第52話
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「…男前になったじゃないか」
ルードヴィッヒの肩に残っていた髪を払ってくれたのはジャックだった。
ひとつまみの紫の髪が払われて、音もなく地面に落ちる。
ハイドランジアの崩れた裏庭の一角で、項垂れるようにルードヴィッヒは庭を飾っていたのだろう小岩に腰を下ろしていた。
隣にはジュエルが座っているが、ルードヴィッヒほど自身を喪失してはいない。
裏庭にはジャックの他にもダニエルとニコル、そしてコウェルズまでもが到着していた。
崩れた屋敷の中にはガウェの姿があり、ガウェが話しているのはハイドランジアの主人であるビデンスだ。
ルードヴィッヒとジュエルが先にハイドランジア家に到着し、勝手に中に入り。
正気を失っていたビデンスに、ルードヴィッヒは殺されかけた。
ただジュエルを守ることだけに徹したルードヴィッヒが失ったものは幸いにも束ねていた自分の長い髪だけで、今のルードヴィッヒは長さの異なるざんばら髪になっている。
それだけで済んだのは、ジュエルの魔力で産み出した光の玉を目印に、ガウェが空から訪れてくれたからだ。
ビデンス・ハイドランジア
そう叫んだガウェがビデンスを止めてくれていなければ、今ごろルードヴィッヒはこの世にはいなかっただろう。
強く目を閉じていたルードヴィッヒは、ビデンスが正気を取り戻した後にガウェに引きずり起こされ。
頬に凄まじい一撃を与えられた。
パージャに毒を盛ってしまった夜に与えられた一撃よりも遥かに重い拳は、ルードヴィッヒがどれほど愚かな行動に出ていたかを如実に表していた。
自分だけでなく、ジュエルまで危険な目に晒したのだから。
死ぬかもしれなかった恐怖と頬に残る痛みに苛まれながら、ルードヴィッヒは未だに立てずに裏庭の隅にいる。
「…生きてたんだ。忘れず次に生かせばいい」
ジャックに頭を強く叩くように撫でられて、そうされることが自分が全く成長できていない子供のままであることをさらに教えてくる。
そのままルードヴィッヒの側を離れて、ジャックは任務に戻っていく。
コウェルズから指示を得て、ニコルと共に婦人の元へ。
ダニエルは使用人の娘達から詳しく話を聞き出そうとしていたが、娘達の困惑の表情は何もわからないことを物語っているのだろう。
ルードヴィッヒは呆けたまま辺りに目を向けて、状況をゆっくりと頭の中に入れて。
ようやく隣に座るジュエルが震えていることに気付いたのは、だいぶ経ってからだった。
一緒に半壊した屋敷に入り、刃を向けられて殺されかけたのだ。
戦闘訓練を行っていないジュエルの受けた恐怖は凄まじかったことだろう。
「…ごめん」
謝ることしか出来なくて、俯いたまま小さな声でそう呟く。
「っ…ふ、くぅ…」
途端に、ジュエルの瞳から涙が溢れ出た。
ぼろぼろとこぼれていく涙に、顔を上げて静かに見入る。
いつもなら、その涙に慌てたはずだ。
だが今は。
ルードヴィッヒ自身が未だに呆けたままいるからか、ジュエルの涙に動じることはなかった。
動じはしないが、その涙が自分のせいであることは理解できていて、固く握りしめられていたジュエルの小さな手を自分の手で包んだ。
片手同士だけが触れ合う中で。
「…ごめん」
謝ることしか許されないかのように、ルードヴィッヒはもう一度謝罪する。
ジュエルの涙は止まらない。止める術もわからない。
ミシェルがいたらジュエルを抱き締めるのだろうか。だが今のルードヴィッヒの頭はそこまで思考が働かなかった。
ごめん、と何度も続けることしか。
何度も何度も繰り返して、自分のいたらなさを自覚して。
「--…」
ふと、視界の片隅で、瓦礫が動いた気がした。
他に誰も気付いていないのか、全く気にする素振りを見せないまま。
「…ルード、ヴィッヒ」
しかしやはり瓦礫は崩れ、ルードヴィッヒと同じく気付いたジュエルが怯えるように身を寄せてくる。
崩れた瓦礫はわずかだが、確かに不自然な動きで崩れ続けていた。
「…ここにいて」
怯えるジュエルから手を離して、そっと立ち上がる。
コウェルズとダニエルがルードヴィッヒの動きに気付いたように目を向けてくれるが、視線はすぐに外された。
その中を歩いて、ガウェに程近い場所に積もる瓦礫の近くに膝をつく。
「--…ぁ」
何だろう、そう思う間も無く。
周り全ての死角になるような瓦礫のさらに奥にいた娘を見つけた。
体の三分の二は瓦礫に埋まってしまっており、気絶しているのかくたりと力無く倒れ伏しているが。
ルードヴィッヒは見えない力に促されるように、邪魔をする瓦礫を自分の方へ崩した。
大きな木の柱を退けて、崩れた屑を潰して。
「…ルードヴィッヒ?」
ルードヴィッヒのおかしな行動に、コウェルズが近付いてくる。
それすらも無視して、ルードヴィッヒはただがむしゃらに娘に向かった。
邪魔な瓦礫をようやく退かしきり、娘に積もる瓦礫も取り払い。
「--…」
息を飲んだのは、誰なのだろう。
ただわかるのは、ルードヴィッヒ以外の目に彼女が映っていなかった事実だ。
「…ぅ」
そしてルードヴィッヒの存在に気付いたかのように、娘が強く顔をしかめて、やがてゆっくりと目を開いた。
持ち上がる瞼の奥に存在するのは闇色の黄の瞳で。
無意識にそっと差し出した手のひらを、娘は弱々しく掴んでくれた。
わずかに力を込めて、娘を引き起こす。
瓦礫にまみれて埃を被った頭は白くぼやけていたが、誰もが息を飲むほどの闇色をしていた。
「…エレッテ…エレッテ!!」
起こされた娘の姿を確認して、夫人が慌てた様子で近付く。
ルードヴィッヒを押し退かす勢いで娘の前にしゃがみこみ、娘にまとわりついた埃を払ってやって。
「ああ、無事だったのね!よかった!」
我が子の無事を確認するように、夫人は強く娘を抱き締めた。
「あなた!エレッテが無事でした!ここにいますよ!!」
夫人は落涙しながらビデンスを呼び、ビデンスも慌てた様子で屋敷から裏庭へと降りる。
「怪我は?どこか痛むところは?ああ、本当によかった…」
娘を何度も抱き締めては離してを繰り返している夫人の隣にビデンスも膝をつく。
「…無事だったか…よかった」
娘の頭を優しく撫でるビデンスは、その後にまた別の名前を発した。
「…サクラは?」
サクラ、と。
ハイドランジア家には現在、異国へ嫁いだ親戚の子供が二人遊びに来ているとは聞いていた。サクラとはそのもう一人の子だろうと誰もが思った矢先に。
「…パージャ、は…」
まだ意識がはっきりしていないらしい娘から告げられた彼の名前に、ガウェとニコル、そしてコウェルズの目の色が強く変化した。
第52話 終