第51話


-----

 この時期の曇天などさほど気にするほどのものでもない。
 だというのに、なぜかその日一日パージャは空が気になって仕方がなかった。
 ハイドランジア家の裏庭が見える二階の窓の枠に手を置いて、夕暮れ時の重苦しい雲を眺め続けて。
 おかしな気配は朝から感じていた。
 目が覚めたと同時に感じた怖気は嫌な意味で懐かしく、だがいつ感じた懐かしさかまではわからない。
 ハイドランジア家に訪れてから一度も丸一日を屋敷で過ごしたことなどなかったのに、本能が警告を発するように一歩も外に出なかった。
「--パージャ、夕御飯だよ」
 ふと背後から響いたのはエレッテの声で、振り向くパージャに彼女は柔らかな笑みを浮かべる。
 今までなら考えられないような穏やかな笑みは、エレッテが気絶した翌朝から見られるようになったものだ。
 どうやらこの家の現在の老主人であるビデンスと何か話したらしいが、それがエレッテの心を少しだろうがほぐしたようだ。
 かつてロスト・ロード王子付きとして大戦を勝ち抜いた騎士であるビデンスは今も威風堂々とした姿を見せるが、彼もエレッテの前では柔らかな雰囲気を醸すようになった。
 それは恐らく過去に怯えるエレッテの為だろうが、お陰でエレッテは今こうやって微笑んでいるのだ。
 普段のパージャならば良かったと胸を撫で下ろしただろう。
 だが今日にかぎっては。
 何かが胸をカリカリと引っ掻いていく。
「もう夕食か…さっき昼飯じゃなかったっけ?」
「いつもと同じだよ。パージャはいつもお昼は外で食べるからじゃないかな?」
 いつもなら。
 普段通りならパージャは今日も適当にふらりと外出しているはずだった。
 あてどなく、しかしファントムや王城の噂を耳にしながら。
「やー、なんかさー、今日は雨降りそうだったからさー」
 窓枠から離れて、ガラス戸を閉める。
 そのまま窓から離れるが、やはり何かがひっかかってもう一度だけ外に目を向けた。
「どうしたの?」
「んー…なーんかひっかかるんだよね」
「…何かって?」
「こう、体がソワソワするんだよ。昔どこかで感じてた気がするんだけどな…何だっけか。…エレッテは何か感じないか?」
 問いかければ、エレッテは素直に目を閉じて辺りを窺うような素振りを見せるが。
「…何も…ごめ」
 口癖になっていた謝罪の言葉を途中で止めて、エレッテが改まるようにパージャに向き直る。
「大丈夫。セーフセーフ」
「…ふふ」
 少し困ったような笑みを浮かべながら、エレッテは窓辺に近付いた。
「何も感じないよ。雨が降りそうだからとかじゃないかな?」
「あーあれか。雨降り前後に頭痛くなったり関節痛くなったり…いやそればーちゃんじゃん」
 雨がよく降るこの季節は体の節々が痛くなるとはハイドランジア夫人であるキリュネナの大きな小言だ。
「わっかんねえからもういいや。夕飯行こうぜ」
「うん」
 もういいと口にしながらも心の大部分を占めさせて。
 まるで名残惜しむように窓の向こうに広がる暗い世界から目を離して、パージャは二階の廊下を歩いた。
 階段を降りて、裏庭に繋がる部屋に向かう。
 少し後ろを歩くエレッテは普段通りで、パージャだけが気にしすぎているのだろうか。
「そういや昼間に伝達鳥飛ばしたのってエレッテ?」
「うん…ウインドに」
 昼間に窓の向こうを飛んでいった中型の伝達鳥を思い出して訊ねれば、やや声を小さくしながらもエレッテは頷いた。
「へえ。何て送ったのさ」
「…こっちは大丈夫だよって」
「…それだけ?」
「うん。あとミュズに、パージャは元気だよって」
 そんな短いやり取りの為だけに伝達鳥に長距離を飛ばさせるとは。
 だがそれも、今までのエレッテを思えば大きすぎる進歩だろう。
「ってことは、ウインドへの気持ちは自分でわかったのか?」
「…うん」
 肯定の言葉は小さく、しかし強く。
「…私もウインドが好き」
 エレッテの折れないだろう芯を見せつけられて、喜ばしいこととはいえ羨ましさに嫉妬しそうになった。
「そーかいそーかい。なら後はガミガミ煩いウインドに自分の言葉をぶつけるだけだな。嫌なら嫌って」
「…そう、だね。…頑張る」
 頬を染めるエレッテは完全に恋をする乙女だ。
 おめでとうウインド。君の努力は報われた。
 この場にいないウインドに心の中で拍手を送ってやりながら、夕食の用意がされている部屋に入り。
「ご飯だー」
「なにを子供みたいなことを言っとるんだ。とっとと座れ」
「ちょっとじーちゃん、俺とエレッテで態度違いすぎるんだけどー」
「お前がいつまで経っても馬鹿みたいなことをしてるからだろう!」
 すでに着席していたビデンスとキリュネナに手を振って、慣れた席に座る。
 エレッテはキリュネナの向かい、パージャの隣だ。
 着席すれば、待ちわびたかのように使用人の娘達が給仕を始める。
 品のよいシンプルな柄の平らな皿に盛られるのはサラダとエル・フェアリア地方特産の牡鹿の肉で、パージャの隣に立った娘はわざとらしいほどに給仕にかこつけて密着してくる。
 ラムタルに嫁いだ親戚の子供という設定は健在で、娘達はパージャとエレッテを貴族の出自だと信じているのだ。
 見初められれば玉の輿。
 王都のハイドランジア家に仕える使用人の平民の娘は夢を諦めない様子だった。
 ハイドランジア家に仕える下位貴族の娘はすでにパージャを諦めたらしく、キリュネナの持ってくる縁談待ちだとか。
 誰も彼も打算無く恋愛する気はないのかとも思うが、相手が現れたならパージャなど忘れてころりと転がるように恋をするのだろう。
 給仕が終われば娘達は部屋を出て食事が始まり、ゆったりとした時間を堪能しながら食事を楽しんでいく。
 途中で隣のエレッテの料理を奪い、ビデンスに怒られてキリュネナに笑われる。
 いつも通りの夕食だ。
 ただ、何かがパージャの不安を煽るだけで。
 それが何かわかったなら、頭を捻りはしない。
「--それでね、サクラったらお隣さんの年上の男の子を言い負かして泣かせてしまったのよ」
 会話はキリュネナが中心になり、パージャと過ごした思い出話に花を咲かせる。
 パージャがまだパージャという名前をミュズから分けてもらっていない頃の話。
 サクラとして半年を過ごした、大切な時間を。
 エレッテは笑顔を浮かべながら静かに聞いて、ビデンスはパージャの悪童っぷりを怒って。
「…サクラったら、突然いなくなっちゃって。いつもみたいにひょっこり帰ってくると思っていたのよ…でも帰ってこなかったの。おおごとになったんだから。兵達に頼んで、草むらを分けて探して。おじいさんも魔具を出して探してくれたわ」
 話はいつの間にかパージャがいなくなってしまった後の出来事になっていたらしい。
 記憶喪失の少年としてハイドランジア夫婦の元で世話になり、そして姿を消した。
 それはパージャにとっていつもの事だった。
 あまりひとつ処に長居は出来なかったのだ。
 物心ついた頃から、何者かに狙われている気がしていた。
 気付いた時には敵から逃げ隠れる生活だった。
 敵から。
 敵の姿を確認したのは、何歳の頃だったろうか。
 それがエル・フェアリア魔術兵団だと教えられたのは、ミュズごとファントムに拾われた後だった。
 魔術兵団と戦闘になったことはあまりない。
 その前にパージャは逃れていたからだ。
 生きるために身につけた特殊な生存本能で、敵が、魔術兵団が近付いた時には漠然とした気配に気付けるようになった。
 魔術兵団が特殊な気を発する訳ではない。
 ただパージャが生きる為に。
 逃げ延びる為に。
 まるで予知のように--
「--…エレッテ」
 ようやくはっきりと思い出して、パージャは全身を強張らせた。
 今朝から感じていた懐かしくも気持ちの悪い怖気。
 逃げろと本能が告げるような。
 なぜ忘れていたのだ。
 なぜ思い出せなかったのだ。
 ファントムに拾われるまでは、その怖気を頼りに逃れてきたのではないか。
 ファントムに拾われて約十年ほど。
 その間に、生きるために最も必要だった本能は錆び付いたとでもいうのか。
「…パージャ?」
 エレッテは気付かない。
 気付かないまま、様子のおかしいパージャの肩にそっと手を置く。
「…エレッテ、逃げろ--」
 パージャがエレッテの腕を掴んで立ち上がるのと、裏庭に面した扉とガラスの窓が内側に向かって破壊されたのは同時の事だった。
 あまりに突然の出来事にエレッテが短い悲鳴を上げる。
 壊されたガラスに晒される位置にハイドランジア夫婦がいて、咄嗟にビデンスがキリュネナを庇った。
 突然の爆風。
 廊下で待機していた使用人の娘達が爆音に反応して扉を開け、室内の有り様に悲鳴と共に口元を手で押さえて。
「玄関から表に出なさい!キリュネナ、お前も行くんだ」
 ビデンスはすぐに娘達に命じて、顔色を白くして固まっている妻を託した。
 娘達はすぐにキリュネナと共に廊下を去っていく。
 何があった?
 何が起きた?
--知れた事
 パージャは破壊された扉の向こうにだけ目を向けていた。
 外はすでに暗く、扉の向こうはぽっかりと闇が口を開けているだけのように思える。
「サクラ!エレッテ!お前達も早く!」
 ビデンスはパージャとエレッテの腕を掴んでこの場から引き剥がそうとするが、パージャは力強いビデンスの手をそっと振り払った。
「サクラ!?」
「パージャ…」
 ビデンスは驚きながら、エレッテはわずかに理解したように。
 パージャを見つめて、喉を凍らせた。
「…ごめんね、じーちゃん。巻き込んだ…こいつらの狙いは俺達だ」
 闇のような裏庭から何者かが姿を見せる。
 美しかった裏庭は見る影もなく潰されただろう。
 それほどの強力な力で、彼らは。
 だが。
「--…あんた」
 闇から現れた男の姿には、パージャは目を見開くしかなかった。
 バキリと壊れた扉を踏み鳴らしながらハイドランジア邸に踏み込むのは。
 覚悟を決めたような顔をして現れたのは、魔術兵団ではなく。
「…力づくでも一緒に来てもらうぞ…」
 熊のような大柄の、一度はパージャに踏み倒されたはずの男。
「…ソリッド」
 闇市に入り込んだパージャにエレッテの安否を確認した優しい男がなぜ。
「…なんであんたが?」
 ソリッドの姿にエレッテは置物のように固まり、ビデンスは警戒から戦闘体制に入る。
 その中でパージャは、わずかに混乱していた。
 ソリッドは。
 この男は。
 エレッテやパージャを“そう”だとわかりながら見逃してくれていたはずだ。
 だというのになぜ、パージャが幼少期から感じていた魔術兵団の不気味な気配を纏って現れるのだ。
「…お前達二人を闇市に連れていく。大人しく従え」
 ソリッドの瞳には迷いなどひとつも存在しない。パージャとエレッテを闇市に連れ帰ることだけしか考えていないのだろう。
「庭にはまだ仲間がいる。騒ぐなら…関係ない奴らが苦しむことになるぞ」
「…うーわヒッドイ。悪役のセリフすごい似合うじゃん…」
 軽口を叩きながら、わずかな合図でエレッテにビデンスを任せて。
 かつて大戦を生きたとしても、今は騎士を退いた老体なのだ。
「何を言っとるんだ!早く出るんだ!!」
 だというのに、ビデンスは魔具で一対の双剣を生み出すと、エレッテとパージャの前に躍り出てソリッドに剣先を向けた。
「じーちゃん、下がってくんない?」
「ふざけている場合か!」
 我が子を守るように背中を向けてくれるビデンスはすでに戦闘体制が整っている。
 醸し出す空気が半壊した室内を箱形の戦場に変化させ、ソリッドも腰を低くして迎え撃つ仕種を見せる。
 裏庭にいるというソリッドの仲間達は姿を見せず、だが確かに気配は複数存在した。
 しかしそれは仲間というよりも、監視に近くはないだろうか。
「…あんた何したわけ?それとも何かされた?」
 ビデンスからは見えない位置から、パージャは両手の中に太い蔓を鞭のように出現させる。静かにその蔓をしならせながらソリッドに問えば、彼の瞳がわずかに揺らいだ。
「…なあ」
「うるせえ…来るか来ねえのか、どっちだ」
「行かせる訳が無いだろう!!」
 なおも問いかければソリッドは冷めたように二択を迫り、ビデンスは強く拒絶して。
 どのみちパージャとエレッテは逃げられない。
 パージャの本能が当たっているなら、裏庭にひそむのは。
「…王城から魔術兵団でも動いたとか?」
 言葉の終わりと同時に、パージャの背後に人の気配が戻った。
 元々体を向けていたソリッドは廊下に繋がる扉に視線を向けて、エレッテとビデンスも気配を感じるままに振り向いて。
 パージャだけは、苦しむようにわずかに俯いた。
「…あなた」
「キリュネナ!!」
 使用人の娘達と共に逃がしたはずの夫人が、特殊なローブを纏った男と共に現れる。
 その男が醸す嫌な気配こそが。
 パージャが幼い頃から逃れる為の警告に使用していた、気持ちの悪い。
「また会えたな。肉だるま」
「…感動の再会って?いらないんだけど」
 魔術兵団、ナイナーダ。
 ウインドに首を切り落とされて死んだはずの男が。
 エレッテは絵画でロスト・ロードの隣に立ったナイナーダの姿を見ている。そんな過去からいた男。
 数日前にその話を聞いて、エレッテに連れられるままに絵画を見た瞬間に。
 直感的に感じてはいた。
 彼は。
 ナイナーダは生きているだろうと。
 自分達と同じように。
 呪われたか、特殊な力を手に入れたかして。
 そうであってもおかしくないほどに気味の悪い男なのだから。
 決心してパージャもナイナーダに目を向ける。
 そうすれば視界に飛び込んでくるのは、キリュネナがナイナーダに腕を拘束された姿だった。
 巻き込んでしまった。
 優しい人達を。また。
「そちらのお嬢さんは…闇色の黄の娘か。苦しませ甲斐のありそうな娘だ」
 ナイナーダは怯えて固まるエレッテに簡単すぎる獲物を前にした捕食者のような笑みを浮かべて、彼女の恐怖心を煽った。
 せっかく柔らかな笑みを覚えたエレッテが、ナイナーダの視線のせいで再び怯え耐えるだけのか弱い娘に逆戻りしてしまう。
 今の状況では、エレッテは自らの魔力を上手く発揮できないだろう。
 内心で舌打ちしながら、パージャは無駄だとわかりながらも辺りに逃げ道を探す。
 ビデンスとキリュネナを連れて、エレッテを連れて逃げられる道を。
 だが。
 やはりどこをどう探しても。
「…ナイ、ナーダ?」
 そしてビデンスも、彼に気付いた様子で驚愕の表情を浮かべる。
「懐かしいな、ビデンス。お前は私を覚えてくれていたのか」
「ふざけるな!ナイナーダのはずが!!」
「目の前に見えるものが幻だとでも?随分と老いたのだな。目も見えないのか」
 ナイナーダはかつて肩を並べて共闘したビデンスに蔑みに似た笑みを浮かべて、キリュネナの腕をさらに捻りあげる。
 ひっ、とキリュネナの短い悲鳴と共に、彼女の顔色がさらに白くなった。
「貴様!キリュネナを離せ!!」
「離すかどうかは…そこの若者達の返答次第になるな。--やれ」
 ナイナーダが何かを命じ、素直に従ったのはソリッドだった。
 キリュネナとナイナーダに目を向けていた為に完全に背後を欠落していたビデンスに向けて、ソリッドは大柄な体躯に似合わない素早い動きで老体の背中を捉えてその首に短剣を突き付ける。
 虚を突かれた状況ではビデンスも成す術がなく。
 しかしビデンスは魔力を生まれ持った貴族で。
「…やめておけ、お若いの。君では話しにならんぞ」
 ソリッドを若者扱いして、手に触れない状態から十本の槍の魔具を産み出し、ソリッドの背後に突き立てた。
 その俊敏な発動は、ビデンスが魔具の訓練に関しては怠らなかった事実を示してくる。
 パージャも騎士として王城に潜入した際にさせられた、手に触れずに魔具を操る高度なテクニック。
 魔力を知らない平民なら戦意を喪失するだけの。
 それでもソリッドは引くことも恐れることもせずに、ビデンスの首筋に短剣を当てるだけだ。
「…脅しだと思っている様だな--」
「--じーちゃんやめろ!!それがあいつの狙いなんだ!!」
 今のビデンスなら簡単にソリッドを殺せる。その気配を老体から感じ取ったから、パージャは無意識に叫んだ。
 キリュネナを助ける為なら、ビデンスは今現在の障害であるソリッドの全身に簡単に穴を開けられるのだ。
 そしてナイナーダは、パージャがソリッドを殺したくないことを知っている。
 かつてもそうだった。
 かつて。
 パージャがパージャという名前を手に入れた時も。
 ビデンスは鬼のような形相をパージャに向けて、それでも何とか動きを止めてくれて。
「…それが奴の狙いなんだ…オッサンは大事なものを人質にとられてる…だろ?」
 言葉の大半はビデンスに向けて、最後のひと言だけソリッドに向けて。
 冷や汗が額から頬を流れて、床に落ちる。
 その間を待たずに再度口を開いた。
「…アエルを人質に取られてんだろ?それがやり方なんだ。大事なもんを奪って人質にして従わせる…そうやって引っ掻き回して…悲鳴と血を流させる」
 全ては快楽の為に。
 仕事に遊戯を交ぜる。それが。
「…それが昔っからの奴の遊び方だ」
 それが、ナイナーダの楽しみ方。
 ただ楽しむだけ。
 アエルの名前を出されてわずかにソリッドの剣先が揺れ、その動揺を面白がるようにナイナーダは笑った。
 ソリッドの大切な人間などアエル以外にいないだろう。
 二人の特別な関係は、わずかの間眺めただけでも気付けた。
 そんな娯楽など不要だろうに、パージャを捕らえる為の余興を作り、自ら楽しむ。
 なんて醜悪なのだろうか。
「…お前は」
 ビデンスは首筋に刃先を向けられたまま、魔具を消さずにナイナーダに怒りに任せた眼差しを向ける。
 昔から変わらない。まるでそう告げるような眼差しだった。
「さあどうする肉だるま。お前が逃げるならこのご夫人は死に絶えることになるが」
 ナイナーダの方はビデンスなど見えていないかの様子だった。
 ちらりちらりとエレッテに不気味な眼差しを向けながら、決断はパージャに迫る。
 ビデンスをソリッドに拘束させたのは、無駄な戦力を省く意味合いもあったのか。
 何を後悔しても今さらだ。ならどうすることが現在最も最良の選択肢か。
 そんなものひとつに決まっている。
 今はとにかく。
「…わかった。とりあえずあんたに付いていくよ。闇市だっけ?回りくどいことするんだな」
 ナイナーダ達魔術兵団からすれば、捕まえたならとっととパージャとエレッテをリーン姫に行ったように土中に埋めればいい話だ。
 それをせずに闇市に連れていこうということは。
「何を言っているんだサクラ!…ナイナーダ、お前にこの子達は連れて行かせんぞ」
「はは…お前に何が出来る?…王子暗殺の日にも気付かなかった脆弱なお前が」
「黙れっ!!」
 愉快そうに笑うナイナーダと、怒りと焦りに苛まれるビデンスと。
「…そうだ、あの娘達にも役を与えてやろうか。ビデンス、かつて仲間だったお前の苦しむ顔も甘そうだ」
「やめて!!」
 叫んだのはキリュネナだった。
「あの子達には手を出さない約束よ!」
 あの子達とは。
 恐らくキリュネナと共に逃げた使用人の娘達だろう。
「ご夫人、口約束ほどあてにならないものはないと、その御年で気付かないほどのぬるま湯だけで生きたわけではないでしょう?」
 キリュネナは娘達を逃がして自分だけが人質になったのか。
 ナイナーダがキリュネナの耳元で囁く様を見せつけられて、ビデンスの怒りがさらに沸き上がった。
「…だがまあ、今は王城も煩くなっているからな。肉だるま、お前が闇市まで大人しくしているなら、ご夫人とビデンスは解放しよう」
「口約束はあてにならないって言った尻からよく言えるよな…でもいいよ、それくらい…ついでにエレッテも置いてってくれない?“贄”はとりあえず一人いりゃ充分なんでしょ。どうせ本当に必要なのは“王子様”なんだろうし」
「ふ…馬鹿な相談だ」
 互いに当事者にしかわからない言葉を口にしながら。
「贄はリーン姫に代わる存在がいるならひとまずはそれで構わない。赤に近い緋のお前なら緑よりも強く贄として使えるからな…だがそこの黄の娘は個人的に捨て難くてな」
 何度目かもわからない不気味な眼差しをエレッテに向けて。
「…鳴かせるなら娘に限る。死なぬ身体なら気を使う必要も無いからな」
 悲惨な未来が待っていると示されて、エレッテが完全に萎縮した。
「あんたマジで最悪だわ」
「だが今は従うしか出来んぞ…また巻き込みたくは無いだろう?」
「…クソったれ」
 毒づきながらも、降参の為に手にしていた蔦の魔具を消す。
「…じーちゃん、頼む…引いてくれ」
 そしてビデンスに頼み込み。
 ビデンスは未だにソリッドに魔具を向けたままだが、理解を示すようにしばらくしてから魔具を消してくれた。
「…さて、後は記憶を少し弄らせてもらうだけだな」
「それは俺にさせてよ。あんたに任せたら痛みを与えながらやりそうだ」
 空いた両腕を持ち上げながら、パージャは先を見越したようにナイナーダを睨み付ける。
 簡単な記憶の操作は高度な技になるが魔力で可能で、基本的には無痛なのだ。だがナイナーダは歪んだ性癖を持つのだ。
 信用できないからとばかりに一歩踏み出せば、足にどす黒い粘液じみた虫のような物質が現れてパージャの動きを封じた。
「黙って見ていろ…」
 それはナイナーダの魔力だ。
 ナイナーダは動けなくなったパージャを鼻で笑い、先にキリュネナの額に背後から手を回して触れる。
 まるで抱き締めるように、ビデンスに見せつけるように。
「か細いご夫人に痛みは感じさせないさ…」
 優しく、紳士的にーーだが。
「あああああぁぁっ!」
 魔力の渦が出現してキリュネナの頭に入り込む。その瞬間にキリュネナが発した声は、痛みに耐えきれなかった絶叫だった。
「貴様ぁっ!!」
 長く連れ添った妻の絶叫に、ビデンスが喉に切っ先を突き付けられていることも忘れて踏み出し、魔具を発動させてナイナーダ目掛けて放つ。
「やめろじーちゃん!!」
 その槍の魔具を、パージャは横から払うように凄まじい魔力で阻止した。
 爆発的に発動させた魔力は半壊した室内を一気に黒く染め上げて、爆風と共に屋敷を震わせる。
 霧のような魔力が充満し、ややしてから薄れ始めて。
 視界が開けた時、キリュネナはナイナーダの腕の中で項垂れて気絶し、エレッテとビデンス、そしてソリッドも壁に全身を打ち付けて床に伏していた。
 エレッテは完全に気絶してしまったかのように動かないが、ビデンスとソリッドは呻きながらも何とか立ち上がる。
「…さすがは緋を宿した力だな」
 パージャの魔力を前にナイナーダはわずかに怯んだような声を発するが、すぐに先ほどの笑みを取り戻した。
 キリュネナを床に転がし、気が遠退いているビデンスの元へと向かう。
 そしてビデンスの額を容赦なく掴み、
「--があっ!!」
 遠慮の欠片もない暴力的な魔力で。
 まだ新しい記憶とはいえ強引に上書きされて、ビデンスが目を剥いて叫んだ。
 額を掴んでいたナイナーダの手が離れると同時に、耐えきれなくなったかのようにビデンスは瓦礫ばかりの床の上へ倒れ伏す。
「…さあ、では戻ろうか。黄の娘はお前が連れてこい」
 邪魔者はいなくなったとばかりに。ただ一人優雅に微笑むナイナーダはソリッドにエレッテを任せると、未だにパージャの動きを封じていた足元の不気味な虫を消した。
 パージャの目の前で、ソリッドは命じられるままにエレッテを抱き上げる。
 その優しい動きは、やはり彼がソリッドのままであることを教えてくれるのに。
 このままなど有り得ない。
 ナイナーダはパージャから悲鳴を引き出す為にソリッドを、そしてアエルを使うはずだ。
--させるか。
 パージャが唯一出来る足掻きは終わった。
 あとは、気付いてくれたなら。
 誰でもいいわけではない。
 だが。
 一縷の希望を。
 彼なら気付くはずだと。
「とっとと来い…言っておくが、おかしな真似はしない方が身の為だぞ」
「…わかってるって。煩いなぁ」
 警戒しながら、室内に倒れるビデンスとキリュネナを見回して。
 今はもう、従うしか道がない。
 ナイナーダについて歩き外に出れば、闇に紛れた他の魔術兵団の影が静かに揺らぎ、ナイナーダが裏庭を去ると同時に消え去った。
 その瞬間にパンと何かが弾けて、視界が一瞬震える。
 他者の邪魔が入らないようにハイドランジアの屋敷ごと結界を張っていたのか。
--どうする?
 もしかしたら、パージャの足掻きは結界に阻まれて無駄に終わったかもしれない。
 それでも、信じるしかない。
--…頼む
 お前なら気付けるはずだから…
 ただ信じ願うしか出来ないが。
 ナイナーダの後に続きながら、後ろにソリッドの気配を感じながら。
 パージャは祈るように静かに目を閉じた。

-----
 
2/3ページ
スキ