第47話


第47話

 見渡せば、訓練に明け暮れる騎士達の眼差しに今までとは違う焦りが窺える。
 騎士団長クルーガーが副団長のオーマと共に訪れたのは、王城敷地内に設けられた騎士達の訓練場のひとつだった。
 四ヶ所あるうちのひとつであるこの場所は剣術武術と魔具の総合訓練場として使われており、任務に当たらない騎士達が己の腕を磨く為に精を出しており。
 彼らの眼差しに宿る焦りは、クルーガーとオーマの姿を捉えたことによりさらに力を宿らせた。
 コウェルズが思案しクルーガーが発表した、使えぬ騎士達を間引くという強行策。
「随分と心を入れ替える者が増えましたね」
「でなければ困る」
 騎士達の訓練を眺めて、クルーガーは隣に立つオーマに長く重苦しい溜め息を聞かせた。
 現在訓練を行う騎士達の大半が先程まで任務に従事していた者達だ。
 ファントムの襲撃以来騎士達の任務は増えることになり、間引きの件が発表されるまでは訓練を行う者達は減っていたのに。
 騎士達の訓練は数ヶ月に一度行われる合同訓練以外は各自に任されている。
 クルーガーが若かった頃は、合同訓練すら無かった。
 大戦が終わり、ぬるま湯のように優しくなった世界に産まれた者達には、現状は辛いものだろう。
 ひたむきに強さを求めるでもなく、間引かれないように訓練を行うなど、かつてのクルーガーの仲間達が目にしたらどう感じるだろう。
 騎士達の訓練風景に昔の仲間達を重ねながらも一人一人を観察するクルーガーの視線は、隣から静かな笑い声がふと聞こえてきたせいで逸らされることになった。
 隣に目を移せば、オーマが失笑を浮かべながら騎士達を眺めていて。
「変わらない者は変わりませんがね…王族付き候補からの情報ですが、愚か者が一人、もし自分が間引かれるなら父親に掛け合って団長を退団させると宣う輩もいる様子です。あなたのファントムとの繋がりを糾弾してね」
 やれやれと呆れ果てるオーマに、しかしクルーガーは否定はしなかった。
「すればいい。ファントムと通じていたことは事実だ。仕方無いだろう」
 事実を否定するつもりはない。まだファントムの正体が王族であるロスト・ロードだと知られてはいないが、その事実を抜きにしようがしまいが退団が決まるなら、クルーガーは足掻くことなく受け入れるだろう。
 ファントムの正体が王族であれ、リーン姫を救い出す為であれ、国を裏切ったことには変わりなく、守るべき部下達を殺したのだから。
 静かに受け入れようとするクルーガーにオーマは口を閉ざす。
 クルーガーが騎士団の中で最も信頼するオーマはしかし、
「そうなったら、団はお前に任せるぞ」
「嫌ですよ」
 クルーガーがいなくなる騎士団を拒絶した。
 まるでクルーガーが何を言うつもりなのか理解していたかのように素早く返された言葉に、眉をひそめる。
「…お前は騎士団長の座を狙っていたと思うのだがな」
 オーマは大戦後に入団した騎士だが、実力と正攻法の策を上手く使いこなし、早々に高い地位まで駆け上がった。
 上昇思考だけで言うなら誰もオーマには敵わないはずで、オーマが団長の座を狙うのは当然だというのに。
「騎士団にはまだまだ貴方が必要です。貴方が拘束された時に痛感しましたよ。私の力だけではまだ騎士団をまとめられないと」
 弱音ではなく本音を口にするオーマは、自分の実力はまだ団長という立場には届いていないと語る。
「…それは私がファントムと通じていたが故の動揺も手伝ったことが理由だ。お前の力不足ではない」
「それでも上手くまとめられてこそ団長というものです。私には出来なかった…悔しいですが、まだまだあなたから学ぶ余地があるという事ですよ」
 わずかな期間とはいえクルーガーがいない騎士団をまとめる立場にあったオーマ。
 端から聞くかぎりではオーマの手腕は見事なものだった様子だが、完璧主義の本人は気に入らない箇所が多すぎたらしい。
 その融通の利かない生真面目な性格は昔から変わらず、生真面目すぎるとからかわれるニコルよりはるかに難しい性格で。
「あまり考えすぎるな。団長になってからでないと見えないものもあるんだ」
 いつか自分がいなくなったら。
 それを考えた故の発言に隣でオーマがわずかに俯く様子を、クルーガーは気付かないふりをして流した。

-----

 王族の若者達が集まる夕食の席は普段なら穏やかな空気が流れているだろうに、今日に限っては少しぴりついた雰囲気が漂っていた。
 理由は誰かが苛ついているからというわけではなく、コウェルズとミモザが夕食の席ではあるが明日の政務の流れについて深く話し合っていたからだ。
 話し合いを夕食の席でも行うということは、それだけ何か急ぎの件があるのだろう。
 真面目な会話が繰り広げられれば、それだけ子供達の口数も減る。
 まだ未成年のフェント、特にコレーとオデットは、自分達には難しすぎる話に困惑しながらも食事を進めており、エルザとクレアは妹達を気にしながらもあえて話しかけることはしなかった。
 ヴァルツは自分の方に目を向けてくれないミモザに不貞腐れながら、
「なんだ、サリア。随分とつまらなさそうな顔ではないか」
 コウェルズの隣で表情に乏しい様子を見せるサリアに、ミモザを独占するコウェルズへの当て付けのようにわざとらしく強調して話しかけた。
 静かだった食事の席に響き渡る声の後の更なる静けさは、コウェルズとミモザも口を閉じてサリアに目を向けた為だ。
「え…いえ、そんな…」
 突然話しかけられたサリア自身は単に静かにしていただけなのだろうが、皆の視線を一身に受けて困惑の表情を浮かべた。
 ヴァルツも無理矢理話題をふった手前そのまま終わらせることも出来ずに、せっかくミモザとコウェルズの会話が終わったがサリアに目を向け続けて。
「コウェルズと話したいならば遠慮などせずにバンバン行けばいいだろう」
 本当はヴァルツがミモザに話しかけたいのだが、そんな本音に誰も気付くこともなく。サリアはコウェルズに目を向けたりヴァルツに戻したりと慌てながら眉をひそめ、最後には困ったように俯いてしまった。
「…迷惑になりますわ」
 小さな声は、どうやらサリアも少しは寂しかったという事実を教えてくれる。
「どうせ褥を共にしているのだろう。夜にでも甘えればよい」
「な!そ!何を言っているのですか!!婚約者とはいえ、婚前の二人がそんなっ!はしたない!!」
「…話すだけなら何もなかろうに…」
 ヴァルツの含みのある言葉を深く考えすぎたサリアが、早合点だったと気付いて顔を真っ赤に火照らせる。
「私も毎晩ミモザの元に通っているぞ!」
「ぇえ!?」
 流石に可哀想かとヴァルツは自分の行動を教えてやるが、さらにサリアを赤くさせるどころか隣のミモザから凄まじい眼差しを受けてそのまま固まってしまった。
「…サリア、気にしないで頂戴。少しお話をしているだけだから」
 固まるヴァルツを放置してミモザはサリアに微笑むが、困惑するサリアの隣ではコウェルズがイタズラを思い付いた笑みを浮かべている。
「私から触れていいなら今晩にでも遊ばせてもらおうかな」
「結構ですわ!!」
 案の定コウェルズはいらない言葉を口にし、光の速さで拒絶される。
「…そんなに強く」
 コウェルズには苦笑いを浮かべるしかない状況だが、思いの外に切ない声色だった為かサリアの火照っていた頬が一気に冷めて、浅黒い肌の中に慌てた白を混ぜた。
「あ、ち、違いますわ…あなた様は毎日激務で疲れていらっしゃるから!」
 拒絶したわけではないのだと腕に手を添えて、その添えられた指先にコウェルズはさらりと触れて。コウェルズの肌の白さの中で、サリアの浅黒い指はさらに細く見えるようだった。
「疲れてるからこそ、癒しのひとときがあれば嬉しいんだけどね」
「…っ」
 傍目も気にしないコウェルズの態度に再度サリアが赤くなり俯いた所で、次に口を開いたのはクレアだった。
「私の部屋にも最近よく押し入りがくるよー。ね、三人とも」
 やや遠い目をしながらクレアが笑いかけた相手は妹姫達だ。
「だってクレアお姉様、もうじきいなくなっちゃうんでしょ?」
「それまで一緒にいてくれても…バチは当たりませんの…」
 コレーとオデットが悲しげに眉をひそめて、フェントが静かに頷く。
 クレアはもうじきエル・フェアリアからいなくなる。
 それはクレアが決断した事であると同時に、変えられない人生の道だ。
「スアタニラ国とはどうなっていますの?」
 エルザの問いかけに、クレアの表情は曇った。
「行ってみないとわからない状態。ヤマト様がどういう状況かも教えてくれないし…ヤマト様は未だに“来るな”の一点張りだし」
 本来なら二年前にクレアはスアタニラ国に嫁ぐはずだった。
 次期スアタニラ国王ヤマトの妻となる為に。
 だがスアタニラは王族間の内乱状態となり、情勢悪化がクレアと婚約者を引き離した。
 ヤマトはその身に呪いを受けて、今に至るまで伝達鳥が届ける手紙以外にヤマトの無事を信じる繋がりが存在しない。
 どのような呪いを受けたのか、どのような姿に変わってしまったのかわからないまま。
「でも、私が行くことでヤマト様の呪いが解けるなら、行くしかないでしょ…私がいない分、優秀な騎士達も動けるんだから」
 クレアが無理にでもスアタニラに向かう決意をした理由は二つだ。
 ヤマトの為に。そしてリーンの為に。
 ヤマトの呪いを解く鍵はどうやらクレアにあり、そしてクレアがエル・フェアリアからいなくなることでクレアの王族付き達が自由に動けるようになる。
 クレアの発言に、壁際に待機していた騎士達の数名が俯いた。
 姫の大半はいずれ嫁ぐ身だ。
 だが頭ではわかっていても、別れはつらい。
「…その前に呪いについての知識を蓄えておかないとね」
「わかってるわ。嫁ぐ日までばんばん調べてやるわよ。絶対に呪いを解いて、あわよくば向こうの部隊を借りて戻ってくるから」
 騎士達と同じように俯いた幼い妹達に目を向けながらもクレアの立場を優先させるコウェルズに、クレアの声も強くなる。
「ありがとう…必ずリーンを取り戻そう」
 生きてくれていた大切なリーンの為に。
 全員の頷きは同時のことだった。

-----

 殺意を宿したまま王城に戻り、頭を冷やす為に風呂場で水を被り。
 風を通す為に窓を開けていた自室で、少し落ち着いたニコルの頭上に訪れて戸惑うように旋回したのは、見知らぬ小型の伝達鳥だった。
 薄緑色の伝達鳥はニコルの苛立ちに敏感に気付いた様子を見せるが、ニコルが止まり木となるように指先を差し出せば大人しく下りてくれた。
 足にくくりつけられた筒から手紙を取り出せば、差出人は城下で巻き込んでしまったテューラで。
 城下町で再会した遊郭の娘は、その後に姿を現したガブリエルに目をつけられた為にニコルが強引に生体魔具で逃がした。
 共にいたマリオンも無事で、誰に後をつけられることもなく妓楼に戻れたと感謝の文字がつづられているが、巻き込んでしまったのはニコルだ。
 ただニコルと共にいたというだけで。
 昼間にハイドランジア家のビデンスから聞かされたロスト・ロード王子と王妃の確執をなぞるかのように、ガブリエルはニコルに執着を見せる。
 それも、歪んだ形でだ。
 ガブリエルが連れていた、アリアの元婚約者。
 初めて目にしたひ弱そうな男を思い出して改めて怒りが沸き上がり、ニコルの肩に移動していた伝達鳥が怯えて飛び上がった。
「…悪い、戻ってこい」
 ガウェのベッドに逃げた伝達鳥はニコルを怖がって動かないから、仕方なくしばらくそのままにしてやる。
 そして思い出すのは、ケイフという名の、下位貴族の女を選んだ屑。
 二度とアリアに会わせるものか。
 アリアに会おうものなら、ニコルはケイフを殺す。
 草の根を分けてでも探し出して、無限に近い責め苦を与えて。
「……」
 そんなことをしても、アリアが悲しむだけなのだろうが。
 礼装を奪いアリアを悲しませただけでなく、それ以外でも悲しませ泣かせるつもりなのか。
 だがそうしなければ、先にニコルが壊れてしまう。
 だから、頼むからアリアの前に姿を見せるな。
 頭を押さえて溜め息をついて。
 ゆっくりと落ち着きを取り戻すニコルに気付いたのか伝達鳥が中央のテーブルにまで近付いてくれて、ニコルはテューラへの簡単な返信を書く為にベッド近くの棚に手を伸ばした。
 七姫達を見慣れたニコルからすれば、取り立てて誉めるほど美しい容姿というわけでない娘。
 だが生きた道筋がそう見せるのか、肌を重ねた情からか、一瞬ではあったが飾らずに笑う姿に目を奪われた。
 女に慣れたニコルですら惹かれる面を確かに持つのだから、王城御用達の高級妓楼というのも頷ける。
 手紙に筆を走らせて、ニコルも無事である事と、巻き込んでしまった謝罪をしたためて。
 手紙を書き終えると同時に伝達鳥はニコルの元に訪れて、大人しく手紙が筒に入れられるのを眺めていた。
 完了すればたちまち飛び上がり、逃げるように窓から飛び立ち。
 そこまで怯えさせてしまったのかと心の中で謝罪をして、夜空に溶け込む薄緑の姿を見送った。
 時刻はすでに星が美しく瞬く時間だ。
 三日前の約束を覚えていたニコルは、完全に伝達鳥の姿が見えなくなったことを確認してから自室を後にする。
 兵舎内周棟を抜けて、夜風に濡れた髪を冷やしながら見上げるのは王城上階のエルザの部屋がある露台だ。
 三日前の夜に、都合の良い護衛番を照らし合わせてまた来ると約束をしたのだ。
 それがどういう意味なのか、女になったエルザなら理解できる形で。
 辺りに人の気配がしないことを確認してから魔具の鷹を生み出す。
 生きているような姿を見せるが、生体魔具は結局は魔力の塊でしかない。
 それでも今日はテューラとマリオンを逃がすのに役立ったから労うようにポンポンと首の辺りに触れるが、わかりきった事だが反応などありはしなかった。
 背中に乗り、風の音を響かせながら浮かび上がる。
 ニコルがこの鷹を完成させたのは、何年前だったろうか。
 生体魔具に関してはガウェとかなり勉強した記憶がある。
 鳥の身体の作りを学び、風の抵抗と魔力の限界を学び。
 そうして手に入れた鷹は、手慣れた長剣の魔具に次いでニコルが気に入るものとなった。
 露台に到着して鷹を消し、まだエルザが戻っていないことを窓から確認する。
 広い露台から見える王城敷地内は闇に包まれて少し恐ろしい。
 反対側なら城下町を見渡すことが出来ただろうが、エルザの部屋の露台から見える敷地の向こうは残念ながら森が広がるばかりだ。
 ニコルが初めてエルザと出会った泉のある森。
 エルザがニコルに恋をして、ニコルがエルザの中に妹を宿らせた場所。
 まがいものだった恋。
 歪なまま、その恋は無理矢理繋がった。
 ニコルは森を目に映さないようにわざと満天の星空を見上げ、自分に課せられた役目と時間を忘れて呆けて。
 扉の開けられる小さな音が響いた時には、ニコルは完全に自分がエルザに会いに来ていたことを忘れていた。
 室内に目を向ければ、部屋に戻ったエルザが扉を閉める姿が見えた。
 数本の蝋燭と、エルザの魔力に優しく反応する明かりと。
 温かな光に満たされた室内の主役であるエルザは露台にニコルを見つけると、この上無い喜びを感じたように満面の笑みを浮かべて駆けてきた。
 露台に通じる扉を開けて、パタパタと軽い足音を響かせて。
「ニコル!」
 駆け寄るエルザは、そのままニコルの腕の中に飛び込んだ。
 淡い緋色の髪は普段に増して艶やかで、ニコルと同じように入浴を済ませた様子が窺える。
 ニコルが浴びたのは怒りを沈める為の冷水だったが。
「本当に来てくださいましたのね…夢みたい」
「約束したからな」
 頬を染めながら見上げてくるエルザの乾ききっていない髪にそっと触れて、花の露のような香りを嗅ぐ。
 王城内の風呂場は精製された花の香りの湯が溢れている。アリアの身体にも染みていた香りを堪能すれば、エルザはくすぐったそうにクスクスと笑った。
「いつからこちらに?」
 エルザもニコルの濡れた髪を指で梳いて、イタズラのつもりなのか髪留めの紐をほどかれた。
「来たばかりだ」
 水分を含んだ髪が風にさらされながらも重く肩にかかる。エルザはそれすらも愛しそうに指先で触れながら、そっとニコルの頬に温かい手のひらを添えて。
 そして。
「…嘘つき」
 冷えた頬が、ニコルが長く露台にいた真実をエルザに伝えてしまう。
 苦笑いを浮かべれば、エルザはニコルの身体を暖めようとするかのように再度身をすり寄せてきた。
「中に入りましょう。少し寒いです」
 そして身体を離して、ニコルの腕に両手を絡めて。
 嬉しそうに、恥ずかしそうに。
 引かれるままに室内に入り、扉はニコルが閉めた。
 その後は当然のようにエルザのベッドに二人で腰を下ろしたが、不自然に子供一人分ほどの間隔は保たれた。
 間を開けたのはニコルだ。
「…ファントムの事は何かわかりまして?」
 エルザは間に気付いていないようにニコルに身体を傾がせながら、昼間の件を訊ねてくる。
 コウェルズのようにロスト・ロードを伯父などと呼ばないのはエルザの優しさだろう。
 コウェルズはニコルが王族であることを認識させるようにわざとらしく伯父上などと呼ぶが、エルザはニコルの心情を慮ってくれるから。
「少しずつだな。昨日と今日で詳しい話も聞けたから、コウェルズ様とも話しながら真相を暴いていくさ。…って言っても44年前の事件を洗った所でファントムは生きてるし、何かが進展するとも思えないが」
「そんな。きっと手掛かりが見つかりますわ…リーンに繋がる手掛かりが」
 ふとエルザの声に力が宿った。
 ファントムに拐われたリーンを案じる気持ちなら、同じように妹を持つニコルになら理解出来る。
 それを同じと思っていいのかどうかはわからないが。
「…ああ。そうだな。見つけるよ。リーン様を取り戻す」
「…はい」
 生きてくれていたリーン姫。
 ファントムを調べることで、リーンを取り戻す手がかりとなるなら。
 その為に礼装も奪ったのだから。
 リーンの無事を信じるエルザの強くて悲しげな眼差しを受けて、先ほど自分がされたようにエルザの濡れた髪を指先で梳いて。
 ほのかな灯りしかない部屋で一瞬だがエルザの髪の色が七色に輝いた気がして、ニコルは思わず強く目を閉じた。
 エルザの髪が七色に見えたのはこれで二度目だ。
 一度目はニコルがファントムの正体に気付いた時。ファントムの王城襲撃後だった。
 見間違いかとも思うが、エルザの魔力が何らかのエルザの意思に反応しているのだろうか。
「…なあ」
 そんなことを考えて、ふと脳裏に浮かび上がったのは一人の不気味な女だった。
 ニコルに呼びかけられて、エルザは小さく首をかしげる。
「エルザは昔…幽棲の間に入った事があるんだよな?」
 問うべきかどうか迷った。だが知りたくて訊ねれば、エルザの身体が一気に緊張して固まってしまった。
 エルザが子供の頃にコウェルズやガウェ達と幽棲の間に入り込んだことは聞いている。
 その時は全員で幽棲の間まで辿り着けたらしいが、ニコルは。
「…昨日、訳あってフェント様やヴァルツ殿下と地下階段に入ったんだ」
 幽棲の間へ向かう道のりに踏み込んだ二度目。
「…聞いております。フェントは女性を見たと言っていましたわ」
 昨夜の件はエルザの耳にも届いているらしく、怖がるフェントをなだめたのだろう、同情するようにエルザの瞳が揺れた。
「…エルザは何か見なかったか?」
「いいえ…何かの恐ろしい気配は感じましたが、何も見えませんでした」
「そうか…」
 コウェルズと同じ返答。ミモザやクレアに訊ねても同じだろう。
 姿は見えないが何かがいる。
 ニコルは一度目に降りた時に女の気配を感じて、フェントも。
「--…」
 フェントは他にも何か、重要なことを言っていなかっただろうか。
 ニコルの何かに引っかかる重要なことを。
 思い出そうと意識を脳裏に向けた所で首元に細い指先が触れて、おぞましい感触に遠慮もなくその手を振り払った。
「きゃっ…」
 ニコルの首に触れたのはエルザで、強く拒絶された手を自身の胸に引き寄せて肩をすぼませる。
「--あ…悪い…」
 心臓の音が鼓膜にダイレクトに響き、ようやく口にできた謝罪の言葉はかすれていた。
「…いえ…幽棲の間にいた何かに首を絞められたと聞きました」
「ああ…細い女の手だった…」
 細い女の手がニコルの首に絡み付き、ありえない力で。
 あの女が何なのか、まるでわからない。
 振り払ってしまったエルザの手を取り、引き寄せて自分の唇に触れさせる。
 あの女の指先とは違う、温かな手。
 だが同じ女という接点のせいか、エルザの指にあの女の指を重ねてしまいそうになる。
「…あそこには誰かがいる…」
 誰か。だが幽棲の間まで辿り着けたエルザ達でも姿は確認できず、話を聞かせてくれたハイドランジア家のビデンスはさらに困惑しそうになる過去を語った。
 ロスト・ロードが生きていた時代、魔術兵団が幽棲の間に入ったというのに、その姿を確認できなかったという。
「ファントムに奪われた七つの宝具は、封印を解く鍵の可能性があると聞きました。その封印は…幽棲の間にあるとも」
「…あの女と関係があるのか?」
 フェントに任されている宝具とファントムとの繋がり。
 古代の文献をしらみ潰しにしていくフェントは、ファントムの狙いの一端に手を駆けた。
 ファントムは再び戻ってくる。
 フェントの解析からコウェルズはそう確信している様子だ。
 ファントムの狙いはあの女なのだろうか。
 謎に満ちた不思議な女。
 ニコルを殺そうとした、だが。
「首を絞められた時…何故かはわからないが、とても懐かしく思ったんだ。あの手を知っているような気が…」
 物思いに更けるように、エルザの手を握りながら女の指先を思い出す。
 白く冷たい指先は、ずっと昔から知っている気がして。
 ふと視界に緋色が揺らぎ、エルザが身体を傾がせてニコルの胸元に身を寄せた。
 寄り添うように、だがどこか不満そうに体を固くして。
「エルザ?」
「今、すこし嫌な気持ちになりましたの」
 見上げてくるが、すぐに俯いて頬を胸にすり寄せてくる。
 ニコルの背中に両手を回して、エルザなりの力でぎゅっとすがって。
「…なんでだ?」
「…わかりません。でも…ニコルが他の方をそんなふうに語るのは…」
 嫌です、と。
 可愛い嫉妬心に、思わず笑みは漏れた。
「得体の知れない女だぞ?」
「わ、笑わないでくださいませ!…ニコルの周りには女性がいつもいらっしゃるから…不安になりますの!!」
 恥ずかしさと不満を同時に見せるエルザに、しかし聞き捨てならない単語に眉をわずかにひそめる。
「…いつも?」
 騎士団は男社会で、一日の大半で目にするのは野郎ばかり。侍女はいるがわざわざ声をかけることは無いし、かけられるのもたまにだ。
 だがエルザにとっては嫉妬せずにはいられない要素は多方面にあるらしく、
「き、今日だって、出掛けた先で女性と仲良くお話をされていたと…城下に降りた侍女が言っていましたもの…」
「--…」
 城下町での件を思い出させる言葉に身体が固まりそうになった。
 エルザに告げたその侍女が誰かは知らないが、ガブリエルでないことは確かだ。
 貴族の娘としてなら話は別だが、ガブリエルの侍女階級ではエルザに目通りは叶わない。
 恐らくエルザと親しい高階級の侍女が城下にいたのだろう。
 そして仲良く、という辺りを聞く限り、恐らくテューラ達と歩いている姿を見られたか。
 顔を上げるエルザは瞳を潤ませて不安そうな様子を見せる。
「…誤解だ。道を尋ねられただけだ」
 道を間違えたのはニコルの方だったが、嘘も方便とばかりにエルザを騙す。
「…本当ですの?」
「ああ」
「……」
 まだイニスの件を引きずっているのか、エルザはニコルから離れようとはしなかった。
「あ、そうだ…」
 城下に降りて、テューラと再会して。
 その前に手に入れていた重要な存在を思い出して、ニコルは少し強引にエルザの身体を離した。
 離されて不満そうにするエルザの前で、懐に手を入れて。
「…前に言ってたろ?小指の紐が千切れて不安になったって」
「…!」
 ニコルが言ったのはエルザの手袋の糸が千切れてしまった事だったが、エルザはどうやらその先まで思い出してしまったらしい。
 初めて交わった夜。
 その日を思い出して一気に頬を赤く染め上げるエルザの両手を、ニコルは懐から取り出した袋を持ったまま引き寄せる。
「どっちの手だ?」
「…え?」
「小指」
 糸が切れたと悲しんだエルザ。
 ラムタル国では、運命で結ばれた二人には目に見えない赤い糸で小指同士が結ばれるという。
「…こちらですが」
 エルザは不思議そうに困惑しながら右手を差し出す。
 その手の小指を優しくつまみ上げて、もう片方のエルザの手は離した。
 何だろうと見守るエルザの視線を気にしないようにしながら、布に納められた石を片手で器用に取り出す。
 昼間に買った、緋色の美しい宝石だ。
 まだ原石のままの、小指の先ほどの大きさの。
 その色を目にした時、ニコルの脳裏に浮かんだのはエルザだけだった。
 ニコルはその石の形を指先で何度か確認してから、一気に魔力を注ぎ込んだ。
 パキンと割れる音が響き、辺りに緋色が細かく弾ける。
 ニコルの指先に残ったのは魔力によって雫の形に削られた石で、エルザの小指の幅を確認しながら新たに魔力を溢れさせた。
 魔具を生み出す要領で、石を巻き込みながら。
 そうして出来上がったのは、
「--これは…」
「糸みたいにすんなりは切れないだろ」
 緋色の石が輝く指輪だった。
 ニコルの魔力を台座にして輝く、エルザの緋。
「…私に?」
「ここまでしてエルザへの贈り物じゃないなんて馬鹿な話、無いだろ…」
 妙に恥ずかしくなってしまい、口調がぶっきらぼうになってしまう。
 照れ隠しの声を自分で自覚しながら、それでもエルザの小指に指輪をはめてやって。
「…俺が死なない限り、壊れないから」
 小指にぴたりとはまる指輪。
 途端にエルザが強く抱きついてきて。
「すごく嬉しいです…ありがとうございます…大切にします…」
 感極まるように鼻声になるエルザが可愛くて、ニコルは微笑みを浮かべながら頭を撫でてやった。
 しばらく抱きつかれたままかと思ったが、何かを思い出したかのようにエルザは突然ニコルの腕の中で身をよじり、指輪を眺めながら何度もなぞり始める。
「贈り物を頂けるなんて…思ってもいませんでした」
 夢の世界に浸るような声。
 なんて可愛い声で喜んでくれるというのか。
「俺も、誰かに贈り物なんて初めてだな」
 エルザの肩に手を回しながらニコルも今までを思い出し、贈り物どころか金を使うこと自体がいつぶりかと過去を思い返す。
「…アリアにも?」
 するとエルザは少し不安そうに見上げてきて、その表情の示すところはニコルにはわからなかった。
「そうだな。給金は毎回送ってたが、アリア個人には…前から村への給金も止めたから」
 わからないまま、今まで手に入れてきた給金の行き先を教えてやる。
 それも最近終わってしまったが。
「どうして?」
「…訳あって伝達鳥で村長と相談する事があったんだが、その時に言われたんだ。もう充分だから送ってこなくていいって…これからは自分達の為に使えってな」
 今まではアリアの為に給金を村長に渡し、村長から馴染みの貴族に、そこから地方全体に割り振ってもらっていた。
 わずかでもアリアの生活がよくなるようにと。
 だがアリアは村で酷い目に合い、治癒魔術の発覚から王城に召喚され。
 ニコルが村に給金を渡す理由は無くなってしまった。
「そうでしたの」
「少しでも続けたいと言ったら「叩き返す」って言われて、送ったら本当に返された」
 最後に送った給金の行き先に、エルザがクスクスと笑う。
 村に未練はない。どうでもいい。だが村長と奥さんは、アリアを守ってくれたから。
 それだけを絆に少しでも続けようかと考えたが、結局それも終わってしまった。
 アリアも同じだ。
 多すぎる給金に途方に暮れるアリアも、そのうち自分の為に使うようになるのだろうか。
 城下で再会したテューラのように。
「今まで本当に、自分の為に使った事が無かったから…最初に使ったのがエルザへの贈り物で、なんか照れるな」
 地方兵時代も、貢がれることはあっても女の為に大切な金を使うなどあり得なかった。
 それが、売られていた石を目にした途端にエルザを思い出して自然と購入したのだから。
 あの時のニコルは、確かにエルザだけを思っていた。
「…喜んでもらえたんなら嬉しい」
 頬が熱くなった事に気付き、わざとらしくエルザから目をそらす。だがエルザの視線はニコルに注がれ続けた。
「…すごく幸せな気持ちですの…」
 潤んだ瞳で見上げてくるエルザに、観念するように視線を合わせて。
 そっと引き寄せて、軽い口付けを交わした。
 すぐに離れる唇。
 照れて赤くなるかと思ったエルザの表情はなぜかクスクスと微笑みを浮かべ始めるから、ニコルは少し不満を覚えた。
 何がおかしい?
 そう問いたい眼差しに気付いたように、エルザが微笑みながら弁解の為に口を開く。
「…先ほど夕食の席で、サリアが“婚前の二人が愛し合うなんてはしたない”と言っていたものですから」
 それは王族達の堅苦しくない会話だったのだろうが、妙な内容に思わず遠い目になりそうになった。なぜ真面目なサリア王女を巻き込んでそんな会話になっているのか。
「…それは誰の話だ?」
「あ、私達のことではありませんわよ…ヴァルツ様が毎晩お姉様の寝室に出入りしてお話されているみたいで、サリアにもせっかくお兄様と同室なのですから甘えるように言っていたのです」
 まさか自分とエルザの仲が暴露されたのかと思ったが、ふたを開けた内容に失笑が漏れた。
 ヴァルツの年頃ならやりたい盛りだが、ミモザが相手なら手を出せないはずだ。
「サリアったら顔を真っ赤にして…とても可愛かったですわ」
 夕食の席を思い出してさらに微笑むエルザの純粋な様子に意地悪心はふわりと芽生えた。
「サリア様の言葉が真実なら…エルザはもっとはしたないって事になるな」
 純粋そうに見せても、恐らく王族の娘達の中でエルザだけは男を知っているのだから。
 半ば強引に手を出したのはニコルだが。
「わ、私ははしたなくなんて…」
 言葉の含みに気付いて、エルザの顔が真っ赤に茹で上がる。
「冗談だ」
「…もう!」
 男を知っていようが純粋なまま。
 意地悪をされてエルザは頬を膨らませるが、それもすぐにしぼみ、妙な沈黙は熱を帯びた眼差しを向けられると同時に訪れた。
 まるで先を望むかのようなエルザの瞳にニコルの腰は浮き。
「…遅くなったな。もう戻る」
 逃れるように立ち去ろうとする腕に、指輪をはめたエルザの手が触れた。
「…また来るから」
「あ…明日の朝の護衛がサイラスだから…今晩来てくださったのではなかったの?」
 三日前。
 ニコルは明日の朝の護衛に立つ騎士がサイラスであることを見越して今晩を選び、エルザと約束を交わした。
 それは、
「…サイラスは寝坊しても、起こさないで眠らせてくれるから…」
 その騎士ならエルザが朝に起きられなかったとしても無理矢理起こさないから。
 そこまで言って顔を真っ赤にするエルザの元に戻り、立ったままエルザの頬に手を添えて上向かせる。
「…コウェルズ様からさりげなく逢い引きに使える部屋の場所を教えられたんだが…」
「え…」
 エルザと今日の約束を交わした後、コウェルズはニコルの心に住む本当の女の存在を知った上でエルザとの逢瀬に使える場所を告げた。
 コウェルズにとってエルザはニコルという血を手に入れる為の手段となったが、エルザにはどう接しているのだろうか。
 ニコルには気付いていると告げたのだ。エルザにも二人の仲がばれていると、コウェルズなら告げそうなものだが。
 互いに無言になりながら数秒。やがて顔を赤くしながら背けたエルザに、やはりコウェルズはエルザにも気付いていると告げたのだと知った。
「…連れて行ってもいいか?」
 やや荒っぽく手を差し出せば、
「…はい…」
 エルザはそっとニコルの手に触れて立ち上がった。

-----
 
1/2ページ
スキ