第29話


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 イニスのおかしな言葉に頭を使ったとしても、やはり脳内は次第に思考を元の位置に戻していく。
 それはファントムの元へという事だ。
 40年も前に現れた謎の盗賊、ファントム。
 噂から始まり、次第に狙いが発覚し、知らぬ間に宝具を盗み出す。
 姿を見た者は今まで一人もいなかった。
 しかしエル・フェアリアで。
 多くの騎士達が、彼を目撃した。
 六人の賊達。
 だが皆、一瞬で誰がファントムであるか気付いた。
 それほどまでに、彼だけは異常なまでの存在感を持っていたのだ。

 生まれてから今までで、こんなにも重苦しい気分を味わったことはない。
 ファントムが彼だとは思いたくない。
 だが。

『--また来る』

 幼かったニコルの頭を撫でてくれる大きな手を覚えている。
 耳に心地好い、低い美声を覚えている。
 その手を、声を、ニコルはいつだって心待ちにしてきたのだ。
 その彼に。父に。
「……」
 よく似ている。当時から、時間を切り取ったように変わらず。
 ただ髪と瞳の色だけが違う。
 色が違うから彼ではないと思えたらどれほど喜ばしいか。だがニコルの目の前で、パージャは薄茶色の髪と瞳を緋の交ざる闇色に戻したのだ。
 その闇色の緋よりもさらに深い、夜に流れる血のような不気味な赤を宿したファントム。
 見た目も立ち姿も何もかもが、ニコルの父だった。

「--兄さん?」
「…ああ、どうした?」
 アリア達の元に戻っていたニコルは、ふと呼び止められて無意識に訊ね返してしまい、アリアに心配そうなため息をつかれてしまった。
「それはこっちのセリフだよ。またボーっとしてた」
 咎めるというより、どこか呆れるような口調。
 まるでアリアの方が歳上の姉であるかの様子に、ニコルは苦笑いを浮かべる。
「…悪い」
 エルザの前といいアリアの前といい、なんて情けない姿を晒すのだと自分が恥ずかしくなった。
「何かあったの?」
「いや…何も」
 はぐらかそうと視線をガウェのいる別室に移そうとして「…なあ」と静かに留まる。
「何?」
「親父に…最近会ったか?」
「ととさん?前に礼装貰ってから会えてないよ。私自身王城から出てないし。何で?」
 聞いておいて、当たり前の返答を貰う。
 アリアは王城に来てから今まで、国立児童施設での件でしか王城を出ていないのはニコルだってわかっていたはずなのに。
 しかしそれでも、彼を考えれば。
「…いや、それならいいんだ」
「…大丈夫?」
「ああ。気にするな」
 心配してくれる眼差しから逃れるように背中を向ける。
 こんな態度を見せれば、尚更アリアが気にかけることがわからないはずがないのに、どうしてこんな態度しか出来ないのだろうか。
 案の定アリアがニコルの袖を引く。
 近い距離で見下ろせば、逃がさないとばかりにアリアは口を開こうとして。
 だがうまい具合に、ガウェの元に行っていたレイトルとセクトルが戻ってくる所だった。
「ガウェ、ようやく寝たよ」
「あいつもフレイムローズの術下で魔具を使ったから、だいぶ魔力も消費してるみたいだな」
 二人がやや気疲れを起こしているのは気のせいではないはずだ。
 大人しくなったとはいえ、リーンの絡むガウェを相手にしていたのだから。
「あれだとリーン様を探しに行こうとしても途中で倒れるよ。それにしても、さっきはよくガウェを止められたね、アリア」
「え…」
 レイトルは今までのニコルとアリアのやり取りを知らないが故に気さくに話しかけて、アリアもきょとんと首をかしげて。
「リーン様を探しに行こうとした起き抜けのガウェを止めたでしょ。錯乱したガウェの意識を戻したのも君の言葉だったし」
 女の子らしさを見せる侍女達ばかり目にしてきた男には想像もつかないような強い口調でガウェを止めたアリア。

--命の恩人のあたしに偉そうにすんな!

 胸ぐらを掴む勢いに、ガウェどころかその場にいた全員が動けなくなったのだから。
 それに錯乱したガウェを、アリアはわずかな言葉で目覚めさせた。
「あれは…レイトルさんが、ガウェさんはとてもリーン様を大切にしてるって言ってたから」
 ガウェが悪夢を見ていると思ったから、アリアは夢の中のリーンを、ガウェごと言葉で救い出した。
 力で押さえつけるばかりのニコル達には不可能だったろう。
 あの場で錯乱したガウェを止める為の手段を考えたのはアリアだけだったのだ。
「…大切と言っていいのかはわからないけどね」
「え?」
 その考え抜いた末の言葉であろう発言に、レイトルが苦笑する。
 レイトルだけではない。ガウェを知っていれば、誰もが。
「ガウェはリーン様の事になると、周りが見えなくなるからね」
「そうなんですか?」
「たまに異常行動があったからな」
「異常行動って…まあ否定出来ないんだけど」
 合いの手を入れてくるセクトルにも苦笑を浮かべつつ、それでもレイトルも頷いて。
「…想像できないです」
「昔は今みたいにぐうたらじゃなかったんだ」
「いや、ガウェさんをぐうたらだと思ったこともないよ」
 レイトルよりも強く頷きながら、ニコルも愚痴るようにガウェの怠惰を指摘した。
「ニコルはエルザ様の護衛任務で相当ガウェに仕事押し付けられていたからね」
 事あるごとに
任務を放棄していたガウェ。その理由をニコルが知ったのは、まだ最近のことだ。
「ファントムの件で人員は増やされていたが、元々護衛は騎士が二人で各姫に付いてたんだ。俺はあいつ、レイトルはセクトルとな」
「でもガウェは真面目に護衛の仕事をこなさないから、結局ニコル一人でエルザ様の護衛をしていたよ」
「ええー…意外です」
「意外なもんか…」
 アリアの目にはガウェはどう映っているのか。
 先ほど心配させたことも忘れて、そんな他愛ないことを気にする。
 理由があったにせよ、長く任務を放棄し続けたガウェの評価がアリアの中で高いのはなぜか納得出来なかった。
「ニコル的には嬉しかったんじゃないの?」
「馬鹿言うな!!」
 そして茶化すようにレイトルに笑われる。レイトルどころかセクトルまでにやついて。
 エルザの恋心を知ったのは最近だが、ニコルのエルザへの思いも、昔から仲間内ではよく冷やかされていたのだ。
「…兄さん、エルザ様が好きなの?」
「っ…」
 冷やかすならせめてアリアのいないところでしろよと、アリアを無視して二人を睨み付けてもさらに含み笑いの度合いが増すだけだった。
「あれ?でもイニスが…」
 そこに来て、アリアが困惑するように眉を寄せる。
 イニスなら先ほど合ったばかりだ。様子がおかしかったことはアリアには伝えていないが。
 何かあったのか訊ねようか迷った所で、外に出ていたモーティシアが戻ってくると同時にニコルに目を向けた。
「ああ、いましたね、ニコル。コウェルズ様が来られていますよ」
「コウェルズ様が?」
 こんな時間に?と驚くのは全員だ。
「ええ。空からファントム達と謎の空中船を間近で見たのはあなたとガウェ殿だけだから、話を聞きたいと。ですがガウェ殿は怪我人なのであなたにとの事です」
「…わかった」
 その呼び出し理由だけで、エルザがコウェルズに話してくれたのだとすぐに気付いた。
 本当にそれだけを聞きたいなら、コウェルズなら自ら訪れて病み上がりだろうがガウェを含めて二、三の質問をして帰るはずだからだ。
 心臓が痛いほどに跳ねるようだった。
「…アリア、無理はするなよ」
「大丈夫だよ。兄さんもね。行ってらっしゃい」
 それを緩和させるように、アリアの姿を目に映して。
 優しく微笑みかけられて、気持ちは少しは落ち着くようだった。
 モーティシアのいる扉を抜けて廊下に出れば、たった一人でコウェルズは腕を組みながらニコルを待っていて。
「やあ、夜にすまないね」
「いえ。…あの」
 月明かりを浴びながら優雅に佇むコウェルズは、ニコルのやや警戒するような様子にもいつも通り笑っている。
「エルザから聞いているよ。今からクルーガーとフレイムローズから話を聞きに行くから一緒に来てほしい」
 さらりと呼び出した理由を。しかし今からの予定に、わずかに驚いた。
 ファントムの件を聞かれるものだとばかり思っていたのに。
「…私からもでしょうか」
「いや、君は一緒に聞いていればいい。…ファントムが何者なのかをね。恐らく二人はファントムを知っているだろうから」
「……」
 さっさと歩き出すコウェルズについて後ろを歩けば、誰もいないのをいいことに、コウェルズは歩みを遅めてニコルの隣に来る。
「私の他にミモザとエルザ、リナト団長、魔術兵団長のヨーシュカがいるが、ミモザとリナトとヨーシュカには君のいる本当の理由を話していない。先ほどモーティシアに説明した内容と同じ理由で伝えているから、そこは話を合わせてくれ」
「…わかりました」
 重い表情を向けるニコルとは違い、コウェルズは爽やかなものだ。
 向かう先はフレイムローズとクルーガーが捕らえられている外周棟にある牢だと思ったが、場所を移し変えたのか、王城の上階に連れていかれて。
 ニコルもあまり知らない区画を進めば、その最奥の扉の前で、第六姫コレーの護衛部隊長トリックと、コウェルズ付きの隊長であるアドルフが静かに迎えてくれる。
「人払いを」
「は」
 コウェルズが静かに命じれば、トリックはニコルが今まで歩いてきた通路に何重もの結界を張り巡らせた。
 その一切の無駄の無い魔力の結界に、ニコルはただ息を飲む。
 魔術騎士。
 大雑把に魔力を消費するニコルにはまず手に入らない称号の持ち主の実力に今更驚きながら、最奥の扉を開けて。
 重い鉄の扉の向こう側にいたのは、コウェルズに言われた通りの面々だった。
 賓客用の部屋を少し改造したような内部は中央に丸いテーブルが存在し、後は形の異なるソファーや椅子がまばらに置かれていて統一性が無い。
 その中で、ソファーに腰掛けているのは王族であるミモザとエルザだけだった。
 しかしエルザは、ニコルの姿を見つけて心配そうに瞳を潤ませながら立ち上がる。
 誰も声は上げなかった。
 コウェルズに続いて中に入り、アドルフに目礼をしてから扉を閉める。
「待たせてすまなかったね。さっそく始めようか」
 コウェルズはさっさと室内中央に向かうと、誰に告げるよりも先に金色の魔方陣を生み出して結界で室内を被ってしまった。
「これで外に声は漏れな--」
「今すぐに結界を解いてくださいませ」
 結界を張り終えると同時に立ち上がるミモザは、コウェルズの突然の行為に静かな怒りを見せる。
「…どうして?」
「私とエルザで結界を張りますので。お兄様はなるべく魔力を使わないでください」
「…まだ怒ってる」
「サリアに何かあったらどうするおつもりですの!!」
 ミモザの怒りの理由。
 それはコウェルズの左手薬指に装着された魔力増幅装置が理由だ。
 使用者の魔力を増やしてくれるその指輪は、使い方を誤れば死に至る。
 コウェルズはそれを島国イリュエノッドから譲り受けたが、婚約者であるサリアも対の指輪をはめているのだ。
 コウェルズに何かある前に、サリアの命が奪われる指輪。
 ミモザはそれを懸念し、なるべくコウェルズに魔力を使わせないようにしたいのだろう。
 勿論ミモザだけの考えではない。
 コウェルズ以外全員、それを懸念し続けている。
「わかったよ…」
 不貞腐れるように渋々頷きながらコウェルズは結界を解き、変わりにミモザとエルザが同じ結界を張り直す。
「結界なら我々に任せて頂ければ…」
 魔術師団長であるリナトも不満そうに呟くが、コウェルズはさらりと流すように笑って。
「ごめんね。でもこれは任せられないんだ」
「クク…念の入れようが素晴らしい」
 リナトの力を信じていないわけではない。だが仲間を信じるよりも自分達が力を使った方が安全であるという判断に、魔術兵団長であるヨーシュカが嬉しそうに笑った。
 三団長の一人であるヨーシュカを、ニコルはまじまじと見つめてしまう。
 今まで姿を見た者はわずかしかいない、王にのみ仕える魔術兵団。その団長ヨーシュカに初めて出会ったのは、まだアリアが訪れる前だ。
 アリアの力が発覚し、ニコルが暴れた時。
 クルーガーに会いに行く途中で通り過ぎたヨーシュカは、奇怪なものを見るように驚いた表情をニコルに向けたのだ。
 そのヨーシュカと目が合い、慌てて視線を逸らす。
 エルザに隣に来るよう請われて、呼ばれるままに向かって。
「…クルーガー、フレイムローズ。今から質問することに、嘘をついてはいけないよ」
 ニコルが移動し終えてから、コウェルズは二人に穏やかに語りかけた。
 これから始まるのは尋問だ。
 王族を前に、嘘は許されない。
「勿論です」
「俺も全部話せるよ」
 静かに頷いたクルーガーと違い、フレイムローズは痩けた頬を隠す事もせずに精一杯の従順な様子をコウェルズに向ける。
 食事をとらないとセクトルから聞いたが、大丈夫なのだろうか。
「…いい子だね」
 コウェルズの微笑みに、つられるように寂しく笑うフレイムローズを見るのもつらい。
 なぜファントムの側についたというのだ。
 全て受け入れるようにこうして穏やかに捕らわれながら。
「クルーガー、先に君から話してもらうよ。いつからファントムと通じていた?」
 全員に近くの椅子に座るよう促してから、コウェルズは先にクルーガーに目を向ける。
 いつから通じていたのか。最初から核心を突くような質問にも、クルーガーは動じずに口を開く。
「…初めてパージャと出会った時からです」
 パージャ。
 ファントムの仲間だった、おかしな男。
 確かにパージャを連れてきたのはクルーガーだった。しかし理由があったはずだ。
「…王都兵に魔力を持つ兵士が来たと噂された時だな」
 魔術を使える平民がどれほど珍しいか。モーティシアに貴族の常識を覚えるよう命じられていたニコルにも、今なら理解できる。
 リナトもパージャが王都兵に入団した頃から注視していたのだろう。どうやら先にクルーガーに動かれたのか、パージャの正体が発覚した今でもその声は先手を打たれた悔しげな色を交ぜている。
「…ファントムの噂が流れ初めてひと月半ほどの頃でした。部下からパージャの噂を聞いて王都の兵舎に向かい…そこでパージャとファントムに会いました」
 リナトに頷いてみせて、説明はコウェルズに向ける。出されるファントムの名前にニコルは固まり、隣でエルザが心配そうにわずかに身動いで。
「…!」
 緊張するニコルの手に、エルザは誰にも見えないようにそっと触れてくれた。
 その小さな手を拠り所にするように、ニコルは握り返して。
「私はそこで、ファントムからリーン様が生きておられるとの話を聞きました」
 話を続けるクルーガーは、そこで逃れるように俯いた。
 思い出しているのだろうか。当時の様子を。
「…疑いはしなかったのかい?」
「…半信半疑でした。しかしファントムのお姿に…」
 途中で不自然に途切れた事に気付いたのは、恐らくコウェルズだけだったろう。
 誤魔化すように深呼吸をして、言葉を続けたからだ。
「…リーン様と同じく闇色の髪をした二人は、私の目の前で自決してみせました。…そしてすぐに再生して、リーン様も同じく死なぬ体であると」
 自決しても死なないなど信じられる話ではないというのに、誰もが違和感を覚えない。
 パージャが目の前でバラバラに散らばったというのに、逆再生のように元に戻る姿を見てしまえば、誰もが不可能を信じられるようになるだろう。
「それで、ファントムを信じた?」
「…はい。リーン様が生きておられるなら、救い出さねばと…」
 生きていたリーン姫。
 それが発覚して、なら何故コウェルズ達には知らせなかったのか。
「…ガウェが言っていたね。君がリーンを殺したと」
「…はい」
 思い出されるのはガウェが怒りに任せて叫んだ言葉だ。
 クルーガーを憎しみ続けたガウェ。
 ガウェがクルーガーを嫌っていた事は皆が知っている。
 理由までは知らずとも、その態度から。
「…まあ、後で聞こう。続けてくれ」
 話が脱線する可能性に気付いてコウェルズは軌道修正を図る。視線はまだクルーガーに向けられており、わずかに口を開こうとしていたフレイムローズがすぐに身を引いた。
 何か繋がるものを持っているのだろう。
「…ファントムは私に、パージャを騎士として王城に入れるよう告げました。それだけでいいと。…幸いニコルの命を狙う者をどうにか探し出そうとしていた時だったので、パージャにはその仕事を与えました。…パージャには人の真実と嘘を見抜く能力も備わっていましたので…」
「それで、パージャを王城に入れて?」
「…私の手引きはそれだけです。途中でフレイムローズの能力に目をつけたファントムが一度王城に侵入したらしいのですが、その話もパージャの正体が皆に発覚した時に、フレイムローズから聞かされました…」
 クルーガーは自分が語れるのはそこまでだと、瞳だけで語る。
 嘘はついていない。それだけは確実だというように、ようやくコウェルズはフレイムローズに優しい眼差しを向けた。
「…じゃあフレイムローズはいつからファントムと?」
 クルーガーは途中からファントムがフレイムローズの魔眼に目をつけたと語った。ということは、フレイムローズがファントムに関わったのは、全てではないのだろう。
 だが、王家に絶対の忠誠を誓うフレイムローズの意志を、リーンが生きていたというだけでコウェルズを裏切るまでにさせるとは。
 セクトルはフレイムローズの様子を、まるでファントムに心酔していると告げた。
 それほどの力量を、ファントムは。だがファントムが父なら…出そうになる結論を、ニコルは寸前で止める。
 ニコルはいつだって父を、彼を心待ちにし続けた。
 その心酔するほどに圧倒的な存在感を。
「…王城全体を監視してた時に…魔眼も誤魔化すほどの魔力で近付いてこられて…」
 コウェルズに顔を見せて話し出すフレイムローズは、しかし途中で鼻を詰まらせ、俯いた。
「…リーン様が今どこにいて…どんな状態なのか知らされて…」
 肩は震え始め、声は涙を含む。
 リーンがどこにいて、どんな状況で。
 王家を愛するフレイムローズには、残酷すぎる現実を見せつけられたのだろう。
 骨と皮ばかりになってでも生きていたリーン。
 いったいどこにいたのか。
 それはもう調査であらかたの予想はついている。
 リーンは土中に生きたまま埋められていたのだ。
 新緑宮の真下に、大の大人が三人は軽く縦に入るほどの深さの位置に。
 俯いていたフレイムローズは、今度は救いを求めるように顔を上げてコウェルズに必死の泣き顔を向けた。
「ファントム達なら助けられるって…リーン様を…助けてくれるって…だからっおれ、俺が出来ることを…」
 救いを求めるように必死に訴える。
 今まさに苦しむように。
「あんな冷たい…重い…苦しい場所で…五年もっ…だからおれはっ…」
 ニコル達が目にしたリーンは、ファントムに救われた後の姿だけだ。しかしフレイムローズは見せられたのだ。
 リーンを。
 終わりの来ないような責め苦の中に囚われ続けていた姫を。
 そのあまりの様子に、コウェルズは表向きだけでも浮かべ続けていた微笑みを消してしまう。
 フレイムローズはコウェルズを裏切った。裏切ってでも、リーンの救いをファントムに求めた。
 コウェルズでは力不足だと言うように。
「ファントム達の乗っていた飛行船が王城の結界を破いて入れたのも、君の力かい?」
 感情の見えない問いかけに、フレイムローズは目元を擦りながら頭を横に振る。
「…違います…あんなの…たぶんコウェルズ様が魔力増幅装置を使っても動きません」
 王家で一番の魔力量を持つコウェルズですら、装置の力を使っても?
 その返答にはニコルだけでなくコウェルズも、ミモザもエルザも眉をひそめた。
 コウェルズの魔力量をフレイムローズが知らないはずがないのに。
「…船についてはヴァルツ様から聞かされましたわ。元々は“空中庭園”という、バインド様が設計されたラムタルの絡繰り技術の飛行船だそうです。ただし想像以上に膨大な魔力を必要とするので計画は頓挫し、作るのは諦めたものだと。設計図はその後で何者かに持ち去られたらしいですわ」
 フレイムローズの言葉に合わせるようにミモザも説明を付け足すが、それでもミモザもまだ信じられない様子だ。
「…ファントムが奪ったのか…?だがあの船は確かに動いていた…どれほどの魔力が…」
「ファントム一人の魔力で動いてるんです」
 首をかしげるコウェルズに、追い討ちをかけるようにフレイムローズは語る。
 それは、いったいどれほどの魔力量だというのだ。
 魔力増幅装置を使ってもコウェルズでも操れないほどの巨大な絡繰り船を、たった一人でなど。
 もしそんな力が本当に存在するというなら、エル・フェアリアの古代兵器など無くても国を滅ぼせるだろう。
「…ファントムは」
「ファントムは凄まじいまでの魔力を備えています。恐らくコウェルズ様とコレー様を足してもまだファントムには届きません」
 ファントムについて、まだ情報が存在するかのように口を開いたフレイムローズを止めてクルーガーは言葉を被せる。
 それはあまりにも違和感を浮き上がらせる代物で、見逃してやるには不器用すぎた。
「クルーガー…君は、ファントムが何者なのか知っているね?」
 そう気付いたコウェルズは静かに訊ね、ニコルも息をひそめながらわずかに前のめりになる。
 ファントムが何者なのか。それこそニコルが最も知りたい真実なのだ。
 クルーガーは言葉に詰まるように固まり、そして
「…いえ--」
 小さな否定の後、突然喉を押さえて苦しみ始めた。
 驚いたのはニコルと、クルーガーの隣に座るフレイムローズだけだ。
 まるで呼吸が出来ないと、誰かに気管を握り潰されているとでも言うような苦しみの表情だった。
 クルーガーの顔色はすぐに赤くなり、脂汗が浮かび始めて。
「…言ったはずだよ…嘘をついてはいけないよ、と」
 その中で、コウェルズの冷静な口調はとても冷徹に思えた。
 ミモザとエルザは、驚きこそしないが目を背けているというのに。
「…本当の事を話さないと、呼吸は止まったままだよ」
「ぐっ…知って…います--」
 さらりと呼吸が止まった理由を教えてくれるコウェルズの言うがままに、クルーガーはもがき苦しみながらも偽りを正す。
 とたんに空気の流れる鈍い呼吸音が室内に響き、クルーガーが強くむせ返った。
 何とか空気を取り戻したクルーガーは、動揺を隠さないままコウェルズを見つめて。
「…ミモザとエルザがかけた結界の力さ。この中では、嘘は通用しない。…勿論我々もね」
 その様子にも動じずに微笑んでみせるコウェルズに、我慢の限界が来たのはニコルだった。
「いったい何者なんですか!?ファントムは!!」
 クルーガーはちらりとニコルにも視線を送るが、口は開かない。
 それがさらにニコルを苛立たせた。
 知っているのだろう。それを隠したから苦しんだのだろう。なら早く、ニコルに真実を与えてくれないか。
「落ち着きなさいニコル…ファントムの正体がわかったとしても、居場所がわからなければ意味がありませんわ…」
「ニコルには大切なことなんだよ…」
 冷静さを欠くニコルをミモザがたしなめるが、コウェルズはニコルの焦りを否定せずにいてくれた。同時にエルザもニコルを思い、握る手に力を込めてくれる。
「…どういうことですの?」
 ニコルには大切な事なのだ。それを知らないミモザはやはり眉をひそめ、三団長のヨーシュカとクルーガーの視線がニコルに移される。
 含みある視線を真正面から受けられるほど、今のニコルの精神の地盤は固くない。
 ニコルがわずかに俯いたところで、ヨーシュカが口を開いた。
「私からもひとつ、よろしいか?」
 平坦な口調の中に滲む嬉しそうな感情が、ヨーシュカを気味の悪い老人に見せるが。
「何だ?」
「ファントムの正体について…」
 コウェルズの許しを得て訊ねるヨーシュカは、顔をクルーガーに向けながらも、視線はニコルから外さなかった。
「ファントムは、我々の知る人物なのだな?」
「--…」
 ヨーシュカの問いかけに、クルーガーは完全に言葉を無くす。
「…どういうことだ?」
「コウェルズ様達はお会いしたことはありません。…ですが我々三団長はお姿を知っている人物…だな?」
 問いかける風でありながら、ヨーシュカは確信に満ちた声色をしていた。
 コウェルズ達は知らないが、老いた三団長が知る人物。
「--まさか」
 最初に気付いたのは、同じく三団長のリナトで。
「…いったい何を言っているんだ…そんなはずが」
 有り得ない、とリナトは首を横に振る。
 クルーガーは諦めたようにただ俯き、なおもヨーシュカはニコルから視線を外さない。
「コウェルズ様とコレー様の魔力を足して、それでもまだ足りないほどの膨大な魔力を持つ者など…この世に一人しか存在せん」
 他者の言葉を借りて説明をするヨーシュカに。
「ロスト・ロード様だと言うのか…?」
 答えを口にしたのはリナトだった。
 その名に王家の三人は息を飲み、クルーガーは唇を噛み、フレイムローズまでもがニコルを見つめた。
 その名を知らない者などエル・フェアリアにはいない。
 かつて大戦の先頭を走り、エル・フェアリアに多くの国土と共に完全なる大国の名を与えた、悲劇の王子。
「ロスト・ロード…デルグ国王の、暗殺された兄君--」
 ニコルの呟きに、甲高く笑ったのはヨーシュカだけだった。
「やはり生きておられたか!!44年!!待ちわびた吉報だ!!」
「ふざけるな!!」
 信じられるものか。
 ヨーシュカの喜びを打ち消すように叫びながら、椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がったニコルを支えてくれたのはエルザだけで。
 コウェルズは気付いたろう。そして恐らくクルーガーもフレイムローズも気付いている。
“ニコル”の存在に。
 叫んだニコルを困惑の瞳で見つめるのはミモザとリナトだけだ。
「…ああ、そうだ…」
「っ…」
 立ち上がったニコルにすがろうとするように、崇めようとするように。ヨーシュカはふらりふらりと覚束ないような足取りでニコルに近付き。
「聞かせておくれ、クルーガー…なぜこの青年は…これほどまでにロスト・ロード様に似ておられる?」
 ニコルに向けられる老いたヨーシュカの手のひら。
 ようやく神の依り代を見つけたかのように、心酔するように。
 ヨーシュカから逃れようとニコルはわずかに後退し、エルザが間に入ってくれて。
「…似て…いる?」
 ミモザは呆けるようにニコルを見上げることしか出来ず。
「初めてすれ違った際、あまりに似ていた為に私は目を疑った。だが今ならわかる。あなたこそ…」
「…馬鹿な…」
 ヨーシュカの妄信するような言葉に、リナトの動揺が被る。
 無意識に体が拒絶した。
 ニコルは今すぐこの場から逃げ出したくなった。
 これ以上ここにいたら--思い出してしまう。
 先ほどまで思い出したかった、今は思い出したくない、父の言葉を。
 なのに。
「…ニコルは、ファントムの…ロスト・ロード様の御子息です」
 フレイムローズの言葉が、ニコルの記憶を開く鍵となる。

『覚えていなさい。お前の--真の名は--』

 あの日。
 父は。
 彼は、ニコルに教えてくれたのだ。
「--…ニコル・スノウストーム・エル・フェアリア・インフィニートリベルタ」
 長ったるく、重々しい、ニコルの存在を示す大切な。
「俺の…名前」
 思い出してしまった自分の名が、体内で強く弾けるように何かを吹き飛ばした。
 音など存在しない。
 誰の耳にもそれは聞こえない。
 ただ、ニコルの中の何かを。
「素晴らしい!!永くこの国の愚王に仕えて数十年!まさかこのような素晴らしい吉報を二つも同時に知ることが出来るとは!!」
 ヨーシュカは狂喜し、
「ニコル…」
 クルーガーはまるで我が子を守りきれなかったことを悔やむように唇を噛み、
「王、族…?」
 エルザはニコルを離してしまう。
 離れて外気にさらされる手のひらの感触は、あまりにも今のニコルを苛んだ。
 フレイムローズは俯いたまま動かず、コウェルズとミモザは呆然として。
「--王位継承順位が…変わる」
 リナトの言葉に、ヨーシュカは目を剥く。
「変わるだと!?何をおろかな事を言っているのだ!!変わるのではない!正常に戻るのだ!!いくらコウェルズ様が有能といえども父親はあの愚王デルグ!ロスト・ロード様の足下にも及ばぬ!…ロスト・ロード様の息子ともなれば、さぞ素晴らしい王となるだろう!!」
 叫ぶヨーシュカに、立ち上がったクルーガーがその胸ぐらを掴んだ。
 「ふざけたことを抜かすな!!コウェルズ様以外の者が王位を継がれるなど、この国の誰も認めんぞ!!」
「何とでも言うがよい!いくら喚いたところで、ロスト・ロード様が生きていらしたのならば王座はロスト・ロード様にこそ相応しい!それが叶わぬならばニコル・エル・フェアリアが王位を次ぐのだ!それが数千年続くエル・フェアリアの正常な姿なのだからな!!」
 三団長達が何を言っているのかわからない。まるで異国語を聞いているような気分だった。
 ニコルの知らない、音の波長の合わない言葉だ。そのはずだ。
 そうでなければ、この吐きまかしそうな気分の悪さは何だというのだ。
「ニコル?」
 ふらりと扉に向かうニコルの後を追ってくれたエルザに腕を優しく取られて。
「…出してくれ…ここから…」
 その手を力なく拒絶し、結界のせいで開かない扉にすがった。
「ニコル!」
「頼む…今すぐ出してくれ…」
 エルザの声も不愉快な異国語にしか聞こえない。
 ここはとても気持ちが悪かった。
 誰に言わせても、きっと気持ち悪いと言ってくれるはずだ。
 ここは、この空間は有り得ない悪夢なのだ。
「親父を探す…この馬鹿馬鹿しい茶番を…親父が王族?44年前に暗殺されたはずの王子?…有り得ない…」
「ニコル、どうか気をしっかり保ってください」
「そんなわけ」
「ニコル!」
 何度もエルザにすがられ、何度もエルザを拒絶する。
 頼むから触らないでくれ。
 先にニコルの傾ぐ体を拒絶するように離したその手で。
「…今日はここまでにしよう。また近く話す機会を設けるが…ここでの会話は誰にも他言しないように」
 ニコルの状況の危うさに気付き、コウェルズが解散を告げてくれた。だが。
 近付いてきたコウェルズは、何度も拒絶され傷付くエルザの肩を抱きながら、ニコルを見据える。
「ニコル、君が王族ならば、相応の対処をすることになる。それまでは現状のままになるが…」
 終わりにすると言ったその口で。
「やめてください…私は辺境の村で育った平民の家の人間です…」
 逃れたい一心で、ニコルはひたすら扉にだけ体を向け続けた。
 早く開け。
 開いてくれ。
 そうでなければ、何かが壊れてしまう。
 気が遠退くほどの気分の悪さを味わうニコルの後ろで、ミモザがエルザを呼び、同時に室内の結界を解いた。
 そしてすぐに軽くなった扉を開けて。
「ニコル、一緒に」
「一人に…してください」
 隣に立とうとしてくれたエルザに力の宿らない瞳を向ければ、悲しげな様子を見せながらも諦めてくれた。

 そこから、どこをどう歩いたかわからない。
 外にいたトリックとアドルフにも心配された気がするが、何も思い出せなくて。
 ただ、自分の存在を教えてくれる者を求めていた気がした。
 ファントムの息子なんかじゃない。
 ファントムの存在なんか知らない。
 ニコルは。
 俺は--

「--兄さん?」
 ふと気が付けば、目前にアリアがいて。
「…アリア…」
「やだ、酷い顔色!!どうしたの?」
 いつの間にか、アリア達のいる簡易医療棟の一室に戻ってきたらしい。
 ルートは思い出せない。だがアリアを求めて歩いていたことはわかる。
 アリアだけが、今のニコルの欲しい答えそのものだったから。
「ベッドに寝かせましょう。私の肩に掴まって」
「…大丈夫だ」
 心配してくれるモーティシアを、先ほどエルザにしたように拒絶する。
「これのどこが大丈夫なのよ!…医師団に言ったら何か薬貰えるでしょうか?」
 アリアはすぐにニコルを怒ったが、モーティシアに代わるようにニコルの腕を掴んで支えてくれて、モーティシアに問うた。
「気付け薬をもらえるはずですが、まずは運びましょう」
「はい」
 今にも倒れそうなニコルをとりあえずどこかに座らせるか寝かせるかさせようとする行為すら拒んで。
「いい…大丈夫だ…」
「兄さ--」
 倒れ込むように、アリアを抱き締めた。
「ニコル!?」
「兄さん!?」
 二人は驚くが、気が遠退いたわけではない。
 アリアを求めただけだ。
 大切な、唯一の家族。
 ニコルの妹。
 俺の--
「…どうしたの?」
 心配してくれるのは、ニコルが兄だからだろう?
 同じ辺境で産まれた平民だから。
「…俺は…俺達の親は、母さんと“父さん”だけだ…」
 誰が何を言おうが。
 ファントムなど知らない。
 彼など知らない。

 インフィニートリベルタ

 そんなもの、ニコルは知らない。

第29話 終
 
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