第53話
第53話
--ガキならガキらしく寝てろ
男くさい毛布を身体にかけられて、大きな手のひらが頭にそっと乗る。
そして優しい男の声は頭上から響き渡った。
ガヤガヤと煩い中で、幼いエレッテは誰かの隣に寝転んでいた。
こんなことは初めてだった。
いつもなら勝手気ままに犯しつくされるだけの時間のはずなのに。
エレッテの悲鳴を肴に、浴びるように安酒を飲みながら欲望をぶちまける。
一人だけではない。何人もの男達が。
だというのに、何故かその日だけはいつもと様子が違った。
エレッテを飼う傭兵部隊の隊長がエレッテの腕を掴んで連れて歩き、別の傭兵部隊にエレッテを貸す。
見返りは金か酒か別の奴隷か。
エレッテはまだ幼かったが、嗜虐心をくすぐる怯えた表情と不気味な体質が受けて人気があった。
今日はどこの部隊に貸し出されたのか。
自分を切り離すように遠くにある意識でそんなことを考えて、気付けば知らない傭兵達の集まる陣の中にいた。
既に酒にやられて出来上がっている者、興味も無さそうに寝ている者、焼いただけの肉にかぶりついている者。
騒がしかったはずの場所は、エレッテの登場に一瞬だが静まり返った。
「--それが噂の女の子かよ」
誰かがエレッテを指差して興味を示す。その視線から逃れるように、エレッテはただ俯いて今を耐えた。
「おう。ガキだろ」
エレッテの腕を引く男は、見てわかるだろとでも言いそうなほどの無愛想な声でそう返し、エレッテを陣の最奥に連れていく。
今から群がられるのか。
いつものように始まるのだろう凌辱の開始を、肩を震わせて待つ。
男が奥の一角に座り、エレッテもその隣に強引に座らされて。
一人の別の男が近付いてきて、日常が始まるのだと思った。
「--ほら、言われた通りに作っといたぜ」
だが、近付いてきた男は何かをエレッテの隣の男に差し出して去っていく。
それが何なのか、俯いていたエレッテには見えなかった。
香ばしい匂いがしたから、男の食事だろうか。そう思った矢先に、エレッテの前に深皿は置かれた。
「……」
暖かそうに湯気の立つ、ゴロゴロと具材の沢山入ったスープが。
何だろう。
訳もわからず隣の男を見上げると、食え、と無愛想な声が落ちてくる。
「…ぇ」
「ろくなもん食ってないんだろ。それ食って寝てろ」
それは、傭兵部隊に飼われて初めて訪れた非日常だった。
エレッテは何度もスープと男を交互に見て、ちらりと周りの様子も窺う。
騒いでいる男達は大してエレッテに興味を示さずにそれぞれで騒いでおり、所々に女の姿もあったが、皆楽しそうに笑っているのが印象的だった。
あの女の人たちは奴隷じゃないんだ。
一目見ただけでわかるほどの、明るい女達。
エレッテは再び視線を隣の男に戻して、困惑したまま固まった。
「…冷めるぞ」
呟いた男は自分の武器の手入れを始めて、エレッテを見ようとはしない。
温かそうなスープ。
誰かがエレッテの為に用意してくれた。
深皿にスープと一緒に放り込まれていた木のスプーンを恐る恐る手に持ち、もう一度男を見てみる。
怒鳴られるだろうか。そう心配したが、男は苦笑いを浮かべていた。
「誰も取りゃしねえよ」
男の様子を窺うエレッテを、どうやら食事を奪われないか心配していると思ったらしい。
怒鳴られない?
そう思いながら、深皿の上に頭を持っていき、スプーンですくったスープに舌を付けてみる。
途端に口内に味が染み渡り、両頬がジンと強く疼いた。
驚いて慌てて顔を離してみると、男が面白そうに笑っていた。
「熱かったか?ゆっくり食いな。あと食いにくいなら皿は持って食え。犬みたいだぞ」
呆けたまま男をしばらく眺めて、やがて言われた通りに深皿を手に持つ。
温かな深皿はエレッテを優しく温めてくれるようで、片手で抱き込むように深皿を自分にくっつけた。
再びスプーンを手に持って、今度は具材のひとつを持ち上げる。
エレッテの口にはやや大きめだったが、ちぎることもせずに丸ごと口に入れた。
温かなスープの味と、不思議な弾力。
昔食べたことのある肉の感触だとふいに思い出して、エレッテはゆっくりと肉を噛み締めた。
口一杯に広がる味はエレッテを幸せな気持ちに満たしていく。
エレッテだけの温かなスープ。
夢中になって口に詰め込んだ。
そしてお腹から全身が満たされると同時に、深皿の中身も空になった。
急速に温もりを無くしていく深皿を眺めていると、男の手がエレッテの頭に乗った。
「まだ食うか?」
問われて、しばらく固まってから首を左右に振る。
本当はもう少し味わいたかった。だが警戒するエレッテの心が、男の優しさを恐れたのだ。
「…そうか。なら寝な」
深皿を取り上げられて、スプーンも手から離される。
寂しさが胸に広がるが、頭をぐいぐいと押さえ付けられるから、素直に従い男の隣に横になった。
喧騒は未だに続いている。
しかしお腹が満たされたエレッテは、日頃の疲れのお陰で騒がしさがあまり気にはならなかった。
気にはならないが、やはりいつもと違う夜が恐ろしい。
眠れるなら眠りたい。だが最後まで残る緊張が、エレッテの瞳を開かせ続けた。
いつ始まってもおかしくない凌辱。
昔拾われた先でも、エレッテに幸せを味わわせるだけ味わわせてからどん底に突き落とす老主人がいたのだから。
今からどうなるのかわからない。
わからないことが怖い。
見開いた闇色の眼で辺りを窺い続けて、ただ怯えていた。
そこに、ふと毛布が掛けられた。
男臭い、粗い肌触りの。
突然のことに男を見上げようとしたが、それを制するように再び男の手がエレッテの頭に乗った。
「ガキならガキらしく寝てろ」
無愛想な声で、痛くない程度の強さで頭を撫でられる。
こんな大きな温もりをエレッテは知らない。
頭を撫でられるのと同時に、緊張の糸が切れたように睡魔はどっと訪れた。
瞼が落ちる。
意識が温もりを抱いたまま夢の世界に向かって遠退いていく。
「その子寝たのか、ソリッド」
「ああ、静かにしてろよ」
完全に夢の世界に降り立つ寸前に。
エレッテは初めて男の名前を聞き、大切に胸の奥深くへとしまいこんだのだ。
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ふわふわと奇妙な微睡みの感覚から目を覚ましたエレッテは、何も考えられない真っ白な頭のまま、目前に差し出された手に自分の手をかけた。
見たこともない美しい少女がエレッテの手を取り、見た目にそぐわない力強さで上半身を起こしてくれる。
誰だろう、と考える思考すらなかった。
全身が浮いているような不思議な感覚の中で、また突然全身に温かな衝撃が走る。
エレッテ、無事だったのね。
そう耳に届いたような気がしたが、その言葉すら理解することが困難だった。
体を揺すられ、何度も話しかけられ。
でも、何もわからないまま。
「 サクラは 」
何もわからないまま、その名前だけはしっかりと脳裏に刻まれた。
サクラ。
何度も耳にした名前。
大切な名前だと彼は言った。
彼は。
誰?
サクラではなく。
「…パージャ、は…」
霞がかる彼の名前を口にしてすぐだった。
何も考えられなかった頭が突然覚醒して、視界が開けるように全ての記憶がエレッテに舞い戻る。
同時に。
「きゃっ!!」
横から胸ぐらを掴まれて引きずり倒される。あまりに暴力的な出来事に思わず目を閉じたが、エレッテはすぐに闇色の黄の瞳を一人の男に向けた。
「ガウェ!」
ガウェ・ヴェルドゥーラ・ロワイエット
エレッテを掴んで瓦礫の上に倒したのは、以前パージャに“気を付けろ”と言われていた若き黄都領主だった。
憎しみに染まる眼差しの片側は、エメラルドを抱いた黒の義眼だ。
「やめてちょうだい!!」
「ガウェ、離せ!」
突然の暴力からエレッテを抱き寄せて守ってくれるのはハイドランジア夫人であるキリュネナで、ガウェを後ろから押さえるのはニコルだった。
ファントムとガイアの息子である、銀髪の。
以前ハイドランジアに訪れたニコルを見たのは一瞬だった。王城襲撃の際は姿を見る余裕もなかった。
その男に、エレッテはまじまじと見入る。
エレッテの胸ぐらからガウェの腕を離してくれる彼は、やはりファントムによく似ていた。
キリュネナに強く抱き締められたまま、はっきりとした頭で辺りを見回す。
ニコルに押さえられたガウェはエレッテの背中側にいて、ビデンスはキリュネナと一緒にエレッテを庇ってくれている。
紫の髪を持つ美しい少女が困惑の眼差しをガウェに向けていて、他にも数名が立っている中で、一人の男がエレッテの側に片膝をついた。
夜の闇の中でもはっきりとわかる、黄金の髪を持った青年。
--ファントム
近付く彼を見て一番に思い出したのは、ハイドランジアの屋敷内で見かけた、古い絵画だった。
黄金の髪を持っていたかつてのファントム。
ロスト・ロード王子と言うべきなのだろうか。
「初めまして。私はコウェルズ・アルクスゴールド・エル・フェアリア・エテルネル。この状況で悪いが、君の身柄を押さえても構わないかな?」
有無を言わせない妖艶な微笑みはファントムによく似ていて、エレッテは改めて、ファントムが本当にエル・フェアリアの王族なのだと理解した。
コウェルズ王子。
彼はファントムの甥に当たるはずで、ならば似ているのも頷ける。
視線を絡め取られたまま小さく頷けば、エレッテを抱き締めてくれているキリュネナとビデンスの腕がいっそう強まった。
「お待ちください王子!彼女が何を!?」
「彼女はパージャを知っている…パージャは王城を襲撃し、私の妹を拐ったファントムの仲間だ」
責めるようなビデンスの言葉を、コウェルズは強い口調で押し返す。
そしてファントムとパージャの繋がりを教えられた途端に、二人の体は悲しいほどに強張った。
「…サクラ、が?」
有り得ないと呟くのはキリュネナで、再び呟かれたその名前にコウェルズは眉をひそめる。
「…サクラ?」
「サクラは…」
コウェルズの疑問には、エレッテが返した。
「…サクラは、パージャの昔の名前です…パージャという名前も、彼の本名ではありません」
目の前に現れたエル・フェアリアの王族に。
コウェルズに。
捕らえられた恐怖よりも、怒りが腹の奥から沸き上がるようだった。
こんな嫌な感情、今まで知らなかった。それほどの。
「私たちの大切なものは…全部エル・フェアリアに奪われましたから」
様子の変わるエレッテを、コウェルズが少し驚いたように見つめてくる。
コウェルズは知らないだろう。だが奪われたのだ。
与えらるべき温もりも、大切な時間も、微かな希望も。
嘲笑うように、この国に迫害されたのだ。
ウインドやミュズはエル・フェアリアを恨んでいるとよく口にしていた。
パージャも口にこそしなかったが、理不尽を全て受け入れている様子ではなかった。
エレッテにはそれが今までわからなかった。
だが彼を目の当たりにして。
コウェルズという、エル・フェアリアの王になる為に生まれてきた男を目の当たりにして。
生まれて初めて怒りに苛まれた。
直接エレッテ達を苦しめ苛んだのは魔術兵団だったかもしれない。
どうしようもない世の中だったかもしれない。
だがそれでも、魔術兵団は、世の中は、全て国の頂点へと行き着くのだ。
「…君には聞きたいことが山ほどある。が、とりあえず今はこの状況を説明してほしい…パージャの居場所もね」
王子に美しい笑みを向けられれば、大半の娘が一瞬で心を奪われるのだろう。恐らく彼自身も自分の容姿をよく理解している。そういう微笑みだった。
しかしエレッテには効かない。
効くものか。
今のエレッテからすれば、その笑みは今まで見たどの男達の本性剥き出しの下劣な笑みよりも醜くて汚い。
「あなたと話したくない…」
俯きながらコウェルズを拒絶して、エレッテはそっとニコルに目を向けた。
この中でなら、唯一。
「インフィニートリベルタになら話せる」
彼になら、怒りを感じることもなく話せるだろう。
隠語のように使ったニコルの本名の一部分に、時が止まったかのように固まるのはニコル本人だ。
ニコル・スノウストーム・エル・フェアリア・インフィニートリベルタ
エル・フェアリアの王族であることを示す、長ったらしい名前。
エレッテの視線から逃れるようにニコルは動揺を隠さないまま顔を背ける。
コウェルズはしばらくエレッテを見つめた後で、そっと立ち上がった。
「…ニコル、君に任せるよ」
インフィニートリベルタという名前が何を示すかは首をかしげる者達には教えずに。
「ハイドランジア氏、すまないがパージャと彼女がこの家に来た経緯を話してほしいから、奥方と一緒にこちらに来てもらえるか?ニコルなら彼女に手荒な真似はしないし、ガウェは近付かせないから」
未だにエレッテを庇おうと抱き締めてくれている二人を呼んで、未だにエレッテを睨み付けるガウェは側に行かせないと約束して。
ガウェが知りたいのはリーン姫の居場所だけだろう。
エレッテは口を割くつもりなどないが。
背後でビデンスとキリュネナが様子を窺いながら互いに見つめあう気配を察したが、エレッテからは何も言わなかった。
ニコルの性格ならビデンスもわずかに知っているはずで、やがて二人は静かにエレッテから手を離した。
ニコルは紫の髪の少女にガウェを任せる為に呼びつけてから、一度コウェルズとわずかに離れる。
コウェルズからニコルへと何かしらの耳打ちがされた後で、警戒する猫のように恐る恐る、ニコルはエレッテに近付いて片膝をついた。
コウェルズがガウェと紫の少女の背中を押して離れ、その後をビデンスとキリュネナが付いていく。
残されたニコルにはどんな指示が下されているのだろうか。
「…名前から、聞いてもいいか?」
少しくぐもった声は、それだけ困惑が強いのだろう。
「…エレッテ」
見上げるように目を向ければ、ファントムと似ていながら全く異なる、人間味を帯びた眼差しが印象的だった。
この眼差しはガイアによく似ている。
「ファントムの仲間、で合ってるな?」
二つ目の質問には無言で頷くだけに留め、次にニコルが口を開くよりも先に、エレッテは今やらなければならないことを先に告げた。
「パージャを助けなきゃ」
パージャを、と。
ニコルは眉をひそめ、なんのことだと質問の代わりにする。
「魔術兵団がこの家を襲ったの…パージャがいないのは、たぶん連れて行かれたから」
「…魔術兵団が?」
互いに小さな声で、エレッテはわずかに焦りながら言葉を続ける。
「…闇市に連れていくって言われたわ…私はたぶん、パージャの力で隠された」
思い出すのは意識を飛ばす寸前だ。
ソリッドが訪れ、魔術兵団のナイナーダが現れ。
捕らえられたキリュネナが無理矢理記憶をいじられて、ビデンスが怒りからナイナーダに立ち向かおうとして。
パージャが、必要以上の魔力を放った。
エレッテの意識はそこで途切れたから、恐らくパージャが魔力でエレッテを隠してくれたのだろう。
ビデンスを止めるふうに装って。
ならきっと、パージャは素直にナイナーダに従ったはずだ。
「話せるのは何でも話す。でも今は、パージャを助ける方を優先して」
お願い、と。
急がなければならない。
ナイナーダがどれほどおぞましい男かは、ミュズが長年苦しめられている悪夢から知っているから。
「待て…勝手には決められない…こっちも聞きたいことが山ほどあるんだ」
「パージャを助け出すより重要なんて有り得ない…パージャがリーン姫みたいに埋められてもいいわけ?」
慌てるニコルを制し、わずかに体を前に傾がせる。
普段の自分を知っているからこそ、今の強気の自分はまるで他人のようだった。
コウェルズを前にした時は初めて胸に怒りが生まれて、今はパージャを助けたいが為に強気の自分がいる。
ニコルを指定したことは正解だった。
怒りが落ち着いたという一点だけにおいてだが。
「…パージャが危険だって根拠は?」
「根拠なんか知らない!あいつらはいつだって私達を捕まえようとしてたわ!今だって私達を捕まえる為にこんなにも家を滅茶苦茶にしたんじゃない!リーン姫だって!捕まって埋められたのよ!!」
「あいつら…魔術兵団か?」
「そうよ!…私たちは、産まれた時から魔術兵団に狙われてきたわ!!」
エレッテが魔術兵団に襲われたのはファントムに拾われる少し前だ。だがパージャは、物心ついた頃にはすでに逃れる為だけに生きていた。
そしてリーン姫は。
「…本当に魔術兵団が絡んでるのか?ハイドランジア夫妻は何も覚えていないと」
ニコルの言葉は魔術兵団に対する半信半疑というよりも改めて確認する様子の方が強かった。それを真実にさせる為に、エレッテは強く彼を見つめる。
「覚えてないってこと事態がおかしいって思わなかったの?記憶を操作されたのよ」
闇色の黄の瞳で、ニコルを味方につけるように。
「…ハイドランジア夫妻は君が瓦礫から現れるまで君達の名前も出さなかった…」
「魔術操作で簡単な記憶の書き替えなら出来るわ。二人は私を見つけて、私とパージャを思い出してたでしょ?私を見たから記憶が戻った証拠よ」
ナイナーダがビデンスとキリュネナにどこまでの記憶操作を行ったかはわからないが、短時間の魔術では限度がある。エレッテを見て思い出してくれたなら魔術兵団が家を襲った事実も思い出してほしいところだが、エレッテがいる位置からビデンスとコウェルズが話す言葉を聞き取ることは出来なかった。
「お願い、信じて…早くパージャを助けに行かないと、あなた達も取り返しのつかないことになるわ」
エレッテの真剣な眼差しにほだされるように、ニコルがちらりと背中側のコウェルズに目を向ける。
だが決定打に欠けるかのように、ニコルは動いてはくれなかった。
それが組織に従事する騎士の待機姿勢だと気付けるほど、エレッテはその道に精通してはいない。
「…自分のこと、どれだけわかってる?」
知らないからこそ、焦るようにエレッテはニコルに話しかけた。
ニコルの視線が再び自分に向けられるのを待って、自分が持つカードを全てさらけ出す。
また困惑したのか身を引くニコルへ、すがるように距離をつめて見上げて。
「私はあなたの知らないあなたを知ってる…父親のことも、母親のことも…なんであなたが産まれたかも」
ファントムから、ガイアから。ニコルの話しは少しは耳にしていた。
そしてニコルが自分の出自に気付いたことをパージャから聞かされている。
王族だったニコル。だがニコルが産まれた理由を語ってくれる人間は、ニコルの側にはいないはずだ。
「…両親ならいる」
「“育ての親”でしょ?二人とも」
「…二人?何の話だ」
「ほら、何も知らないんじゃない」
食い付くニコルを離さないように。
自分の拙いカードだけでどれだけニコルの意識を手にできるかはわからないが、エレッテは懸命に頭を働かせた。
ニコルが知らないこと。ニコルが知りたいだろうこと。言葉を散らばらせて、餌を蒔く。
「私は知ってるわ…あなたの…父親が誰で、母親が誰か」
咄嗟の言葉選びは難しくて、スラスラと物を言えるパージャが羨ましくなる。
それでも自分なりに頭をひねり言葉を出したエレッテに、
「…母親?」
ニコルが完全に食い付いた。
怪訝そうに、どこか苛ついたように眉間に皺を寄せて。
母親を知らないのか。
優しいガイアを。
引き離された最初の息子を思い続ける母を。
それはとても悲しい現実だった。
だが感傷に浸る暇など今はない。
「…パージャを助けて。助けてくれたら…教えるわ。私の知ってる限りのあなたを」
動揺を見せるニコルと、それ以上の言葉はもはや出ないエレッテと。
睨み合うように視線を離さず時が流れ、やがてニコルが立ち上がる。
見上げ続けることが難しいほどの至近距離で立たれて、それでも懸命に顔を上向かせ。
「まっ…」
待ってとすがろうとしたエレッテの身体に突如ズシリと重い感覚が生まれ、自分の身体に巻かれた鎖を目に映した。
「コウェルズ様に話をする…逃げるな」
エレッテが逃げない為の鎖というわけか。
ニコルは背中を向けると他の者達と共にいるコウェルズの元に向かってしまった。
「--あの…」
そしてニコルが離れてすぐに。
横から若い声に呼び掛けられて、エレッテは無意識のようにそちらに目を向ける。
「…少しよろしいですか?」
エレッテに話しかけるのは、最初にエレッテが目覚めた時に手を差し出してくれた紫の髪の美しい少女だった。
だがその声は若く高いとはいえ男性特有の低さがしっかり備わっており、エレッテはようやく彼が少女ではないと気付いた。
彼はガウェを止めるよう言われていたはずだと後方に目を向ければ、今にも牙を剥きそうなガウェと目が合ってしまう。
「あの…リーン様の…居場所は」
ガウェに言われて来たということか。
少し不安そうに訊ねてくる様子はまるで自信のない幼子のようだが、彼もニコルやガウェと同じく騎士兵服だ。
「…知らない…ごめんなさい」
無意識に口をついて出る謝罪。
それは嘘をついたことに対する懺悔か、それとも口癖が出てしまっただけか。
「…そうですか」
彼もそれ以上問い詰める様子は見せず、すぐに離れようとして。
「あ…もうひとつだけ…」
ガウェの元へ戻ろうとしていた足は、またエレッテの方へ向けられた。
「…ミュズを…知っていますか?」
聞かれるとは思わなかった名前に、隠しきれずに目を見開いてしまう。
「…知ってるんですね」
どうしてミュズの名前を。そう思ってからようやく思い出すのは、まだパージャが騎士として王城に潜伏していた頃にミュズが巻き込まれたとある事件だ。
パージャを殺そうとしていたヴェルドゥーラ家の当時の黄都領主の企てで、ミュズが負傷した。
その後でガイアから手当てを受けたミュズが口にしていたのだ。
“女の子のような男の子と仲良くなった”と
名前はたしか、
「…ルードヴィッヒ」
エレッテが口にした名前は、やはり彼のものだったらしい。
「…なぜ私の名前を」
驚いた様子でルードヴィッヒはエレッテを凝視する。
少し強張ってみせるのは警戒している為か。
ルードヴィッヒは戸惑うように少し視線を逸らした後で、再び口を開こうとした。だがそれよりも先に、近付く気配に話しかけられてしまった。
「ずいぶん急ぎたいみたいだね。魔術兵団が絡んでいるからかな?」
背後にニコルを従えて戻ってきたコウェルズが、ルードヴィッヒの肩に手を置く。
「どうした?」
「い、いえ…」
王子の登場に言葉を濁して、ルードヴィッヒは大人しく後ろへと下がった。
エレッテは口元を引き結びながらコウェルズを見上げる。
まるで今後の動きが決まったかのようにガウェ、そして双子なのかよく似た容姿の二人の騎士がコウェルズの後ろに揃った。
キリュネナは心配そうにエレッテに視線を送ってくれて、ビデンスはひと塊りになって怯える使用人の娘達に何かを話している。
騎士達全員が揃ったことを確認してから、コウェルズが最初のようにエレッテの前に片膝をつき。
「ニコルから話は聞いたよ。軽く調べたけど、ハイドランジア夫妻には確かに術がかけられているようだ。残念ながら魔術兵団のことは思い出せないみたいだけど」
先ほど見せた魅力的な微笑みではなく、どこか冷めたような冷たい笑みを向けられる。
エレッテに自身の武器が通じないと気付いたのだろう。その冷めた笑みは息子であるニコルを差し置いてファントムにとても似ている気がした。
育った場所がそうさせるのか、コウェルズの笑みからは人情というものが窺えなかった。
警戒心を剥き出しにするエレッテの神経を逆撫でするように、コウェルズは口元だけをさらに微笑ませ。
「パージャの捜索はこちらの部隊が揃ってから行いたいんだけど」
「そんなの遅すぎる!」
まるでエレッテに判断を任せるような物言いに、強い口調で抗議する。
悠長にしている暇などない。そうニコルに伝えたのに。
再び沸き上がる苛立ちから眉をひそめるエレッテとは正反対に、コウェルズはどこまでも愉快そうだった。
「だろうね…だから、取り引きしないかい?」
「…取り引き?」
愉快そうなまま、コウェルズが整った顔をエレッテに近付ける。
埃にまみれた闇色の髪にコウェルズの指先が近付くから、汚物を拒絶するように表情をひきつらせながら身を引いた。
その様子にコウェルズは苦笑いを浮かべて。
「先陣部隊として私とガウェ、ニコルが先に闇市に向かおう。パージャを助け出す為にね。その代わり君には術式をかけさせてもらうよ」
話された言葉の前半部分はすらりと頭に入った。しかし後半の術式という言葉には無意識に警戒心が強まる。
何をするつもりなのか。
「…どういう…」
「逃げないでほしいだけさ」
再びコウェルズの指先が近付き、エレッテの頭を撫でる。今回は逃げることは叶わなかった。
「…どうせ逃がすつもりなんて…」
「それはそうだけど、またファントムが君達を救いに現れるかも知れないし、そうじゃなくても助けたパージャが君を連れて逃げるかもしれないからね。君には絶対に逃げられないように、少し強めの術式で縛らせてもらうよ」
幼子をあやすように何度も頭を撫でられて、その感覚が鈍痛のようにエレッテを苛み始める。
「構わないかな?」
パージャを救うことを前提にしながらもエレッテに選択の余地がない。
白々しい。心からそう感じた。
パージャのことが無かったとしても、コウェルズはエレッテに術式をかけただろう。
無理矢理か合意の上か。結果が同じであったとしても、過程は重要な意味を占めてくる。
どうせ逃げられないにも関わらず、コウェルズはあえて言質を取ったのだ。
それは先の見えない今後の為だろうが、言質の時点で嫌がらせにしか思えない。
「ありがとう。じゃあ早速」
仕方なく小さく頷けば、場にそぐわない爽やかな笑みを浮かべてコウェルズが一度後ろに目を向ける。
何らかの合図に動くのはニコルで、何だろうと様子を窺うエレッテの身体がふと軽く解放された。
エレッテを拘束するためにニコルが発動していた魔具の鎖が消えた瞬間だった。
馴染み始めていた拘束から解放されて、しかしすぐに次の術式がエレッテの頭上に浮かび上がる。
魔力を放つのはコウェルズで、黄金に輝く魔力が円形に広がった後にフワリとエレッテの身に降り注いだ。
全身に金粉が雪のように舞い降り、エレッテの身体に触れる。
「ぅあ!」
触れた金粉はエレッテの体内に侵入し消えていく、その間の痛みに目を見開いた。
酷い激痛というわけではない。
だがちくりと針を強めに刺されるような痛みが全身に降り注げば、身がよじれそうなほどで。
痛みは一瞬で消えていくのに、連続して全身を苛まれて、未知の痛みに恐怖に襲われた。
「大丈夫だよ。すぐに終わるから」
うずくまるエレッテに向けられたコウェルズのうわべだけの優しい声が恐ろしい。しかし言葉の通り、突然痛みの嵐は収まった。
先ほどまでの痛みが嘘のように消え去り、あまりに突然すぎる現象にエレッテは身を起こしながら不安に眉をひそめる。
いつの間にか涙が滲んでいて、目尻の微かな水滴を袖で拭い。
「これで君は私から一定の距離以上離れてしまったら痛い目に合うことになるから、気を付けてね」
たった今エレッテを痛め付けた事実など存在しないとでも言うように、コウェルズは微笑みを強くした。
そしてくるりとエレッテに背中を向けて、二人の騎士を呼び寄せた。
「ジャック、ダニエル、ここは君達に任せるよ。残りの部隊が揃ったら魔眼蝶を介して知らせてほしい。ハイドランジア夫妻と屋敷の娘たちはその後で王城に。魔術師達には知らせているから、夫妻と娘達の治癒と術式の解除を頼む」
「わかりました」
体格にわずかな差がある程度の非常によく似た二人の騎士は、揃ってコウェルズに返事をしてから踵を返す。
二人がビデンス達の元に戻り始めた所で、コウェルズは次にルードヴィッヒに目を向けた。
「ルードヴィッヒ、君は責任を持ってジュエル嬢を王城に連れて帰るんだ。わかったね」
それは今回の作戦とはあまり関係の無さそうな任務で、ルードヴィッヒの表情があからさまに強張っていく。
名前を呼ばれたと思ったのか、少し離れた場所にいた少女が様子を窺うように数歩近付いてきた。
ルードヴィッヒは黙ったまま唇を噛み締めて視線を落とす。
悔しそうな気配を察するが、エレッテには彼に何があったのかはわからなかった。
「返事は?」
「…私も先陣部隊として連れていってください!」
とっとと従えと先を促すコウェルズに、見上げたルードヴィッヒが噛みつく。
強さと情けなさが同量混ざりあったかのような眼差しは、どこか健気にさえ思えた。
命令を聞かないルードヴィッヒをコウェルズは静かに見下ろし、
「お願いします!」
その冷たい眼差しに怯まずに強く訴える。
その様子にニコルがルードヴィッヒを止めようとするが、わずかな動きで制したのはガウェだった。
「…まだ幼いジュエル嬢を危険な目に合わせた挙げ句に、最後は放置かい?」
「っ…」
ルードヴィッヒが何をやらかしたのかはエレッテにはわからない。だが重大なミスを犯したのだろう。
コウェルズの指摘に言葉を詰まらせて、また唇を噛み締めて俯いてしまった。
そこへ助け船を出すように。
「わ、私なら平気です…」
わずかに距離を縮めていた少女が、すがるように声を挙げた。
彼女がジュエルか。
少女が纏うのはエル・フェアリア王城に従事する侍女のドレスで、コウェルズの言葉から少女が何らかの危険な目に合わされたのだとわかった。
「無理を言って付いてきたのは私です…ハイドランジア御夫妻と使用人達を王城に案内できます。その任を私にお与えくださいませ…どうか名誉挽回の機会を」
ルードヴィッヒと行動を共にして危険な目に合ったのか、少女のまつげは痛々しいほどに濡れて、恐ろしさに身を震わせていた様子を窺わせる。
それでも、傷付いた自分のプライドを復活させるかのように、少女は気の強そうな眼差しで真剣にコウェルズに訴えていた。
少女が王城でどのような立場にあるのかはわからないが、甘やかすわけではなくその意志を認めるように、コウェルズが小さくため息をつく。
「…君が名誉挽回なら、ルードヴィッヒは汚名返上といったところかな?まあいいだろう。ジュエル、君はジャックとダニエルの元で夫妻達のサポートに当たりなさい」
やれやれと幼子の我が儘を聞くように。しかしジュエルの信念をしっかり認めてくれて。
コウェルズから許可を得て、ジュエルが涙に濡れたままの瞳を嬉しそうに見開いた。
「ルードヴィッヒ、君も先陣部隊に使おう。ついておいで」
そしてルードヴィッヒにも。
ルードヴィッヒの表情も一気に明るいものへと変わり、ルードヴィッヒとジュエルの二人は息を合わせたかのように同時に互いに目を向けた。
そしてコウェルズに向き直り。
「ありがとうございます!」
言葉は被り、息の合った様子にコウェルズが苦笑いを浮かべる。
ジュエルは頭を上げると先に離れていた二人の騎士の元へと向かって走り去った。
「じゃあ改めて話すよ。パージャの救出、並びに捕獲が今回の任務だ。魔術兵団が敵に回る場合は殺すつもりで構わないから戦いなさい。ニコル、ガウェ、二人に前衛を任せるよ」
コウェルズの指示にニコルは「了解」と、ガウェは無言で頷く。
「ルードヴィッヒ、君は私と共に二人のサポートに回る。二手に別れる場合はニコルと私、ガウェとルードヴィッヒに分かれよう。それ以上の戦力分散はさせるな」
基本は全員での行動だが、万が一別行動をとる場合のチームも予め決めておいて。
「エレッテ嬢、君は私から離れないように」
取り残されていたエレッテを拾うように、コウェルズはエレッテに注意をした。
どれだけ離れたら術式が効果を発するのかは教えてくれないままだが、訊ねる行為すらエレッテはしたくなかった。
「全員、魔眼蝶を携えておくんだよ」
コウェルズの言葉を合図に、どこからか現れた魔眼蝶が数匹現れて全員の肩に身を寄せた。
残された数匹も離れた場所にいるジュエル達に身を寄せ、魔眼蝶の胴体に存在する眼球の視線がコウェルズへと動く。
「ご苦労様」
その言葉は魔眼蝶を出現させているフレイムローズに向けられたものだろう。
たったそれだけの言葉を喜ぶように、エレッテの肩にもいる魔眼蝶はふるりと羽を振るわせた。
「さあ、行こうか」
合図と共にニコルとガウェから強い魔力の放出を感じ、黒い霧状の魔力は一瞬にして巨大な鷹と烏に姿を変える。
これほど大きな生体魔具の発動を間近で見せられて、エレッテだけでなくルードヴィッヒも息を飲んで固まる。そして促されるままにガウェの烏にルードヴィッヒが、ニコルの鷹にコウェルズとエレッテが乗せられた。
裏庭は広いが、二体の生体魔具が翼を開いたら半分は埋まってしまうだろう。
二人の騎士がビデンス達を下がらせて視線を皆に送ってくれる。
ビデンスとキリュネナの心配そうな眼差しは今もエレッテに向けられていた。
その眼差しに報いる時間をコウェルズは与えてくれるのだろうか。
コウェルズの術式の掛かった体を抱き締めるエレッテに、覆い被さるようにニコルが最後に鷹に乗り上げる。背後に訪れた男の気配に無意識のうちに強く身体が拒絶を見せて跳ねた。
「…ごめんなさい」
思わず謝ってしまって、悔しくなって俯いて。
「…落ちないように肩に触るぞ」
それでもニコルは気分を害した様子は見せず、むしろ気遣うようにエレッテに説明をくれてからそっと肩に腕を回してきた。
そして、生体魔具が浮かび上がる。
先に空に舞い上がったのはガウェの烏だった。
烏が身体を向けるのは闇市のある方角だ。
ニコルの鷹も三人の人間を乗せている重みを感じさせないまま浮かび上がり、
「少しでもおかしな魔力の流れを感じたら構わず進め」
コウェルズの最後の命令に、ニコルとガウェは返事の変わりに魔具の翼を羽ばたかせた。
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