそう口にしたのだから。だがこれは。こんなことが許されるはずがない。
「お願い落ち着いて!全て取り除くから!彼女が怯えてしまうと私もやりづらくなるの!!」
 女に強くなだめられて、ようやくソリッドは混乱でぶち切れた頭に冷静さを取り戻す。
 はっと我に返ってからもう一度アエルに目を向ければ、アエルは普段は見せない不安そうな瞳に涙を浮かべてソリッドを見上げていた。
 笑顔か無表情しか存在しなかったアエルが、こんな形で新しい表情を覚えるなどと。
 アエルはナイナーダからの強姦で、恐らく膣と肛門にいくつもの石を捩じ込まれてしまっていたのだ。
 それが下腹部から皮を破って排出されるという状況に一番怯えるのはアエルだろう。
 痛みはすでに麻痺してしまっているのか、それとも女の不思議な力で押さえられているのか。
 いずれにせよアエルは腹に石を抱えながら、それを顔に出さずに今まで苦痛に耐えていたのだ。
「…くそっ」
 あまりの光景に、アエルが受けた酷い仕打ちに。
 ソリッドはアエルの下腹部も顔も見ることが出来なくなり、女の邪魔にならないように気を付けながら強くアエルの上半身を頭ごと抱き締めた。
 自分が腰を折って、横たわるアエルが辛くないように。
 そうすればアエルの両腕もすがるようにソリッドの背中に回される。
「ソ…ド」
「大丈夫だ…絶対に傍にいる…もう離れないからな」
 まだ声は不安に霞むのかアエルは弱々しくソリッドを呼び、ソリッドも安心させるようにアエルを抱き締めて。
 視界の隅で女の白い霧がふたたび浮かび上がったことに気付きながら、ソリッドはアエルを抱えたまま強く目を閉じた。
 見ていられるわけがない。
 大切な女の腹から無理矢理詰め込まれた石が出てくるところなど。そんな非人道的な行いを受けたなど。
「…全部…取れるんだよな?」
「…大きなものはむしろ取りやすいの…問題は細かく砕けた破片」
「いい…すまねえ…任せるから」
 集中する女はアエルに対する思いやりにまで頭が回らないかのように一から説明を始めようとするから、アエルの体が強張ったことに気付いてソリッドも女に質問することをやめる。
 ただアエルを抱き締めて、女に全てを委ねて。
 どれだけ時間が費やされたかわからない。
 数分なのか、数時間なのか。
 痛いほど静かに張り詰める室内に女の溜め息が漏れたのは、だいぶ時間が経ってからのように思われた。
「--…体内はもう大丈夫よ。あとはもう一度だけ全身を確認させ」
 ようやく治癒が終わったという言葉に、ソリッドは強張る身体を奮わせて身を起こした。
 アエルに目を向けて、女に目を向けて、最後にアエルの下腹部に目を向ける。
 下腹部と、その周りに。
 かすかな赤にしっとりと湿る大小異なる石と、まるで砂を一掴みぶちまけたかのような欠片達。
 それがついさきほどまでアエルの中にあったなど。
 想像しただけで怖気が首筋を舐め、ソリッドはその石から咄嗟に目を逸らした。
 女も気づいてくれたかのように、石と破片をベッドに落とし、ソリッドにアエルを一度抱き上げるよう告げてくる。
 言われるままにアエルを横抱きにすれば、女はベッドのシーツを外し、石ごと小さくくるんで室内の隅に置いた。
 そして新しいシーツを部屋のタンスから取り出して、手際よくベッドにかけて。
「もう下ろしても平気よ」
「…すまねえ」
 言われるままにアエルを新しいシーツの上に寝かせてやれば、女は先ほどの険しい表情からは一変して優しい笑みを浮かべ、アエルの胸元をスタートとするように、そっと両手をかざした。
 そこに、ふいに物音が扉の向こうから響いた。
 その物音に女の手は止まり、ソリッドとアエルも物音のした方へと目を向ける。
 ソリッドからすれば背中側。扉のある方向だ。
 物音はわずかに呻くような声を響かせ、少しずつ近付くように次第にはっきりと聞こえてくるようになる。
 そして。
「…ロード…パージャ!」
 開かれた扉から姿を見せたのは闇色の髪の美しい男と、その肩に掴まりながら項垂れているパージャの姿だった。
 息を飲むソリッドとアエルが見つめることしか出来ない中で、女は慌てながらベッドを回って二人に駆け寄る。
 名前を呼ばれてパージャは一瞬だけ顔を上向けようとしたが、力尽きたようにその場に倒れてしまった。
「パージャ!!」
「どのみち死ねはしない。先にその娘を治してやれ」
 慌てる女を男は制し、倒れたパージャを抱え直しながらアエルを先にと指示を出す。
 どのみち死ねはしない。
 それは、傷がすぐに治る身体のことを言っているのだろうか。
 だがパージャは今、治らない傷を受けているのだ。
 ソリッドが傷つけた肩と、ナイナーダ達にやられた腰に。
 男はパージャをソファに転がすと、用が済んだとばかりに部屋を出ていってしまった。
 女は男の言葉に素直に従い、血濡れのパージャを置いてアエルの最終確認を優先してくれる。
 豪華なソファはパージャの血に汚れ、その血が今もゆるゆると静かに流れ出ている様子に気付く。
 死人のように顔色は白く、呼吸は浅い。
 意識があるのか無いのかはわからないが、パージャは苦痛を耐えるかのように険しい表情を浮かべていた。
「…すまねえ、アエルを頼む」
 あまりの異常事態に、ソリッドは女にアエルを任せて部屋を出た。
 扉を開けた向こうは広い廊下で、左右を確認して男の背中を見つけて追いかけて。
「待ってくれ!あんた!」
 呼び止めれば男は立ち止まり、静かにソリッドに振り向いてくれた。
 男の目から見ても端整な容姿は人をとても惹き付けることだろう。
 だがあまりにも冷たすぎる。
 アエルとはまた別の意味で表情が欠落しているような姿にソリッドは一瞬怯んでしまった。
「あの娘が治り次第、船から降ろしてやる」
 その隙を付くように男が口を開き、
「…あいつは…」
 ふたたび背中を向けて歩みを再開しようとするのを、かすれる声で止めた。
 あいつは。パージャは。
 大丈夫なのかと。
 男は再度ソリッドに顔を向けるが、今度は口を開かなかった。
 男はパージャを連れてどこかへ消えてしまった。そしてようやく合流して。
 瀕死状態のパージャを連れてどこに行っていたのだ。
 それに。
「…それに、エレッテは!?」
 もう一人、気にかかる娘がいる。
 彼女の幼い頃を少しだけ知っているのだ。
 人の扱いをされなかった可哀想な娘。
 パージャはエレッテを隠したと行っていたが、どこに隠しているのだ。
 もしこの船が安全な場所だというなら、この船内のどこかにいるのだろうか。
 それとも万が一が起きてしまったのか。
 ソリッドは必死にエレッテの身を案じるが、その様子は男からすれば非常に面白いものだったらしい。
 表情の無かった顔。しかしふと口角を上げて、わずかに微笑む。
 そしてさらに唇は開き。
「…おかしな男だ…気になるなら、好きなだけここにいればいい」
 エレッテの状況は告げず、しかしヒントを残すように。
 眉をひそめたソリッドに再び笑みを浮かべて、今度こそ男は足を止めることなく立ち去ってしまった。

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