第52話
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連れてこられた場所は、予想通りの闇市というわけではなかった。
先をナイナーダが歩き、気絶したエレッテを抱いたソリッドが後ろを歩き。
パージャが大人しく従い訪れたのは入り口こそ闇市だったが、歩むにつれて道はそれ、闇市の住人すら寄り付かないほど不気味な世界に様変わりしていった。
それがナイナーダ達魔術兵団の力によるものなのか、闇市の独特の空気なのかはわからない。
ただこの場所は、あまりにも異質だった。
闇市の通路自体が無理矢理建てられた小屋の合間を縫うようなもので狭苦しかったというのに、今パージャ達が通るのは道幅こそ広く両端にはごみや廃材が散乱するが、まるで忘れ去られたかのような虚無感がある。
「…ここって何なの?」
訊ねる先にいるソリッドも、わずかに表情を強張らせていて。
「…廃鉱に繋がる道だ。闇市の奴らでもあまり近付かねぇ」
与えられた答えには妙に納得してしまった。
かつてはエル・フェアリア城下にも鉄の採掘場があったと聞く。それがここなのだろう。
遥かな昔に取り尽くした鉄。その跡地からエル・フェアリアの闇市は広がった。
「嫌な天気と交じって嫌な場所がさらに嫌な子になっちゃってんじゃん。前歩いてるジジイのせいで」
夜の闇の中でもわかる曇天を眺めて、ナイナーダに目を向けて。
前を歩くナイナーダの表情はわからないが、パージャの嫌味などまったく気にしていないことだけはわかった。
「なあ、なんで闇市に連れてくるとか回りくどいことするわけよ?リーン姫みたいに七色宮に埋めるんだろ?遊ぶ暇あったらとっとと俺を埋めちゃえば?」
パージャと同じ存在であるリーンは、王城敷地内に遥か昔に建てられた七色宮のひとつ、中央に位置する新緑宮の地下深くに埋められた。
それが何かしらの生け贄であるというところまではパージャもファントムから聞かされている。
七棟の宮殿と七人の生け贄。
魔術兵団がパージャ達を付け狙うのは、生け贄として七色宮に捧げる為だと。
その理由までは知らないが、知ろうが知るまいが狙われていることに変わりはない。
そして魔術兵団がコウェルズ達とは完全に別行動をとっていることはパージャが騎士団に侵入した際に気付いたので、埋めたいならば迅速にするべきだろう。
埋められたいわけではないが、ナイナーダが回り道をする意味がわからない。
わからないまま素直に続くパージャに向かって、ナイナーダはようやく口を開いた。
「そう焦るな」
面白がるように、楽しそうに。
「闇色の緋を宿した身体の埋まる場所は、ここだ」
回り道などしていないと。
「…は?」
「ここが貴様の寝台だと言っているんだよ、肉だるま」
足を止めて、ナイナーダがあの嫌な笑みを浮かべる。
「…意味わかんないんだけど」
「だろうな…永遠の眠りにつく土産に教えてやろう」
死ねないパージャに向かって永遠の眠りとは、あまりにも笑えない言葉だ。
言葉通りの永遠。
死ねたなら、きっと幸せだった。
「緑姫は虹色の中央色である緑を宿して産まれた。だから中央に位置する新緑宮に埋めたのだ」
「そりゃわかってるって…だから七色宮の…」
「七色宮は力の流れを効率良くエル・フェアリアに流れさせる為の装置だ。その装置と緑姫の埋まる箇所が被ったにすぎん。中央に関してはあの場所以外に存在しないからな。だが他はまだ余裕がある。城内の新緑宮を中央に、全ての流れをうまく集める為に弧を描くように。お前達に宿った魂の欠片は、エル・フェアリアに集まる流れを甘いものへと変える役目を持つ」
ナイナーダの言葉は異国語のように意味のわからないものだった。
「…つまり、七色宮にそれぞれ埋めるわけじゃなくて、王城城下全体に等間隔で埋めるってこと?」
「そうすることも可能という話しだ。流れの全ては七色宮に集まるからその下に埋めてやっても構わないが…今は王城敷地内で派手な動きは出来んからな」
「え、何それ。俺がここに埋められんのって応急処置的なもんなわけ?」
「場所さえ間違えなければ大した差はないというだけだ」
どこでもいいわけではないが、一定の法則に従うなら埋める場所の候補はいくつも存在するというわけか。
「…それって、俺が埋まってる場所をファントム達が見つけられなくなるようにって意味合いも含ませてる?」
優しいことに、パージャの問いかけにナイナーダは笑顔を返してくれた。
リーン姫の時のように助けが入らないよう。
「貴様のせいで私の願いは遠退いてしまったからな。せめてもの御礼だ」
「…わけわかんねぇ」
埋められようがファントム達が助けに来るだろうという甘い期待を、極限まで削るとは。
「しかし単純に埋めるにしても、貴様なら自力で逃げることが可能だろう。死なぬ身体というだけでなく、あの方の力をさらに宿しているのだからな」
「…回りくどい言い方しなくていいから…ファントムの力のお陰で、俺は助かることが出来るんだろ?それを回避する為に、俺に何をするんだよ」
パージャの身に宿った闇色の虹の欠片は、ファントムがロスト・ロードだった頃の魔力だ。
魂という名の魔力。
パージャはパージャでありながら、ファントムの分身でもあるのだ。
だから、贄に使われる。
リーンが自力で脱出出来なかったのは、幼すぎたからだろう。
「最初は44年前だっけ?ロスト・ロード王子を何かしらの贄に使おうとして失敗。王子は魂を分散させて命からがら逃げ出したんだってな。んで次はようやく捕まえた緑姫を奪われて、俺が三度目の正直か…いや、二度あることは三度ある、になるのか?」
「…減らず口を」
パージャは全てを理解しているわけではない。それはファントム自身が全て知っているわけではないからだ。
どこまでナイナーダから情報を手に入れられるかはわからないが、ファントム達が助けに来てくれると信じるならば手に入れておきたい。
だがパージャの考えに気付いたかのように、ナイナーダは歩みを再開してさらに闇が深まる奥へと恐れることなく踏み込んでいった。
「…サイアク」
立ち止まったままのパージャの背後に、ソリッドが先へ進めと無言で促してくる。
その目を見据えて。
「…あいつに従っても、アエルが無事でいられる保証は無いぜ」
ソリッドが大人しくナイナーダに従う理由を口にすれば、彼は怯むようにパージャから視線を逸らした。
「俺が助かりたいから言ってんじゃない…経験者だから言うんだ」
くたりと力なくソリッドに抱かれたエレッテの頭を一度だけ撫でて。
「アエルを助けたいなら…従う以外の選択肢も用意してなよ」
ナイナーダに目をつけられた時点で最悪を迎えてしまったのだ。ならばその中から、最善策を。
パージャがソリッドに伝えられる助言はそれくらいしか存在しない。
ナイナーダに怪しまれるより先にパージャも歩みを再開し、今は素直に後に続いた。
ソリッドはパージャのさらに後に続いた為にその表情は見えないままだったが。
静まり返る不気味な道を無言で進んでいく。
うず高く積み上げられた廃材の中央を歩き進み、気付けば空が見えない。
いつの間に、と。
その言葉がぴったりなほどだった。
少しずつ廃材が高くなり、下り坂を下りる感覚を感じてはいたが。
いつの間にか、廃鉱に足を踏み込んでいたらしい。
ゆったりと長い地下の洞窟。
上下左右は古腐った木の枠で整えられてはいるが、いつ崩れてもおかしくないだろう。
闇をわずかに照らすのはナイナーダの力か。
場所が良ければエル・フェアリアの観光名所になれただろう廃鉱は、今はただパージャを味わうかのように嫌な空気を滲ませる。
それはパージャが王城敷地内の新緑宮で感じた気持ちの悪さに似ていた。
パージャを引きずり込もうとするような感覚。
パージャを、実際にはパージャに宿った魂の欠片を。
「…ねえ、最後になるなら教えてくれない?なんで王子を暗殺しようとしたのかさ」
闇に飲み込まれるような感覚を味わいながら、パージャが最後にひとつだけ知ることが出来るならと問うたのはファントムのことだった。
「何らかの贄にしたかったのは聞いてる…何の贄?」
答えなどどうせ返ってこないだろうと諦めながらもナイナーダの背中に目を向け続ければ、驚いたことに彼は返答をくれた。
だが。
「…エル・フェアリアの為だ」
「…国の為?」
ナイナーダの返答はそれだけだった。
かつての魔術兵団はしっかりと王の命令を受けてロスト・ロードを暗殺しようとしていたはずだ。しかしナイナーダは当時、まだ騎士団にいたはずで。
「…国の結界の強化ってとこ?」
当時はまだ戦乱の色濃く残る時代だった。もしファントムの、ロスト・ロードの強すぎる力を結界に使おうとしたならわからないでもないが。
「それって、未だに必要なもん?」
「そろそろ黙っていろ」
詳しい理由を聞きたくて投げ続けた問いかけは、ナイナーダの愉快そうな言葉に一瞬だが途切れた。
ただし、本当に一瞬だけだ。
「…そういやあんた、言ってたよな…“封印が二つになれば、半世紀は眠らせておく事が出来る”って」
わずかに歩みを遅めながら、ナイナーダの背後を窺いながら。
それは、ナイナーダが王城に侵入していたパージャに気付いた際に告げてきた言葉だった。
封印が二つになれば、と。
恐らくリーンとパージャを贄として封じることを指しているのだろう。
ならば、眠らせるとは何だ。
「俺達が大人しく半世紀は眠ったまま贄として使える、ってわけじゃないよな?」
ゆっくりと奥深くへ下りながら、全てを知りたがるように。
「なあ、それくらい教えてくれたっていいじゃん。こんなに素直でしおらしい敵なんてそうそういないぜ?」
わざとらしくへりくだるように自分を示せば、その言葉がおかしかったのかナイナーダは喉を鳴らすようにクックッと小さく笑った。
「あ、笑ったんだから俺の勝ちな。教えてよ」
「馬鹿を言うな。いい加減静かにしていろ」
「…へいへい」
これ以上は何も引き出せないか。
諦めるようにようやく口を閉じたパージャをそれはそれで気味悪がるように、ナイナーダはちらりと一度だけ視線を寄越した。
そこからは誰も口を開くことなく迷路のような廃鉱内を進み続け、進むにつれて重苦しくなる空気の不味さに汗がにじみ始める。
風の流れが全く無いのだ。
いくら今の季節が肌寒かろうが、床冷えするような廃鉱内だろうが、風の流れが無ければ空気は澱む。
後ろを歩くソリッドはまだ平気な様子なので、パージャの魔力に反応する何らかの不気味な気配がさらにパージャを苦しめようとしているのだろう。
そして。
「--さあ、到着だ。肉だるま」
開けた空間への入り口で、わざとらしくナイナーダは両腕を広げてみせた。
闇が襲いかかろうとするようだった廃鉱の中で、唯一明かりを灯すナイナーダが腕を広げる様は言いたくないが聖人のようだ。
その空間が元から開けられていたものなのか、それともパージャの為だけにわざわざ掘ったのかまではわからないが、広さはハイドランジアの裏庭がすとんと落ちるほどだろう。
空間には他にも人がいるらしく、うっすらと端に灯りが見えて。
広まったその場所に足を踏み込み、パージャは眉をひそめて強い不快感を露にした。
廃鉱の通路からは見えなかった、空間の内側。
円を描くように広がる空間は、人が二人並んで歩けるだろう程度の足場を残して中央が広く深く窪んでいた。
パージャはそこに落とされるのだろう。
だが、パージャが嫌悪感を露にした理由はそこにはない。
後ろのソリッドが広間に足を踏み込まないよう立ち止まる。
「…早く来るんだ」
そのパージャの心遣いを嘲笑うように、ナイナーダは優しく手まねいた。
下劣で、最低な。
「…クソ野郎」
吐き捨てるように呟いて、広間の足場を進む。
そしてエレッテを抱いたままのソリッドも、それを目の当たりにしてしまった。
「っ…」
息を飲む様子は背中越しでも伝わってきた。ということは、ソリッドは知らなかったのだ。
目の前でナイナーダが愉快そうに笑う、その先で。
「…ド」
鎖で壁に繋がれたアエルが、弱々しく顔を上げてソリッドを呼んだ。
以前パージャに見せた無表情のまま、しかしすがるように。
一糸纏わぬ姿で、肌は青と赤の斑に染まって。
悲惨なほど腫れ上がった顔面は、どれほど痛め付けられたというのだ。
「--ア」
「動くな。まだそこにいろ」
今すぐアエルに近付こうと強く地面を蹴ろうとしたソリッドを、ナイナーダは押さえきれない笑みを浮かべながら止める。
楽しくてならないのだろう。
アエルを傷付けたことがではない。傷付けられたアエルを目の当たりにしたソリッドの苦しそうに歪んだ表情が、ナイナーダの最高の好物なのだから。
「この娘はなかなかつまらなくてな。打とうが水に沈めようが単純に犯してみようが、全く鳴いてくれなかった」
なんてつまらない、と。
「っぐう…」
アエルの細い足首を踏みにじりながら、ナイナーダはくぐもる呻きを発する彼女を飽きたように眺める。
「…だがお前は違うだろう?」
そしてアエルから目を離して。
ソリッドの苦しむ表情を眺めながら、ナイナーダは至上の喜びを味わうかのように微笑んだ。
微笑みを浮かべたまま、アエルの髪を掴んで。
「よせ!やめろ!!」
焦りを見せるソリッドの悲痛な姿に、ナイナーダがさらに笑みを強くした。
ソリッドを従わせる為にアエルを捕らえておきながら、自分の歪んだ性癖を満たす為に傷付けて苦しめて。
「…あんた、まじで救い様のない最悪な性格してるよな。女に相手にされたことないだろ」
「あいにく、ただの女で満足できる性格ではないのでな。全く心配には及ばんさ」
「…心配してんじゃねえんだよ」
せめてものパージャの嫌みすら簡単に流されて。
「あんたの相手できる女とかいないだろ」
この悲惨な性格の男を相手に出来る人間など存在するものか。そう軽蔑の眼差しを向けるパージャを軽く流して、ナイナーダは強く歯を食い縛るソリッドに目を向けた。
いや、正確にはエレッテにか。
「その娘をこちらに持ってこい」
未だに目を覚まさないエレッテを。
命令されたソリッドが、エレッテを抱き上げる腕を強張らせるようにわずかに強める。
アエルが受けた暴行の痕を目の当たりにして、エレッテを素直に渡せなかったのだろう。
「…そんなにこの女の苦しむ姿が見たいか」
「やめろ!!」
しかしナイナーダのすぐ側にはアエルがいて、再びアエルの髪に遠慮の欠片もない指先が伸びた。
ソリッドがたまらず叫べば、ナイナーダはその怒りに満ちた姿にさらに喜びを見せてアエルから手を離す。
ソリッドは素直に従うしかないのだ。
足場を踏み潰す勢いでソリッドは重い一歩を踏み出し、その一歩さえ進めば足は動き。
俯いたまま隣を横切る姿を、パージャはただ静かに眺めるだけだった。
40も中頃だろう男が、ただ一人の若い娘の為に。
アエルは奴隷だとソリッドは言った。ならなぜ簡単に交換可能なはずの奴隷相手に愛を持って接するのだ。
愛してさえいなければ、ナイナーダに目をつけられることもなかったのに。
目をつけられさえしなければ、こんな苦しみを味わうことなどなかったのに。
だがソリッドはアエルを愛したのだ。
それがどんな形の愛なのかはパージャにはわからないが、大切に、大事にしていたことだけは手に取るようにわかったのだから。
ソリッドはナイナーダに指示されるままにエレッテをアエルの足元にゆっくりと寝かせ、自身も片膝をついたままそっとアエルを見上げた。
同時にチャリ、と鎖の鳴る微かな音が響き、アエルもソリッドに目を向ける。
遠目からでもアエルが微笑んだことはわかった。しかし腫れ上がった顔面が見せる笑顔は、あまりに痛々しいものだ。
歪みすぎて笑顔には到底見えない。
以前のアエルはすっきりと笑う綺麗な女だったというのに。それでも、今見せられる一番の笑顔をアエルはソリッドに向けるのだ。
まるで“自分は大丈夫だよ”と伝えるかのように。
「この女はつまらなかったが、こちらの死なぬ身体の娘はさぞかし楽しませてくれるだろうな。痛ましい表情のよく似合いそうな娘だ」
ナイナーダは足元のエレッテの胸を軽く踏みつけ、だがすぐにソリッドに払われてヒクリと苛立つように頬を引きつらせた。
「っぎゃあ!!」
その後すぐにアエルの悲鳴がこだましたのは、ナイナーダが容赦なくアエルの胸を握り潰すように掴んだからだ。
「アエル!!」
あまりの出来事にソリッドが一瞬で立ち上がりアエルに近付こうとするが、ナイナーダが魔力で軽く吹き飛ばす方が早かった。
子供ひとり分ほどの距離を飛ばされて、ソリッドが腰から足場に落ちる。
途端に呼吸が止まったかのようにソリッドが苦痛に顔を歪め、胸を掴まれたアエルは気道が痛むのか何度も噎せていた。
その噎ぶ間もアエルは無表情のままで、ナイナーダがさらにつまらなさそうにため息をつく。
「何の役にも立たない女だな」
「…てめぇ」
「とっとと立て。そして私に従っていろ。でなければ、この女の耳から削ぎ落としていくぞ」
怒りに身を任せようとしたソリッドだが、アエルを盾にされてすぐに苦虫を噛み潰したかのように歯を食い縛る。
やがて立ち上がったソリッドに、ナイナーダは一本の片刃の短剣を投げ渡した。
「その剣であの肉だるまを瀕死に追い込んでもらうぞ」
刃先から柄まで鉄で作られたかのような短剣。
それを手にしてソリッドは一度パージャに目を向け、そしてナイナーダに戻る。
「…その剣で俺を瀕死にってことは…ただの剣じゃないってことだよね?何製なわけよ?」
死ぬことも傷付くことも許されない身体を瀕死になど。
半信半疑のように問うたパージャに最初に送られたのは、何度目かも忘れた嫌な笑みだった。
「その剣には、お前の仲間の青を傷付けることに成功した術式を練り込んである」
仲間の青を。
「…ウインドの?」
思い出すのは、ウインドの頭に未だに残る酷い傷だ。
仲間になる前のウインドとエレッテが魔術兵団から逃れる際に、エレッテをかばってウインドが負った傷。
その特殊な傷は塞がることなくウインドの頭から血を流し続け、長く苦しめ続けている。
ガイアの治癒魔術と特別にあつらえた布で応急処置はしているが、治る気配は一向に訪れなかった。
ウインドを傷付けた力を短剣に練り込んだとなれば。
「…じゃああの傷でウインドが死ぬことはないってわけか。それがわかっただけでも儲けもんだわ」
永遠に癒えない傷を与える剣。だがそれで死ぬこともないのは、ナイナーダの口調から理解できた。
特殊な術式を練り込んだ剣ですら、不死には敵わないのだと。
ただしそれはただの生き地獄となるのだろうが。
「察しの良い者は嫌いではない」
「俺はあんた大っ嫌いだけどねー」
何度も剣を利き手で握り確認するソリッドを中央に、パージャは弧を描く先にいるナイナーダと睨み合う。
これはパージャとナイナーダの戦いだ。なのに、戦闘の相手は巻き込まれただけのソリッドなのだ。
エレッテとアエルという、どちらも逃げることを許されない人質をとられて、人が二人並んで歩ける程度の足場しかない場所で。
足元に広がる巨大な穴に落ちたところで最悪骨が折れる程度だろう。だが穴の奥から溢れる不気味な気配は、パージャを欲しがるように不穏に蠢いている。
「さあ、肉だるま。お前には存分に傷付いてもらうぞ」
ナイナーダが気味の悪い笑みを浮かべるのと、ソリッドの強い視線がパージャに向けられるのは同時だった。
やらなければ、アエルをさらに傷付けられるのだから。
「…サイアク」
逃げ道はただひとつ。
だがパージャがその道を進む為には、彼女を救い出さなければならない。
一人で逃げられるような性格ならよかったのに。
短剣を構えたソリッドは間合いを取るようにじわりじわりとパージャに近付く。
足場の狭さはどちらにも不利で、パージャは近付くソリッドから目をそらさずに一歩後ろへ下がった。
上手く逃げる為に。どう動けばいいか。
パージャが下がるよりもソリッドがにじみ寄るほうがわずかに早く、そう広くない空間で間合いは簡単に短くなっていく。
「…まあ、何とかなってもらわないとね!」
ソリッドの間合いに入るそのわずかに早く、パージャは深くしゃがむと魔力を一気に放出し、自ら深い穴へと身を投げ出した。
おぞましい口を開けてパージャを飲み込もうとする穴。だが落ちるよりも先に放出された魔力は形を形成し、絡み合う太い蔓となって広い穴を塞いだ。
その上に、パージャは身軽に着地する。
「…戦うなら、足場は大事でしょ」
これで穴に落ちるかもしれないという心配をすることなく戦えるようになった
魔力を操るパージャにナイナーダは不満を唱えない。
元より二人が長く戦い、その分深く傷つけ合うことを望んでいるはずなので、何も言ってこないだろうとは頭にあった。
アエルの隣に立ちながら背中を壁に預け、足元のエレッテを踏みにじりながら。
高みの見物をかますナイナーダは、やはり笑うだけだった。
腸が煮えくり返りそうになるほど苛立たしい存在は、自分が優位にいると信じて疑わないのだ。
蔓の上に立ち上がり、ナイナーダから目を離して再びソリッドを注視する。
突如現れた蔓に驚いた様子は見せるが、表情はすぐに無に戻り、怯えることなく彼も蔓の上に降りた。
足場の悪い円形のバトルフィールド内で、どこまで時間を引き延ばせるかはわからないが。
互いに睨み合い、息をひそめて。
「はあぁっ!!」
先に動いたのは、やはりソリッドからだった。
刃先がパージャの胸部をとらえようと突き出され、その無駄の無い動きからパージャは身軽に逃れ。
しかし逃れた先には既にソリッドの回し蹴りが存在し、
「っく…」
間一髪でその足を蹴り飛ばしてパージャ自身も遠方に飛んだ。
だが様子を窺う時間をソリッドは与えてはくれなかった。
戦場慣れした堂々とした動きでパージャの急所を迷いなく狙ってくる。
腕を、胴を、足を。
繰り出される突きや払いは早すぎて、パージャに考える時間を与えてくれない。
これでは助かるものも助からない。
やむを得ず魔具で不馴れな剣を生み出してソリッドの短剣を受け止めたパージャは、そのまま力任せに押し返してわずかな距離を取ってから、思いきり剣を振り上げた。
ソリッドを頭から切り捨てるかのような状況で、
「やめてえぇっ!!」
叫ぶのはアエルで。
「っ…」
ソリッドを思う、華奢な悲鳴がこだまする。
そのあまりの痛々しさに、元より苦手だったパージャの剣先はいとも簡単に鈍った。
最初からソリッドを傷付けるつもりのなかったところに悲鳴で押さえつけられて、隙を見せたパージャ相手にソリッドが容赦なく間合いを詰めて。
「…悪い…」
耳元に響いたソリッドの小さな声。
同時に右肩に奇妙な感覚が走った。
そのままソリッドに腹を蹴られ、蔓の上に無様に倒れる。
右肩に走った奇妙な感覚は次第に痛みを伴い、貫かれたのだと気付いた瞬間に爆発するような灼熱の痛みを出現させた。
「ぐぅ…」
今まで味わったことのない痛みがパージャを苛む。
それは、傷が治らないが故の痛みだった。
貫かれた箇所から滲み溢れる血は鮮やかに赤く、今までパージャが見てきたように黒い霧に変化して体内に戻ることなく流れ落ちていく。
あまりの激痛に口元は歪み、歯を食い縛りうずくまる。
「…新鮮な痛みが収まらないだろう?練り込んだ術式の力だ。お前の仲間の青が受けた傷はまだ術が未完成だった為に痛みも鈍痛止まりだろうが、それは違うぞ」
苦しむパージャを見下ろして、ナイナーダは裂けそうなほど頬を引き上げる。
「治ろうとする傷口に永遠に攻撃し続ける代物だ。お前は永遠にその痛みを味わい続けるのだよ。深い穴の中でな」
何とか膝をつき、傷を押さえながらナイナーダを睨み付ける。
その隣にいるアエルはソリッドを傷つけられるかもしれない恐怖に怯えるかのようだった。
「…愛する男が殺されるかもしれないとなれば、さすがの愚図も怯えるか」
ナイナーダはパージャの苦しむ様とアエルの悲痛な表情に満悦の様子で、腫れ上がっているアエルの頬に指を滑らせる。
「やめろ!アエルに触るな!!」
途端にソリッドも激昂して。
何もかもがナイナーダを喜ばせる糧となり始めていた。
アエルを守ろうと必死なソリッドと、ソリッドが傷付く様を見せられるかもしれないアエルと、戦うこともできずに逃げ回るしか出来ないパージャと。
何もかもがナイナーダの手の中に。
--違う
だが、全てではない、と。
信じて願い続けるように、パージャはひたすら痛みを堪えた。
種は蒔いたのだ。
後は、信じて。
「…後は、この娘さえ目覚めれば完璧ではないか…」
アエルから手を離して、ナイナーダは足元のエレッテに触れるためにしゃがむ。
未だに目を覚まさないエレッテ。
「死なぬ身体の娘よ…早く目覚めて私の玩具となれ」
瞼に触れ、頬を伝い、唇に触れ。
ナイナーダの指先がエレッテの首に触れた、その時を待っていた。
「--オッサン、逃げろ!!」
目覚めないエレッテの身体が突如崩れて人型の蔓となり、ナイナーダの腕から全身へと絡み付く。
「なっ!?」
身動き出来なくなったナイナーダを蔓で足場に押さえつけて、パージャは別の蔓で鎖ごとアエルを助け出した。
そして呆然とするソリッドを強く小突いて唯一の逃げ道を示す。
逃げるぞ、と。
パージャの魔具の蔓に救われたアエルをそのまま引き連れて、促したソリッドと共に唯一の通路に駆け込む。
ナイナーダがどういう状況かはわからないが、長く押さえ込むことは不可能だろう。だから、なるべく遠くへ。
「どうなってるんだ!!エレッテは!?」
「エレッテは隠した!!今は前だけ見てろ!!」
走りながら、より早く逃れる為にアエルをソリッドに託す。
全身が痛むのかアエルは無表情のままわずかに呻いたが、ソリッドに抱かれて表情がわずかに軽くなった気がした。
「今はとにかく逃げることだけ考えてくれ…あいつらは俺の専門だ」
激痛を走らせる肩の傷を無理矢理意識から遮断して、パージャは前方から押し寄せる不気味な気配を睨み付ける。
今までは逃げる為の合図にしていたその気配に、今は立ち向かう。
魔術兵団。
恨むべき根元を。
魔術兵団はナイナーダだけではないのだ。
前方から激流を流し込むように全身を叩きのめそうとする気配。そして現れた魔術兵団の姿に、パージャは自分達が助かる為の魔力を溢れさせた。
ソリッドを相手にした時は傷付けないよう押さえていた力を、今度は情も無く殺しつくす勢いで発動させる。
パージャの魔力の源は元々ファントムのもので、欠片の魔力であれファントムの力に対抗出来る者など存在しない。それを知った上で。
得意な生体魔具を生み出し、廃鉱の通路に淡く発光する色とりどりの鮮やかな花が咲き誇った。
あまりにも美しく異様な光景に、前方に現れていた魔術兵団もわずかにひるみ。
その隙を逃さず、剣先よりも鋭く硬い蔓で魔術兵団達を捕らえ、串刺しにした。
それで彼らが死に絶えるかどうかはわからない。ナイナーダのように死なない身体の持ち主ばかりかも知れないのだから。
だがそうだったとしても、構うものか。
全身を蔓に這わせ、体内を切り裂かせ、その間に逃げるのだ。
廃鉱の通路を歩いた距離はそう長くはなかったはずだ。
数名の魔術兵団を通り過ぎ、がむしゃらに走り。
走る先に見えた地上の星の瞬きに、雨を降らせそうだった曇天が流れ去ったのだと知った。
「あと少しだ!」
背後にいるソリッドとアエルを元気付けるように叫び、鮮やかな花の咲く通路を飛び越えた先で--
「--遅い登場だな」
廃鉱から外へと身を投げ出した瞬間に、聞きたくもない声色に耳を犯された。
廃鉱の最奥にいたはずのナイナーダが、眼前に。
まるで穴を燻して獲物が飛び出すのを待っていたかのように魔術兵団の者達と共に等間隔に広がり、弧を描くその中央に立っていた。
「してやられたよ、肉だるま…貴様が生体魔具を得意とすることは知っていたが…まさか人の形すら作り出せるとはな」
パージャが作り出したエレッテの紛い物を褒め称えるように嫌味な拍手を送ってくれる。
「その女を救い出す為に我慢して私に付いてきたというところだろうが…さあ、これからどうするつもりだ?」
ナイナーダは一瞬だけアエルに目を向け、再びパージャに視線を戻してくる。
アエルを救う為にしおらしくナイナーダの後に続いていた。その真実を聞かされてソリッドとアエルの視線もパージャに注がれるが、パージャはただナイナーダだけを目に映す。
「貴様を捕らえて黄の娘の居場所を吐かせたいところだが…その軽い口は肝心なところで閉ざされるからな?」
昔を懐かしむようにナイナーダは首をかしげる。
「口を割らせる為に次は何するつもりだよ?また皮剥ぎパージャ君にでもするつもり?」
パージャとナイナーダ達魔術兵団にしかわからない昔話を織り交ぜて。
わずかに震える大気の流れを感じながら、パージャは深呼吸をした。
「…言っとくけど、エレッテはもうあんた達の手に入らない場所にいるからね」
パージャが蒔いた救いの種。
気付け、と信じた願い。
それは上手く彼に伝わったのだと、大気の流れに紛れた気配が教えてくれる。
エレッテはもう大丈夫のはずだ。
だから後は、
「本気でやり合おうよ。俺はあんた達を恨んでる。あんた達は俺を捕まえたい…最高のシチュエーションじゃん」
ソリッドとアエルを庇うことを忘れてはいけないが、もう遠慮は必要無いのだ。
「あんたは俺が殺したかった。あの子から平穏を奪ったあんただけは」
ウインドに首を落とされてナイナーダは死んだと思っていた。だが生きてくれていたのだ。
さあ、殺り合おう。
互いに死なぬ身体を持ちながら。
魔具の蔓を生み出すパージャの前に、ナイナーダは一人で立ちはだかってくれた。
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