第48話
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王城正門前に集まった民が静かになったのは、その日の夕暮れ前の事だった。
王座をコウェルズ王子にという声は貴族の屋敷が建ち並ぶ区画にも響いており、ようやく静かになったということでエレッテはハイドランジア家の夫人であるキリュネナに願われて窓を開けた。
開けたとたんに入り込む空気は冷たくエレッテの頬を撫でて、少しずつ秋が冬を連れて来ていることを教えてくれる。
室内にはエレッテの他にパージャとビデンスとキリュネナがくつろいでいて、老夫婦二人の会話といえば朝からずっと第四姫の話題ばかりだ。
ビデンスは大戦時代に王城でロスト・ロードの王族付き騎士ではあったが、リーンを直接見たことは無いらしい。
それでもリーンの話はあらゆる人から聞いていたのだろう。
「リーン様が生きていらっしゃったなんてな」
呟かれる声には、物悲しさがあふれている。
エレッテは開けた窓に背中を向けて、テーブルで向かい合う老夫婦と、部屋の端にあるソファーに転がるパージャを目に映した。
リーンの行方をエレッテとパージャは知っている。
知っているからこそエレッテは老夫婦の会話に交ざることが出来なかった。
「市場に向かった子達からも聞きましたけど、どこもリーン様の話題で持ちきりだったそうですよ」
「だろうな…無事ならいいがな」
聞き流すでも加わるでもなくエレッテは静かに二人の会話に耳を傾ける。
下手なことを口にして怪しまれたくはなかった。だというのに。
「まさかファントムにお姫様を奪われてたなんてねー」
他人事のように呟いたパージャに、エレッテは固まった。
自分と違いパージャは器用に立ち回れる事を知っているが、それでもリーンの話題に自ら入り込むなど。
「驚いたわねえ。お城は一部が崩壊したそうだけど…まさか国王様がリーン様を…本当かしら」
「…デルグ様は幼い頃は目立たない方だったからな。ワシもあまり記憶に無い」
二人は怪しむ素振りを見せずにパージャを会話の仲間に加えてしまう。
どうしてそんな難しい事が簡単に出来るのだ。
エレッテのもどかしい思いはパージャに届くはずもなく。
「王さまってフッツーの人なんでしょ?それとも暗殺されたオニイサマの方が非凡すぎただけ?」
パージャの言葉は聞くものが聞けば危うすぎるもので、エレッテは胸が押し潰されるような緊張感に苛まれた。
特にファントムの、ロスト・ロードの話を、かつて彼に仕えたビデンスの前で口にするなど。
ビデンスは非凡な王子との過去を思い出したのか辛そうに俯き、沈黙は数秒だけ部屋を包む。
「…国政に顔を出さなくなって四年と聞く。これで姿を見せないなら、本当に国王の座を退くことになるだろうな」
その後にビデンスが語るのは、ロスト・ロードではなくデルグの汚点だった。
民の多くが望む、デルグ王の退位。
コウェルズ王子を王座にと、多くの人々が王城正門に集まったのだ。
「ま、今までも政務は王子が出てたんでしょ?王子が王になったところであんま変わらないよねー。事実上は王様業務してたんだし」
コウェルズが王子のままだろうが王座につこうが結局今と変わらない。民も時間が立つにつれてそれに気付いたように、昼を過ぎた辺りから少しずつ王城から離れていった。
「ってか王子もやるよね。ファントムがお城襲ってから半月くらい経ってんのに、今までリーン姫のこと隠してたなんて」
「…城でも状況確認などがあったんだろう」
わざわざ危うい話を口にするパージャと、かつて城にいたからこそ冷静に分析するビデンスと。
パージャがどこまで考えて話しているかはわからないが、怪しまれない事がエレッテには驚きだった。
そこに、開け放ったままの窓から一羽の伝達鳥が舞い込み、エレッテの隣をすり抜けて寝転がるパージャの胸元に着地する。
深紅の伝達鳥の姿に、エレッテは呼吸を止めた。
ファントムの髪と瞳のような色の伝達鳥。
「何だ?」
「人の手紙気にしないでよー、ハレンチなんだから」
ビデンスは突然訪れた伝達鳥に眉をひそめるが、パージャの口調に思わず苦笑いを浮かべていた。
「取り上げるぞ。バカもん」
「ウッソだめだめ!じーちゃん怖いから部屋に行くわ。お返事書かなきゃいけないし」
わざとらしく慌てて飛び上がるパージャは肩に伝達鳥を留まらせ、風のように部屋の扉を開けてするりと去ってしまった。
「まったく…何を堂々とコソコソしとるんだか」
「変なことに首を突っ込んでなければいいけど…」
この家に身を寄せてからというもの、パージャが一日じっと静かにしていた試しがない。
パージャをサクラと呼び可愛がる二人には、その行動に心配してしまう所が多いようだが、
「突っ込んでたら首根っこひっつかんで引きずり戻してやるわ」
心配を隠すようなビデンスのしかめっ面にエレッテは少し笑ってしまった。
ハイドランジア家に来てからずいぶん馴染んだものだと自分でも思う。最初の頃ならきっと笑うことなどできずにいただろうから。
「あら、そうそう、エレッテ」
「はい?」
ふと何かを思い出したらしいキリュネナに呼ばれて綻んだ表情を向けたエレッテは、
「隣の屋敷で働いてる若い男の子がね、あなたを気にしてるみたいなんだけど」
危険信号を察知して、一気に全身を硬直させた。
エレッテの即効の変化にビデンスは憮然とし、キリュネナは取り繕うように「でもね」と慌てて言葉を付け足して。
「変な意味は無いと思うのよ?お友達になりたいだけかも知れないし」
年頃だろう若者が同じく年頃の娘を気にするなど、キリュネナが言うところの変な意味以外など有り得ないだろう。
硬直した体を痛め付けるように心臓が激しく脈打つ。
指先が震える気がしたが、視線はキリュネナに向けられたまま固定されたので確認など出来なかった。
「…断っておきましょうか?」
キリュネナがくれる退路に口を開くが喉が潰れたように声にはならなくて、やっとの思いで一度頷いて。
「そう…」
キリュネナはエレッテの変化に心配そうな表情を浮かべてくれるが、ビデンスはそうではなかった。
「断る必要なんか無いぞ」
どこか不機嫌そうな低い声で、威嚇するように。
「あなたったら、そんな」
「若造に機会を用意する必要も無い」
だがエレッテと若者を会わせたがる様子ではないらしく、エレッテとキリュネナは互いに目を見合わせてからビデンスに視線を向けた。
「どうせ向こうのご婦人との世間話で出たんだろ。明日の世間話ついでにその若造に伝えてもらえ。雇い主に頼らず自分で会いに来いってな」
それはビデンスらしい考えだった。
誰かに頼らず自分で何とかしろ、と。
ビデンスの言いたいところに気付いたキリュネナが、ようやく安堵したように笑う。
「あなたったら。そんな勇気の無い子も」
「そんな勇気も無いような奴にエレッテを任せられるか」
「もう、お友達になりたいだけかも知れないでしょ」
「同じことだ。他人の力を使うような奴はワシは好かんぞ」
まるで娘を過保護なまでに心配して交際に口を出す父親のように、ビデンスは顔をしかめたままフンと鼻を鳴らす。
エレッテは妙な胸の苦しみを覚えながらも、ビデンスの様子を窺い続けて無言でいたが。
「お前もだぞ、エレッテ」
「え…」
ビデンスは恐らく自分ではそうと気付かずにエレッテを射竦め。
「もしその若造が来ても、コソコソ逃げるような事だけはするな。ここにいる間お前はハイドランジアの人間なんだ。ハイドランジアに卑屈な奴はいらんからな」
かつて騎士として大戦を駆け抜けた男の眼差しは老いてなお凄まじく、捕食されてばかりだったエレッテには強烈すぎた。
「あなた!」
すぐにキリュネナがビデンスを咎めるが、
「わ…わかりまし--」
エレッテがはっきりと意識を保てたのはそこまでだった。
胸を締め付けられるような痛みが最高潮に達し、頭から血の気が引いていく。
ぐらりと身体が傾ぐのは、視界に映る世界が残像を残すように目まぐるしく移動する異常な状況から本能的に察して。
「エレッテ!」
「おい、医者だ!」
遠くから声が聞こえる。
耳に微かにこだまするような声が。
「エレッテ!どうしたのエレッテ!」
「揺さぶるな!」
慌てたような、怯えたような、焦るような声を遠くに感じながら、エレッテの意識は完全に闇にのまれていった。
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倒れたエレッテは意識の無いまま医師の診察を受けたが、これといった原因など見つかるはずもなく、取りあえずは過度の緊張によるものとされた。
それは外れではない。
エレッテが倒れた理由は、その前後を老夫婦から聞かされたパージャにはすぐに理解出来た。
男の紹介話などエレッテには恐怖でしかないのだから。
部屋のベッドに寝かせて、今はキリュネナがエレッテの様子を見てくれていて。
「…すまんかったな。ワシが強く言い過ぎた」
「いやいや。エレッテが弱いだけだから」
エレッテの部屋の扉を閉めながら、ビデンスは消沈するように詫びるので、パージャは肩をすかして謝罪を流す。
共に二階の階段を降りる間は無言が続き、
「…あの子はどうしてあんななんだ」
後ろにいたビデンスが次に口を開いたのは、パージャがあと一段で階段を降りきるという所だった。
振り返れば、手すりに身を寄せながらビデンスが俯いている。
責任感が強い男であることは知っていたが、エレッテが倒れた事が相当こたえているらしい。
「お前と再会する前からか?」
少し弱みを見せるような視線が送られて、エレッテの性格の理由を問われて。
「そ。まあ、どんな目に合ってきたか少しは聞いてるけど」
パージャは子供の頃に、記憶喪失という設定を勝手に作って半年ほどビデンス達の世話になった。
その後は訳あってふらりとハイドランジアの屋敷を出たのだ。
十年以上経っての再会はエレッテを妹という設定の元で。
ビデンスが偽りの兄妹設定を違和感無く受け入れてくれたのは、闇色の髪と瞳がパージャとエレッテを同族だと結び付けてくれたからだろう。
パージャは記憶を取り戻し、妹のエレッテと再会した。キリュネナはいかにも感動秘話であるかのように仲の良い家に吹聴していることだろう。
ビデンスもキリュネナのように気楽にいてくれたらいいのに、
「…何があった」
責任感の成せる技か、老婆心からか、エレッテの怯える理由を静かに真剣に問うてくる。
話すべきなのかはぐらかすべきなのか。
頭の中でわずかに考えたパージャが導き出した結論は、前者だった。
「…エレッテはどこぞの傭兵部隊の性奴隷だったんだ」
「な!?」
だが酷すぎる過去だ。
視線を合わせずさらりと口にしたつもりだったが、ビデンスの驚愕の表情は視界の端からでもはっきりと確認できた。
「何歳からかは知らないけど、けっこう長くえげつない目に合ってたらしい。エレッテ今17歳だから…14歳までずっとか」
「…どうしてそんな大事なことを黙ってるんだ」
「昔の話だし?」
昔の話だ。ほじくり返されたくない。エレッテならそう思うだろう。
簡単なエレッテの過去の話を聞いて、ビデンスの顔色から血の気はわずかに引いていた。
ビデンスはぬるま湯の貴族世界に住む男ではない。かつての大戦を勝ち抜いた存在なのだ。
エレッテが受けた苦しみは、パージャの簡単な説明で充分理解しただろう。
「…男を怖がる子だとは思ってたよ。屋敷に来た騎士にも会う前から怖がったらしい」
この屋敷に。
それがニコルであった事はパージャもエレッテから聞かされている。
「…結局エレッテはその騎士様とは会わなかったんだよね?」
「そう聞いてるがな。キリュネナは騎士とお前の歳が近いからエレッテも仲良くなれるんじゃないかと期待してたそうだが」
「あー無理でしょ。兄貴ポジションだからエレッテは俺には大丈夫な訳であって、俺年代って標準装備で下心ガンガンじゃん。エレッテ大人しいから、ちょい押せば断られずに行けそうとか思われがちなんだよね。どうせエレッテに気がある隣ん家の男って地味そうなやつだろ?そういうのに限って歯向かわなさそうな子を狙うんだよ」
適当に口にした会ったこともない隣家の使用人の若者だが、どうやら当たっていたらしくビデンスが静かに唸った。
「…あれじゃ結婚も出来んぞ」
年を取ると未婚の娘の結婚云々は不安要素の上位に入るのか、エレッテの将来を懸念される。
都心部ではまだエレッテの年齢でも大丈夫だろうが、都市から離れた村になれば焦らなければならない年齢だろう。
王城にいる19歳のアリアでさえ育った村では行き遅れ扱いだったのだ。
だがビデンスや、キリュネナもお節介を焼こうとするエレッテには相手が既にいる。
歪な形ではあるが、彼はエレッテを手離さない。
「あ、一応エレッテ恋人いるから」
さらりと告げれば、驚いたビデンスが唖然と口を開いた。
当然の反応だろう。
男に怯えるエレッテに恋人がいるなど誰が思うのか。
「マジで一応が付くんだけどね。そいつも問題児で困った困った」
「…何だ?」
軽く流すには物騒な単語を添えれば、ビデンスは眉をひそめて声を低くする。
かつての騎士の射竦めるような視線。もしかしたらエレッテもこの視線を受けたのだろうか。なら怯えが最高潮に達する理由になるだろう。
だが今はその事は隅に置きやり、パージャは仲間の青を思い出す。
「エレッテのこと好いてるのはわかるんだけど、ガキ大将みたいに無理やり言うこと聞かせようって所があるんだよねーそいつ。エレッテも反発しないから言いなり」
やれやれと肩をすかしながら、心臓に悪い視線を受け流す。
「あ、でも体的な意味ではあんまり手を出してない辺り好感が持てるかね。そいつもエレッテの過去を知ってて、その辺りは無理強いしないから。でも我が儘でさ。自分以外の男がエレッテ構うの嫌がるんだ。俺も含めて。まぁメンドクサイ。エレッテもそいつ怖がってて無理矢理付き合わされてる感じ。好きなのかどうかもわかってないみたいだし」
静かに耳を傾けているのか、それとも言葉が出てこないのか。
パージャの説明を最後まで聞いてくれたビデンスの口から漏れたのは溜め息だった。
頭を抱えるように指先をこめかみに当て、突き刺す視線は呆れに変わり。
「よくそんなもんと大事な妹を一緒にさせておくな」
そんなもん扱いされて、この場にウインドがいたら激昂する事だろう。
「仕方無いって。そいつもエレッテと一緒に傭兵部隊に飼われてたんだし。俺よりもエレッテとの付き合い長いよ」
エレッテとウインドの仲を正面切って口出しできるほどに、パージャは二人の関係を知らない。
端から見れば歪すぎる恋人関係。しかし噛み合わないはずの歯車を無理矢理噛み合わせる強い力が働いているのだ。
嘘偽りならすぐに見抜ける。
だが本心は何より難しい。
「お前は一体…どこで何をしているんだ」
羨ましいと到底思えない二人の過去を脳内で探るより先に、ビデンスにパージャを探られる。
パージャという名前を譲られ、サクラという名前を与えられた男の存在を。
「んー…今は言えないかな」
今は教えられない。
目的を終わらせるまでは。
でも。
「でもさ、全部終わったら聞いてよ。それで、怒って。俺のこと」
いつか全てにけりがついたら。
その時がいつなのかわからないが。
自分が冷めた目をしているのか諦めるような目をしているのかわからなかったが、ビデンスは視線をそらさずにいてくれた。
たかがそれだけのことが嬉しくて、しかし眩しくて。
逃げるように先に目をそらしたのはパージャの方だった。
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エレッテが目を冷ましたのは、ベッドに寝かせて一時間ほど経った後だった。
再び簡単な診察を受けさせて、何も問題がない事がわかって。頭を強く打っていようが呪いの影響で身体はすぐ元の状態に戻されるので心配はしていなかったが、パージャは深紅の伝達鳥に持たせる手紙の中に今日の件を簡単に書き足しておいた。
伝達鳥は手紙を受け取るとすぐに飛び上がり、闇の中へと紛れ込んでいく。
多くの者達が寝静まる時間帯になり、姿の見えなくなった伝達鳥を探す事はせずに窓の扉を閉めて、自室を抜け出す。
向かうのは、隣部屋のエレッテの元だ。
起きているかどうかはわからなかったが、ノックもせずに扉を開ければ窓近くに設置されたベッドでエレッテは上半身を起こして外を眺めていた。
「…パージャ?」
軋む扉の音に、エレッテが少し怯えながら顔を向けてくる。
返答はせずにベッドまで近付いてエレッテの足元に腰を下ろせば、侵入者の正体がパージャだとわかりエレッテの身体から緊張が解けた。
ほっと肩を撫で下ろすエレッテの無事を確認しながら、
「ファントムの狙いがわかってきた」
パージャが告げるのは伝達鳥の内容だ。
だが脈絡のない突然の話にエレッテは首をかしげる。
「…伝達鳥は姐さんからだ。ファントムはどうやら王子を取り込みたいらしい」
ガイアから送られてきた深紅の伝達鳥。
そこに書かれていたファントムの狙いは、エル・フェアリアのコウェルズ王子を狙う可能性の高さだった。
「コウェルズ王子。…もう王様って言った方がいいかな?」
膨大な魔力を持つ優秀な王子はロスト・ロードの再来とまで謳われている。
それほどの王子を取り込んで何をさせるつもりなのかはわからないが、ファントムの最終目的には近くなるだろう。
「…国王はまだ」
「もういないってさ。王子様が直々に殺したらしい」
それもガイアから伝えられた情報だ。
エル・フェアリアには現在、国王がいない。それを隠すのは、ただ手順を踏んでいるというだけだろう。
「城はそのうち何か理由付けしてデルグ王の死を告げるはずだ。そしたらコウェルズ王子は晴れて王様。王様になったらラムタルに足を運ぶだろうし、ファントムはそこで接触するのかね?リーン姫をネタにして」
もしコウェルズがこちら側についたなら、全ての順序は邪魔もなくスムーズに運ぶ。最終目的地はエル・フェアリアの王城内にあるのだから。
だがコウェルズを取り込むとして、
「…私達は?」
パージャ達は何をすればいいのか。
そこまではわからなかった。
「さあ?何かさせるつもりはあるらしいけど、ファントム本人からは音沙汰無し。いつまでこっちにいさせるつもりだか」
エル・フェアリアでパージャ達に何かをさせようとしている事は確かだが、それが何であるのかはわからないままだ。
重要な事でも突然知らされる身になってほしいものだが。
そしてその役割を課せられるのは恐らくパージャだけなのだろう。
エレッテはウインドと離される為だけにパージャと共にエル・フェアリアに戻されたはすだから。
じきに開催される剣武大会。武術でラムタル代表として出場するウインドの力を上げさせる為に。
怒りと苛立ちがあればあるほど力の増すウインドを暴れさせる為だけに。
それだけの為にエレッテはエル・フェアリアに訪れて、そして。
「…今日はびびった」
倒れたと聞かされた時は、心臓が止まった気がした。
仲間として大切なエレッテの保護者ぶるつもりはないが、仲間として守りたい娘なのだ。
倒れたと聞いて驚き、倒れた理由を聞いて力が抜けそうになった。
身体を被う呪いの影響かと思ったからだ。
「…ごめんなさい」
口癖のような謝罪を呟くエレッテの声を、今回は止めずに受け入れる。
エレッテが悪いわけではないのだろうが。
謝罪を止めずに、腕を伸ばして。
「正直、倒れるほどだとは思わなかった」
伸ばした手のひらが、エレッテの頭上に乗る。
子供にするように、何度か頭を撫でてやる。ミュズにも行う、パージャの慰め方だ。
ありきたりで優しい慰めを、エレッテも瞳を閉じて受け入れて。
「…気付いたら…気が遠退いて」
怖かったのだろう。
まなじりに滲む涙に、パージャはエレッテから目をそらした。
「…何でこんななのかね?」
気を失うほど怯えるほどの過去がエレッテにはある。
エレッテだけではない。
「エレッテも、ウインドも、俺も、リーン姫も…ガイアも」
ファントムの魂の欠片という闇色の虹を受けて産まれた者達は皆。そしてミュズのように、巻き込まれた者も等しく。
過去に囚われ続けて。
「正直ルクレスティードが羨ましいな。ある意味俺達の中で唯一幸せに生きてる」
闇色の虹を身に宿しながらもまだ平穏な幼少期を過ごせているのは、紫を宿したルクレスティードだけだろう。
ファントムとガイアの間に産まれた、ファントムがガイアを繋ぎ止める為だけに産ませた子供。
千里眼を持ち、母に恵まれたのだから。
「何で魂の欠片は俺達を選んだのかね…」
選ばれさえしなければ、パージャやエレッテにだって平穏無事な人生が待っていたはずなのに。
「…何で魔術兵団はファントムを上手く暗殺してくれなかったかね…」
時の魔術兵団がロスト・ロードをきちんと殺してくれてさえいれば、こんな馬鹿馬鹿しい茶番に付き合わされる事も無かったのに。
何もかもが煩わしい。
だがパージャは、エレッテは。
茶番に付き合わなければ、平穏を手に入れることが出来ないのだ。
第48話 終