第３０話

　昔からパージャという名ではなかった。
　産まれた時に付けられた名前は覚えていない。
　何かに追われていると勘付いた時からふらりと躱し逃げて、先々で名前を与えられながら生きる術を身に付けた。
　どれだけの名前を手に入れた事だろう。
　思い出せる数はごくわずかだ。
　マリオネット、ライ、ユークリッド、サクラ、ナイトニール、ブラックルビー、パージャ。
　記憶を探りながら、過去から現在に至るまでに呼ばれた名を思い出す。
　もっと呼ばれていたはずなのに、それだけしか印象に無い。
　気に入っている名前もいくつかあるし、気に入らない名前も勿論ある。
　その中で最も長く使用している名前がパージャだ。
　もう１０年近く使っているか。そしてこれからも。
　ミュズと共にいる限り、パージャであり続けるのだ。
　パージャは、パージャという名前だけは、他のどの名前とも違う形で手に入れたものだから。
　名前という概念に興味が無かった彼の宝物。
　だから、この宝物を分け与えてくれたミュズも特別な宝なのだ。
　幸せになるべき女の子。
　ミュズ。
　君の為なら、あの星々だってひとつ残らず捕まえてみせるから。
　満天の星々の瞬く夜空を眺めながら、パージャは本気でそう思った。
　どれだけ手を伸ばしても届かない輝き。
　どれほど遠い場所にあるのか知れない。それでも、もしミュズが欲しいと願うなら、もしミュズの幸せに必要だというのなら。
　ファントムの魔力で浮かぶ巨大飛行船、空中庭園。デッキの柵に両腕を肘から預けながら夜の大国ラムタルを味わっていたパージャは、まるで自分に似合わないロマンチシズムな思考に自嘲の笑みをわずかに浮かべる。
　こんな考えが浮かぶのは、あまりにも幻想的な世界を独り占めにしているからだ。
　ラムタルの首都上空、雲の上を浮かんでいるのだから。
　空中庭園はエル・フェアリアの天空塔のように姿を透明に変えて人の目を欺く事が出来るようになっている。それでも深夜の雲の上など誰にも見られる事はないだろうが、今現在も空中庭園は結界を張られて人目に映らないようにされていた。
　風になびく闇色の緋の髪を押さえつつデッキから地上を覗き込めば、雲の隙間からチラチラとか細い灯りが泳ぐように闇に浮いている。
　上空の星々と違い、今にも消えてしまいそうなほど儚い灯火。
　それとは打ってかわって、エル・フェアリアを離れる際に目にした虹の王都の、炎にのまれた新緑宮の鮮やかな緋色には胸を締め付けられた。
　たった二、三ヶ月だ。
　王城内に騎士として入り込んで、たった二、三ヶ月だけ過ごした。
　しかし何度、何もかも忘れて王城にいられたらと思ってしまった事か。
　あの騎士団の中で仲間達と腕を競い合えたなら。
　ミュズを王都に住まわせて二人で暮らしながら、騎士として働く。
　仕事はそれなりにこなしながら、休日はミュズと静かに、たまには遠出したりして。
　そんなことが出来たら、きっと人生は薔薇色に染まる事だろう。
　だがそれは出来ない。
　パージャが“パージャ”であり続ける限り。
　エル・フェアリアはとても美しく、あまりにも酷い国だから。
　騎士になり無駄に鍛えたので妙に筋肉質になってしまった体をさする。
　いくら鍛えたとはいっても、さすがに長時間肌寒い場所でじっとしていれば体は芯から冷え始めた。
　もう夜も遅いのでそろそろ与えられている部屋に戻ろうと柵から離れたところで、パージャは背後に現れた人の気配に気付いた。
　気配の先に目を移せば、闇色の黄の髪と瞳を持つ娘が鬱々とした表情を浮かべながらパージャに近付いてくるところで。
「おお、エレッテちゃん」
　仲間の女の子、エレッテ。
　ミュズより数年早く産まれた彼女は、可憐な容姿とは裏腹に誰もが眉間に皺を深く刻むような過去を持っている。
　同年代の娘達のように華やかで輝いた笑顔を浮かべるなら、きっと多くの男達を虜にしたことだろう。だが陰惨な過去が、エレッテから一般的な笑顔すら奪ってしまった。
　今の彼女に残されているのは、相手の顔色を窺い続ける卑屈な態度だけだ。
「けっこう遅い時間でしょうに。どした？」
　パージャから三歩分ほど離れた位置に留まるエレッテに訊ねれば、何を気にしているのか辺りを探ってから、ようやく口を開いてくれた。
「…ミュズが呼んでるよ」
「お、マジか。どこにいんの？」
「…夢の中」
　悲しげな声は、ミュズを思っての事なのだろう。
　出された愛しい少女の現状に、パージャもとぼけた姿を改める。
「パージャが王城に行った日からずっとうなされてるの。パージャが帰ってきたのに、まだ…」
「…それは、嬉しいやら心苦しいやら」
　ミュズが夢の中でパージャを呼び続けるその理由は、エレッテの過去のようにあまりにも救いようがない。
「起こしたら、覚えてるんだよなぁ…夢の内容…」
　過去という名の悲惨な悪夢。
　ミュズの悪夢の主演はいつだってパージャだ。
「朝になって起きたらいつも忘れてるよ。だけど精神面の負担は大きいの」
「だいぶ痩せてたもんな」
　エル・フェアリアを離れてラムタルに戻る空中庭園内で再会したミュズは、華奢な体をさらに痩せ細らせていた。
　無事だったパージャに泣きすがって、無事でよかった、なんて嬉しい言葉をくれて。
「俺が何やっても逆効果っていうのが…つらいよなぁ…」
　パージャを心から心配してくれるミュズ。だがパージャが近くにいる限り、ミュズはきっと幸せにはなれないのだ。それをわかっているのに。
「－－何やってんだよお前ら！！」
　たそがれるように視線を再度天空に移した後に、怒りを爆発させたかのような怒声が鼓膜を刺激した。
「うおっと！怖いお兄さんが来た」
「ウインド…」
　こんな煩い怒声を上げるのは、空中庭園では一人しかいない。
　エル・フェアリアの天空塔で、魔術兵団に首を取られたパージャを助けた若者ウインド。
　目に煩い柄のバンダナで頭の半分ほどを被った彼は、鉄のデッキを踏み潰す勢いで近付き、エレッテの腕を強引に引き寄せて自分の背中に隠した。まるでパージャから守るように。
「二人で何やってんだよ！」
「ミュズの話ししてただけだってば。人を暴漢みたいに…」
　ウインドの態度にわずかに不満を含めながらも茶化すように説明しても、ウインドはパージャを睨み付けたまま納得できないとでも言うような表情を見せる。
　そこに、ごめんなさい、とエレッテの謝罪が小さく響いた。
「ミュズ、今日もうなされてたから…」
　強く握られて痛いだろうに、必死に我慢して。
「ならまた俺の所に来ればいいだろ！」
　ウインドがエレッテに目を向けた途端に、怯えるようにエレッテは瞬時に俯いた。
「もうパージャがいるし、伝えておこうと思っただけだよ…今から行こうと思ってたの」
　だから、ごめんね。
　エレッテの謝罪に無言になるウインドに、パージャは現状を理解する。
「なに、エレッテはウインドと寝てたの？うわそれウインド的には拷問じゃね？どうせ手ぇ出せてないんじゃろ」
　パージャがいなくなってから、ミュズは悪夢にうなされ続けたのだ。そしてその度にミュズを気にして眠れなくなるエレッテを自室に招き入れていたのだろう。
　眠らせてやる名目で、エレッテが完全に拒絶出来ないのを知りながら。
「ふざけんなよ。せっかく俺が仇を討ってやったんだぞ。早くミュズの悪夢を消せよ」
「はいはい」
　ウインドに背後から討たれた魔術兵団のナイナーダ。
　あまりに呆気ない仇の最期に拍子抜けしながら、それでもミュズの悪夢は消せないのか、と。
「ま、ミュズが起きてないと何にもできないんだけどねー俺って超無能」
「そんなこと…」
「戻るぞ！エレッテ！」
　パージャを慰めようとしてくれるエレッテの心遣いがウインドの腹の虫を騒がせる。
　エレッテが自分以外の男を心配するのがウインドには我慢ならないのだ。
　なんて子供じみた嫉妬なのだろうか。
　見送るしか出来ないパージャに背中を向けて、二人は船内に戻っていく。途中でウインドに気付かれないようにエレッテがパージャに顔を向けたが、その表情がパージャに謝罪したいのか、それとも助けてほしがっているのかまではわからなかった。
「…痛々しくて羨ましいって思えないトコがなぁ」
　互いを思い合うのだから理想のカップルのはずなのに、思いの形が歪すぎて見ている方が辛くなる。
　顔色を窺い続けるエレッテと、押し付けがましく押さえ込んでくるウインドと。
　歪な歯車を無理矢理噛み合わせて、それで最後まで壊れずにいられるとは到底思えなかった。

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