第46話
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ハイドランジアの邸宅内を掃除していたエレッテは、いつもより娘の使用人達が多いことに首をかしげていた。
箒を手に玄関ホールの階段を上がってすぐの場所を掃いていたのだが、エレッテと同じくらいの年頃の娘達がざっと十人ほど玄関の扉近くにいる。そのうち半数はハイドランジアの使用人達だが、もう半数をエレッテは見たことがなかった。
「あら、エレッテ。あなたは下に行かなくていいの?」
ふと話しかけられて振り向けば、ハイドランジアの老夫人が普段通りの優しい笑みを浮かべたまま近づいてくる所で。
「キリュネナさん…」
エレッテの隣に訪れた夫人は手摺りに両手をついて子供のように下のホールを覗き、また二人増えているわと笑う。
「あの、何かあるんですか?」
「聞いていない?王城から騎士様が一人来られるのよ」
首をかしげるエレッテにキリュネナは今日は珍しく客人が訪れるのだと教えてくれるが、王城の騎士と聞いて一気に緊張が走った。
緊張が走ったと言うべきなのか、血の気が引いたと言うべきなのか。
「…どうしてですか?」
声が震えるのが自分でもわかるほど動揺している。だが普段から怯えた姿ばかりエレッテは見せていたので、キリュネナが心配の様子を見せることはなかった。
「昨日突然決まった事だから、私も詳しくはわからないわ。でもおじいさんから話を聞きたいとか」
おじいさんとはキリュネナの夫であるハイドランジア主人の事だが、それはもしやエレッテやパージャの正体がバレた事についてではないのだろうか。
思考がいつにも増してネガティブな方向へと走り始めてしまい、心臓の音が耳元で激しく鳴り響いているかのように煩くなる。
「昔おじいさんが王城にいた頃の話、だったかしら?」
そんなエレッテの不安を知らないままにキリュネナは簡単に主人から説明されたのだろう話を聞かせてくれて、俯きそうになっていたエレッテの顔が再度キリュネナに向けられた。
「何でも、若い未婚の騎士様って話だから、女の子達がはりきってるのよ。隣の屋敷からもお手伝いに来てくれてるのよ。あなたもアプローチに行ってみる?」
「!!」
キリュネナへと向けた顔は反射神経をフル活用したかのように凄まじい早さで横に振ってしまう。
「そこまで否定しなくたって」
キリュネナは笑うが、これでなぜ娘達が多いのかがわかった。
使用人の娘達は全員が平民というわけではない。
貴族階級の低い娘は階級の高い貴族の屋敷に勤めることも多く、ハイドランジア家の階級を詳しくは知らないが中位であるのだから、下位貴族の娘が働きに訪れることはおかしな話ではない。
働きに来ているというよりは夫探しに来ている娘が大半だが。
その為に他国に嫁いだ娘の子供という設定下にあるパージャも娘達の視界に入っており、パージャがよく屋敷から逃げ出す理由だとエレッテは気付いていた。
しかしこんな時にもいないというのは、エレッテの不安はさらに掻き立てられてしまうようだ。
どういう理由で騎士が訪れるかはわからないが、相手によってはエレッテは顔がバレてしまう。
いや、それを言うならばパージャの方が危険か。
「あの、パージャ…は?」
パージャは王城の騎士達全員に顔が知られているはずなのだ。
不安を隠さずに訊ねれば、キリュネナは普段通りの優しい笑みを浮かべたまま首をかしげて。
「昨晩から見ないわねぇ。まぁいつもの事だから心配はいらないわね」
昨晩から。
昨晩ならパージャはファントムと交信を行っているはずだが、何かあったのだろうか。
もし何かあったとしても、パージャは何らかの形で必ずエレッテに知らせてくれるはずだが。
不安ばかりが脳裏をよぎる中で、ふとホールの娘達が騒いだ声を聞いた。
「あら、到着したみたいね」
箒を握り締めながらエレッテは玄関の扉に目を向ける。
馬の鳴く声がどこか遠くから聞こえる不思議な感覚を覚えながら、しばらくして開いた扉から姿を見せた銀髪の青年を確認すると同時に、エレッテは慌てて身体を手摺より下にうずくまらせて固まった。
娘達に囲まれながら困惑顔で入ってきたのは、ファントムとガイアの息子であるニコルで。
「--っ…」
ニコルにはエレッテの顔がバレているはずだ。
というか、なぜよりにもよって彼が訪れるのだ。
「あなた達、お客様の足を止めてどうするの。早くお通ししなさい」
背中を向けたエレッテにはニコルの様子を窺うことは出来ないが、キリュネナの凛とした声に娘達が不満そうに道を開ける様子を感じとることが出来た。
しばらくすれば玄関ホールの人の気配は完全に無くなり。
「真面目そうな方ね。平民出の騎士様と聞いているから…あら、どうしてそんな格好に?」
「…いえ…少し腰が…すみません」
静かになったホールから目を離したらしいキリュネナにうずくまる体勢の理由を訊ねられても、エレッテが真実を口にできるはずもなくて。
--どうしよう…パージャ…
なぜ彼がここに。
混乱する頭が行き着くのはハイドランジア主人がかつてはロスト・ロード王子だったファントムに仕えていた過去で。
何かを探っている?
そうだとしたら、この家にエレッテやパージャがいることがバレたらどうなってしまうのだろうか。
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昼近くに手紙に記されていたハイドランジアの邸宅に訪れたニコルは、馬を降りて門をくぐってすぐに最初の難関にぶち当たった。
馬を任せた男が顔を合わせた当初から苦笑いを浮かべているとは思っていたが、その理由はいとも簡単に知れた。
恐らくハイドランジアの邸宅に仕えているのだろう娘達が数名、ニコルを見るなり目の色を変えたのだ。
装備を外した騎士の兵装はどうやらポイントが高いらしく、王城で働く侍女達よりも人懐っこい笑みを浮かべながら前後左右を拘束された。
自分の顔立ちについては自覚しているところだが、ここまで遠慮もなく間近に寄られるなど思わなかった。
中には侍女達のように打算を持って近付く様子を見せる娘もいたが、多くの娘達はどうやら単純にニコルの顔が気に入った様子で、歩きづらいことこの上無い。
格好良いやら素敵やら誉めそやされて悪い気はしないが、その言葉に浮かれるほど経験に乏しいわけではないのだ。
苦笑いを浮かべることしか出来ず、それでも娘達の足を踏まないように何とか少しずつ玄関に近付いて。
ニコルが到着するより先に、馬を任せた男が先程と同じように苦笑いを浮かべながら玄関の扉を開けてくれて、恐らく彼と全く同じ表情をしているだろう事実に妙な一体感を覚えた。
軽い会釈だけを交わしてハイドランジア家に足を踏み込めば、中にはまだ大量に娘達が残っており。
--…これを突破するのか
げんなりと辺りを見回したニコルだったが、ふと視界の端に黒が走って反射的にそちらに目を向けた。
「--…」
ホールの左右から弧を描くように二階に繋がる階段を上がった場所に位置する手摺の向こうに、誰かがしゃがみこんだのだ。
誰かなど知らないが、ニコルの視界に確かに映った黒い髪に身体は固まった。
暗い髪の色はエル・フェアリアでは珍しいが、観光客などでも賑わう王都では見ないわけでもない。
だが一瞬だけではあったが、視界をかすめた黒髪はあまりにも闇に染まりすぎてはいなかったか。
しゃがんだ人物の隣には初老の婦人が立っており、目を向ければ優しげな微笑みと共に会釈をされて、無意識に頭を下げた。
「あなた達、お客様の足を止めてどうするの。早くお通ししなさい」
すると婦人は見た目の穏やかさとは対照的な凛とした声を発し、ニコルにまとわりつく娘達をぴしゃりと叱りつけてくれた。
途端に娘達の身体に緊張が走ったので、恐らく彼女がこの家の主人の妻なのだろうと気付き、ニコルは改めて向き直ると今度は礼儀を以て静かに頭を下げた。
娘達も注意を受けたのでニコルから離れてくれて、ばつが悪そうではあったが奥へと案内を始めてくれる。
本当はしゃがみこんだ人物の事が引っ掛かったが、来てすぐに無礼な振る舞いは出来ない。
案内されるままに奥へと向かい、辿り着いた場所は思わぬ所だった。
ここですと娘達に通されたのは綺麗に手入れのされた裏庭で、まるで世界が一変するかのように空気すら瑞々しく変わる様子にただ目を奪われる。
秋に相応しい落ち着いた色合いの花から、見たこともない木々まで。
さほど植物に興味など持たないというのに見惚れさせるほどの力を、目の前に広がる庭は持っていた。
言葉を失ってしまったかのように声にならない静かな感動を味わい、庭の中央に足を進めて。
中央には数名がゆっくりと談笑出来そうな木の色合いそのままのテーブルが設置されており、その優しい木目を指先でなぞったところで後ろから誰かが近付く気配を感じ、ニコルはゆっくりとふり返った。
「--騒がしくなるわけです。随分な二枚目が来たものだ」
現れたのは初老だが背筋の伸びた男で、どこか騎士団長のクルーガーを思わせる雰囲気の持ち主だった。
「…初めまして。王城から参りました、騎士団、治癒魔術師護衛部隊に籍を置いております、ニコルと申します」
「どうぞお座り下さい。弟のネミダラから話しは聞いています」
現れた男が誰であるのかすぐに察して、促されるままに椅子に腰を下ろす。
「私はビデンス・ハイドランジア・ぺリドットと申します。本日は44年前に暗殺されたロスト・ロード王子について訊ねたいと伺っていますが?」
手紙にも軽く理由は書いていたので、説明はどうやら省略できそうだ。
斜め向かいに座るビデンスの岩のように揺るぎない意思強い眼差しに騎士道をかいま見ながら、ニコルは視線を逸らさないまま頷いた。
「はい。詳しくは、ロスト・ロード王子が亡くなられたとされる幽棲の間について…魔術兵団が幽棲の間に入る所を目撃されたと聞きましたが」
「…いきなり核心から入りますか」
口調は穏やかだが、声に宿る芯の太さは昨日話をしたネミダラの比ではない。
流石は大戦の最中に王族付き騎士であっただけの事はある。
クルーガーを前にした時のような心地好い緊張を身に受けながら、ニコルは静かにビデンスの言葉を待ち、
「…あなたはロスト・ロード様に似ておられる」
「っ…」
核心を突くように告げられて、一瞬だが呼吸を忘れた。
「生き写しとまではいきませんがね。立ち姿に、少し驚いていたのですよ」
ビデンスには他意は無い様子で、どこか懐かしむ程度に留めてくれるが。
「…生きておられたら…さぞ素晴らしい王になられた事でしょう」
生きていたなら。その言葉が刺さるのは、ビデンスが忠誠を誓っただろうロスト・ロードがファントムという形で生きているからだ。
もしファントムの正体がわかったら、ビデンスはファントムを、リーン姫を拐った賊と思うのか。それともリーン姫を救った英雄と讃えるのか。
ビデンスと同じ空気を宿す騎士団長クルーガーは、ファントムの正体を知りながら手を貸した。
同時にニコルという正体を知らされて。
風が優しく吹き抜けた頃に、裏庭と屋敷を繋げる扉から一人の娘が現れて、手にしていた盆から二人分のカップをニコルとビデンスそれぞれの前に置き、慣れた手付きで香りのよいお茶を注いでくれた。
会釈すれば娘はわずかに頬を染め、照れたのか逃げるように小走りに戻っていく。
ビデンスはカップを手に持ち一口だけ飲むと、再びニコルに視線を戻した。
「…幽棲の間に魔術兵団が入っていくのを見たのは、ロスト・ロード様が暗殺される日の明け方の事です」
カチャリと静かにカップの置かれる音が響き、ニコルが昨日耳にした話とは少し異なる真実が語られる。
「…夜では?」
「夜明け前だったので夜と勘違いされたのでしょう。王族付きの任務を終えて、同じく任務についていた騎士と兵舎に戻るつもりでいた時です」
ロスト・ロード王子が暗殺されるより少し前に、暗殺現場であろう幽棲の間に降りた魔術兵団。
「ですがその途中、魔術兵団の怪しい動きを確認した為に、私達は警戒と好奇心からその後を付いていきました」
王城中央から地下に繋がる螺旋階段を降りた先にある幽棲の間。
ニコルは二度も階段を降りたが、そこに。
「…十名ほどの魔術兵団が幽棲の間に入室し…いつまで経っても出てこなかった」
「…出てこなかった?」
「ええ。明け方から目をそらさずにいたのに、昼近くまでね。それで、私達は中を覗き込みました」
ニコルには幽棲の間の内部がどのような作りなのかはわかっていないが、他に出入り口もルートも無いと聞いている。
ふと首に絡み付いた女の指を思い出して悪寒が走り、逃げ道を探すようにニコルも温かなカップに手を伸ばした。
「しかしそこには何も無かった」
だがビデンスの不可思議な言葉に指先は止まる。
「…魔術兵団は?」
魔術兵団が入ったはずの幽棲の間。
だというのに、生き証人は静かに首を横に振り。
「…確かに中に入る姿を見たのですが…魔術兵団の姿はどこにも。なので、私達は諦めて兵舎に戻ろうという事になった。しかし戻ろうとした矢先に、魔術兵団は幽棲の間から出てきたのです」
入ったはずの場所にはおらず、いなかったはずの場所から出てきた。
「中を確認した時は何も無かったはずなのに…」
ビデンスは未だに信じられないというように視線を落とし、落ち着こうとしているのか深く空気を吸い込む。
「…ロスト・ロード様が幽棲の間に入られたことは?」
「ありません…有り得ませんよ」
その間にふと気になったことを訊ねれば、ビデンスは微笑みながら否定した。
「…なぜ」
「当時の国王陛下の命令です。ロスト・ロード様は何があろうと決して幽棲の間には近付かないように、と」
「…デルグ様や王妃様には?」
「命じられませんでした。ただ、デルグ様は幽棲の間を酷く怖がっていました。どうやら一度入ったことがあるらしく…」
王家の血を引く者には、その場所は。
「何かある、と?」
前のめるように訊ねてしまい、ニコルはしまったとばつが悪そうに眉をひそめた。
案の定ビデンスはニコルの意味深な言葉に怪訝そうに口を閉じた。
ニコルの言葉には確信の色が込められていた。
それを聞き逃すビデンスではないだろう。
ニコルが44年前の真相を暴きたいという思いは、ビデンスも持っているはずで。
「…ロスト・ロード様は幽棲の間で暗殺されたのですよね?」
「そう聞いていますよ」
確信をはぐらかすように彼の生死を問えば、ビデンスは何事も無かったかのようにそのまま対話を続行してくれた。
「ロスト・ロード様が幽棲の間に入る所を見た人物は?その時の王族付きなど」
「…亡くなりました」
だがその続行は、あまりにも無惨で。
「幽棲の間の扉の前で…眠るように冷たくなっていました。王子と共に戦場を駆けた百戦錬磨の騎士が、争った跡すら見せずにね」
懐かしむように語るのは、共に王子の護衛として側にいた仲間だったからだろう。
老いた年数だけあらゆる経験を重ねてきたビデンスの言葉は、何もかもが重く大切なもののように聞こえた。
「…私は運が良かった。 一日早ければ、死んでいたのは私だったでしょうからね」
「…ロスト・ロード様の御遺体は?」
「見つかっていません」
眠るように死んでいた騎士達と、見つからない王子の遺体。
暗殺されたというには、謎が残りすぎてはいないか。
「…失踪という事にはならなかったのですか?」
遺体が無いのならと問うたニコルに向けて、ビデンスは再度首を横に振る。
「国王陛下がそう宣言されました。王子は暗殺されたのだと。そして混乱に包まれた状態で、王妃を始めとする王族達の処刑が行われました」
「……」
魔術兵団を操るのは国王のみで、その国王が息子であるロスト・ロードの遺体を見ぬままに暗殺と宣言して。
現在の魔術兵団長であるヨーシュカを見る限りでは魔術兵団がロスト・ロードを暗殺したとは思えないが、当時は今とは違うのだ。
ニコルも知らない時の王。
ニコルの父は王子という立場だった。
「…王子の暗殺の首謀者は、誰だと考えますか?」
すでに見え始めた首謀者への問いには、ビデンスははぐらかす形で答えを述べず、
「…王妃でないことは確かでしょう。王妃はロスト・ロード様に惹かれておいででしたから」
「…憎んでいたの間違いでは?」
必要かどうかはわからない新たな情報にニコルは目を丸くした。
後妻である王妃が実子のデルグと前妻の子であるロスト・ロードを比べて嫉妬していたとばかり思っていたのだから。
「王妃が手練手管で国王の寵愛を手に入れてデルグ様を身籠り王妃の座に付いたのは、ロスト・ロード様に近付く為だったともっぱらの噂でしたよ。それに、確かに王妃はロスト・ロード様をよく見つめておられた」
「……」
ニコルには知り得ない、その当時のその場にいた者にのみわかる真実。
王妃はロード王子の名前をロスト・ロードと変えさせるほどに憎んでいたのではなかったか。
「王妃はロスト・ロード様に恋焦がれていらっしゃった。ですが王子は相手にしなかった。王妃が王子を憎んだのは、歯牙にもかけられなかったが故でしょう。優秀ではありましたが高慢なガードナーロッド家の血を引く令嬢でしたからね。自分に見向きもしない王子に腹を立てていたのでしょう…それでも殺そうとまではしなかった。王妃は王子を自分の足元に屈伏させたかったのでしょうから」
高慢な王妃。
その姿は、ニコルにとってガブリエル・ガードナーロッドと被るものがあった。
ニコルに思いを寄せているらしい女。ニコルは歯牙にもかけないどころか記憶にすらなかった。
奇しくもニコルは父と同じ道を歩んでいるというのだろうか。
「…ガードナーロッドから王妃の座を得た者がいるというのに、よく自慢しないですね」
ガードナーロッド家といえば上位貴族十四家ある中でさらに虹の七家に名を連ねる高貴な御家柄だ。ガブリエルの性格を思えば自分は王家の親戚に当たると自慢しそうなものだが。
「今のガードナーロッド家は知りませんが…まあ言えんでしょう。“王妃”の肩書きよりも“王子暗殺の首謀者”という肩書きと、民衆の前で公開処刑を行われた恥辱の事実があるのですから。どこの家だろうが隠したい歴史です。それが無くとも虹の七家は必ずどこかで王家に血を入れていますからね。わざわざ自慢する必要もないでしょう」
「…そんなものですか?」
「そんなものですよ」
貴族の誇りを知らずに育ったニコルにはいまいち理解できないが、ビデンスがそう断言するならそうなのだろう。
素性はどうであれ貧民の家に育ったニコルにとって、生きる為に使えるものは何でも使ってきた。ニコルにとってその最たるものは容姿と魔力だったが。
「…私がたまに考えてしまうのは…どこかでロスト・ロード様が生きておられるかもしれないという事です」
ふと遠い目をしたビデンスは、まるでニコルの中にロスト・ロードの面影を探すかのように悲しげに微笑んだ。
その表情はロスト・ロードの安否を気遣うというよりも、まるで我が子の平穏を望むかのように優しく老いていて。
「今のエル・フェアリアはとても穏やかです。ですが当時はまだ大戦の混乱が残っていた。国の外も中も、安心して暮らせる場所など無かった。それならいっそ、王族であることを忘れ、一人の人間として生きてくださったら…あの方は幼い頃から多くの責任を背負われて生きてきたのですからね」
小さな頃から苦労ばかりの人生だったと。
幼い当時に幼いままではいられなかった王子を案ずる姿はしかし、今のエル・フェアリアが平穏であるという言葉の前に無情にも掻き消える。
平穏など存在しないエル・フェアリアでニコルは育ったのだから。僻地を思うと複雑になる胸に無意識に俯いたが、ニコルはすぐに顔を上げた。
ビデンスは大戦に貢献し、老いて国の平和の維持から既に退いた身なのだ。現状を全て理解しろと言う方がおかしいだろう、と。
「…他に、知りたいことはありますか?」
二人の間に暫くの沈黙が流れた後に、ビデンスは間を持たせるかのように訊ねた。
他に何か。
一瞬思考を巡らせたニコルの脳裏にふと浮かんだのはアリアの涙で。
「…では、治癒魔術師…メディウムの一族について聞いても?」
44年前の暗殺とは関係が無いだろうが、ビデンスという生き承認を前に疑問は膨れ上がりニコルを圧迫する。
母はメディウムの一族ではないのか。
最初にそう訊ねてきたのはガウェだった。
「メディウム…懐かしいですね。今ようやく、一人戻ってきてくれたと」
どうやらビデンスにもアリアの情報はわずかに入っている様子だ。
「…私の妹です」
「…ほう」
「妹は生まれつき治癒魔術を使えましたから、おそらく母はメディウムの者だったのでしょう」
最初にガウェにその可能性を告げられた時、ニコルはアリアの身を心配するが故に自分達がメディウムの一族である可能性を否定した。
「…御母上も治癒魔術を?」
「はい。すでに亡くなっていますが」
母が巫女メディウムの一族として王城の天空塔にいた可能性。
ファントムの王城襲撃前までは考えないようにしていた件だ。
だが今は知りたいと思う。
そこに父は、ファントムとなったロスト・ロードは関わっているはずだからと。
そうでなければ、アリアを泣かせてまで礼装を盗んだ意味がない。
「…私は、メディウム家が失踪した翌年まで王城にいました」
「…本当ですか?」
「ええ。メディウム家の失踪が今から36年前…奇妙な赤ん坊が産まれましてね」
ビデンスがどこまで知っているかわからなかったが、失踪当時に王城にいたなら詳しい情報を持っているはずだ。
浮き足立つように姿勢が揺らぐニコルにビデンスは微笑みながら、奇妙と称した赤子の話を聞かせてくれた。
「…メディウムは大半があなたのような銀の髪と瞳を持って生まれてきましたが、まるで闇を混ぜたかのような藍の髪と瞳を持った赤子が一人産まれたのです」
その説明に、ニコルはファントムの王城襲撃の際に一瞬目にした女を思い出した。
闇色の藍の女。
アリアとレイトルは、天空塔から逃げ延びた際にその女に話しかけられている。
どこか見覚えのある面影を持っていたらしい美しい女。
もしその女がメディウム家に産まれた闇色の赤子なのだとしたら。
「メディウム直系の次女に当たる赤子でしたが…その子が産まれてすぐです。メディウム全員が忽然と姿を眩ましたのは」
当時を思い出しながらゆっくりと語るビデンスの声に静かに耳を傾ける。
「当時最大の数を誇ったエル・フェアリアの治癒魔術師が全員、誰の目にも触れられぬままですよ。一時期は王子暗殺の再来とまで言われました」
今ならニコルにもメディウム家の、治癒魔術師という存在の重要性が理解できている。
当時最大数とは言っても、数は十数名程度だったはずだ。
たったそれだけしかいない、治癒魔術師の女達。
他国の治癒魔術師は男女ほぼ同数らしいが、エル・フェアリアでは女しかいなかった。
「…なぜ失踪など」
「わかりません。しかしメディウム達は、産まれたばかりの赤子をひどく心配していました」
当時何があったのか。メディウム家が一日で姿を消した理由は。
「--彼の者に奪われてはならない、と」
「彼の者?」
「それが何者かはわかりませんが。奪われない為に失踪したか、メディウム家全員奪われてしまったのか…」
当時のメディウム家を知るビデンスですら、詳しい事実はわからないまま。
「…妹君がメディウムだと言っていましたね」
「あ…はい」
メディウムとは姓であると同時に治癒魔術師を指すのだろう。困惑しながらも頷くニコルに、
「よろしければ、御母上の名前を伺っても?」
ビデンスはわずかに身体をニコルに傾けながら問うてきた。
母親の名前を。
ビデンスはメディウム家が姿を消した当時に王城にいたから。
「…マリラです」
母の名を口にしたのは数年ぶりだった。
忘れるはずがない母の名前。
口にした途端に、ビデンスの瞳が大きく揺らいだ。
そのまま俯き、頭を抱えて。
「…ビデンス殿?」
「マリラ・メディウム…」
どうしたのかと不安になるニコルを前にして、彼はそう呼んだ。
母を。
「…知っているんですね」
何かがニコルの中でほどけていく感覚。
ニコルを愛し、アリアを愛してくれた母を、ビデンスは知っているのだ。
「メディウムの直系長女…いずれメディウムの長となる女の子でした…そして闇色の赤子の姉です」
まるで大切なガラス細工の宝物を扱うように、ビデンスは言葉の中に思いやりを含ませる。
「そうか…生きて…子供まで…」
失踪した当時まで母が天空塔にいたなら、その時の母はまだ未成年のはずだ。
「生まれつき体が弱かった子が…あの子は幸せでしたか?」
懐かしむように、労るように、ビデンスはニコルの母の生きた時間を愛おしみ。
「…記憶の中の母は…いつも笑っている人でした…父ととても仲が良かったです。私も妹も、母を心から愛しています」
「…よかった…本当に」
ニコルの無知が殺してしまった母。
その最期を知らないまま、ビデンスは涙をわずかに滲ませる。
「…闇色の赤子の名前は?」
居た堪れなくて、わざと情報を欲しがって。
「ああ、確かガイアと。マリラはガイアが生まれる前から、まだ見ぬ妹をいつも自慢していました」
「…ガイア」
それがファントムの側にいた女の名前なのかどうかまではわからないが。
口にした名前は、妙に胸をざわつかせた。
ガイア。
彼女は何者かに狙われ、そして奪われてしまったのか。
狙われた理由は、単純に治癒魔術という特殊な力に目を付けられたからか。それともパージャやリーンのように、死ねぬ身体を求められたからか。
思案にふけるニコルの耳に、ふとどこかの家から深い鐘の音が届いた。
「…もうこんな時間か…長居させてしまいましたね」
「あ、いえ。こちらこそ、沢山の情報をありがとうございます」
その鐘の音はどうやらニコルとビデンスが長く語らっていたらしい事実を知らせてくれたらしい。
時間を気にしてくれるビデンスに、ニコルも条件反射のように頭を下げた。
「…もし宜しければ、また尋ねてください。マリラの…御母上の話を聞きたい」
「…はい、是非」
母の話を聞きたいのはニコルも同じで。
許されるなら、アリアと共に。
アリアは母との思い出を多く持たないから。
腰を浮かせて改めてビデンスに向き直り、どちらともなく握手を交わして。
「--あ、それと…」
ふと気になっていた件を思い出して、ニコルは裏庭を後にしようとしていた足を止めた。
「先程、一瞬だったのですが、黒髪の人物を見たのですが…」
ハイドランジアの屋敷に足を踏み込んですぐに視界の端に映った黒髪の人物。
気にするほどの事ではないのだろうが、闇色に近い気がして。
「ああ、サクラとエレッテでしょう。ラムタル国に嫁いだ親戚の子供達が遊びに来ているので。エル・フェアリアでは暗い髪は珍しいですからね、目立ったでしょう」
「…そうでしたか」
さらさらと教えられる人物の名前と生い立ちに、やはり考えすぎだったかとニコルは胸を撫で下ろした。
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馬に騎乗し去っていくニコルの背中を窓越しに隠れながら眺めていたエレッテは、隣にキリュネナが訪れたことに気付いてそちらに目を向けた。
カーテンに隠れながら盗み見る様子は、キリュネナからはさぞ滑稽に映った事だろう。
「結局会わなかったのね?」
「…すみません」
他の娘達はニコルの記憶に残ろうとしていたが、たとえニコルが見ず知らずの魅力的な青年であったとしても、エレッテには側に近付きたくない理由がある。
「サクラと歳が近そうだから、エレッテとも仲良くしてくれたらと思ったんだけどねぇ」
「…男の人、苦手で…」
「…あらまぁ」
キリュネナには仲良くという言葉の中に他意は無いのだろう。
それでもエレッテにとって男という存在は恐怖の対象でしかなくて。
「どんな人なら良いのかしらね?サクラは別として」
「…すみません」
エレッテにだってどんな男性なら普通に話せるのかなどわからない。
だけど。
「…やっぱりわからないです」
恐怖しか与えられなかった過去が邪魔をする。
その中で微かに覚えている大きな優しい手のひらは、いったい何なのだろうか。
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