第46話


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 ファントムに関する情報が、少しずつ集まっていくのがわかった。
 何らかの形で暗殺に魔術兵団が絡み、ロスト・ロード王子、ファントムは命からがら逃げたのだろう。

『--ある男の“絶対に死なない”という強い意思が産んだ呪いさ』

 馬をゆっくりと歩かせながら街を進んでいたニコルは、ふとパージャの言葉を思い出して息を飲んだ。
 ある男とは、ファントムで間違いないはずだ。
 ファントムは、父は自分自身に呪いをかけたというのか。
 そしてその呪いは、どういう経緯があったのかはわからないが、パージャやリーンにもふりかかった。
「……」
 彼の事が、少しずつわかっていく。
 だが、それがわかった所で。
 わかったとして、なんになる。
 知りたいと思う自分は勿論存在する。だが同時に、その過去を暴いたとして現状がどう変わるのかもわからないと逃げようとする自分もいる。
 いつも彼を待ち続ける幼少時代だった。
 年に数度だけ。
 わずかの時間だけ。
 それだけだというのに、強烈に記憶に残るのは。
「…ここは」
 王城に帰る道をどうやら間違えたと気付いたのは、人混みの為に馬で進むのが難しくなったとようやく自覚した時だった。
 気にせず進もうと思えば進めるが、ただでさえ騎乗は目立つのだ。
 騎士兵装を纏う身としてはあまり目立ちたくはなくて。
 馬を降りて、人の多さにわずかに戸惑う馬をなだめながら手綱を引く。
 間違えた道を戻ろうとしたところで、
「--騎士様、騎士様」
 道の端で露店を開いた商人の男に声をかけられた。
 何の気もなく目を向ければ、商人は露店に並ぶ商品を指差しながら満面の笑みでニコルを手招きする。
「恋人くらいいんだろ?贈り物に買ってかないか?」
 騎士兵装のニコルを金ヅルと踏んだか、商売経験の豊富そうな商人は笑みと手招きだけで上手くニコルを押さえ込み。
 露店に広げられているのは数は多くないが加工されていない原石のままの宝石で、
「いや--」
 断ろうとしたニコルだったが、緋色に輝くひとつの石に目を奪われてしまった。
 馬を引いて近付き、触れないように指で差し示し。
「…これは?」
「お!お目が高いね!綺麗な緋色だろ?宝石の国スアタニラでも滅多に手に入らない宝石さ。今なら台座も安くしとくよ?」
 大きさは小指の先ほどだが、沈み始めた太陽に照らされている為なのか石は温かな輝きを見せてくれる。
 その輝きを前に浮かんだ顔はエルザの照れたような微笑みで、今晩エルザの元に訪れるという約束を思い出して。
「いや…これだけ買おう」
「まいどあり!」
 台座は必要無い。
 けちる訳でなく自分の魔力を前にそう告げるニコルに、商人は屈託なく笑いながら慣れた手付きで石を厚い布にくるんでくれた。
 代金を訊ねて、持ってきていた財布から金貨を取り出して。
「お、これが噂の王城勤めにだけ手渡される金貨か」
 支払った金貨をまじまじと見つめる商人に、ニコルは首を傾げてしまった。
「王城勤めだけ?」
「何だ、兄ちゃん騎士のくせに知らないのか?普通の通貨とあんた達王城勤めに渡される通貨は柄がちと違うんだぜ?」言いながら商人は自分の持つ金貨を取り出して、ニコルが支払った金貨と見比べさせてくれる。
 一見しただけでは変わりなど無いように思えるが、よく見分ければ確かに違いがはっきりと存在した。
「…知らなかったな」
「まぁ気にするほどのもんでもないからな!」
 商人に遠慮もなく肩を叩かれながら笑われて、ニコルも苦笑を浮かべて。
 今まで支給された金は全て育った地方に送っていたニコルにとって、そんな違いがあったなど初耳で。
「銀貨や銅貨も違うんだ。また後で確認してみな」
「ああ。そうさせてもらう」
 まさかこんなところで新たな発見をするとはと笑いながら、ニコルは宝石を財布と共に懐に戻しながら商人に別れを告げる。
 そして。
「--こら!!平民騎士!!」
 また少し歩き進んだ先で突如知らない女の声に叫ばれて、ニコルは心臓が止まる感覚を味わった。
 商人の次は何だと思うのと同時に、女の声に思わず肩をすぼませて。
 適当に抱いた女にでも見つかったか。そう眉をひそめるニコルだったが、近付いてくる二人の娘のうちの一人に、ぽかんと呆けてしまった。
「マリオンったら…すみません、ニコル様」
 近付いてきたのは数日前に媚薬香に苛まれたニコルの相手をしてくれた妓楼の遊女であるテューラで、彼女は隣にいる小柄な娘の代わりとばかりに申し訳なさそうにニコルに頭を下げた。
「いや…こんなところでなぜ…」
 二度と会うことは無いだろうと思っていた娘との再会に、気まずさよりも驚きが先に立つ。
「私たちにだってお休みくらいあるんですー。それよりモーティシアさんは?今日は一緒じゃないの?」
 なぜ遊郭ではなく街中にいるのかと問うニコルに、答えをくれるのはテューラではなくマリオンと呼ばれた初対面の娘だった。
 マリオンはパタパタと近付いて馴れ馴れしくニコルの袖を掴むが、ニコルに興味は無いらしく代わりにモーティシアの名前を口にする。
「…モーティシアは王城だが」
「えー…」
 モーティシアの居場所を教えた途端にマリオンはこの世の終わりかのような表情と共に泣き出しそうになり、さすがに焦ってしまった。
 こんな街中で泣かれでもしたら余計に目立つではないか。
「…マリオン」
 しかしテューラがさくりと咎めてくれて、マリオンは渋々ニコルの袖から手を離してくれる。
「お引き留めしてしまい申し訳ございません」
 距離の近いマリオンとは対照的に、肌を重ねたはずのテューラは距離を保ってくれる。
 彼女も数日前の事は仕事であると割りきっている証拠なのだろうが、その様子はかえってニコルの中に申し訳ない気持ちを芽生えさせた。
「…その、前は無理をさせたな。大丈夫か?」
 曖昧な記憶の中で、ニコルは本能のままにテューラの身体を求めたはずだ。並以上に鍛えている力の強い男に暴力的なほど身勝手に犯されて、傷を負わないなど有り得ないだろう。
「いえ、私は」
「近くの部屋の子が言ってたよ。テューラすっごく喘いでたって。テューラがすっごく喘ぐって珍しいからぁ、平民騎士様は相当の経験者なんじゃないかってみんなで持ちきりだったの!」
 しとやかに労いを躱そうとするテューラだったが、あろうことかマリオンの暴露に二人そろって俯いてしまう。
 顔が熱いのは気のせいではないだろう。口が固いはずの高級妓楼の娘がなんて暴露をかますのだ。
「…悪かった」
「いえ、お気になさらずに!…マリオン!」
 あくまでもそれが仕事だとするテューラの顔も真っ赤になっていたが、注意を受けてもマリオンにはどこ吹く風だ。
「なんでよー…テューラだって会えるなら会いたいなぁって言ってたでしょ?私だってモーティシアさんに会いたいし」
「…マリオン嬢はモーティシアと面識が?」
 この流れはやばいと会話を逸らすニコルは、わずかに悲しげに表情を曇らせるテューラの方に目は向けなかった。
 経緯はどうであれ、あの情事に感情を許すつもりはニコルにはない。
 アリアの件を知られている以上余計に。
「面識はあるけど企業秘密でーす!あ、平民騎士様は今から王城に帰るんですか?帰るなら遊郭街まで送ってって!」
「…はぁ?何でだよ」
 テューラからわざと視線を逸らすニコルだったが、あまりに馴れ馴れしいマリオンに思わず素が出てしまうが、マリオンもどうやら一筋縄ではいかない性格らしい。
「だって私たちって妓楼勤めでしょ?折角の休みの日なのに、それを狙って声かけてくる元お客様とかがいるのよね。そういうの面倒なの。騎士様と一緒だったら、さすがに声かけてこないだろうし」
 あっけらかんと理由を教えてくれるマリオンの隣で、テューラもニコルにのみわかるようにわずかな動きで後をつけている男達の居場所を伝えてくる。
「遊郭街の中なら遊女に私的に声をかけるのは御法度ですし、守ってくれる自警団も多くいますが…ここは遊郭街ではありませんから」
「…じゃあ何で出てきてんだよ」
「あ、そういうこと言う?私たちだってお買い物したいんですー。平民騎士様ってけっこう性格悪いのね」
 楚々としたテューラと、ざくりと切ってくるマリオンと。
 言葉はどうであれ本当に困っているらしい事は、二人をつけている男達の様子からも察して。
「…わかったよ」
 テューラはわからないが、マリオンはニコルという防波堤を逃しはしないだろう。
 テューラに無理をさせた負い目も手伝って仕方無く防波堤の役を受け入れるニコルに、二人は安心したように眼差しを和らげた。
 どうやらニコルが思う以上に困っていたらしい。
「暇な野郎もいるんもんだな」
「顔見てあげて顔。普通にしてたら女の子に相手にされないような顔してるでしょ」
「…お前酷ぇな」
 連れ立って遊郭街への道を進みながら、後をつけてくる男達の執念じみた様子に溜め息をつくニコルだったが、マリオンの斬り方に少し男達が不憫に思えた。
「私達の仕事はお客様に優しく接する事ですから…どうしても勘違いされる方がいらっしゃって…」
 斬り捨てるマリオンとは違い、テューラは後をつける男達にもまだ情を見せる。
 だが仕事の延長とはいえその情は危なくはないのだろうか。
「テューラ優しすぎ。だから襲われかけたりするのよ?」
「…それは…そうかもしれないけど」
 心配してみれば、やはり危ない目に合っているのか。
「…大丈夫なのか?」
 襲われかけたなど危険すぎるだろうと眉をひそめれば、
「テューラなら平気よ。あまりにもしつこい人にはすっごい口悪くなるし金蹴りとか余裕だから」
「それは最終手段よ!」
 想像できない真実に一瞬足が止まりそうになった。
 つまり、危険な目にはあったが自力で脱出出来ているのか。
「…俺は必要か?」
 華奢な見た目とは裏腹に肝の据わった娘達にニコルは遠い目をしてしまいそうになる。
「…話してわかってくださらない方にはそういう対処も必要というだけです。穏便に済ませられるならそちらを選びますわ」
 ということは今日を穏便に済ませる為の道具がニコルということか。
「…まあ、あんたが口悪い所ってまだ想像できないけどな。今の俺は客じゃないんだ。普通にしてみてくれよ」
 マリオンの影響かすでに素のままの自分になっていたニコルは、一人だけ堅苦しそうなテューラに目を向ける。
 え、とテューラは困った様子を見せるが、肩書きはどうであれここにいるのは全員平民のはずなのだ。
「高級妓楼なら貴族の相手ばっかだろ。疲れないか?」
 数日前の情事の後にテューラが貴族は妙な誇りがあるからと苦笑いを浮かべていたことを思い出して訊ねれば「疲れる」と返したのはマリオンだった。
「お前に聞いてねぇよ」
「ひっどー。私の声は遊女たちみんなの声だよ?モーティシアさんみたいに優しくしてくれないと遊郭街で遊べなくしてやるから」
「…あいつ優しいのか?」
「モーティシアさんが優しくしてくれないのは平民騎士様が性格悪いからだよ。私には特別にすっごい優しいもん」
 マリオンはモーティシアに恋焦がれている様子を見せるが、どう頭の中をこねくり回しても優しいモーティシアなどやはり想像ができなかった。
「マリオンったらそればっかり」
 同時にテューラもクスクスと笑い、わずかに力を抜いた仕草は意外にもニコルのツボを押さえて。
「…どうかしました?」
 視線に気付いたらしいテューラがキョトンと首をかしげてくるから、何でもないとぶっきらぼうに視線を逸らした。
「--ニコル様?」
 そんな折に新たな声に呼び掛けられて、今日は何なんだとニコルはげんなりと表情を歪めながら声の方へ顔を向けて。
「--…」
 顔も見たくない女の存在に、ニコルは無意識に頬を引きつらせた。
 ハイドランジアの屋敷でも名前の上がったガードナーロッドの次女がいたのだ。
 それも、知らぬ男一人と娘一人の他に、イニスを伴って。
 固まるニコルに、テューラとマリオンは眉をひそめながら向こうとニコルに交互に目を向けていた。
「こんな場所で奇遇ですわね。今日はお休みでしたかしら?」
 ガブリエルは普段通りの高慢な様子を見せながら近付き、ニコルの隣にいるテューラとマリオンには一瞥をくれてやってから鼻で笑った後に眼中から消してしまう。
「だれこの女ぁ」
 そのガブリエルの態度が腹に来たのか、マリオンがわざとらしくすり寄りながらニコルの袖を引っ張った。
「…やめろ馬鹿」
 端から見ればどう映ったか。ガブリエルはわずかに眉をひそめる程度だったが、その後ろでイニスの瞳が怪しく据わる。
 ガブリエルは兎も角イニスとは関わり合いになりたくないのだ。
 なぜこんな場所で最悪の女二人と出くわすのだと気分が沈みそうになり、ふと他の視線を感じてニコルは知らぬ男と娘にも目を向けた。
 ガブリエルやイニスとは違いまともそうな二人だが、ニコルを見る眼差しは少し怯えが混じっている。
「…可愛らしい女性を二人も連れていますのね。名前を教えてくださらない?」
 ガブリエルはニコルの視線の先にたった今気付いたかのようにわざとらしく笑いながら、テューラとマリオンを挑発するように眺める。
 テューラは静かにしているが、マリオンはどうかわからない。
 いくら二人の肝が据わっていようと、上位貴族の娘に目をつけられるのは危険だろう。
 彼女達は平民の遊女なのだ。
「…行くぞ」
 ガブリエルを無視し、馬を引いてテューラ達を促す。
 マリオンが暴れないかと思ったが、どうやらニコルの様子の変化に気付いてくれたらしく素直に従ってくれた。
「お待ちなさいな。この私の言葉を無視なさるなんて、良い度胸ですわね?」
 だが簡単に見逃すガブリエルでもなく。
 足を止めるつもりなどなかった。
 しかし前方を塞がれれば、ニコルも已む無く足を止め以外に道は無くなる。
 ガブリエルの指示からニコルの前に立ち塞がるのは、どこから現れたのか屈強な男達だった。
 恐らくはガブリエルの護衛か、三人の男は能面のように表情を変えないまま邪魔をする。
「ニコル様、状況を理解されまして?」
 男達が相当の手練れであることはひと目見ればすぐにわかった。
 それも平民ではない。
 それなりの訓練を積んだ、魔力を持つ貴族の男達だ。
 ニコル一人ならどうという事はない。だが今はテューラとマリオンがいて。
「こんな所で会ったのも何かの縁ですわよね。いかがかしら、ニコル様。ガードナーロッドの屋敷に来られませんか?勿論そちらの二人もご一緒に」
 白々しいとはこの事を言うのか。
 ガードナーロッドと聞いて状況を完全に理解したテューラとマリオンが、顔を見合わせて息を飲む。
 いくら高級妓楼の遊女だろうが、上位貴族には逆らえない。
 逆らえば最後、どんな目に遭うか。恐らく彼女達はニコルよりもよく理解しているはずだ。
 どう動くべきか。
 気配を探れば、ガブリエルの連れているらしい男達は他にも存在する。
 そして面白いことに、テューラ達の後をつけていたはずの野郎共は、異変に気付いてとっとと行方をくらませていた。
「立ち話も何ですから、どうぞこちらに。馬車も用意してありますわ」
 勝ち誇るガブリエルの表情は、これが計画されたものだと教えていた。
 ニコルが今日も城下に降りると情報が流れていたのだろう。
「…悪いが任務の途中だ。次の機会に誘ってくれ」
「あら、でしたらそちらのお二人は?任務と関係がありまして?」
 あくまでも二人を巻き込むつもりか。次第に苛立ちが募り始める中で、ニコルはまずは二人の安全を優先した。
「…乗れ」
「え…」
「早く」
 魔力から生み出すのは鷹の姿の生体魔具で、尋常ではないニコルの魔力に有り難い事に男達は怯み。
「…攪乱してからだが必ず返してやる。だから絶対に手を離すな」
 無理矢理鷹に二人を乗せて、困惑するテューラに耳打ちをして。
「ニコル様は…」
「舐めんな。お前らがいない方が楽なんだよ」
 言葉の終わりと同時に、ニコルは鷹を浮かび上がらせた。
 向かわせるのは遊郭街とは異なる方向だ。
 案の定動き始める手練れの気配を、ニコルはいとも簡単に止めさせた。
 魔具の操作はニコルにとって呼吸と変わりないのだ。
「何をしていますの!」
 思うように動かない手下達にヒステリックな叫びをぶつけるガブリエルではなく、ニコルが近付いたのは目前の三人の男達だった。
「…なあ、大会の剣術優勝者とやり合うつもりか?」
 片手に慣れた長剣の魔具を生み出し、三年前に手に入れた栄誉を教えてやり。
 ニコルの魔力の質の高さは生体魔具で知らせてやった。
 そして男達が足止めを喰らう理由は、両足に絡み付いた鎖がものを言う。
「ただの平民が娯楽で騎士になれたとでも思ってんのか?お前ら騎士の試験に落ちた“なり損い”だろ。実力差考えろよ」
 低い呟きに交じるのは怒りよりも喜びで、こんな時にも悪い癖は現れるのかと自分が滑稽に思えてくる。
 諦め癖ではない、ニコルのもうひとつの癖だ。
 戦闘は楽しむものだろう?
 守らなければならない女を去らせたというだけで身軽になる気分に、ガブリエルへの怒りも消え去りそうだった。
 ガブリエルの方もようやく状況を察し、ニコルを睨み付けて。
 父もこんな気分を味わったのだろうか。そして後妻の王妃もガブリエルと同じ気分を味わったのだろうか。
「…貧民ごときが…私を虚仮にするなんて」
「…任務の途中だ。帰らせてもらうぞ」
 楽しめるほどの戦闘などもはや起こらない事は、たじろぐ男達を見れば一目瞭然で、興味を無くしたかのように冷めた目をガブリエルに向けて。
「…あら、宜しいのかしら?」
 しかしここへ来てガブリエルはまた笑い、足取りも軽やかにニコルに近付く。
 怒りを見せたかと思えば突然微笑むなど精神疾患でもあるのではないかと思わせるが、ガブリエルには自分がニコルに抱かれたがりながらもイニスに媚薬香を持たせた前科があるのだ。
 気違いに絡まれるなど冗談ではないが、ガブリエルはニコルから離れる様子を見せなかった。
 それどころか耳打ちするようにするりと両手をニコルの腕に絡めて。
「あちらに毛色の違う殿方がいますでしょう?」
 くすぐるように囁きながらニコルに紹介するのは、最初に現れた時に連れていた一人の男だった。
 怯えた眼差しを未だにニコルに向ける若い男。
 恐らく歳はニコルより少し下だろう。
 毛色の違うと言われて気付くのは、彼が他の男達と違い戦闘訓練を受けていないだろうという事くらいだが。
 何を言い出すつもりなのか。
 静かにガブリエルの言葉の続きを待つニコルに、ガブリエルが口にしたのは。
「最近屋敷に雇った者なのですけどね…とっても面白いことに彼、治癒魔術師の元婚約者なんですって」
「--…」
 見開いた銀の眼差しは、何を映したか。
 新しい玩具を手に入れて喜ぶ子供のように無邪気なガブリエルとは正反対に、ニコルは電撃を受けたかのように固まる。視線を男に向けたまま。
「ケイフ、紹介しますわ。こちらはニコル様。あなたが酷く振った女性のお兄様よ」
「っ!!」
 ガブリエルはわずかに身体を離すとわざとらしく男に手を振り、その名前を呼ぶと同時に朗らかに過去をも暴露する。
 男、ケイフが青ざめたのはガブリエルに暴露された為か、それともニコルの怒りの眼差しに貫かれたからか。
 怒りなど生ぬるい。殺意のこもる眼光に、ケイフは俯くことも出来ずに。
「すごい偶然ですわね?まさかこんな形で出会うなんて!」
 冷気すら見えそうな中で、ガブリエルだけが楽しそうに状況を喜ぶ。
「そうだわ!良いことを思い付きました!」
 ケイフから目を離さないニコルに再度腕を絡めて、ガブリエルはまるで恋人に甘えるようにニコルの胸にすりより。
「ニコル様…あなたが今までの私に対する非礼を詫びるなら…ケイフと妹さんの仲を取り持って差し上げますわよ」
 高慢に、傲慢に。
 その言葉にケイフと隣にいる娘が唖然と口を開く中で、ガブリエルの笑みはさらに強く深まり。
「女は深く愛した男をなかなか忘れられませんもの。長年婚約状態にあったなら、なおのこと…もし彼が下位貴族の女に入れ込んでいなければ、今頃妹さんも幸せな生活を送っていたでしょうに」
「奥様!!」
 ガブリエルの言葉を拒絶するようにケイフが叫んだが、その声すらニコルの耳には入らなかった。
 聞こえてはいる。
 しかし、勝りすぎた怒りがケイフという存在を許さない。
 アリアを苦しめた男が目の前にいる。
 苦しめ、泣かせ、悲しみのどん底に突き落とした男が。
「…どうかしら、ニコル様?私は怒ってるわけではないのですよ?ただ少し…悲しいだけ。ニコル様が今晩にでもきちんと謝りに来てくださるなら…」
 ガブリエルの存在を忘れていたわけではない。
 いや、忘れていたのだろうか。
 身体に張り付いた女がいる事すら気にならないほど。
 怒りの矛先はケイフにだけ。
 ニコルの魔具に足を取られていた男達には救いだっただろう。
 戦闘訓練を受けた者達にとって、殺人経験者の正気を無くした殺意ほど身に受けたくないものはないはずだ。
 結局は温くて甘い世界で育った男達には、今のニコルが醸す殺意は未知の感覚で。
 身体に張り付いたガブリエルをゴミのように突き飛ばし、魔力で長剣を生み出して振りかざし。
「-----」
 ケイフへと足を進めながらその頭に長剣を振り落とす。
 誰もが息を飲む状況の中で、ニコルは長剣がケイフを脳天から真っ二つに別つより早く魔具を消し去り。
 ケイフの顔色が完全な白に変わり、その場に無様に尻をつく。
 倒れるのは時間の問題で、だがそれすらニコルは許さなかった。
 ケイフの肩を掴み、見下すこともせず。
「…どんな状況であれ妹には二度と近付くな。近付けば…お前を殺す前にお前の女を殺す」
 自分の声が遠い。
 何と口にしたのかすら、記憶からは一瞬で消された。
 その後は。



何も覚えていない。


第46話 終
 
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