第55話


第55話

 最後にしっかりと実父の顔を目にしたのは何年前だろうか。
 ニコルがまだ子供だった頃、彼はニコルとよく似た銀の髪をなびかせながら気まぐれに村に会いに来てくれていた。
 ニコルが村を出てからは音信不通となり、王都の城下で十数年ぶりに再会した彼は仮面を被っていたから顔を見ることはできなかった。
 そしてファントムの襲撃の際に、父がファントムであるという最悪の結果を見せつけられ。
 銀だった髪の色は闇色に変わっていた。
 見た目の年齢はニコルが最後に父と別れた時と何ら変わらなかった。
 たった一瞬だけの確認だった。だから見間違いである可能性を、自分の名を思い出した今でも心に抱いていたのだ。
 なのに。
 今、ニコル達の前で優雅に微笑みを浮かべる彼は、ニコルに合わせた目を細める。
 そして完全に確信させられる。彼は実父で、同時にファントムであると。
「お--」
 親父、と無意識に呼びそうになった口は、コウェルズの無言の制止によりぎりぎりで踏みとどまれた。
 パージャを探しに訪れた闇市で再会したファントムは圧倒的な存在感を放ちながら、人形のように生気のないパージャに自分の魔力を吸収させる。
 ニコルも、コウェルズ達も、援軍も、魔術兵団も。ただファントムが圧倒的な存在感を醸すというだけで誰も動けない状況のまま。
 ファントムの魔力がパージャに吸収され、
「ッガァアアァァッッ」
 獣のような狂ったパージャの叫びが辺りに響き渡った。
 叫びの後は項垂れるように背中を丸くし、止めどなく肩から血を溢れさせる。
 パージャを探しに来たというのに、パージャの異常な姿に恐怖が肌を舐めた。
 ニコルだけでない、全員がそうだったろう。
 その中でファントムだけが冷たい微笑みを浮かべて、静かに辺りを見回す。
 そして。
「さあ、存分に復讐させてやろう」
 美しい声で獣と化したパージャを放ち、暴挙を許されたパージャが地面に膝をついているナイナーダに、手にしていた短剣を上から走らせた。
 凄まじい早さと凄まじい力で脳天を砕きに向かうパージャに、ナイナーダが腹を押さえたままぎりぎりで逃れる。
 パージャは腕ごと短剣を大地にめり込ませたが、尋常ではないスピードですぐに体を起こしてさらにナイナーダへと向かった。
 何度も獣のような咆哮を上げ、逃れるために後ろに下がるナイナーダを追い詰めていく。
 時間にすれば数秒かかっただろうか。ナイナーダが襲われはじめてからようやく身動きを思い出した他の魔術兵団達が、パージャの動きを封じに向かった。
 たった一人を相手に、十人が。
 その隣をまるで危険を感じさせずに、ファントムがニコル達に近付いて。
 正確には、ニコルとルードヴィッヒが脇を固めるエレッテに向かっているのだろうが。
「…パージャはいい、戦闘体勢のまま陣形を崩さず待機を。魔術師は結界を張っておけ」
 近付くファントムが向かう先にいるエレッテへの道筋を邪魔するようにニコル達の前にコウェルズが立ちはだかり、その周りをフレイムローズ達援軍が固める。
 ガウェは空から、ファントムを睨み付けながらもコウェルズの命に従った。
「ニコル、ルードヴィッヒ、君達は何があろうが彼女を手放すな」
 初めは力を使いすぎて倒れたエレッテを庇っただけだった二人の手が、コウェルズの命により別の意味を持つ。
 ルードヴィッヒは強張り、ニコルは。
 ニコルはファントムから目を逸らせないまま。
「…ファントム」
 エレッテが口にする名前に援軍達の気配がぴりついた。
 彼らはリーンを介してファントム捜索の為に選りすぐられた者ばかりで、それが早々にファントムを目の前にして。
「そちらの娘を返してもらおうか。私の大切な分身なんだ」
 優雅な笑みを絶さないファントムは剣も何も持たないままエレッテを求める。
 その背後ではパージャ一人を相手にした魔術兵団達の戦闘が繰り広げられており、穏やかなファントムを妖しくおぞましく彩っていた。
「…リーンを今すぐ返していただけるなら…考えましょう」
 ファントムと対峙したコウェルズは神経を尖らせながらもファントムの要望には答えられないことを告げる。
 互いに静かに見つめ合い、あまりにも穏やかすぎる時間は周りから発せられる緊張を全く受けていない様子だった。
 誰もがコウェルズとファントムに目を向ける。
 ニコルは、ファントムだけに。
 しばらくの間の後にファントムはエレッテに視線を向けた。その動線の中に、ニコルは含まれてはいなかった。
「リーン姫も彼女同様、私の分身。私の元にあることが本来の姿だ」
「ふざけるなっ!!」
 ファントムの発言に、吹き出す怒りは全員の頭上からだった。
 リーン姫を返さないとの言葉に頭に血を上らせ、ガウェは生体魔具の烏と共にファントムへと急降下する。
「ガウェ止まれ!」
 コウェルズの命令も通じないままガウェは両手に投げナイフを生み出し、
「フレイムローズ!!」
 ガウェが腕を振るうより先に、コウェルズの命を受けてフレイムローズが魔眼の力をガウェに放った。
 瞼を開き両目から大量の魔力が放出され、ガウェをがんじがらめに捕らえる。
 その力は凄まじく、ガウェが手にしていた剣も生体魔具も、跡形もなく消し飛ばされてしまった。
「っぐ!!」
 フレイムローズの力に拘束された状態のまま、ガウェが地上に下ろされる。
「フレイムローズ!これを離せ!!」
「命令を聞いてよガウェ!!」
 身動きも取れずにフレイムローズに怒りをぶつけるガウェと、強くなりきれない声で制すフレイムローズと。
 一連の流れが止まれば、ファントムの視線は優しさを滲ませながらフレイムローズに向かった。
「…さすがは最上と名高い魔眼だ。凄まじい力をここまで上手く操るとは、素晴らしいことだ」
 ファントムに誉められ、フレイムローズの頬が喜びに上気する。
 また穏やかな空気を発するような状況。だがファントムの後ろでは、今も一対十の戦闘が繰り広げられている。
 魔術兵団は完全にパージャを殺すつもりで挑んでいるはずの状況で、だというのにパージャが軽く凌駕して。
「…ファントム…パージャに何をしたの?」
 微かにおびえるエレッテの声は、今の自分を悲観する間も惜しむように、獣のように理性を失った状態のパージャを心配していた。
「特殊な武器を魔術兵団が開発した為に身体に深手を負ったのだ。その痛みを忘れさせてやったまでだ」
 ファントムの説明は簡潔で、理解するのにしばらく時間をかけてしまいそうになる。
 だが答えは今のパージャを見れば出ていた。
 傷の残らないはずのパージャの肩からは鮮やかな血が溢れていた。恐らく背中側にも。
 不気味な色に染まる衣服は、すでに血の赤が大半を占めている。
 その深手を受けたがゆえに苛まれる痛みを感じなくさせる為に、ファントムはパージャの痛みを自我ごと消し去ったのだ。
 今のパージャは、ニコルやルードヴィッヒ達が知る憎みきれない青年ではない。
 青白い顔をした、死人のような狂人。
 ファントムの命だけは聞き入れられるかのように、パージャは魔術兵団だけを圧倒していた。
 そしてパージャを操るのだろうファントムが、右腕をわずかに上げる。
「私の仲間を返してもらうぞ」
 広げられた手のひらに集まる凄まじい力が、ファントムの魔力の質量の異常さを物語っていた。
 ニコルですら、ガウェですら、コウェルズですら、濃密なまでに凝縮された力をいとも簡単に生み出すなど出来ない。
 魔力を圧縮していたというならそれは魔眼に近いもので、だがファントムは魔眼ではない。
 手のひらに集まった力は異次元への穴が開いたかのような闇色をした球体となり、それはまた形を変えて見事な長剣となった。
 魔具、と単純に口にしていい代物ではない。
 それほど、その長剣が発する魔力は禍々しかった。
 しかし幼子のように怯えてなどいられない。
 騎士達は各々が得意とする魔具を強く握り締め、魔術師達は結界の力を強めてファントムを睨み付けた。
 コウェルズの号令があればどんな形であれすぐに従える。
 張り積めながらも洗練された騎士と魔術師達はただその時を待ち、
「…あなたと戦うつもりはない」
 しかしコウェルズが発した言葉は、待機する者達に向けられたものではなかった。
 ファントムに話しかけるコウェルズへと、皆の視線が集中する。
 自分達はファントムを捕らえる為に選りすぐられたのではなかったか。
 そう物語る眼差しがいくつもあった。
 だがそれらの視線を受けようが、コウェルズはファントムだけに目を向け続ける。
 ファントムも、長剣を片手で下に構えながらコウェルズの言葉を待っていた。
 次に何を言うつもりか。
 誰もが見守る中で。
「…あなたが何の為に各国に散らばった古代兵器を集め、リーンを拐ったのか。核心には触れているつもりだ…あなたは必ず王城に戻ってくる…王城最深部、幽棲の間に。そこに封じられた何かを解放する為に」
「……」
 コウェルズの言葉を、ファントムは静かに聞いていた。
 静かといっていいのか、辺りの静けさがあまりにも耳を苛むと表した方が的確なのかわからない。
 ニコルも聞かされている、ファントムの最終目的地であるだろう幽棲の間。
 以前そこでニコルは、謎の女に首を絞められた。
 まるで幼い頃の悪夢を体現するかのように、華奢な指先に似合わない凄まじい力で。
 もしあの女が幽棲の間に絡むとするなら、そしてそこに封じられている何かをファントムが解くつもりなら。
 万が一、あの女が幽棲の間に封じられた何かなのだとしたら。
 怖気がニコルの首筋を舐める。
 誰もが見守る中で、ニコルだけは自分の中に生まれた怖気から逃れたくなっていた。
 だがファントムから、父から目を離せない。
 幼い頃から待ち焦がれ続けた人なのだから。
 憧れながら、恨みながら、幼い頃から、大人になった今でさえ。
 ニコルにとって彼は、やはり特別な人なのだ。
 パージャと魔術兵団達の戦闘が遥か遠くに感じるほどの静けさに包まれながら、皆の視線を受けたコウェルズがさらに口を開く。
「…ならば、いっそのこと王城に来られてはどうか…私はあなたを歓迎する」
 誰もが予想しなかった言葉で。
 その言葉に、騎士と魔術師達は強く動揺した。
 そしてニコルは、ただ目を見開く。
 コウェルズの考えがわからない。
 ファントムを王城になど。
 そんなことをしてしまったら、そんなことをされたら。
 ニコルの逃げ場所は潰されてしまう。
 それは同時にアリアとは家族でいられなくなるという結果にも繋がってしまうのだ。

--嫌だ

 心の奥底が痛みに嘆く。
 嫌だと、まるで幼子のように。
 アリアと家族でいたいのだ。
 女としてアリアに劣情を抱いておきながら、それでもニコルは、アリアと家族で、兄妹でいることを選んだのだ。
 だから、ファントムが、彼が王城に戻るなど--
「…それで、私の正体を晒すか?自分の立場を危うくする結果になろうが」
 口を開いたファントムは、自分が王城に戻った際にコウェルズがどういう動きを見せるのかをわかっている様子だった。
 ニコルが恐れる通り、ファントムが王城に戻るならその正体を宣言するだろうと。
 今この場に、ファントムの正体を知るものがどれだけいるというのだ。
 コウェルズとファントムの会話を聞いて、ファントムが悲劇の王子ロスト・ロードだと誰が気付ける。
 だというのに。
「それが国の繁栄に繋がるなら、王は私でなくても構わない」
 コウェルズの言葉に、騎士と魔術師がさらに困惑に包まれた。
 ニコルの隣ではエレッテが健気にファントムを見つめ、ルードヴィッヒがニコルに視線を向ける。
 ルードヴィッヒはナイナーダがニコルに頭を垂れた時を思い返している様子だった。
「…お前は父にも母にも似てはいないな…“国”に育てられたか」
 鼻で笑うファントムに、コウェルズも軽く微笑み返す。
 互いにエル・フェアリア王家の繋がりを見せるような、よく似た美貌を朝日に照らしながら。
 そしてそこには、否応なくニコルも加わるのだ。
「お前の話に乗ることが、一番の近道になるのだろうな…」
 ファントムの唇から、肯定的な音色がこぼれる。
 ファントムが何を欲しているのかはわからないが、望みを叶えるならばそれが最良の道となるのだと。
 辺りの動揺は空気を固まらせるようにまた静まり、
「…だが、私は私の中に生まれた憎しみを消せないのだ」
 静寂の世界が、ファントムを中心として突如嵐へと変化した。
「魔術師は結界を維持しながら騎士達の援護を!騎士は陣形を絶対に崩すな!!」
 ファントムの凄まじい魔力が渦巻く中でコウェルズがようやく強い口調で指示を出し、たった一人を相手に数十名が忠実に己の任務の全うに向かう。
 それはファントムとの戦闘が始まった瞬間だった。
 騎士がすぐに前線に向かい、その後ろを魔術師達が補佐する。
 見事に調教された馬は荒れ狂う魔力の渦に足を竦めることもなく主人の手綱に従っていた。
 コウェルズはそのさらに後ろに立ち、隣にフレイムローズを配置させる。
 ニコルとルードヴィッヒは、最後尾となった。
 最後尾となりながら、何重もの結界による保護の中にいる。
 ファントムが狙うエレッテを奪われない為に。
 ニコルは始まる戦闘を眺めることしか許されなかった。
 ファントムという王家を相手にする事実のせいでフレイムローズの魔眼は使えないだろう。だがコウェルズの命にガウェの拘束を解き、解放されたガウェもすぐさま烏を生み出して空に上る。
 精鋭を揃えたはずの部隊。
 なのにその戦力は、ファントムただ一人の魔力の前にはあまりにも子供じみたものだった。
 ガウェを除けば戦闘に加わる騎士達の中に王族付きの姿は見当たらない。だが、だとしても。
 ニコルも知った顔が大半だ。
 各部隊長に認められるほどの実力者達なのに。
 右手に構えた剣を振るうこともせずに、ファントムは左手に溢れさせた魔力だけで騎士達を翻弄していく。
 ファントムは騎士達を傷付けるつもりがないのか、余裕の笑みを浮かべながら、かかってくる騎士達を魔力の渦で翻弄するだけに留めていた。
 ガウェですら、魔具がひとつもファントムに届かない。
「…すごい」
 呟いたのは、ルードヴィッヒだった。
 敵であるはずのファントムの余裕に満ちた立ち姿に、その魔力の凄まじさに。
 まるで憧れるかのような眼差しを向ける。
「気を抜くな…いつ彼女を奪われるかわからないんだぞ」
 苛立ちの交じったニコルの声に、ルードヴィッヒはびくりと背筋を伸ばした。
 強さを欲するルードヴィッヒの目にどれほどファントムが魅力的に映るのか、ニコルには痛いほど理解できる。
 しかし惚けているわけにはいかないのだ。
 結界に守られながらも、ニコルも魔具を手に持ち、慣れない結界をエレッテごと自分の周りに張る。
「…お前はいい」
 同じくルードヴィッヒも不馴れな結界を張ろうとしたが、それはニコルが拒んだ。
 魔具だけに集中しろと。そう命じる理由は、援軍が訪れる前にルードヴィッヒが張った結界を見ているからだ。
 初めての戦闘に対する不安の現れなのか、術式に不馴れなニコルよりも弱々しい、無くても困らないような結界。
 そんなものに力を使う暇があるなら、魔具だけに集中させた方がましだ。
 ニコルの命令にルードヴィッヒはぐっと唇を噛むが、わずかに顔を向けてきたコウェルズもニコルに同意見だという眼差しだった。
 熾烈を極める戦闘が繰り広げられているはずなのに、その中心にいるファントムは余裕を崩さない。
 コウェルズは魔術師達に次々と指示を出すが、どれも空振りばかりだった。
 魔術師達全員の力を合わせようが、ファントムの膨大な魔力に敵わない。
 騎士達の魔具もただのひとつもファントムには届かず、焦りが生まれ始めるようだった。
 これではすぐに陣形が崩れる。
 騎士達の中で完全な戦闘経験を持つのはニコルだけで、少年兵として戦場にいた頃の経験がその答えを導き出してしまった。
 いくら優秀な者達を集めたところで“平和”に馴染んだエル・フェアリアで生まれ育った者達には魔力や実力以前の問題なのだ。
 もし対抗策があるとするなら。
「…コウェルズ様、魔術兵団をこちらに呼べないでしょうか」
 戦闘に慣れているのだろう魔術兵団が加われば少しは形勢が変わるかもしれないとそう助言するニコルに、しかしコウェルズは首を横に振り否定した。
「…パージャただ一人にあっちも必死さ。それにこちらに呼び寄せたとして、あのパージャまでついて来たら困る」
 魔術兵団は正気を無くしたパージャの相手で忙しい、と。
「でしたら私が向かいます!」
 自分の力がファントムにどこまで通用するかはわからないが。
 それに、自分が出ることでファントムの手が少しは緩むかもしれない。
 そんな捨てきれない淡い期待を申し訳程度に胸に抱きながら前に出ようとするニコルだったが、コウェルズは片手で制して。
「…君には彼への切り札でいてもらいたい」
 コウェルズはニコルを、最終手段として残しておきたいのだと告げた。
 不安げなフレイムローズの表情がニコルに向けられる。その顔を、ニコルはわざと見ないようにした。
 このままただ指をくわえて待機するしか無いのか。
 コウェルズも今後の展開に自分が持つ知識の全てを使っている様子だが、そもそも政務の戦略にばかり使っていた頭が戦闘に生きるかも謎だった。
 ファントムを相手に、あまりにもお粗末な。
 だから、考えなければ。
 ニコルはこの不利な状況を解決する為に必死に頭をひねった。ファントムに切実な眼差しを向けて、胸に生まれる淡い期待を何とか押さえ込みながら。
 そこに。
「あの人は…いったい何なんですか?」
 ルードヴィッヒの未熟な疑問が、ニコルの思考を途切れさせる。
「…今はそんなことを気にする時じゃないだろ」
「ですが!…コウェルズ様は、ファントムが来るなら自分が王になる必要は無いなんて…おかしいじゃないですか!」
 困惑の表情を強く表に出して、ルードヴィッヒはニコルに身体を向ける。
“それが国の繁栄に繋がるなら、王は私でなくても構わない”
 コウェルズはファントムが王城に訪れるなら、まるで王座を何者かに譲るかのような発言をしたのだ。
 その発言はこの場にいた者達全員に衝撃を与えたことだろう。団長であるクルーガーやリナトがいたなら激昂するほどの。
 いや、それとも団長達ならファントムの姿に受け入れようとしてしまうのか。
「それに…魔術兵団が言っていた…あの言葉は」
 ルードヴィッヒの疑問に、ニコルの脳内でもナイナーダの声が再生されてしまう。
“ニコル・エル・フェアリアがいる以上、今現在王座に最も近いのはあなたではありませんよ”
 そう口にして、ニコルに膝を折った魔術兵団達がいるのだ。
 ニコルがいる以上。それがどういう意味なのか。
「どうして魔術兵団がニコル殿に…」
「いい加減黙ってろ!!」
 考えたくもない質問攻めに、俯いて拒絶する。
 黙らせる為の怒りの口調は、うまくルードヴィッヒの肩を震わせ静かにさせた。
 だが。
「…彼はファントムの息子」
 ニコルとルードヴィッヒの間から。
 か細い娘の声が、ニコルに背後のエレッテを思い出させる。
 静かに状況を見守っていたはずのエレッテ。
 ルードヴィッヒは驚きの眼差しをエレッテに向け、そしてニコルへと視線は移された。
 エレッテが口にした「彼」がニコルであることには、ルードヴィッヒでも気付けると。
 困惑ばかりの紫の瞳を、ニコルは逃げきることも出来ずに受けてしまう。
 激しい戦闘が行われている最中に呟かれた小さな声は、聞こえたとしてもコウェルズやフレイムローズまでだろうが、二人は聞こえないとでもいうように戦況だけに集中していた。
 ニコルも集中しなければならない。だというのに、まるでこの小さな空間だけがすっぽりと辺りから遮断されたかのように、別の空気に被われる。
 ルードヴィッヒは困惑の眼差しをまたエレッテに戻し、エレッテも。
「…ファントムは…エル・フェアリアの王族よ」
 エレッテも、ルードヴィッヒに答えを教えてしまった。
「…そんなこと」
 理解しがたい事実にルードヴィッヒは無意識のように頭を弱々しく横に振る。
 ニコルは、俯き唇を噛むことしか出来なかった。
 止めようと思えばエレッテの口を塞げたかもしれない。
 しかしニコルがファントムの息子であるという事実をファントムの仲間であるエレッテから直に聞かされて、もはやわかっていたはずの真実にまた揺らいでしまったのだ。
 自分ではもう認識していた。だが誰かの口からも聞いておきたかった。
 コウェルズや魔術兵団などではなく、ファントムに、父に近い人物からの確実な言葉で。
 まるでそれが、ニコルと父の繋がりを確かなものにするとでもいうかのように。
 それにエレッテはニコルに言ったのだ。ニコルが知らない真実も知っていると。
 まさにそれを証明するかのように。
「ニコル・スノウストーム・エル・フェアリア・インフィニートリベルタ。それが…彼の名前よ」
 エレッテはニコルがようやく思い出した名前を、昔から知っていたかのようにするりと口にした。
 長ったらしい、エル・フェアリア王家であることを示すニコルの名前。きっと名付けたのもファントムなのだろう。
「…インフィニートリベルタ…パージャが以前言っていた…」
 そしてルードヴィッヒも、名前の一部に聞き覚えがあると眉をひそめた。
 インフィニートリベルタ。
 その名前は、ファントムの王城襲撃の際に天空塔から飛び下りたパージャが口にしている。
 ニコルはパージャの口から二度聞かされた。天空塔で、そしてリーン姫の埋められていた新緑宮のすぐ側で。
「ファントムとはいったい…」
 困惑のせいで情けない表情をさらすルードヴィッヒが、何度もニコルの姿形を確認するような目を向ける。
 ファントムそっくりに成長したとアリアに言われた姿を。
「…王子よりも彼の方が王位継承順位が上なら…その父親は一人だけよ」
 ファントムが何者なのか。知りたがるルードヴィッヒにエレッテは答えと変わりないヒントを与える。
 コウェルズよりニコルの方が王位継承順位が高いなら。
 コウェルズ達より上の代のエル・フェアリア王家の人間など限られている。
 大戦当時のエル・フェアリア王は、自分の息子以外の王族を根絶やしにしたのだから。
 そしてデルグより順位が上である人物は、史実上たった一人だけだ。
 そのたった一人に気付いて、ルードヴィッヒの表情が青ざめる。
「……まさか」
 有り得ないと、しかし同時に妙に納得するような眼差しを。
 創始よりエル・フェアリアの王座は王の長男に与えられてきた。
 だが唯一の例外がデルグ王だった。
 長男であるロスト・ロードの暗殺をきっかけに、エル・フェアリアで初めて次男が王位を継いだのだ。
 コウェルズはその長男というだけで、歪みの解消にはならない。
 もしニコルが大戦当時の王の息子だったとルードヴィッヒが想像したとしても、それも順位で例えるならロスト・ロードやデルグに次ぐ三男の地位にニコルが甘んじることとなり、コウェルズより上位に立つことは出来ない。結局答えは決まっているのだ。
 ニコルがコウェルズより上位にいるとするならば、その父親は。
 ファントムはロスト・ロード以外に有り得ない。
「…やめろ」
 ファントムにも目を向けるルードヴィッヒを、ニコルは無意識に止めてしまう。
 ファントムと父子の繋がりは欲しい。だが王家の血などいらないのだ。
「…俺は平民の父と母を持つ、普通の人間だ」
 生まれ育った環境と、残された大切な妹と。
 彼との父子の関係も、アリアとの兄妹の関係も手放したくないから、ニコルは王家の血だけを拒絶する。
「俺は--」
 だが言葉はそこで暴風に揉まれて消えた。
 ファントムがいたはずの場所から凄まじい嵐のような風が放射状に流れて騎士達を吹き飛ばす。
「っく」
 ニコルとルードヴィッヒ、そしてエレッテは何重もの結界に守られて無事だった。しかしコウェルズは暴風の直撃を受けて腰を低くする。
 まだ他の者達よりもファントムより遠い位置にいたから何とか足を大地に踏みしめていることは可能な様子だったが、それも困難となった時にぎりぎり吹き飛ばされる直前でフレイムローズの力がコウェルズを包み守った。
 何が起きたのか、目を逸らしていたニコルにはわからない。辺りには吹き飛ばされた馬達が痛みに嘆くような声を上げて何とか立ち上がろうとする姿が見られた。
 騎士達もすぐに立ち上がるが、何人かは負傷したのか膝をついたまま苦痛に表情を険しくする。
 魔術師達も、騎士達ほど吹き飛ばされた数は少ないが、息を飲むようにファントムの様子を窺っていた。
 唯一体勢も戦意も崩していないのは空に逃れたガウェだけで、烏と共に遥か上空に舞い上がってから凄まじい勢いで落下を始め、これが最後だとばかりに自身の周りに膨大な量の魔具を翼のように広げた。
 ファントムはただ静かにガウェを見上げている。その姿から、何人もの騎士達を吹き飛ばすこととなった理由がガウェであるとニコルは気付いた。
 ただ愛しいリーンを一心に思うガウェの力がファントムに届いたのだと。
 明らかな負け戦の中で、ガウェだけが。
 ファントムはガウェからの攻撃を避ける為に力を使い、その余波が騎士達を吹き飛ばしたのだ。
「コウェルズ様!下がってください!!」
 ガウェが何をするつもりなのかを察してフレイムローズが強くコウェルズの腕を引くと同時に、魔術師達の力が他の騎士達を守るように結界を張る。
 朝日の昇る空に浮かぶ染みのような黒い魔具達。それが全て、ファントムめがけて降り注いだ。
 魔具が大地に衝突する爆音が響き渡り、黒い雨のように視界を遮る。
 誰もが身を屈める中でニコルが目にしたのは、烏から手を離して太刀をファントムめがけて振り下ろしたガウェと

「---…」

 その太刀を余裕で躱し、勢いを殺せないまま大地に衝突しようとしたガウェの胸ぐらを掴み引き寄せて何かを耳打ちするファントムの姿だった。
 烏が、そして大地にめり込んだ魔具達が黒い霧と変わる中で、耳打ちが終わり身体を離したファントムをガウェが神妙な表情を浮かべて見上げている。
 たった一瞬のうちに、ガウェの戦意はすべて抜け落ちてしまった。
 ファントムは両膝をついたガウェから手を離すと、隆起した大地や騎士と魔術師達の眼差しをさほど気にすることもせずに、まるで普段通りかのように静かに足を動かした。
 有り得ないほどの魔力を持ち、ガウェの力ですら傷付いていない姿を見せつけられて、もはや誰もがファントムの動きを目で追うことしか出来なくなっている。
 その状況の中でファントムはニコルに近付き。
「…エレッテ、来い」
 ニコルではなく、その後ろに庇われたエレッテに手を差し出した。
 ファントムは全くといっていいほどニコルを視界には入れていない。
 ニコルがどれだけファントムを見上げようが、ファントムはニコルなど存在しないかのような様子だった。
 ニコルとルードヴィッヒの背後ではエレッテがびくりと肩を震わせるが、その大きな手をとろうとはしない。
 その理由は。
「…無駄、ですよ…彼女にはすでに私自ら術式をかけたので…」
 理由は、わずか二、三歩程度だけ離れた位置でフレイムローズに庇われていたコウェルズが口にした。
 エレッテにはすでに術がかけられているのだ。
 コウェルズ自ら、コウェルズから離れると術が発動するようにと。
 ファントムはわずかにコウェルズに目を向けてから再びエレッテに視線を戻し、エレッテも強張った表情のまま静かに頷いた。
「…無理に引き剥がせば…彼女がひどく苦しむことになる」
 わずかによろけるコウェルズを、ファントムはつまらなさそうに一瞥し。
「っ…」
 その後すぐに、ファントムはエレッテに差し出したとは逆の手に持っていた剣をニコルの首元に突き付けた。
 突然の出来事に全員が息を飲む。
 ニコルも、自分の首にあてがわれた漆黒の剣に目を見開き、動揺を見せた。
「術式を解くなら、私もこの剣を引こう」
 息子であるはずのニコルに刃先を当てながら、ファントムはコウェルズにエレッテの術を解くよう命じる。
 ニコルがコウェルズにとって、国にとってどういう存在であるかを理解した上での人質であるかのように。
「…あなたには出来ない」
 しかしニコルはファントムにとっても息子であるはずで。
 ファントムがニコルを傷付けることなど出来ない。警戒しながらもそう口にしたコウェルズを嘲笑うかのように、ファントムが鼻で笑った。
 そして。
「私の分身である娘と、何の価値もない人間を天秤にかけたつもりか?」
 聞くに耐えない言葉が、ニコルの耳を苛んだ。
 時が止まるような感覚。
 呼吸が出来なくなるような、視界が端から闇に染まるような。
 今、何と言われたのか。
 憎みながらも、憎みきれずにその姿を追いかけていた人から、何と。
 焦点が定まらず気持ち悪くなる中で、
「これは実験で生ませただけの失敗作だ。価値など存在しない」
 まるでニコルという生きた人間など存在しないかのように、ファントムはその全てを否定した。
 いや、否定など生ぬるい。ファントムは端からニコルなど気にも留めていなかったのだと。
 喉の奥を捻り潰されるかのような感覚に声が出なくなる。
 何かがニコルの胸を壊して、ニコルの世界を壊して。
 止まらなくなる濁流に身を任せるように、ニコルは声もなくファントムにすがるように掴みかかった。
 携えていたはずの魔具の剣は消えてしまっていた。それほどの衝撃を受けたまま、そこに気付かないまま掴みかかり、
 しかしその手は届かない。
 届かないまま。

「---」

 装備に守られたはずの腹部に奇妙な衝撃が走り、視線を落としたニコルは、ファントムの剣が腹を刺す様子を他人事のように目の当たりにする。
 その切っ先はすぐに引き抜かれ、溢れ出す血に傷口を押さえることもせずにニコルは両膝を地に付けた。
 痛みなど存在せず、平衡感覚も無くしたまま、空虚に苦しむ胸がニコルの頬にひとしずくだけ涙の跡を走らせた。
 腹部から血を滲ませ、それは下へと広がり続ける。
 しかし痛みなど感じていないかのように、項垂れたままニコルは動かなかった。
 誰もが息を飲み見守る中で、ファントムはニコルを刺した剣を振るって血を飛ばし、そして後ろに顔を向ける。
「…パージャ」
 低い美声に名前を呼ばれるのは、もうひとつの戦場で狂人と化していたパージャで。
 そちらも一方的な戦闘は既に静まっており、辺りに倒れる魔術兵団達を気にも留めずにナイナーダの頭を片手で掴み持ち上げていたパージャが、飼い慣らされた獣のように声に反応してファントムに顔を向けた。
 パージャは手にした短剣で何度もナイナーダの腹を裂いていた様子で、短剣を持つ腕が肘まで禍々しい血に濡れている。
「来い」
 短い命令に素直に従う姿は狂人でありながら人形の様で、ナイナーダに興味を失ったかのようにいとも簡単に頭から手を離して捨ててしまう。
 そしてふらりふらりと覚束ない足取りで近付き、パージャはエレッテに血濡れていない手を伸ばした。
「パージャ!!」
 その手を振り払いエレッテの前に立つのはルードヴィッヒだが、パージャはまるで道を阻む邪魔な石をどかすかのようにルードヴィッヒを蹴り飛ばしてしまう。
「ぐあ!」
 構えも取れないほど一瞬で蹴り飛ばされて、ルードヴィッヒは無様に頬を土で汚した。
 邪魔をする存在がいなくなり、パージャは再びエレッテに手を伸ばす。
 エレッテは仲間であるはずのパージャに怯える様子を見せはしたが腕を引かれるまま素直に従い、しかしその場から動くことは叶わなかった。
 たった一歩だけコウェルズから離れようとしたその時、バチンと何かが弾けるような凄まじい音が響き渡り、
「--きゃあああぁぁぁぁぁ!!」
 背中を仰け反らせて、エレッテが痛みに絶叫する。
 絶叫と共に響くのはバチバチと何かが弾け続ける音で、それは腕を引くパージャをも苛むかのように、エレッテに触れているパージャの手を焦がした。
 あまりの衝撃に、パージャは血濡れの手のひらに掴んでいた短剣をその場に落としてしまう。
 肉の焼け焦げる嫌な匂いが辺りに充満し、
「…離してやれ」
 ファントムの命令にようやくパージャがエレッテから手を離した。
 掴んでいた手のひらは酷く焼けただれていたが、すぐに魔力の渦が発生して火傷を治してしまう。
 パージャに掴まれていたエレッテの腕も同じで、あまりの衝撃と痛みに手を離された瞬間に腰を抜かした。
 コウェルズのかけた術が焼いたのか、パージャに掴まれたエレッテの腕は服ごと焼けてしまっているが、焼けた服の跡だけを残して肌は再生する。
 コウェルズがかけた術式を解かなければエレッテは連れ帰ることが出来ない。
 ファントムはやれやれとわざとらしいため息をつくと、
「やむ終えんな…フレイムローズ」
 コウェルズを庇うように隣に立つ魔眼のフレイムローズを、しっかりと正面から見下ろした。
 その眼差しにフレイムローズはびくりと肩を震わせるが。
「何があってもその娘を守り抜け。その娘は私そのものだ」
 ファントムからの命令に、フレイムローズの瞼が開かれた。
 王家の命に従うようにしつけられた魔眼。
 フレイムローズは、ファントムの命に素直に従い、開いた瞼の奥に渦巻く魔眼から一匹の巨大な蝶を出現させる。
 いくつもの大小異なる眼球が密集した身体の、禍々しい蝶。
 今までの魔眼蝶とは比べ物にならないほどの大きさの蝶は人間の赤子ほどもあり、それが羽を広げてエレッテに向かい。
「--…」
 エレッテを労るように巨大な蝶がその膝に留まると同時に、ファントムとパージャの姿が霞のように消え去ってしまった。
 突然消える二人にどよめきよりも先に痛いほどの静寂が辺りを包み。
「…完敗、だね」
 コウェルズはパージャの落とした奇妙な短剣を拾うと、忌々しいと言わんばかりに眉を強くひそめた。
 皆がファントムとパージャに注意している間に魔術兵団にも逃げられて。
「…動けるものはすぐに立ってくれ。まだ使える馬に怪我人を乗せるんだ。モーティシアにも連絡を。アリアに治療させる。全ての説明は治療が終わり次第私が話すからそれまでは誰にも口を開くな」
 箝口令を出し、王城に帰る為に騎士達を動かし。
 負け戦にもならないほどの完敗ぶりに。
「…王子」
「私はいい。傷付いた者達に手を貸してやってくれ」
 コウェルズは静かに拳を握りしめると、目に痛いほどの朝日を拒むかのように強く俯いた。

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