第49話
第49話
幼い頃は、母親に手を引かれていたはずだ。
かすかに残る記憶がそう告げる。あの人は確かに母親だった。
闇色の髪のせいで周りからは奇妙なものを見るような目で見られ続けた。
エレッテ自身もそうだった。自分が奇妙でならなかった。
淡い髪の色ばかりの世の中でなぜ自分だけが闇色をしているのか。
エレッテの手を引いていた女を母親だと思っていたのは、事あるごとに殴られ蹴られ、お前なんて産まれてこなければよかったと言われ続けたからだ。
父親に当たる人物はいなかった。
なぜいないのかも当時はわからなかった。
疎まれ続けても母親の側を離れられずにいて、しかしいつの間にか売られていた。
いつ売られたかはわからない。
気付いたら小屋の中だった。
奇妙な見た目と奇妙な身体。
傷つけられてもすぐに綺麗に治る身体は格好の見世物だった。
切り刻まれて抉られて。
自分の悲鳴が耳に焼き付いて離れなかった。
そしてまたいつの間にか別の場所にいて。
汚なかった小屋とは正反対の豪華な屋敷と、優しそうな老主人。
綺麗なドレスを着せられて、今までのエレッテの暮らしがいかに悲惨で可哀想なものだったかを教えられて。
老主人は幼子に欲望を向けることがどれほど酷いことかを優しく教えた上で、その後に本能を剥き出しにしてエレッテを欲望のままに痛め付けた。
その為だけに引き取られたのだと気付くにはまだ若すぎる年頃だった。
そしてまたどこかに追いやられて。
ようやく自分の置かれた状況を理解する頃には既に、エレッテの臆病な性格は完成してしまっていた。
どこかの傭兵部隊の慰め者として。
誰かの負の捌け口として。
エレッテに許されたのは怯えることと謝罪の言葉だけだった。
そうして過ごす日々の中で、いつの間にか一人の少年と出会っていた。
いつ、どう出会ったのかわからない。彼もそうだと口にする。
エレッテがウインドと出会ったのは、本当に“いつの間にか”だった。
同じ闇色の髪と瞳。
同じように傷の残らない身体。
エレッテの仕事が傭兵達の慰み者なら、ウインドは囮だった。
闇色の髪はどう見てもエル・フェアリアの民には見えない。ウインドはそれを生かして敵兵に近付き、内側を脆くさせて。
傭兵達は、ウインドごと敵の陣地を崩せばいい。
そうやって、エレッテのいた傭兵部隊は勝ち残ってきた。
エレッテも時折囮として使われ、傭兵達の仕事が落ち着けば慰み者にされ。
事が済んで放置されるわずかな時間に、ウインドは傭兵達の目を盗んでエレッテの側にいてくれた。
同じ見た目に同じ奇妙な身体を持っていたからこそ、二人の間には妙な絆が生まれていた。
暴力の蔓延る世界に産まれ育ったウインドも暴力的ではあったが、エレッテに暴力を振るう事は無かった。
ウインドなりに大切にしてくれる。
エレッテが当時安心できたのは、ウインドの側だけだった。
--ほんとうに?
ふと誰かがそう問いかける。
明かりの見えない闇の中、響き渡るのは悲しみに沈む少女の声だ。
--ほんとうに?
本当に。
安心できた場所は、ウインドの側だけだったか。
何か、大切なことを忘れてはいないだろうか。
消し去りたい過去の中にも、大切な温もりは存在しなかったか。
残虐なだけの過去ではなかったはずだ。
温もりを与えられたはずだ。
--ガキならガキらしく寝てろ
暖かい男の声が突然聞こえると同時に。
「…ぅ」
しかし暗闇の夢から目覚めたエレッテは、夢の内容の大半を忘れてしまっていた。
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起きるのが早すぎたわけではない。だが窓の外に広がる空はいつも通りにしては薄暗く、ベッドを抜け出したエレッテは窓を開けたとたんに室内に入る湿気を帯びた冷気に、先ほどまで雨が降っていたのだと気付いた。
どんよりとした雨雲は今は泣いてはいないが、いつ泣き出してもおかしくないほどに厚く空を塞いでいる。
窓枠も濡れており、細かな粒が小雨であったことを教えてくれて。
「…ぁ」
窓の下は庭で、そこに現れたビデンスを見かけて思わず身を引いてしまった。
怖がる必要など無いのに。
怖がるなど失礼だろうに。
それでも、ビデンスの射竦めるような視線は苦手だった。
だが。
「……」
自分の中の怯えた心を奮い立たせて、頬を両手でパンパンと軽く痛い程度に叩く。
昨日エレッテはビデンスとキリュネナの前で気を失ってしまったのだ。
たかが男性と話すか否かという程度だったはずなのに。
二人を驚かせたはずだ。
それを詫びたい。
エレッテは頬の疼きに集中して怖がろうとする気持ちを懸命に押さえ込むと、薄手のカーディガンを肩にかけて部屋を出た。
まだ早い時間帯なのであまり足音をたてないように静かに歩いて階段を降りる。
「おはようございます」
「っ!…お、おはようございます…」
降りたところで使用人の娘に挨拶をされて、上手く返せなかった自分を恥じて。
やや俯きながらも裏庭に向かい、扉を開けて外に一歩踏み出したところで、頬に冷たい何かが軽く当たった。
「…雨」
小雨ではない。大粒というわけでもない。
ありふれた雨がサラサラと降り始める。
とうとう泣き出した空を見上げた所で、ビデンスが屋敷に戻るためにこちらに歩いてくることに気付いた。
降り出した雨を避ける為だろうが、エレッテの姿に気付いて少し驚いたように足を止められる。
「あの…おはようございます」
今度は上手く挨拶出来ただろうか。
ドクドクと脈打つ心臓を押さえつけるように胸に手を当てた所で、ビデンスも安心したように肩から力を抜きながら「おはよう」と挨拶を返してくれた。そして。
「…中に入れてくれんか?雨に濡れたと知られたら婆さんが心配してしまう」
「あ…ごめんなさい」
屋敷への扉はエレッテが塞いでしまっており、あわてて室内に身を引いた後でビデンスもゆっくりと中に戻った。
近くに置いてあったタオルを手に取り、簡単に雨の雫を拭き取り。
「あ、の…」
背中を向けるビデンスに話しかけた声は、口内でくぐもり怯えたような音になった。
気付いたビデンスはちらりとエレッテに目を向けてくれるが、謝罪をしたかったのに上手く声が出なかった。
「…昨日はすまなかったな」
そうこうする内に先に謝罪されて、思わず泣きそうになる。
なぜ涙腺が緩んだのかは自分でもわからない。ただビデンスの声が言葉が、エレッテの心に優しく触れた。
「いえ…私の方こそ…すみませんでした」
緩んだのは涙腺だけでなく、小さな声ではあったがようやく口が動く。
ビデンスはエレッテからの謝罪には触れずに、指先だけで椅子に座るよう進める。
促されるままに着席すれば、ビデンスもテーブルをはさんだ向かい側に座りながら使用人の娘を呼び、飲み物を持ってくるよう命じた。
あらかじめ用意はされていたのかすぐにテーブルに一揃い置かれ、シンプルな花の描かれた白いカップに優しい花の香りのお茶が注がれて。
「あ、ありがとうございます…」
先にビデンスが受け取り、次にエレッテの前にカップが置かれた。
使用人はすぐに部屋を後にして、裏庭に続く室内はエレッテとビデンスと、花の香りと静かな雨音に満たされる。
しばらくの間は静かなものだった。
どちらも口を開かない。だがいたたまれない空気は存在せず、お茶の温もりをゆっくりと全身にめぐらせて。
「…お前さんの過去をサクラから少し聞いた」
エレッテのカップのお茶が半分ほどにまで減った頃に、ビデンスはようやく口を開いてくれた。
「ばあさんは知らんぞ…話せるもんじゃない」
エレッテの過去を。
パージャが。
気持ちがリラックスしていたからか、この時はなぜか自然に受け止めることが出来た。
いつもなら身を強張らせていたはずだというのに。
「大変な思いをしたな」
「…い、え」
だがリラックスしていたとしても、何と話せばよいかもわからずに声は小さく掠れてしまう。
「…わしが若い頃は、他国の兵に捕らわれて虐げられていた者を助けたもんだが…エル・フェアリア内でも存在したとはな」
悲しみの宿る声。
ちらりと窺うようにビデンスに目を向ければ、老いた戦士は過去と現在の現実に表情を歪ませていた。
酷すぎる暴力。それが自分の生きる国でも起きていたなど、ビデンスは考えたくなかっただろう。
いくら大戦が終わったとはいえ。前線から離れたとはいえ。
「…パージャは他に何か言ってましたか?」
ふと気になって、エレッテは自分から訊ねてみた。
ビデンスはどこまでエレッテの過去を知っているのか。パージャがどこまで話したのか。
ビデンスはパージャという名にわずかに困惑の表情を浮かべたが、すぐにサクラのことだと理解した。
ややこしい名前。それも、エレッテだけでなくパージャも歪な幼少期を過ごした事実。
「…お前さんが傭兵の元にいたことと、恋仲の男がいることだけだ」
ウインドの事も。
彼を思い、視線が下を向く。
これほどまでに長い間離れたことがない。だから、次に会う時が怖い。
「…恋仲というには…難が多い様子だな」
ウインドの性格も聞かされたのだろう。ビデンスは窓の外に顔を向けながら、彼らしくない穏やかな軽いため息をついた。
エレッテの中にあるビデンスのイメージは厳めしい姿しかないので、それこそガツンと絞られそうなウインドとの関係を糾弾されなかった事に少し驚いてしまう。
「どれ、聞かせてみろ。どこが嫌なんだ?」
そしてどこか面白がるように。
「え…」
「相手の男の苦手な所だ。あるから怯えるんだろう」
エレッテにとっては当然のように言葉に詰まる内容に、ビデンスは手ずからお茶をエレッテのカップに注ぎながら問うてくる。
しかし数秒経っても話せるはずもなくて、妙な静けさに包まれて。
さらさらと降る雨音だけが、緊張しそうになる空気を緩和しようとしてくれるが。
どうしても言葉がでなくて、また謝罪が口をついて出ようとした時だった。
「…わしもばあさんに怒られたもんだ。すぐに怒鳴るな、ってな」
照れたように、困ったように。
柔らかな表情を見せてくれながら、ビデンスは自分にもお茶を注いでひと口飲んで。
すぐに怒鳴る。それはウインドにも当てはまる性格だ。
「それと、ばあさんは昔から誰にでもへらへらするもんだからな…寄ってくるんだよ。男が」
次は少し言い辛そうに。
「そうなったらこっちは面白くないからな。よく喧嘩になったさ」
ありきたりな嫉妬。嫉妬する側はいつも自分の方だとビデンスは笑う。
「この歳になれば落ち着く感情だと思ってたがな。若い頃に思ってたものと何か違う」
もう孫が大きくなる歳だというのに、と。
「…今も好きなんですか?」
ふとした疑問は吟味するより先に口からこぼれて、はっと気付いて口元を押さえた。
「すみませ」
「いい。謝るな」
ビデンスはエレッテの言いたい所を理解して苦笑いを浮かべる。
「…そうだな。今も愛しているよ…まぁ昔と比べれば少しは違う形になるだろうし、鬱陶しい所も多いが…死ぬまで変わらんだろうな」
死ぬまで好きなままだと。
元々恋愛に関する話が好きなエレッテにとって、それはとても胸をくすぐる言葉だった。
「お前さんの方はどうなんだ」
そして話は最初に戻る。
エレッテの方は。
ウインドの嫌な所は。
「…すぐに大きな声を出されるのは…苦手です」
空白はあれど、今度は言葉が出てくれた。
ビデンスの視線は自分のカップに向けられているが、話を聞いてくれていることは姿勢から窺える。
「…それだけか?」
「…引っ張られるのも、痛いです」
今度はなぜか笑われてしまった。
「いやいや、すまん…笑うつもりはなかったが、わしにも当てはまったからな。笑うしかないだろう」
「…ビデンスさんもなんですか?」
「ああ…ばあさんはへらへらしてる割には肝心なことは口にしなくてな。若い頃だが、ある日突然泣きながら怒り出してな。“痛いから強く引っ張らないで”とそれだけだぞ。なら痛かった時に言えばいいのに、変な我慢をし続けていたんだ」
突然爆発するから質が悪い、と苦笑いを浮かべて。
「お前さんは男に教えてやったか?」
問いかけられて、首を横に小さく振った。
言えない。言えるわけがない。
だって--
「“怖い”か?」
エレッテの心を言い当てるように、ビデンスは静かに問いかける。
だって怖い。
「…なら、男の好きな所はどこだ?」
「…え」
「男のいい所だ。全く無いこともないだろう?」
ウインドのいい所。
探せば。
いや。探さなくても沢山あって。
「…私が男の人苦手なの知ってるから…すぐに助けてくれます」
暴力が伴うことも多いが、ウインドはエレッテの防波堤になってくれる。
「それだけか?」
「…いい所かどうかはわからないんですけど…私が作ったお菓子とか料理は、他の人から取ってでも食べようとしてくれて…見てて嬉しいです」
探せば、好きな所も確かにあって。
「あと、動物が好きみたいで、いつも力任せなのに、小動物相手だとすごく恐る恐る触ろうとするんです…自分の力が強いことはわかってるみたいで」
出先の町や村で見かけた動物には誰よりも早く近付くウインドを何度も見かけている。
子供のように無邪気に。しかし自身の力を理解してそっと。
「お前さんのことも、動物みたいに優しく扱えばいいんだがな」
「ふふ…あ、でも…強く引っ張られるのはいつもなんですけど、たまに手の力が抜けて、掴むのが優しくなるんです」
大切に、労るように。
怖いばかりではない。
怯えることは確かに多いが、エレッテが最も怯える行為に対してもウインドは懸命に我慢をしてくれて。
ウインドを刺激したくなくていつも野暮ったい衣服を着ていたが、ハイドランジア家で借りている可愛い衣服をウインドにも見てもらいたいという気持ちもあるのだ。
ウインドへの思いを改めて胸に抱けば。
「…怖いだけじゃない様子だな」
安心した、とビデンスは微笑んだ。
ぬるくなり始めたお茶を飲むビデンスに釣られるように、エレッテもコクンとひと口飲んで。
「相手の嫌な所を話すのはつらいかも知れんがな。出来れば言ってやれ…じゃないと、突然泣かれたらこっちも困るんだ」
エレッテとウインドの仲を、ビデンスは自分と妻に当てはめて話してくれる。
「あと良い所も言ってやればいい。そうすればだいたいの男は浮かれて優しくなるそうだ。ばあさん情報だがな」
「それって…ビデンスさんのこと、ですか?」
問いかければ、ビデンスはわざとらしく顔を背けた。
エレッテの凄惨な過去を知りながら。
あまり触れずに今を見て話してくれて。
「--おわ、珍しい組み合わせ。昨日の今日でこっちが気ぃ使いそうなんだけど」
「朝は“おはようございます”だろうが。やり直せ」
「えー」
ちょうど起きてきたらしいパージャも加わって。
少しほどけた胸の奥の絡まる糸に、エレッテは自然な笑みを自分でも気付かぬ内に浮かべていた。
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