第51話
第51話
その日は朝から、アリアはフェントの負傷した腕の確認をしていた。
フェントが腕を打ち付け負傷したと聞かされたのは昨日で、腫れ始めていた腕は昨日のうちに治癒魔術で治したのだが、大切な姫が負傷したのだ。腕の再確認は今朝おこない、完治していたことに皆が安堵した。
治癒をミモザに感謝され、忙しいコウェルズも今朝の触診にはフェントの側にいて。
「視力は治せるかい?」
コウェルズからそう切実に訊ねられて、アリアは申し訳なさから俯いた。
眼球周りの筋肉疲労は癒せても、失った視力までは戻せない。他の治癒魔術師ならわからないが、アリアの力では不可能なのだ。
そう口にしたが“気休めでも構わないから”と定期的な眼球周りのケアを命じられた。
コウェルズがどれほど妹のフェントを思っているか。
その姿は、ニコルと喧嘩をしてしまったアリアには胸に刺さるものがあった。喧嘩とは言ってもアリアが一方的に責めたのだが。
しかも兄は、その後に王城地下に降りて負傷したと聞いている。
聞かされた時はすぐに駆けつけたかったのに、その足音に気付いたようにニコルはアリアから逃げ続けた。
顔を見れない。見たくない。
そうぶつけてしまったから。
大切な礼装を盗まれたかもしれないのに。
何にも代えられない大切な贈り物なのに冷たかった兄。
でも。
だったとしても。
兄の身体に勝るものではない。
何より大切なのは。
ニコルが無事でいてくれることなのだ。
その思いは口にできないまま、ニコルに避けられたまま。
「--レイトル…コウェルズ様命令の大切な話がある」
フェントを癒し、他国語の勉強の為に書物庫に向かおうとしていたアリア達の前に、ニコルは静かに立ち塞がった。
だがアリアを見はしない。
「…私に?」
「ああ」
指名されたレイトルも困惑の表情を浮かべて、ちらりとアリアに視線を向けて。
「今は私とアクセルしか護衛がいないから、少し待ってくれる?セクトルかミシェル殿を呼ぶから」
「いや、急ぎだが聞かれて困る話でもない。少し離れた場所でいいんだ」
「そう…なら今から書物庫に向かうところだったから、そこで構わない?」
「ああ」
話は淡々と進み、アリアはアクセルと並び、その後ろにレイトルとニコルがついて共に書物庫へと向かう。
以前の喧嘩からの今なので会話が弾むこともなく、書物庫までの道程はただ気まずいだけのものだった。
ようやく辿り着いた書物庫を開けるのはアクセルで、四人で中に入っていつもの机に向かい。
「--じゃあアクセル、私とニコルは露台に出るから、何かあったらすぐに呼んで」
「わかった」
アリアは机に紙やペンを広げて、異国の文字が綴られた書物を棚から抜いて。
とっとと書物庫から中庭に繋がる露台に出てしまったレイトルとニコルを眺めながら、アリアはどうしようもない苦しみを胸に感じていた。
ニコルはやはりアリアを見ない。
わざと見ないようにしている姿が悲しくて、それでも無事な姿に安堵している自分もいる。
「ニコル、地下で負傷したって聞いたけど大丈夫みたいだな」
「…そうですね」
アリアの隣に来てくれたアクセルが、慰めるように背中をポンと軽く叩いてくれて。
励ましを受けてアリアは少しだけ笑い、気を取り直すように勉強に集中することにした。
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書物庫を出て露台を進めば、しっとりと湿った冷たい風が頬を撫でた。
「…また雨かな?」
「いや、明け方に少し降ってたからそのせいだろ」
ここ数日は雨の降る時間が増えている。
それが終わればエル・フェアリア王都は本格的な冬に入るだろう。
ニコルにとっては、毎年思い詰めていた冬が。
ニコルの故郷の村はエル・フェアリアで最も寒冷な場所で、毎年のように冬を越せずに死者が出るのだ。
去年まではそこにアリアがいた。
寒い土地で、家族もなくたった一人で。
だが今年からは違う。
アリアはニコルの側に、王城にいるのだから。
開けた書物庫の扉を閉めながら、盗み見るようにアリアを一瞬だけ窺う。
かち合いそうになった目はすぐに俯いて逸らし、未だに空を見上げているレイトルに視線を移した。
「曇ってるし、降りそうな気がするんだけどね?」
「…あの雲なら雨は降らないさ」
「君が言うなら降らないか」
ニコルの天気の勘はよく当たる。それを知っているからレイトルはようやく空を見上げることを止めて、代わりに書物庫内に目を移した。
「…君が負傷したって聞いて、アリアがすごく心配していたよ。今なら自然に仲直り出来るんじゃないかな?」
勉強に集中するアリアを眺めてから、励ますようにニコルの肩を叩いてくれてるが。
「…今は会えない」
今日はコウェルズからの命令があったから仕方なくアリアの前にも顔を見せたが、今のニコルにはアリアに顔向け出来ない理由があるのだ。
アリアを妹でなく女として見ている間は。
「…コウェルズ様命令の話って何?」
ニコルの本音はわからないだろうが、思い詰める様子に気付き本題に入ってくれる。
それは昨日、ニコルがコウェルズから命じられた簡単な疑問だった。
「…リステイル・ミシュタトを知っているか?」
物事の核心部には触れぬまま、44年前のロスト・ロード王子付きだった騎士の名を出す。
リステイル・ミシュタト。だが知りたいのは彼のことではなく、彼が組んでいた騎士のナイナーダ・ガイストのことだ。
「…ミシュタト家の人間かい?すまないが、リステイルという名前に心当たりはないよ」
「暗殺されたロスト・ロード王子の王族付きだった騎士なんだが」
「…王族付き?」
何か引っかかるものを思い出したのか、首をかしげながらもレイトルは強い口調になった。そして。
「…名前は知らないが、ロスト・ロード王子付きだった騎士の話は聞いたことがあるよ」
「なら連絡を取ってくれないか?話を訊きたいんだ」
ミシュタト家にナイナーダを知る人物がいる。その可能性にニコルは焦るように前のめりになったが、すぐにレイトルの申し訳なさそうな様子に言葉を飲んだ。
「…すまない。その騎士はロスト・ロード王子と一緒に殺されたって聞いているんだ」
だから話は出来ないよ、と。
「…そうか」
「ごめんね」
「いや…」
ビデンス・ハイドランジアから話を聞いた時、ロスト・ロードの騎士が二人、幽棲の間の扉の前で眠るように死んでいたと教えられた。
だがその死者はリステイルではなかったはずだが。
44年前の話だ。どこかでズレが生じたとしてもおかしくはないが。
「…じゃあ、ナイナーダ・ガイストのことは何か知らないか?リステイル・ミシュタトと組んでいた騎士なんだが」
「ガイスト家?」
「ああ」
ニコルと同じように眉をひそめていたレイトルの表情が、家名に反応してさらに困惑の色を灯した。
「何か知ってるか?」
知らないなど有り得ない態度。
わずかに固くなるニコルに包み隠さず答えてくれるかのように、レイトルは口を開いてくれた。
「…ガイスト家はミシュタトやオズ家とも親しいけど、今まで騎士団入りした人はいないはずだよ。大戦前は魔術師がいたらしいけど、あの家は基本的に医療に精通しているから、医師団にいたならわかるけど」
しかしそれはナイナーダ・ガイストの存在事態を否定するもので。
「そんなはずはない。クルーガー団…」
クルーガー団長からも確認を取った。
そう口にしたかったのに、矛盾に気付いて頭が思考を止めてしまう。
「…ニコル?」
レイトルの声がどこか遠くから響くようだった。
ニコルがクルーガーから簡単に44年前の話を聞いた時、クルーガーは確かに当時の護衛部隊としてナイナーダ・ガイストの名前を告げたのだ。
そして魔術兵団のナイナーダ・ガイストをファントム襲撃の際に天空塔でクルーガーも目撃しているはずで。
もし同一人物ならそうだったと告げるはずだ。
しかしそれが無いということは、隠しているのか、別人なのか。
「…ニコル、大丈夫かい?」
「…ああ。悪い」
わからなくなりすぎて頭が痛くなる。
コウェルズはまるで44年前の王族付きのナイナーダと、天空塔で死んだ魔術兵団のナイナーダを同一視するような言葉を告げ、レイトルはそもそも44年前の騎士団にナイナーダ・ガイストはいないはずだと告げ。
「…一応聞くが、ガイスト家から魔術兵団入りした者の話を聞いたか?」
「魔術兵団?…有り得ないよ。ガイスト家は自慢好きなんだ。身内から魔術兵団や騎士団入りした者が出たならすぐに自慢して回るはずだからね」
寝言を言うなとばかりに、レイトルは肩をすかしてみせる。
「それに今のガイスト家は地方医療に力を使っているから、王城どころか王都にもいないはずだよ。あ、左遷ってわけじゃないからね」
「…聞いたことがあるな。たしか、戦闘の多い地方の兵達の為に医療隊を創設したとか」
「そうそれ。管轄の大本は国だけど、ガイスト家が指揮を任されているんだ」
その機関はデルグ王が引き込もり、コウェルズが政治の中心に立つようになってから創設されたものだ。
未だに戦闘の残る地方と戦う兵達の為に。
ニコルが知る限り、国が末端の為に動いてくれた唯一の大きな機関。
まだ数年程度の機関だが、その話を小耳にはさんだ時、ニコルはようやく末端も潤い始めると喜んだものだ。
だから、末端の為に力を使ってくれているから、ガイスト家の人間は王城にいるはずがない。
「…ねえニコル…話してくれないとは思うけど…何を調べているんだい?」
考え込むニコルに向かって、レイトルは諦め半分の疑問を投げかけてきた。
アリアから離れてでも先に終わらせたいと告げた調べもの。
その内容にレイトルはわずかに触れたのだ。
ファントムに関係するはずの内容だ。しかしなぜそこに44年前のロスト・ロード王子暗殺の件が絡むのか。
「…フェント様が調べられている宝具について、44年前の暗殺事件も絡んでいる可能性があるからだ」
本当に知られたくない箇所は隠して、ニコルはそれだけを告げた。
フェントを盾にすれば、レイトルならそれ以上訊ねてこないことを見越して。
「…そう。頑張ってね。他に何か力になれることはある?」
案の定レイトルはそれ以上の疑問を胸に秘めてくれて。
隠し事をして申し訳ないとは思うが、肩の力を抜くように小さな安堵の溜め息をつく。
「なら一応でいいから、リステイル・ミシュタトについて少し調べてみてくれないか?わかる範囲で構わない」
「わかったよ。父様達に言って、なるべく早く知らせられるようにするよ」
「悪い」
「任せて」
対話の終わりは、どちらともなく溜め息で。
静けさに包まれながら互いに少し居心地悪く視線を泳がせて、
「…君の忠告のお陰でアリアに嫌われずに済んだよ。ありがとう」
先に口を開いたのはレイトルだった。
何のことか。
ニコルは一瞬呆けたが、冷たい風がやや強く吹き抜け、それが脳内の無駄な思考を取っ払ったかのように意味がわかった。
アリアが礼装を無くしたと泣きじゃくった翌日、レイトルはミシェルと共同でアリアに新しいドレスを贈ろうと画策した。
それがどれほどアリアを傷付ける結果に繋がるかわからず。
ニコルは怒りを込めながら、その優しい暴挙を止めたのだ。
「あの後はミシェル殿と互いに浅はかだったと反省してお開きさ」
「いや…こっちも、あんな言い方をして悪かった」
レイトルとミシェル。どちらもアリアを狙っているのだろうが、どちらにも無理だと告げたことを謝罪すれば、レイトルは声を上げて笑った。
「言ってくれなきゃ私達にはわからなかった。君は命の恩人だよ」
「…そこまでの話じゃないだろ」
「そこまでの話なんだよ…私は、アリアが大切だから。好きな人には嫌われたくないだろ?」
ニコルもアリアを思っていることを知らずに、レイトルはさっぱりとニコルの前で思いを口にする。
それはとても眩しくて、同時に苦しいものだった。
そして、いっそ諦めてしまえそうなほどの。
「…なあ、任務とは別に、個人的に頼まれてくれないか?」
愛しいアリア。
だがこの思いはアリアに晒してはいけないものなのだ。
アリアの為に、自分の為に。
「…私に出来ることなら頼まれるけど」
ニコルの様子の変化にレイトルはわずかに警戒するが、
「…アリアを頼みたい」
言葉の意味はすぐに理解できなかっただろう。
固まるレイトルの時が止まったわけでないことは、優しい風になびく髪が教えてくれた。
「お前にならアリアを任せられる。俺がいない間、俺の分もアリアを守ってくれ…それと、もしアリアがお前を選ぶなら…裏切らずに傍にいてやってほしい」
公私共に。
全てにおいてアリアを支えられる存在として。
「…君にそんなことを言われるなんてね」
独り言のように呟くレイトルは呆けたまま。
「…頼めるか?」
「…勿論…頼まれなくても、駄目だって言われてもアリアの傍にいるさ」
望むところだとレイトルは微笑み、つられるようにニコルも少しだけ笑みを浮かべた。
アリアの為に。
今の自分が出来ることは、これくらいなのだ。
アリアと家族でいる為に。アリアを傷付けない為に。
「…じゃあ、頼む」
ニコルはそのまま露台を越えて中庭の方へ足を向けようとして、慌てたようにレイトルに待ったをかけられた。
「君、アリアに会わないつもり?」
書物庫から抜けた一階の露台は中庭に繋がっているので、わざわざ書物庫に戻る必要は存在しない。
だからなるべく会わないようにと選んだ道は、当然のようにレイトルに止められる。
「…行っただろ。今の俺じゃアリアに会えない…合わせる顔が無いんだ」
「礼装の件ならアリアはもう何も思っていないさ!私なんかより君の方が理解しているだろう?」
「そういうことじゃない」
逃げる為に中庭に向いていた足を片側だけレイトルに向ける。
女として愛してしまった妹。
その思いを断ち切る為に。
「…アリアを愛しているんだ」
その言葉に全ての思いを乗せて。
「…この馬鹿な感情が消えないと…アリアには正面きって会えない」
再び固まったレイトルはニコルの言葉の意味を理解しただろう。
なぜニコルがアリアに会えないのか。
なぜ避けるのか。
「待って…」
再び中庭に向けられた足を再々度止められて。
「…君は…エルザ様を…」
問いかけには、虚しい笑みだけを返した。
今度こそ足を止めずに、中庭に降り立って。
ややしてから、慌てたように書物庫と露台を繋ぐ扉が開けられた音がしたが、ニコルは振り返らなかった。
恐らくアリアが立ち去るニコルに気付いたのだろう。
歩みをわずかに早めて、逃げる為に先に進んで。
この馬鹿な思いを断ち切るまで。
アリアの為に。自分の為に。
ニコルはアリアと“家族”でいたいのだ。
両親との思い出が沢山つまった平民の“家族”である為に。
兄妹である為に。
だから。
それまで待っていてほしい。
自分の欲望が消え去るまで。
純粋な兄妹に戻れるまで。
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