第49話


-----

 息を深く吸って、ゆっくりと吐き出す。
 冷静さを保つための呼吸すらも、今のウインドの苛立ちをわずかに緩和させることも出来なかった。
 目前にいるのはラムタルの一部隊を率いる隊長の武人で、ウインドのように暗い髪の色ではあるが闇色とまではいかない。
 武人が身に纏う兵装とは異なり、ウインドが纏うのはゆったりと動きにくいラムタルの神衣だ。
 ラムタルの魔術師である証。しかしウインドはエル・フェアリアで産まれたエル・フェアリアの若者だ。
 だというのに、奇妙な運命がウインドをこのラムタルに連れてきた。
 冷めた眼差しで相手を眺めて、やる気もほどほどに構えを取る。
 武術とは名ばかりのただの暴力を、見てくれだけでも武術の型に近付ける為に。
 ウインドに課せられたのは、大会までにラムタル武術の型を身体に叩き込む事だった。
 神衣はウインドの荒い動きを隠してはくれるが、細部までは隠しきれない。その荒さを消し去るために。
「下段、覆水の構え」
 目前の武人に命じられるままに両足を開き、身を屈めて両手を前後に広げる。
「始め」
 静かな号令の後に、無駄の少ない動きで最大の威力を発揮するように型をこなしていく。
 前に、後ろに。拳を流し、たたらを踏むように一歩先に進んでから残された足で空を蹴り。
 舞い踊るように型をこなしながら、しかし何度目かもわからなくなった動作に苛立ちは募り続けて。
「…止め」
 呆れたような声に、ウインドは喧嘩を売るように舌打ちを響かせた。
「事情はどうであれ、お前はラムタルの代表として武術試合に出るんだ。明日までに下段の型の全てを覚えてくるように」
「は、どうせ大会が始まりゃただの喧嘩と変わり無いんだろ。構えなんか誰が見るってんだよ」
 冷めた武人を挑発するように鼻で笑うが、武人は一瞥をくれただけでそのまま背を向けて去ってしまった。
 その背後を蹴り倒してやろうかとも思ったが、そんなことをしてもウインドの苛立ちが消えるわけではない。
 広いグラウンドは秋というには寒すぎる風を流れさせながら、ウインドの肩に一滴の水を落として消えた。
 無意識に見上げれば、空は昼間だというのに不気味なほどに暗い。
 そこから、まるで泣きじゃくるように。
 降り始めた雨が土砂降りに変わるのはすぐだった。
--面倒臭い
 エレッテが側にいたなら、慌ててウインドに防御結界を張ってくれて雨が当たらないようにしてくれたのに。
 身に染みるような雨が神衣に染み込んで重たくなり始め、べたりと体に張り付くから苛立ちがさらに増していく。
 そこに。
「ウインド!!」
 遠くから呼ぶ少女の声。
 目を向ければ、城の扉からミュズがタオルを抱えながら強くウインドを手招きしていた。
 仕方ないから歩き近付いて、
「走ってよバカ!」
「うっせぇな!」
 早くとせかされて仕方なく小走りになって。
 ミュズ。腹立たしいパージャの大切な少女。
 ウインド達とは異なる淡い桜色の髪は、ミュズが呪いなど一切受けていない普通の人間であることを知らしめる。
「雨に打たれたまんまボーっとするなんてバカじゃないの?」
「…うるせぇ」
 城の扉に到着すれば、弱い力で腕を引かれて雨に当たらない城内に引っ張られた。
 そのまま頭からタオルをかけられて、後は自分で拭けとばかりに放置される。
「気持ち悪ぃ…上脱いでいいか?」
「さあ?いいんじゃない?誰もいないし」
 雨に濡れた神衣が気持ち悪くて、一応女であるミュズの許可を得てから羽織ごと上を脱ぎ落とす。
 パージャがいたならミュズに気味の悪いものを見せるなと静かにキレられただろうが、異常なほどに城内は静かだった。
「着替えは?」
「あるわけないでしょ。タオル持ってきただけでも感謝して」
「はぁ?お前、俺のサポートだろうが」
「知らない。タオルで充分でしょ」
 たかが一枚のタオルを持ってきただけで自分の仕事は終わったと体を伸ばすミュズに、苛立ちではなくため息が溢れた。
 これならルクレスティードがサポートについてくれた方がまだ気楽だった。
「…雨、長く降るのかな?」
 空を見上げるミュズに「知らねぇ」とだけ返して。
 バンダナに守られていない濡れた髪をタオルごしに乱暴に掻きながら、床に落ちた重い神衣の羽織を蹴りどける。
 薄地ではあるが下は穿いているので気にする必要も無いだろうと。
 ミュズもミュズで、こちらが上半身裸だろうが一切動揺しない辺りパージャの裸体に慣れているのだろう。
 色を灯した情交という訳でなく、ただ家族としての意味で。
 ミュズがそこそこの年齢に達するまではパージャの風呂にまで付いてきていたことを知っている。
 ミュズはパージャの傍を片時も離れようとしなかった。
 だというのに。
 本格的に計画が始動してからこちら、ミュズとパージャは分かたれた時間が増えた。
 そしてウインドも。
 最愛の恋人を。
 知らぬ間にエレッテを離された。
 よりにもよってパージャと共に、二人きりでエル・フェアリアに戻されたのだ。
「…お前、パージャと連絡取ってんの?」
 訊ねたのは、自分はエレッテと一切連絡を取り合えてないからで。 
「とってない」
 つまらなさそうな返答はすぐに聞かされた。
 ウインドが現状のエレッテを知れたのは少し前にファントムが水面に二人の様子を映し出したくらいで、その時は今まで見たこともないような可愛らしい衣服を着て楽しそうにしていた姿に腸が煮えくり返る思いを味わった。
 それからこちら、ウインドもエレッテを知らない。
 伝達鳥を使えばいつだって話せるのだろう。
 だが自分の知らないエレッテを見せられて、近くにパージャがいるのだと考えてしまったら。
「…お前とパージャって、どうなんだよ」
 頭にタオルを乗せたまま、落とした神衣をつかんで適当に窓枠に置き直して。
 質問の意味がわからないのか、ミュズが首をかしげるのをタオルに阻まれた視界ごしに目に映した。
「好きなんじゃねえのかよ。恋愛に持ってこうとか思うだろ、フツー」
「私とパージャが?家族なのに恋愛なんて変だよ」
 色恋を意識していいはずの年頃のはずなのに、ミュズの言葉は本心からだった。これは少しパージャに同情してしまう。
「家族家族って、血なんか繋がってないだろ」
 ミュズの口癖だ。
 ミュズがパージャの側にいる理由。
 家族だからと。
「血の繋がらない男と女が家族なんておかしいだろ。結婚した夫婦ならわかるけど」
「そんなことない。だってパージャは大切な家族だもん」
「じゃあパージャはどこのポジションなんだよ。親父か?兄貴か?」
 問いつめるわけではないが無意識に強くなった口調に、ミュズの眉間にシワが寄った。
「パージャはパージャよ。お父さんでもお兄ちゃんでもないわ」
「だから、それなら家族じゃないだろ」
 お互いに一方通行で一切交わらない頭に腹が立つ。
「ってか男好きになったことあんのか?」
 そして根本的な箇所で疑問が浮かんで、何の気もなく訊ねれば。
「…男の人?」
 本格的に悩み始めたミュズに、まだ彼女は恋を知らないのだと気付いた。
「…わからない。でもパージャが大丈夫ってわかるまで考えられないと思う」
「…お前、おかんじゃねぇか」
「おかん?」
「母親。お前はパージャの母親じゃねえだろ」
 ミュズの言葉をそのまま鵜呑みにするならば、ミュズにとってパージャは守るべき対象ということにならないか。
 まだ成人前の子供の癖に、パージャという男をつかまえて。
「…わからないよ。パージャは好きだけど、ウインドとエレッテみたいな好きじゃないもん。パージャは私の大切な家族で…分身?」
 自分で言いながら、自分自身に問うて。
 ミュズの幼い頭では、まだ全てを上手く理解することが不可能なのだ。そして分身だと告げる理由は。
「…名前か」
「うん」
 パージャという名前。
 ミュズという名前。
 パージャにとって特別な“パージャ”という名前は。
「私の名前を分けたんだもん。大切な家族になったのと同じだよ」
 パージャとは、元々ミュズの名前の一部分だった。
「…名前を分けてやるって、よく考え付いたな」
「え、だって名前が無いって言ったのはパージャだよ。名前を分けてあげられるならそうするでしょ?」
「いや、フツーは適当に名付けるもんだろ」
 ミュスパーシャ
 それが、本来のミュズの名前だった。
 だが幼いミュズがパージャと出会い、名前のないパージャに名前を分けてやり。
 分かたれた名前はミュズの祖母により個として確立した。
 ミュスはミュズに。
 パーシャはパージャに。
 その奇妙な縁は、ミュズとパージャを互いに特別な存在にした。
 決定的な違いは、パージャはミュズを本能的に欲し、ミュズにはその意思が存在しないということだろう。今のところ、パージャは保護者としてミュズを守ることを優先している様子だが。
「ウインドは名前が短いから分けられないけど、ティーなら分けられるよね!ルクレスティードだから、ルクレスとティード?」
「分けねえだろ。特殊な頭で考えんな」
「なによ。自分が一般常識とか思ってるわけ?」
「お前よりかは常識持ってるわ」
 自分が喧嘩っ早い自覚はある。エレッテを怖がらせてしまう時があるのもわかっている。良識を学べる幼少期でもなかった。
 それでも根本的に頭のネジの飛んだミュズに比べれば、まだマシだと思える。
 エル・フェアリアを恨むのはウインドも同じだ。
 エル・フェアリアを愛せる過去など存在しない。
 だとしても。
 何の罪もない幼い子供を犠牲にして、それを笑うような心の歪みは持ち合わせてはいない。
 まだパージャが騎士としてエル・フェアリア王城内に潜伏していた頃、アリアを王城から出すためだけに、ファントムはミュズに命じたのだ。
 国が運営する児童施設。そこに保護された娘の親に、娘の居場所を教えさせた。
 親には娘がどこの児童施設に入れられたのかは教えられてはいなかった。それほどの理由がある親だったのだ。
 保護され守られたはずの幼い少女は、ただアリアを王城から出す為だけに命を落とした。
 ミュズはそれを見て笑った。
 笑い、パージャに誉めの言葉を求めたのだ。
 狂っているというよりは、完全にネジが飛んでいる。
 傍目には気付けない。だがミュズは歪なのだ。
 だからなのか、おかしな魅力にやられる者が出てくる。
 ミュズの深層心理を知らないまま、ミュズという幼い女に。
 ラムタル王城内でも、幼いというのにミュズに思いを抱き始めた者がいることはわかっている。
 パージャという防波堤を失って、ミュズの歪な魅力はじわりじわりと浸透しつつあるのだ。
 滴らなくなった頭からタオルを離して、神衣と一緒くたに片手に持って。
 約半月後、ラムタルで開催される剣武大会の武術試合に、ウインドはラムタル代表として出場する。
 ミュズはウインドのサポートとして側に。
 ファントムの本来の狙いの為に。
 パージャやガイアは知らない。ウインドも詳しく話された訳ではない。
 だがファントムの狙いは。
「…まじムカつくわ」
「え、なに?」
 城内を進むウインドの隣で、ミュズは小走りで付いてきながら見上げてくる。
 ファントムの本来の狙いの為に。
 ウインドは足場として使われるのだ。

-----
 
3/4ページ
スキ