第52話
第52話
煌々と淡いオレンジの輝きが満ちる広い一室で、リーンは眉をひそめて今にも泣き出しそうな表情になりながらも懸命にバランスをとろうとしていた。
関節の脆い操り人形のように危なっかしく揺れながら二本の足で立ち、両手は前に伸ばされて、大好きな人の大きな手のひらに支えられて。
室内には壁際に癒術騎士であるアダムとイヴが控えており、アダムは冷静に、イヴはソワソワとリーンの身体が揺れる度に肩をすぼませていた。
リーンの身体機能回復訓練は最終段階に入っていた。
食事により身体に肉を付ければ異常なスピードで回復が始まり、わずかながらも手足を動かせるようになった後は、自力で起き上がることはまだ不可能だが座った体勢は長く維持できるようになった。
急げと命じるファントムの言葉に素直に従うかのように、リーンは回復訓練に集中していた。
身体に肉が付き始めたといってもまだまだ木の枝のような骨と皮ばかりの身体だが、それでも最初に比べれば随分と人間らしくなっている。
リーンがラムタル王城に到着してから約ひと月ほど。
有り得ない回復の早さは、彼女の身体が呪いに苛まれている証拠だった。
バインドは懸命に立ち続けるリーンの手を握って支え、自分の腹部辺りまでしかない彼女の闇色の髪を見下ろし続けている。
その眼差しに気付いたかのようにリーンは見上げようとするが、少しでも身体のどこかを無理に動かそうとすればすぐにバランスを崩すので結局諦めて再び体勢の維持に務めた。
「…片手を離すぞ」
リーンの身体の揺らぎが落ち着いた頃合いで、バインドが口を開いてからそっとリーンの左手を解放する。
まるで名残惜しむように大きな手のひらは離れ。
「--ぁ」
途端にリーンの身体はぐらりと傾いだ。
開いた左の膝から崩れるように身体は床に向かい、だが床に抱かれるより先にバインドがリーンの身体を抱き支えてくれる。
ふわりと軽やかに羽根が舞うように、リーンはバインドの腕の中におさまった。
室内の空気は一気に張り詰め、壁際ではイヴが口元を両手で押さえて目を見開いている。
「…もうしわけ、ございません」
数秒の沈黙の後にリーンは支えられた状態のままバインドに謝罪し、バインドの方は気にするなと言うように闇色の髪を撫でた。
「急かしたのはこちらだ…少し休憩をはさもう」
そのままリーンの身体をそっと抱き上げて、室内の主役であるかのような大きなベッドに向かう。
大切に大切に扱うようにリーンはそっとベッドに下ろされ、そのまま横に寝かされた。
バインドは横たわるリーンの額と頬を撫でてから優しく微笑み、柔らかな素材の靴を脱がせてくれる。
大国ラムタルの王みずから。
靴はベッドの下に揃えて置かれ、バインドはそのままリーンの隣に腰を下ろした。
「声も随分と出るようになったな。安心した」
「…ありがとう、ございます」
ラムタルで目覚めてからこちら、リーンは言うことをきかない自分の身体に苛立つ日が多かった。
しかし身体が本格的に回復を始めてからはそれも落ち着き始めていたのだ。
休憩に入った安堵からかリーンは身体の力を抜くように柔らかな表情に戻り、ようやく年齢に見合った幼さを見せてくれた。
幼さとはいってもリーンの身体は本来なら15歳だが、未だに生き埋めにされた10歳の頃のまま留まってしまっている。
それでもゆっくりと時間は動き始めた。
リーンはまだ自分が15歳であることを知らないが、それでも。
「はやく、からだを、なおしますね」
健気なリーンは優しい眼差しを向け続けてくれるバインドに幼い約束を告げた。
リーンの身体は病気に苛まれているのだと告げたバインドの言葉を信じたまま、懸命に。
その約束を互いに取り交わすものとするように。
「…何があっても私は傍にいる。お前の傍で、お前の痛みが早く消え去るように力を尽くそう」
大国の王としてでなく、一人の男として。
幼いリーンにはその言葉の深層までは理解など出来ないが、漠然と気付いたかのように、そっと静かに頷いた。
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パージャの気配がすると言い残し去っていったルードヴィッヒをガウェが呆然と眺めたのは、わずか数秒程度の事だった。
ダニエルの乗るはずだった馬を横取って騎乗し、まだ少女の歳であるジュエルも共に乗り上げて。
夜の闇に馬が溶け込んだのは貴族の屋敷が建ち並ぶ居住区の方向で、ガウェはその先を見据えるように目を開いた。
わずか数秒程度。
その間に。
あらゆる情報がガウェの脳内で積み木のように積み上がり、その頂点にリーンの姿が軽やかに舞い降りる。
パージャはファントムの仲間だったのだ。
もし本当にパージャがいるなら、その先にはリーンもいるはずだと。
ガウェの唯一最愛の姫。
ガウェの為に生まれてきてくれた、ガウェだけの姫が。
再び動き始めたガウェの身体は、無意識の状態のままそれが当然であるかのように生体魔具を生み出す。
ガウェがたったひとつだけ作り上げた、巨大な烏の姿をした魔具を。
夜空に穴を開けたように純粋な闇色に輝く翼を広げて、ひと一人ならば余裕で乗り込めるほどの烏は主人を待つかのように姿勢を低くする。
「待つんだ!ガウェ!」
魔具に乗り上げようとしたガウェを止めたのはジャックだった。
腕を掴まれて先を阻まれたガウェは自分を止めたジャックを射殺すほど睨み付け、腕を振りほどいて言葉にならないほどの怒りを露にする。
「落ち着け。まずは説明を。お前にまで単独行動に出られたら王城に来たばかりの私達には他者に説明など出来ない」
ジャックの隣から馬を奪われたダニエルも注意をしてくる。
現状しか聞かされていないジャックとダニエルにとって、ルードヴィッヒが取った行動は完全に意味のわからないもののはずで、だが悠長に説明などしていたらパージャを取り逃がすことに繋がる。
ガウェはわずかな焦りに苛まれるが、怒りを堪えるように強く俯くと、静かに生体魔具の烏を消し去った。
王城正門の外で門番をしている騎士や平民達は恐れるように息を潜めてガウェの様子窺っている。その眼差しから逃れるように、ガウェは通路用の扉に向かった。
「ガウェ!どこに行くんだ!」
後をついてくるジャックに肩を掴まれるが構わず歩みを進めて通路に戻る。
冷静になれ。慌て急いだ所でリーンは救えない、と。
「ガウェ!」
「コウェルズ様の元に向かいます。その間に説明をしますので、一緒に来てください」
指示はコウェルズから仰ぐと告げたガウェには、背後の二人が互いに顔を見合わせた様子までは見られなかった。
通路を抜けて、王城敷地内で再び生体魔具を発動させる。
「乗ってください」
走るよりも馬を使うよりも早くコウェルズの元に向かう為に。
ガウェが作り上げる烏はニコルの生体魔具よりひと回り小さく、いつも二人乗り程度の大きさに抑えていた。
リーンの為だけに作り上げた烏なのだから当然だ。
しかし今回ばかりは意識して普段よりも大きな烏を生み出す。
ニコルが生み出す鷹のように、大の男が三人なら乗り込めそうなほどの。
慣れない大きさの生体魔具を生み出した反動がどこかで出るかもしれないが、そんなものは構わない。
素直に従ってくれる二人の中央に割り込んで、ガウェは砂塵と共に空高く烏を舞い上がらせた。
遠巻きに見ていた王城騎士達の視線が一気に見上げるものと変わり、ガウェは兵舎すら軽々と飛び越えられるまで烏の翼を動かし続ける。
「っ…」
やはり慣れない大きさで操作が難しい。それでもバランスと魔力を保ちながら、崖から一気に落ちるように王城の露台へ向けて飛び続けた。
左右にいる二人に気を使っていられるほどの余裕はない。そしてそれに気付いたようにジャックとダニエルも烏に身を寄せる。
冷たすぎる暴力的な風に身体をさらしながら、ようやく見えた露台へと急降下して。
「--消します!」
これ以上は生体魔具を維持できない。そう悟り、ガウェはギリギリの位置で二人に飛び降りるよう促した。
生体魔具と共に急降下し、一瞬だが落下速度を止めてからバランスを崩すように魔具を消して。
それでも身体を鍛えている者なら余裕すぎる高さからの落下に、三人は上手く露台へと着地する事ができた。
「…なんて乱暴な運転なんだ」
「…寿命が縮んだよ」
安堵の溜め息を付きながら立ち上がるジャックとダニエルに、ガウェは何も返さなかった。
慣れない魔具の操作に久しぶりに指先が冷えてひりつくが、強く拳を握り締めて気を取り直す。
「…ルードヴィッヒが口にした男、パージャはファントムの仲間の一人です」
露台から王城内に入りながら。
唐突に始まるガウェの説明を、二人は静かに聞きながら後に続く。
「団長が平民騎士として無理矢理入団させたパージャはルードヴィッヒと同室で親しくしていたので、何らかの気配に気付いたのでしょう」
ガウェでも気付かなかった何かにルードヴィッヒは気付いた。
それはガウェにはないルードヴィッヒの才能か、それともパージャが何かしたのか。
「…ファントムの仲間がすぐ近くに?」
ジャックは半信半疑の様子を見せるが、たとえルードヴィッヒの勘違いであろうがガウェには関係なかった。
勘違いだったならそれはそれで構わない。
ガウェはリーンに繋がる道を全て見つけ出してたどるだけなのだから。
そして説明を行うとは言っても、ガウェが二人に今教えられることなどたかが知れている。
「貴族の居住区画に本当にいたとするなら…王城から近い場所をあえて選んで潜伏していたとか?」
「さあな。行ってみないとわからないんだろうが」
ガウェが口を閉じて先を進むことに専念すれば、ジャックとダニエルはまだ見たこともないだろうパージャという存在について議論を始めようとして。
「--何かあったかな?君の魔力が異常に働いていたみたいだけど」
コウェルズがいるだろう上層階に向かうより早くに、目当ての王子は幅の広い階段を優雅に降りてきてくれた。
「コウェルズ様、緊急の件が」
「だろうね。何があった?」
頭を下げるジャックとダニエルを放置して、ガウェは見上げる階段上のコウェルズに近付く。
コウェルズの護衛に立つのはフレイムローズだけだ。
ガウェはフレイムローズが今回も何か絡んでいるかと一瞬疑ったが、ちらりと視線を向けてもフレイムローズは首をかしげるだけだった。
何も知らないなら、それでいい。
すぐに視線をコウェルズに戻して。
「…パージャが現れたかもしれません。現在は気配に気付いたルードヴィッヒ殿とジュエル嬢が、独断で貴族の居住区画に向かっている状況です」
現状の簡単すぎる説明だったが、コウェルズはそれだけで充分だというように眉をひそめた。
「パージャが?確かか?」
「わかりません。可能性の段階です…ですがルードヴィッヒ殿は」
「…パージャと確信して動いた?」
「…はい」
息を潜めるのはフレイムローズで、ジャックとダニエルはガウェの後ろで静かに様子を窺う。
「…ルードヴィッヒが向かっているのなら、こちらも急がなくてはね。フレイムローズ、魔眼蝶を三人に」
コウェルズが命令を言い終えるより早く、フレイムローズは三匹の魔眼蝶を産み出してガウェ達の肩に留まらせた。ガウェにとっては懐かしい魔眼蝶だが、ジャックとダニエルはその巨大すぎる不気味な蝶に少し警戒している。眼球に蝶の羽が生えたような見た目だ。気味悪くて当然だろう。
「これで離れていても大丈夫だね。指揮は私が出すよ。三人は今からルードヴィッヒの後を追うんだ。フレイムローズ、君はニコルを呼んで下に来てくれ。私も捜索部隊の他のメンバーを呼び出すから」
急ごうとパンと手を鳴らして。
コウェルズから出動命令を手に入れて、ガウェはすぐに踵を返した。
「待て!ガウェ!」
ジャックとダニエルはコウェルズへの一礼を忘れず行ってからガウェの後に続くが、待ってなどいられるはずがなかった。
「馬で来てください。私は空から向かいます。ルードヴィッヒ達を見つけ次第空に目印の魔力を打ちますので」
「ガウェ!」
その方が早く見つけられる。
相談もなく勝手に決めて、ガウェは露台へと踏み出てから慣れた大きさの生体魔具を生み出した。
今度は先ほどとは違う。
慣れ親しんだ、ガウェとリーンの為だけの烏を。
「お急ぎください」
まだ事態を掴めず困惑する二人を見据えて。
ガウェは烏に飛び乗り、王城から浮き上がった。
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