第50話


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「やあ、おはよう。昨日はよく眠れた?」
 王城中階の執務室で、よく似た容姿の二人の男は目前のコウェルズ相手に背筋を伸ばしたまま柔らかな笑みを浮かべた。
「安眠にはほど遠いですが」
「身体は休まりました。ありがとうございます」
 王族であるコウェルズを前にしながらも、まるで馴染みの子供の成長を喜ぶように二人は落ち着いた雰囲気のままだ。
 部屋にいるのはコウェルズと二人の他に騎士団長クルーガーとフレイムローズがいて、フレイムローズはコウェルズの護衛として壁際に身を寄せながらも今にも二人に飛び付きそうなほどにソワソワと落ち着きがない。
 そんなフレイムローズに男の一人が微笑みかけて、そっと自身の手袋にも視線を向ける。
 二人が身に纏うのは騎士団の兵装で、王族付きの証である宝玉と刺繍の施された特別な手袋をしている。
 宝玉はエメラルド。その石が表す王家の姫は第四姫のリーンだ。
「伝説の双子騎士の復活だね…今まですまなかった」
 騎士団内で知らない者など存在しない、双子の実力者。
サンシャイン家のジャックとダニエル。
 コウェルズの謝罪を受け取らないとでも言うように二人は同時に首をわずかに振り、浮かべていた微笑みに悲しみを少し交ぜた。
「リーン様をお守りできなかったのは事実です。追放は当然でした。むしろリーン様の緊急事態に再び呼び戻してくださったことを感謝しています」
「今度こそ…この身が裂けても、必ずリーン様をお守りいたします」
 五年前。まだリーンが健気に生きていた頃。
 ジャックは隊長として、ダニエルは副隊長として。
 ガウェを含め、たった三人しかいなかったリーン姫付きとして王城にいたのだ。
 二人の決意にコウェルズも微笑み、視線はダニエルに向けられた。
「君はもう守るべき家族がいるだろう。リーンを見つけて守ってほしいことは確かだけど、家族を蔑ろにしてまでとは言わないよ」
 二人が王城を去ったのは五年前で、そこから変わってしまったものがいくつもあるのだ。
 五年前と違って今のダニエルには愛すべき妻と二人の幼い子供がいる。
 ジャックよりも少し線の細い彼は彼らしい優しい微笑みを浮かべたまま、困ったように少しだけ眉尻を下げた。
「君達の当分の任務は昨日言った通りだよ。数日間は城内の混乱の中に身を置いてもらうけど、四日後には私と共にラムタルに出発。エル・フェアリアに戻ったら、本格的に捜索部隊の中心として動いてほしい」
 コウェルズの命令に二人はまたも同時に了解を告げる。
「まあ、ラムタル出発までは王族付き達から勝負を挑まれ続けるだろうから、色々と欲求不満みたいだから付き合ってあげて。ラムタルに到着したら私の護衛は構わないからルードヴィッヒの最終調整とジュエル嬢の保護に勤めるように」
「ラシェルスコット家の三男ですか…実力の程は?」
 問いかけるジャックは、かつての大会の武術試合でガウェ以上の成績で優勝している。
「無理矢理大会に出場させる程度にはあるよ。まだ身体が小さいけどなかなか見所がある。優勝は正直難しいだろうけど、まぁ今年は優勝は狙わないよ。目的は別にあるから」
 含みのある表現にジャックは眉をひそめ、ダニエルは困惑する。
「ルードヴィッヒはまだ若いというだけじゃなくて少しだけ難有りでね。その“難”を取り除きたいんだよ。それさえ無くなれば、彼はすぐに騎士としての本質に目覚めるはずだから」
 ルードヴィッヒを大会に出す理由を、国のためでなくルードヴィッヒの為であると。
 単純にルードヴィッヒだけの為というわけではないのだが。
 ルードヴィッヒが騎士としての本質に目覚めさえすれば、彼を筆頭に後は雪崩を起こすはずだからと。
 平和に馴染み始めた騎士団内では珍しく、面白いほどに若騎士達には研き甲斐のある原石が多いのだ。
 その筆頭であるルードヴィッヒを。
 現存最年少のまだまだ幼い騎士を大会に。
「彼にはガウェやニコルと同じ素質が眠っているんだ。ガウェは“ヴェルドゥーラの喜劇”で、ニコルは幼い頃からの戦闘経験で素質を早々に開花させた。ルードヴィッヒの開花は少し強引にいくよ」
 その為に、まずはリーンにでなくルードヴィッヒに力を使えと。
 昔から変わらないコウェルズの性格に、二人は苦笑いを浮かべて了解を告げた。
「そういえばダニエルは居住の基本は家族の待つ家にするんだったね。ジャックの部屋は兵舎内周に用意するけど、君のスペースも同室で確保していていいよね?」
「是非お願いします」
 昨日は賓客室を借りた二人だが、今日からは騎士として兵舎内周棟に部屋が宛がわれる。
 ダニエルは家族の待つ家を王都に持っているが、近日中に城下街に移り住むことが決まっていた。だが城下に家を持っても毎日帰れるわけではないので部屋は用意されるのだ。
「ああ、それとジャック」
 本題を終えた楽な会話が始まる中で、コウェルズは少し面白がるように声色を撫でさせて。
「君が以前懇意にしていたビアンカ嬢だけどね、今もまだ身を固めていないんだ。独身同士なんだし、久しぶりに花でも咲かせてみたら?」
 お節介と言うには面白がるように、コウェルズは侍女長であるビアンカが未だに未婚である事実を教えた。
「今も現役ばりばりで侍女長として素晴らしい手腕を発揮してくれているんだけど、やっかいなガードナーロッド家の次女が戻ってきちゃってね。君さえよければ愚痴でも聞いてあげてよ」
 ビアンカ、そしてガードナーロッドの家名にジャックだけでなくダニエルも眉をひそめる。
「…たしか共にラムタルに向かうジュエル嬢も…ガードナーロッド家の娘でしたよね?」
 そして今思い出したようにダニエルが呟いた。
 ジャックは昔を思い出しているのか厳しい顔をしたままだ。
 ガードナーロッド家の長女も侍女として王城に勤めていた頃、ジャックはビアンカとの仲をその長女に滅茶苦茶にされたのだ。
 ジャックだけではない。ダニエルと、彼の妻も。
 次女についてジャックとダニエルにはあまり害は無かったが、まだ入団したてだったニコルに次女がきつくフラれていたことは知っている。
「三女のジュエル・ガードナーロッドはびっくりするくらい良い子に変身したよ。前は長女次女によく似て我が儘だったけど、仕事は最初からずっと頑張ってたからね。今はビアンカ嬢にも認められるくらいに気の利く女の子に大変身しちゃって、未成年ながら水面下で若騎士相手に大人気」
「…なぜ水面下で?」
「お兄さんが怖いんだよ。ミシェルがジュエル嬢には甘くてね」
 現在王城に勤めるガードナーロッド家の子息子女は騎士団のミシェルと侍女のジュエル、そしてガブリエルだ。
 ジャックとダニエルはミシェルとも面識があるが、ミシェルが妹に甘い姿を想像できないのか二人そろって困惑顔だ。
 それも仕方無いだろう。二人はミシェルとガブリエルが喧嘩ばかりしていた過去しか知らないのだから。
「あのミシェルが妹に甘いんですか…?」
「想像できませんが…」
「事実だよ。軽い気持ちでジュエル嬢に近付こうものなら徹底的に曲論正論織り交ぜて責めるし、本気で近付こうとしても訓練で痛め付けるし。ある意味ガードナーロッドの血だね。騎士団員なら王族付き以下の男は論外らしいんだよ」
 コウェルズの言葉だろうがまだ信じられない様子でジャックとダニエルは壁際のクルーガーとフレイムローズに目を向けるが、クルーガーは我関せずと俯き、フレイムローズはやや困惑した後に少しだけ頷いた。
 コウェルズの言葉は事実だと。
「…そこまで大切な妹なのに、よく大会のサポートに向かわせることを了承しましたね。身の危険もあるのに」
「胸中は知らないけど、仕事と割り切ったんじゃないかな?ジュエル嬢も大役に自分が選ばれたことを泣いて喜んだらしくて、そんな姿を見せられたら行くなとは言えないさ」
 好戦的な戦士達が集う大会では、毎年のように戦士達の不祥事が未遂であったとしても勃発するのだ。
 発覚するのは未遂ばかりだが、隠れてしまった事実も多いだろう。
「だから、ラムタルに向かったらジュエル嬢からは絶対に目を離さないでくれ。彼女にも絶対に一人にならないようには告げているから」
「…ですが完全に守れるわけでは」
「入浴やらを危惧してるならそこは安心していいよ。開催国はラムタルなんだからね。大国の威信にかけて、女性がさらに丸腰で弱くなってしまうような場所に力を入れないはずがないだろう?エル・フェアリアもそうだったんだからね」
 三年前のエル・フェアリアで開かれた剣武大会でも、娘達への警備は厳重だったのだ。
 そういった場所は安心してと言うコウェルズの言葉をとりあえず受け入れて、五年で様子の変わってしまった王城内に二人は静かにため息をついた。
 戻れるなどと思わなかった王城に再び。
 リーンの死亡が伝えられた時、二人はどれほど自分を責めたか。
 守るべき姫を守れなかったのだ。自分達の手で殺めたも同然だと。
 罪を背負いながら生きていくはずだったのに、王城に呼び戻され、リーンが生き埋めにされていた真実を教えられた。
「さてと。じゃあ私は今からまた政務棟に缶詰めだから、ラムタル出発までは久しぶりの王城内を堪能するといいよ」
 今しておく話はここまでだとコウェルズは二人に近付き、これからも宜しくねと気さくに肩の力を抜く。
「クルーガー、私は外にいるオーマと政務棟に向かうから、君は騎士団全体にジャックとダニエルが戻ったことを知らせてくれ。フレイムローズ、君は二人を兵舎内周第四棟に。二階の空室で侍女達が用意をしてくれているはずだから」
 さくさくと身の回りの用意をしながらコウェルズは次の動きを指示して、先にクルーガーが一礼してから執務室を後にした。
 それがクルーガーなりの気遣いと誰もが気付く中で、フレイムローズ以外は苦笑いを浮かべて。
「私も先に行かせてもらうよ」
 普段ならクルーガーはコウェルズの後に部屋を出ただろう。しかし真っ先に出てしまったことに戸惑うフレイムローズを放置して、コウェルズもとっとと扉を開いて。
 はやばやとクルーガーとコウェルズが退出してしまった為に困惑しすぎたフレイムローズに、ジャックとダニエルは正していた背筋を緩ませながら顔を向けた。
 クルーガーとコウェルズが気を使った相手はフレイムローズだ。
 五年前、今以上に幼かったフレイムローズは王城を去る二人に「行かないで」と泣きすがったのだから。
14歳だったフレイムローズにとっては、リーンの死の報告も双子の王城追放も立て続けすぎて耐えられるものではなかった。
「久しぶりだな」
「大きくなったな」
 最初にジャックが、後に続くようにダニエルが。
 フレイムローズに話しかけて、その成長を喜ぶように微笑んで。
 ようやくコウェルズ達の気遣いを理解して、フレイムローズが閉じられたままの目から魔力ではない本物の涙を流した。
「ふたりとも!!」
 壁際から体を離して、欲張るように二人に抱きつく。
「うわ、本当にでかくなってるな」
「あんなに小さかったのに…」
 抱きつかれて苦笑いを浮かべながら、フレイムローズの赤い髪を撫でて。
 フレイムローズが入団した時を二人も覚えているのだ。
 魔眼という特殊な力を持つ為に騎士団内ではガウェ以上に扱いに気を付けなければならないと話されていたフレイムローズは、札付きのクソガキだったガウェのせいで周りに無駄に怯えられ、しかし純真すぎる性格に王族付き達の多くが心を洗われたのだ。
 天使が来たとは当時よく口にされていた言葉で。
「戻ってきてくれてすっごく嬉しい!二人の描いた絵を城下で見かけて、全種類買ったんだよ!ガウェもリーン様の絵を買ったんだ!!」
「見つけてくれたのか。嬉しいな」
「それでね、二人が戻ってきてくれるってわかったから、皆もすごい喜んでて…俺…俺は、リーン様を助ける為に…騎士団の仲間を…」
 そこで、フレイムローズの涙がが喜びから悲しみに染まった。
「死んだ仲間もいて…」
 フレイムローズがリーンを救う為に、クルーガーと共にファントムに手を貸したこともジャック達は聞かされている。
 その為に仲間の騎士が13人死んだ。
 その数を少ないと見るか、多いと見るか。
 いずれも王城騎士で、直接フレイムローズと親しかったものはいない。だがそれでも、死んだ者達と親しかった騎士達は多くいた。
 針のむしろの中にフレイムローズは今もいるのだ。
 優しい魔眼は、死んでいった仲間達の苦しみを仕方無いと切り捨てられるほど心が出来上がってはいないから。
「…城内の案内を頼む。少し散策しながら内周棟に行こう」
「いいですね。あなた達が作った秘密の訓練場にも案内してください。どれほど訓練跡がついたか見てみましょう」
 フレイムローズの涙を拭いながら、わざとらしくはあったが話題を逸らして。
 フレイムローズの苦しみを取り除いてやるには、五年間の空白は長すぎたからだ。
「訓練ちゃんとやってたか?怠けてないだろうな」
「ちゃんとしてたよ!二人こそ大丈夫なの?」
 扉を開けて、連れ立って執務室を出て。
 フレイムローズはすぐに涙を止めて、魔眼でなく自分自身の実力を上げる為にどれほどの訓練を行ったかを自慢げに語った。
 レイトルやセクトルに手伝ってもらって、ガウェやニコルに相手をしてもらって、剣術と武術の腕を磨いたのだと。
 まだまだ未熟だろうが、五年前とは違うのだ。
 そしてエル・フェアリアで唯一魔眼を持つ者として若騎士達にも引っ張りだこなのだから、先程まで泣いていたにも関わらずフレイムローズは無邪気に武勇伝を語り続けた。
 昼前の王城内を歩き進みながら、ジャックとダニエルが覚えているよりはるかに訓練の傷跡が増えた秘密の訓練場に訪れて、またいくつかのフレイムローズなりの武勇伝を耳にして。
「二人の使う棟は第四棟かぁ。俺達と同じ棟だね」
「ということは、ガウェ達もまだ第四棟に?」
「何だよ。代わり映えしないじゃないか」
「そんなことないよ!レイトルとセクトルが三年前に王族付きになって第四棟に来たんだから!しかも二人と同じ二階なんだよ!」
 五年前と違う箇所は確かに存在するのだと、階級の上がったレイトルとセクトルを自分の事のように自慢するフレイムローズは、すぐに「だけど」と小さく付け加えた。
「まだ内周棟にいるけど、レイトルとセクトルはクレア様の王族付きから離れて治癒魔術師の護衛になったから、階級だけならちょっとだけ落ちちゃったんだ」
 気にするほどではないがとさらに付け足しながら。
「ああ、聞いた。ニコルの妹が治癒魔術師だったんだろ?」
「アリア嬢だね。メディウムの血が交じるなら、ニコルの魔力量と質の良さも納得できる」
「だな」
 ジャックはダニエルと目を合わせ、今もはっきりと覚えているニコルとの初めての戦闘を思い返した。
 平民だったニコルを騎士団入りさせる為に、ニコルだけに行われた特別な入団試験。
 ジャックとダニエルを相手にして、ニコルは当時の王族付き達の血を騒がせたのだ。
 凄まじい魔力量と圧倒的な戦闘経験を以て。
 その力の源がメディウムに通じるならば理解できると納得するが、どうやらフレイムローズには思うところがあるらしく。
「…どうした?」
 戸惑いながら表情を曇らせた姿を見逃さずに訊ねれば、びくりとわざとらしいほどに肩をすぼませて、フレイムローズは慌てて両手を左右に振った。
「ううん、何でもない!」
「…何でもないように見えないぞ?」
「そんなことないよ!そろそろ内周棟に行こ!」
 誰もいなかった秘密の訓練場を後にして、逃げるように先に進むフレイムローズに続く。
 ジャックはダニエルと顔を見合わせて同時に首をかしげたが、様子のおかしいフレイムローズを深く追求することはなかった。

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 辿り着いた第四棟の二階の部屋でジャック達を待っていたのは、部屋の用意をすでに済ませていた侍女長のビアンカと、なぜか一緒にいるスカイの二人だった。
「あれ?スカイ殿だ!侍女長の仕事を手伝ってたんですか?」
「ああ。忙しい時期だ。侍女達が何人も部屋の用意するより、休みの俺が代わりに手伝った方が人手も上手く回るだろ」
 どうやらジャック達の部屋の用意にはビアンカと数名の侍女がいたらしいが、スカイがビアンカ以外を返したのだろう。
「お久しぶりです」
 そしてビアンカからわずかに離れて、スカイはジャックとダニエルに頭を下げる。
「戻ってきたなら、また訓練に付き合ってくださいよ?」
 気楽な口調だが礼儀は忘れずに。
 まるで五年の空白など存在しないかのような口調と昔から変わらないカラッとした笑みに、ジャック達も釣られるように笑ってしまう。
「お前見たら安心したよ」
「通りすぎる騎士達の大半が少し遠慮がちだったから」
 王族付き達ですら。
 それほどまでに五年前の事件も今起きている件も特殊なのだ。
 ジャック達の肩の力を抜いた様子にスカイはさらに大声で笑う。
「声のでかさも変わらないのか。少しは落ち着けよ」
「これでも一応気は使ってるんですよ?」
「どこがだよ」
 そのまま始まりそうになる井戸端会議を制したのは、真面目な表情を砕けさせないビアンカだった。
 大柄な騎士達の間に割って入り、コホンと喉を鳴らし。
「おしゃべりなら後にしてくださいませ。先にジャック様とダニエル様に部屋の確認をしていただきますので」
「おう、悪い」
 ビアンカの真面目な様子もスカイの軽い様子も、以前となんら変わりない。
 そのはずなのに、微妙な距離感を保つ二人にジャックの胸はなぜかざわついた。
 五年前の二人には親しい空気を醸し出す関係はなかったはずだ。
「ではスカイ様、手伝っていただき侍女一同感謝しております。ありがとうございました」
「これくらい平気だ。またなんかあったらいつでも呼んでくれよ。力仕事なら男に任せな」
「ありがとうございます」
 スカイはそのまま離れて、改めてジャックとダニエルにも頭を下げて。
「あ!待ってスカイ殿!俺もここで任務終了なんです!!ご飯!!」
「おう、行くか」
 背を向けようとするスカイにフレイムローズが慌ててすがり、大声と子供がいなくなっただけで一気に辺りに静けさが広がる。
「…では、中にどうぞ」
 少し長くなってしまった間を破って、ビアンカがジャック達を室内に促して。
「部屋の確認って言っても、そんな変わらないだろ」
「…ジャック」
 ただの部屋じゃないかと溢せば、後ろからダニエルに背中を軽く殴られた。
 室内は両端に二つのベッドが用意され、同じく二つの衣装棚、中央に丸テーブルと二脚の椅子という基本装備だ。
「私のベッドも用意してくださったのですね。簡易のもので構わないのに」
「ダニエル様がご家庭に戻れない時は兵舎を使われると聞いておりますので」
 当然の事だと告げながらビアンカは丸テーブルに向かい、一枚の用紙を手にした。
 簡単な名簿のような紙をジャック達の前に差し出すので手に取れば、書かれていたのは第四棟で生活する騎士達の部屋番号と名前だ。
「第四棟の三階では治癒魔術師様も生活されていますので、女性への配慮をお願いします。それと、第四棟の騎士の皆様には就寝時間帯の治癒魔術師様の護衛を任される場合がありますので、依頼された場合はできる限りお受けくださいませ」
「それは構わないが、配慮っても…風呂やらは侍女達と同じ場所を使ってるんだろ?」
「その点は護衛部隊の皆様が目を光らせているのでご安心ください。ここでの配慮とは、妓楼の娘や侍女を夜に招き入れる行為をご遠慮くださいという事です。他には、治癒魔術師様の部屋に忍び込もうとはなさらないでください。良くて王城追放、悪ければ首が落ちますので」
 男女の営みを示唆されてジャックとダニエルは“そんなことか”と肩をすくめるが、その後の発言にはわずかに目を見開いた。
「その“首が落ちる”って…」
「言葉通りの意味です。大変美しい女性ですので」
 治癒魔術師に無体を働けば死が待つと。
 ようやく戻った唯一の治癒魔術師。守りは固いということだろうが、なかなか物騒な脅し文句だ。
「話しておくように仰せつかっている件は以上です。それ以外は五年前とあまり変わりありません。他に何か質問はありますか?」
 無ければ後はご自由にとでも言うように視線を落とすビアンカは、わざとらしいほどにジャックと目を合わせようとしない。
「あ、と…」
 ジャックもジャックで、引き留めたいのに引き留める為の質問も話題も出てこなかった。
 懐かしい女性だ。
 共に過ごした頃が今も胸に残っている。
「質問がないようでしたら私はこれで。また何かありましたらお訊ねください」
 侍女の鏡であるはずのビアンカが言葉の最後を待たずに扉に向かおうとするから、無意識にその手首を掴んでしまった。
 驚くのはビアンカと、掴み留めたはずのジャックで。
「…スカイとフレイムローズはどこの食堂に向かったのかな?私も先に行ってるよ」
 気を使うように、ダニエルが大きな一人言を呟きながら静かに出ていってしまった。
 パタンと小さな音を室内に響かせ、甘い空気を纏うには時が流れすぎた二人を残して。
「…離していただけますか?」
 あくまでも侍女として、ビアンカは掴まれた手首に目を移す。
「…ああ、すまない…」
 思わず掴んでしまった手首を離して、だが離しきれずに細い指先には触れ続けた。
「…久しぶりだな」
 懐かしい人。
 かつての恋人。
「侍女長になれたんだな。おめでとう」
「…ありがとうございます」
 ビアンカが侍女長に就任したことはすでに知っていた。王城を追放されたとはいえ、かつての仲間達との連絡も途絶えたわけではないのだから。
 しかし。
“独身同士なんだし、久しぶりに花でも咲かせてみたら?”
 コウェルズはかつてジャックとビアンカが恋仲にあったことを知りながらそう進めてきた。
 終わった恋だ。だが互いにしっかりとした家庭を持っていることが普通だろう年齢になりながらも相手がいない。
 特にビアンカは女の身である以上、結婚歴がないというだけで後ろ指を差されるだろう。
「…コウェルズ様から聞いた。ガードナーロッドの次女がなかなか掻き回してるらしいな」
 まだ若い二人が互いを恋慕っていた頃、ジャックとダニエルに思いを寄せたガードナーロッドの長女によってビアンカは陰湿な嫌がらせを受けてしまった。
 だが、二人の別れが決定した理由はそこにはない。
「今は侍女長なんだろ…それでも難しいのか」
 ジャックの頭にはビアンカとの結婚は勿論あった。そして当然であるかのように、結婚するならばビアンカは侍女を辞めて家庭に入ると思っていたのだ。
 ビアンカは陰湿な嫌がらせに苦しめられていた。
 結婚して侍女を辞めさせることが唯一ビアンカを救える方法だとジャックは確信していた。
 しかしビアンカは侍女を辞めなかった。
 国の為に、王家の為に、堕落の道を進む侍女の世界を変えたいと。
 それが夢であると。
 ビアンカは辞職を断り、ジャックは辞めろと言い続け。
 気が付いた時には愛が冷めてしまっていた。
 自然消滅のように二人は別れ、それで仕舞いのはずだったのに。
「…お前が侍女長になってから、意識の高い侍女が増えたって聞いてるぞ。すごいじゃないか」
「…ありがとう。でもまだ力が及ばないの。もっと引き締めなくちゃね」
 悲しげな微笑みを浮かべて、ビアンカはようやく侍女の面を外してくれる。
 愛は消え去ったはずだ。
 だというのに、まだ一人でいるビアンカに勝手な欲が膨らみそうになる。
「今も…一人なのか?」
 かすれそうになる声で訊ねて、彼女の現在を気にする。
 コウェルズから与えられた情報を信じないわけではないが、ビアンカの口から直接聞きたくて。
 ジャックの口にした意味を理解できないビアンカではない。
 今この時に、思う相手がいないなら。
 離しきれずに触れ合わせていた指先をビアンカが離す。
「一人よ…これからもずっと」
 誰とも懇意にはならないと。
 それはビアンカらしい宣言だった。
 ビアンカと別れて、互いに別の相手を見つけた事もある。
 ジャックは相手を愛しきれずに上手くいかなかった。ビアンカも、侍女の世界を優先して上手くいかなかった。
「…少しはどこかで肩の力を抜こうとか思わないのか?」
 恐らく侍女でいる為に恋人を作らないのだろうと思ったが、ビアンカは先ほどとはまた別の種類の悲しげな微笑みを浮かべた。
 そして。
「侍女を辞めてでも傍にいたい人に出会ったの。自分でもびっくりするくらい好きになった人よ…別れちゃったけど、これからもその人以外は愛せないし、その人が私の最後の人だって決めてるから」
 扉に向かいながら、自分の夢を手放してでも傍にいたかった男がいると。
 同時にジャックとの今後は有り得ないと暗に告げて。
「…そうか」
 彼女の性格はわかっている。
 心の中ではビアンカもまだ自分を忘れられないのではないかと甘い期待があったが、願望は見事に潰された。
 自分以上の存在に出会ったと言われて、まだすがろうとするほど情けない姿は晒したくない。
「…まあ、先の事なんて誰にもわからないからな」
 それでもプライドが邪魔をして、そんな賭けを口にして。
 部屋を出るビアンカが最後にジャックに向けた言葉は、馬鹿、と親しみを込めたものだった。

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