第46話


第46話

 首に絡み付いた細い指は女のものだった。
 ひやりと心地好く冷たい、実在するなら力など無かろう華奢な指先は、有り得ないほどに強い力でニコルの首を締め付けた。
 見えたのは肘からの白い両の腕。
 第五姫フェントは虹色の髪の女を見たと。
 数年前にコウェルズ達が好奇心から幽棲の間に侵入した時は、恐怖を感じはしたが姿形は一切見えなかったそうだが。
 エル・フェアリア王家以外には感じ取ることも出来ない何かが、幽棲の間に通じる道に確かにいた。
 そしてそれは、ニコルを殺すつもりで。
--…何故?
 何故あの苦しい感覚を、懐かしく思ったんだ?

 幽棲の間に通じる地下階段で起きた不気味な一件はすぐにコウェルズ達の耳に入ることになり、医務室に連れていかれたニコルは診察を受けながら何があったのかを話すこととなった。
 鍵を開けることもなく突如開いた地下階段の扉、ニコルの首を絞めた謎の女、ニコルが女から離された途端に、まるで閉じ込めようとするかのように勝手に閉じた扉。
 ヴァルツの絡繰りが無ければ、ニコル達は幽棲の間と地上を繋ぐ地下階段に閉じ込められただろう。
 ニコルの身体は軽度ではあるが全身打撲の状態で、医師達にアリアを呼んでくるとは言われたが、ニコルはそれを拒んだ。
 フェントは簡単に話を聞き出された後にすぐに部屋に休まされ、ヴァルツもミモザと共に部屋に戻された。
 フェント姫付きであるウィーフとメイゼルは他の騎士と護衛を代わり、ニコルと共に当時の状況を詳しく話し。
 ようやく解放された時には既に空は明るみ始めていたが、あまりの出来事に興奮状態となった身体は冷めることがなく、疲れはあっても睡魔は訪れなかった。
 今日も外に出掛ける用事があったのでその時に支障が出る可能性はあったが、ニコルは休むことはせずに朝食を取ろうと兵舎外周棟へと向かう。
 明け方は食堂に人がいない時間帯で、ニコルはじくじくと痛む身体を労りながらゆっくりと歩いた。
 絞められた首はもう痛みはしないが、腕から足から、地下から逃げるために打ち付けた全身は動く度にどこかしらが鈍く痛む。
 助ける為だったとはいえ、ヴァルツの絡繰りは本当に容赦なくニコルを階段の段差にぶつけながら駆け上がったのだ。
 あの時は何も思わなかったが、今思うと自分より大きな獅子に咥えられるなど恐怖しか感じない。
 それでも助けられた身なので文句などは存在しないが。
 次にヴァルツに会ったら感謝しなければと考えながら立ち寄った食堂で、意外な組み合わせの二人を見つけてニコルは思わず立ち尽くしてしまった。
「--…」
 レイトルとミシェルが向かい合いながら、既に食べ終えたらしい空の食器を端に追いやって何かを話し合っていたのだ。
 立ち尽くしていたニコルに先に目を向けたのはレイトルで、すぐにミシェルも顔を上げて。
「…幽棲の間で何かあったらしいね。大丈夫かい?」
 近付けば、レイトルの耳にも幽棲の間の件が簡単に知らされたらしく、アリアの話題を逸らすように微笑まれた。
「…ああ。大したことじゃない」
 目に見えない女に首を絞められたなど、端から聞けば嘘のような怪談話だ。あまり話したくなかったのではぐらかせば、それ以上は訊ねずにいてくれて助かった。
「今から朝食か?」
「はい。お二人は見ての通りですか?」
「ああ」
 ミシェルは普段通りの落ち着いた微笑みを浮かべたままで、食べ終えた食器を指先で弾く。そしてすぐにレイトルも口を開いて。
「今のアリアの護衛はセクトルとトリッシュだよ。アクセルとモーティシアもさっきまでここにいたんだけど、ニコルとはタッチの差かな…礼装の件はとりあえず二団長に伝えておいたから」
「…助かる」
 盗まれた事になった礼装の件だが、クルーガーとリナトならニコルが真実を告げておけば問題無いだろう。そういえばフレイムローズにも話しておかなければならなかったことを思い出して居場所を脳内で探すニコルに、
「私達は二人でアリアに新しいドレスをプレゼントしようかと考えていた所なんだ」
 ミシェルは笑みもそのままにレイトルと二人で残った理由を告げた。
 恋敵同士のレイトルとミシェルが二人でいるなど珍しいとはニコルも思ったが、その理由に一瞬呆けてしまう。
「…何故?」
「まあ、ほら…」
 微かに強張る声に、レイトルも少し視線を逸らしながら苦笑いを浮かべる。
「礼装の件でとても落ち込んでしまったからな。食事も喉を通らないらしい」
 ミシェルの方は爽やかなもので、強張るニコルには気付いていない様子だ。
「それなら新しい物を、とね。だが私がプレゼントすればレイトル殿が不貞腐れるし、レイトル殿がプレゼントすれば私が不貞腐れるから、いっそ二人で共同しようかと」
 それが二人が食堂に残り相談していた内容だと。
 アリアの為に、アリアの大切な礼装の代わりになるドレスを。
 言葉を無くすニコルは、ただ血の気が引くのを感じていた。
 ミシェルの言葉に、胸をえぐられるような痛みが走り続ける。
 どうして、と。
「あ、アリアには内緒にしててね。きっと君に言ってしまった言葉に自分で傷付いてるだろうから」
 そしてレイトルも。
 少し居心地の悪そうな表情は、まだミシェルよりはニコルの心情を理解しているからかと思えたが、そうではなかった。
「まさか盗まれるなんて思わないから、パニックになっちゃったんだろうね。明日くらいにまた顔を見せてあげてくれないかな」
 ニコルの中のアリアの苦しみと、レイトルとミシェルが考えているだろうアリアの苦しみが噛み合わない。
「…二人は…」
 アリアを欲しているのだろう目の前の男達は、どうしてそんなことが出来るというのだ。
「…なぜアリアがあそこまで怒ったと?」
 ニコルの顔を見たくないと泣きじゃくったアリア。
 どうしてアリアがそう口にしたのか、理解できているのか。
「それは…礼装を盗まれたのに、君があまり気にしていなかったからじゃないの?」
 レイトルの答えはありきたりで、
「まあ、礼装程度の事だからすぐに落ち着くだろうが、冷静になったらなったで私達にも謝り倒しそうで怖いな」
「ああ、有り得ますね」
 ミシェルは根本から間違う。勿論レイトルも否定せずに。
 その滑稽な会話に、思わず鼻で笑ってしまった。
 立ち尽くしたまま、笑うしかなかった。
「ニコルもそう思う?」
 乾いた笑みが頬に張り付こうとするから、気持ちの悪さが込み上げて。
「いや…二人が…」
 笑えないのに、笑うしかない。
 ニコルのおかしな様子に二人はわずかに困惑の表情を浮かべるが、それすらニコルの神経を逆撫でていく。
「二人があまりにも…アリアを理解したていで…何もわかってないから…」
 怒りが沸々と沸き上がるのは、アリアを介してニコルの大切な全てを汚された気がしたからだ。
「礼装だからじゃない…俺達にとって…親から新しい衣服をもらえることがどれだけ嬉しいことか…わからないよな…貴族には」
 細部にまで行き渡り始めた怒りに指先が震える。
 大切な服だったのだ。
 アリアにとって。
 勿論、ニコルにとっても。
 それを、まるで簡単に取り替えられるものと同じ扱いにされて。
「…ニコル?」
 困惑しているレイトルの声が耳に入らない。
 そんなものを気にする頭など存在しない。
 貴族の当たり前が貧民にも当てはまるとなぜ思うのだ。
「…着る服もままならない貧民の生活ってわかるか?ガキの時から毎日同じ服を来て、兄弟なら下は上のお下がり、上は親や近所の家からのお下がりを着るんだ。新しい服なんて有り得ない。穴が開けば何十年も前に着れなくなった服の布で繕うんだよ」
 布は貴重で、大切に大切に扱われる。
 どれだけ穴が開いてぼろくなっていようが、端切れですら大事に取っておかなければならないのだ。
 衣服を買う金など無い。作ろうにも物資すら存在しない。
「貧民が兵士に志願する理由のひとつもそれだよ。兵士になって、それなりに出世できれば兵装が支給される。俺達の村でも子供の大半が、親やじいさんが兵士になってくすねてきた兵装を来てたよ」
 貧しい村に住む者達は、みな似たり寄ったりの服ばかり。それがこの豊かなエル・フェアリアの末端に住む者達の生活だ。
 大戦によりエル・フェアリア領土となった、名ばかりの者達の生活。
 平和でありながら、エル・フェアリアの男達はこぞって兵に志願する。
 それは生きる為であり、家族の為であり。
 平和など存在しないという証拠なのだ。
「女の子なんかもっと悲惨だ。どの家も男を優先させるから、いつも一番汚れた服を着せられるんだ。基本的にぶかついた汚い服を着せられた年頃の子を、街の男達の誰が嫁に欲しがるよ。結局貧困村の内々で申し訳程度に結婚するだけだ」
 アリアはその中でも珍しく幸せを掴むはずだった。
 だというのに。
「…でも君は…騎士になってからの給金のほとんどを…」
 レイトルは胸の痛みをこらえるかのように眉をひそめながら、動揺して、声が出にくくなったかのようにわずかに震える声で訊ねてくる。
 ニコルは、騎士になってからその給金を。
 違う。
 騎士になる前からだ。
 ニコルが騎士の道を選んだのは、多額の給金が支払われるからだ、それ以外に理由などあるものか。
 全ては金の為に。
 父の治療費を、高額な薬代を稼ぐ為に。
 アリアの生活が少しでも楽になるように。
 だとしても。
「…村に送ったさ。でもな、俺だけの給金で村が潤うと思ったか?」
 有り得ないほど高額な給金だった。
 だが、それらを全て送ったとしても。
「俺達が育った村だけに金を使うなら充分だよ。だけどそれじゃ駄目なんだ…わかるか?村と村の繋がりを」
 ニコルの育った村だけなら充分すぎた。
 だがそれが出来ない理由がある。ニコルは身をもって知っている。
「ひとつの村だけが潤えば、周りの村からは僻まれる。そうなれば僻まれた村は終わりだ。物資は滞る、異常気象で作物が不作だったとしても、街に足を運んでも何も買わせてもらえない、潤うことで村が盗賊から狙われても…助けが来ない…」
 ニコルが年齢を偽り小さな兵団に入団した頃、ニコルは何も知らずにその禁忌を犯してしまった。
 その代償はあまりにも大きすぎた。
「…俺達の母さんは…そのせいで…俺のせいで死んだ…」
 賊が村を襲い、近隣の村から助けは来ず、多くの重傷者が出て。
 幼すぎるアリアが治癒魔術を使い、そのサポートに虚弱な母が立った。
 拙いアリアの力を最大限に引き出す為に、命を使って。
 そのせいで母が死んだ。
 母が死ねば、母の力で病気の進行を止めていた父も倒れるしかなくて。
「俺の給金は村長に伝えてカリューシャ地方全体に割り当てた。カリューシャ地方全ての貧困した村が、俺の給金程度で潤うと思うか?それでも、アリアが少しは楽な生活が出来るなら…俺は…」
 二度と過ちを犯さないように、二度と大切な家族を殺さないように。
 そうして望んだ大金は、もどかしい中で薄く延び消えて。
 そうだったとしても、そうすることしか出来なかった。
 口を閉じて俯くレイトルとミシェルを、ニコルは力無い眼差しで見つめる。
 あまりにも貧しい村にいたニコルやアリアをどう思ったのだろうか。
「…どの村でも優先されるのは男で…女の子は…結婚する時に唯一、母親から特別な衣服を貰えるんだ。真新しい綺麗な服なんかじゃない。母親のお下がりに少し刺繍を施した程度のもんだ…それでも充分嬉しいんだよ…それを花嫁衣装にして…また産まれてくる自分の子供の為に大切に取っておくんだ」
 薄汚れた一着。だが大切に受け継がれてきたその一着は、何よりの宝物になる。女の子が二人いる家はどちらかに。
 それが貧しい村に生まれた娘の唯一のお洒落で、この上無い喜びで。
「…あんた達には礼装“程度”だろうがな…アリアには親からもらった大事なもんなんだよ」
 それに変わる礼装を、代替え可能な代物と同じ扱いにするというのか。
「母親は死んじまっていない、父親もアリアの結婚前に死んじまった。親の私物は死んだら村のもんだ。母さんが着た、いずれアリアが着るはずだった花嫁衣装も、他人の娘に貰われていった」
 引き延ばされ続けたアリアの結婚。
 結局父はアリアの花嫁衣装を見ること叶わないまま死んでしまい、アリアが袖を通す日を夢見ていた母の花嫁衣装も、大切な思い出と共に奪われていった。
 父を失ったアリアの手元に残ったのは、母がアリアに渡した治癒魔術の本と、ファントムがニコルとアリアに寄越した首飾りをしまっておく為に父が作ってくれた木箱だけだ。
 その形見すら、理不尽な理由から潰されてしまったというのに。
「…前にガウェとフレイムローズに貸した俺の服を覚えてるか?お前らがぼろ布と散々笑った服を。あれだって“父さん”が俺にくれたもんなんだよ。俺が着る前は“父さん”が着て、その前は会ったこともないじいさんが着てたもんだ…」
 前に。
 まだファントムの噂が流れ始めた程度だった頃に。
 城下に降りるよう命じられたガウェとフレイムローズに貸したニコルの衣服。ボロだと散々笑われたあれも。
 ニコルには大切で、替えのきかないものなのだ。
 ニコルやアリアにとって衣服は。
 親から貰えるという、その重要な意味は。
「アリアがパニックになって俺に酷いことを言ったと本気で思ってんのかよ?」
 アリアはニコルを“見たくない”と告げた。
「…アリアがどんな思いで泣いたと思ってんだよ」
 どれほどの苦痛の中でそう口にしたのか。
 レイトルとミシェルは何も言えないまま。
「…二人とも、アリアを狙ってんだろ?」
 アリアを欲していながら。
 もしアリアが貴族の娘だったなら、何の障害も無いままいられただろうが。
「…二人とも無理だな。アリアを何ひとつ理解出来てない」
 ここが貴族達ばかりの王城だろうが、ニコルやアリアが育った故郷が、そこでの思い出が消えるわけではなくて。
「無くしたから新しい物なんて…そんなえげつないことしてみろよ…一瞬でアリアに嫌われるぞ」
 高価な礼装が大切なのではない。アリアにとって、親に等しい彼が衣服をくれたという事実が重要なのだ。
 その意味を理解できないうちは、二人のどちらにもアリアは任せられない。
 アリアが選ぶはずもない。
 押し黙る二人を前に、ニコルは静かに背中を向けた。
 もはや食事を取る気力すら萎えて、倦怠感ばかりが体を舐める。
 ふらりと立ち去るニコルを止める者がいるはずもなく。
 礼装を隠してアリアを傷付けたのはニコルだ。
 だがその傷に、筋違いも甚だしい勝手な解釈で塩をすりこませるものか。
 貴族ばかりが住まう場所に馴染まなければならないとしても、生まれ育った場所で培った大切な心まで否定してくれるな。

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 朝食を取らずに部屋に戻ったニコルは、纏っていた装備を外してベッドに投げ置き、自分もその隣に座った。
 同室のガウェはおらず、隣にアリアの気配も感じない。
 深く傷ついた妹はどこに行ったのか。
 傷付けた本人が探しに向かえるはずもないのだが。
 痛む身体を伸ばしながら、ニコルは昨日ガウェの個人邸で手にした手紙を懐から取り出した。
 中位貴族ハイドランジア。
 その王都の別邸に現在住んでいる主人から寄越された手紙には、今日の昼前からなら時間が空いていると記されていて。
 ロスト・ロード王子暗殺の一端を知るだろう人物。
 集中しなければならないというのに、頭の中には先ほどの苛立ちが根深く残っていた。
 無くしたならば、新しく用意すればいいだけのこと。
 その貴族の考えがわからない。
 もしさほど重要でないならニコルでもそう思っただろうが、替えのきかない物が確かにあるのだ。
 礼装はニコルが持っている。とっとと調べてアリアに返してやればいいのだろう。
 しかしアリアが本当に着たかった衣服は、本当に欲しかったものは。
 二度と手に入らなくなったのはニコルの責任なのだ。
 母を奪われ、父を奪われ、花嫁衣装を取り上げられ、挙げ句に婚約者に裏切られた。
 アリアに何の落ち度も無い中で。
 数年ぶりの再会を喜んでくれたアリアは、その代償とでもいうかのように両親の形見も潰されたのだ。
 ただ巻き込まれただけの可哀想な娘だというのに。
「…アリア」
 可哀想な娘で、大切な妹で、
 愛しい女。
 気付いてしまった愚かな思いをどうすればいい。
 身代わりのように抱いたエルザは、無垢なままニコルの偽りの愛を信じようとする。
 暴いたエルザの身体の向こうにアリアを見ているとも知らずに。
 アリアを身も心も愛したい。同時にまだ兄でいたい思いも勿論存在する。
 もうアリアだけなのだ。
 守りたいと思える家族は。

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