第45話


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 まるで幽鬼のようにふらりとニコルが去った室内に響くのは、誰にも慰める事が叶わないアリアの泣き声だけだった。
 触れれば壊れてしまいそうな脆さの中にあるアリアに話しかけることすら躊躇われて、どうするべきかと互いに視線を交わして。
「…アリアも少しゆっくりしたいでしょう。私達も出ましょうか」
 何とか口を開いてくれたのはモーティシアで、居たたまれない空気からようやく抜け出せる案に誰もがホッと胸を撫で下ろす。
「俺とレイトルは扉の外にいるよ。まだ護衛時間だから」
 モーティシアが口を開いた事によりアクセルもわずかに肩の力を抜き、レイトルと視線を合わせて微かに笑い合う。
「行くか」
 扉の近くにいたセクトルが静かに開けて、皆が静かに退出を始めて。
 最後まで残ったのはレイトルだった。
「…アリア、何かあったら、すぐに言うんだよ」
 今話しかけても返事などくるはずもないことくらいはレイトルも理解している。それでも思いやる言葉を忘れずにかけてから、レイトルも部屋を出て扉を閉めた。
 六人は再度顔を見合わせ、レイトルとアクセルは護衛時間である為に扉のすぐ側に立ち。
「では、任せますね」
 モーティシアの口調が労いに近かったのは、どう接すればよいのかわからないアリアを思っての事だろう。
 頷く二人を残して、モーティシア達はアリアの部屋を離れて。
 四人は階段を降りるまでは無言のまま足を動かし、ようやく一階に辿り着いた際に誰ともなく深い溜め息が響いた。
「--さて、困りましたね。団長に伝えておくにしても、礼装の盗難で動いてくれるかどうか」
 盗まれただろうものは、貴族達にとってはあまりにも些細なものだった。
 礼装など、
「作り直せばいいだけの話だからな」
 ミシェルの呟きにセクトルも頷き、モーティシアとトリッシュも否定をせずに。
 貴族にとって礼装とは用意しておくべきものであると同時に、一度袖を通せば意味のないものに変わってしまうのだから。
 それでも平民からすれば、夢のようなドレスなのだろうか。
 だが平民とはいえ、魔術師となったアリアには多額の給金が支払われるのだ。今はまだその意味に気付いていなかったとしても、アリアも年頃なのだからいずれお洒落を始めるだろうと高を括り。
「ニコルの顔を見たくない、かぁ…兄妹喧嘩にしても、きついこと言ったなぁ」
 兵舎内周を抜けながら、トリッシュはアリアの最後の言葉を思い出す。
 無くなったとはいえ、たかが礼装2着。
 無くなった事実を軽んじたように見えたニコルにアリアが放った言葉はあまりにも重くはないかと。
「…それだけ混乱しているのでしょう」
 モーティシアはアリアを否定も肯定もせずに心理状況を判断する。
 とにかく今はそっとしておくことしか出来ないと。
 治癒魔術師であるアリアは魔術師団の管轄である為に、向かうのは魔術師団長リナトのいるだろう部屋だ。
 訪れるにはわずかに遅い時間ではあるが、盗まれた可能性が高いので報告は今日中に済ませるべきだ。
 リナトのいる兵舎外周の中間棟に向かいながら、四人は再び無言となった。

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「…大丈夫かな?」
 その心配を口にしたのは、共にアリアの護衛に立つアクセルで。
 扉を挟むように左右に分かれてレイトルとアクセルは立ち、独り言のように呟かれた他者への心配の声にレイトルは苦笑いを浮かべた。
「何かあれば呼びに出てくるよ」
 アリアだってずっと泣いているわけではないのだからと返せば、アクセルは身体ごとレイトルに向けてくる。
「いや…ニコルだよ」
 反発するように少し眉を寄せて、アリアではなくニコルが心配だとアクセルはまじめな表情を浮かべる。
「今ニコルって任務任務でカツカツだろ?そこにアリアのあれはちょっと…」
 いくら泣いていたとしても、言っていい言葉と悪い言葉があるのではとアクセルは壁を挟んだ向こうにいるアリアを責める。
「アリアだって言いたくて口に出た言葉じゃないよ」
「わかってるよ。アリアらしくなかったことくらい」
 アリアは人を思いやる娘だ。それくらいはアクセルだって気付いている。だが。
「アリアの両親は死んでるんだよな…母親が同じなら、ニコルだって母親無くしてるのにな」
 ニコルには実父がまだ生きてくれているから、両親共に他界したアリアの気持ちはわからないのだと、アリアはそう言った。
 アクセルはニコルとアリアに血の繋がりが無いことを知らない。
 ニコルすら知らない事実。
 あの場では、レイトルだけがアリアから教えられていた。
 レイトルはまだアリアが何を思ってあのような言葉を口にしてしまったのかを他の仲間達よりは理解できていた。
 だが同時に、ニコルがアリアを、家族をどれほど求めているかも知っているのだ。
 精神的に危うかったニコルは、最後の希望だとでも言い出しそうな様子で妹という存在にすがっていたから。
「ニコルの父親だって、アリアのこと大切にしてたみたいだし」
「…ニコルの父親はアリアにも大切な人のはずだから、ニコルが礼装に頓着しないことがつらかったんじゃないかな。ニコルだって盗まれてたのに、気にしてなかった様子だから」
 アリアのきついひと言は、礼装が無くなった事が原因なのだが。
「まぁ礼装なんか一回着たらそれまでだもんな。前の晩餐会の時の礼装まだ持ってる?」
「まさか」
 問われて、即答する。
 そこに関しては。
 レイトルもアクセルも、以前の晩餐会で袖を通した礼装などとっくに捨ててしまっている。
 昨日レイトルがアリアに礼装をまだ持っているかと訊ねたのも、もしかしたらという希望半分だったのだ。
 礼装など、後生大事に取っておく者など殆ど存在しない。
 そもそも個人情報の詰まった礼装は昔はすぐに燃やすことが習わしだったほどで、そこまでの風習が消え去った今でも、不要な礼装などとっとと捨てることが当然だったのだ。
 アリアの言いたいことはわかる。だがレイトルがそれを理解してやるには、二人の育った環境はあまりにも違いすぎた。

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 個人邸から王城に戻り、ニコルの騎乗していた馬も仕方無く厩に戻してやって。
 その後兵舎内周に戻ったガウェは礼装の件は黙っていろとニコルに念押しすると共に自分も部屋の外から様子を見守ろうとしたが、一羽の伝達鳥が訪れた事により事態は一変した。
 自室に入ったニコルをそのままに、伝達鳥が告げる情報を持って早足で立ち去る。
 向かう場所は、王城内のコウェルズのいる寝室だった。
 今日の政務を終えて婚約者のサリア王女の傍でようやくひと息ついていたコウェルズを引きずり出し、途中で都合良くミモザと合流して適当な客室に入り。
 何事だと眉をひそめるコウェルズとミモザに、ガウェは伝達鳥が寄越した情報を聞かせた。
 騎士のガウェでなく、黄都領主のガウェとして。
 伝達鳥は事務的な口調で情報を語る。その内容を教えられる毎に、コウェルズとミモザの表情は信じられないものを目の当たりにしたかのように硬くなった。
「…これは、いつの話?」
 伝達鳥が全てを話し終えるまでは静かに聞いてくれていたコウェルズは、伝達鳥が語り終わると同時にガウェに目を向ける。
「今朝方と」
 信じられないというよりも、信じたくないとでも口にしそうなコウェルズの様子に、ガウェは冷めた言葉で返した。
 コウェルズやミモザにすれば信じたくないものだろう。だがガウェからすれば有り得ない話ではなかった。
「…ラムタルの闇市でファントムの仲間の目撃…お兄様…」
 不安そうに途方に暮れるミモザもコウェルズと同じで信じたくないはずだ。
 伝達鳥が持ってきた情報は、リーンの手がかりとなる者がラムタルに存在する可能性があるというものだった。
「神衣はラムタルの神官の証だが…他に情報は?」
「今はこのひとつのみです。ですが見目の情報はファントムの仲間の“青”に酷似しています」
 今日の朝に、ラムタルの闇市で神衣を纏う若者が大暴れしたと。
 ラムタルで暗い髪の色はさほど珍しくはない。
 だが圧倒的なまでに闇に染まった禍々しい髪の色は、周りに溶けきることが出来なかったのだ。
 ガウェの脳裏によぎるのは、一人の若者だ。
 目に痛い柄のバンダナで頭の半分を被った大柄な若者。
 彼がラムタルにいるなら、そこにリーンもいる可能性が高くなる。
 リーンはラムタル王バインドの婚約者だったのだから。
 ガウェからリーンを奪う事が出来る唯一の存在。
「----」
 開こうとした唇は、コウェルズが制すように片手を上げた事により動きを止める。
 ガウェが何を語ろうとしたのか理解した上で。
「君はラムタルの土を踏めないよ。そういう約束だからね」
 コウェルズの言葉に、苛立ちを隠さずに睨み付けた。
 ガウェはラムタルへの入国を許されない身なのだ。
 数年前、まだリーンがガウェの側にいてくれた頃。
 ラムタル王バインドが護衛と共にエル・フェアリアに訪れた。
 癒術騎士という珍しい治癒魔術師の双子の兄妹と共にだ。
 ガウェはその兄の方と盛大な喧嘩をしてしまったのだ。
 先にからかったのは向こうで、キレて殴りかかったのはガウェで。
 若者の未熟な喧嘩と割り切るには、二人の立場はあまりにも互いの国にとって重要なものだった。
 エル・フェアリアの最上位貴族、黄都ヴェルドゥーラ唯一の嫡子であるガウェと、治癒魔術師のアダム。
 喧嘩も血を流すほどの有り様で、ガウェの傷は妹のイヴに癒されたが、若さ故の過ちとして笑う者はいなかった。
 エル・フェアリア側は将来を担う黄都領主嫡子を傷付けられた事に怒り、ラムタル側は治癒魔術師の中でも更に訓練を積んだ特別な癒術騎士を傷付けられた事に怒り。
 双方の王家が火消しに回ったが、結果としてガウェはラムタルに、アダムはエル・フェアリアに入国出来ない身となってしまった。
 だからガウェはラムタルには行けないのだ。
 そこにリーンがいるかも知れないというのに。
「…リーン様がいらっしゃるかも知れないのにここに留まれと?」
「目撃証言はファントムの仲間であってリーンじゃない。それに、ラムタルは君を歓迎しない。これ以上問題を増やさないでほしいね」
 怒りを抑えるように拳を握り締めながらガウェはコウェルズを睨み付けるが、リーンが絡むガウェに怯えるコウェルズではない。
 ぴしゃりと切り捨てられて、ガウェは口を閉じるしかなかった。
「ですが、どうなさるおつもりですか?ファントムの件にラムタル国が絡んでいるとしたら…」
 一通りのやり取りを眺めていたミモザは俯いたガウェに代わるように不安を口にする。
 もしラムタル国とファントムに繋がりがあるのだとしたら。
 信じたくはないが、バインド王がどれほどリーンを大切にしていたかをミモザもコウェルズも知っている。
 吟味するようにコウェルズも視線を落とし、数秒経ってからガウェに目を向けて。
「…まずはこちらが先だ。国民にリーンが生きていた話を進めていく。その間にもう少し情報を集めてくれ。ラムタルとは私が話をする。だがあの人と舌戦になったら、これだけじゃ足りない」
 たったひとつの情報だけでは動ける範囲は限られてくる。もしラムタルが絡んでいるなら、さらに確実な情報を手に入れろと。
 コウェルズは優秀だ。しかし万能ではないのだ。
 ひとつだけの情報など、無いに等しいのだから。
 無理なものは無理だと宣言出来るほどには、コウェルズにも人間味は残っている。
「…お兄様…もし…」
 ゆっくりとではあるがリーンに向かって延び始めた道に、その途中に見えた高すぎる山に、ミモザは動揺を隠さずに声を震わせる。
 もし。
 その後に続けようとした言葉はあまりにも物騒なものだったが、コウェルズはそれを笑って否定した。
「大丈夫だよ。戦争にはならないから。バインド王は戦には否定的な方だからね。むしろリーンが絡んでいるとなると…善意からバインド王が動いたと考える方が納得がいく」
 ミモザが危惧する戦を笑い飛ばして、
「…まだラムタル王家が絡んでいるかはわからないけどね」
 リーンの名に反応し苛立ちを見せるガウェに、コウェルズは苦笑いを浮かべる。
「こちらも父上の件まで巻いていこう。ミモザ、政務はもうしばらく任せるよ」
 ガウェがリーンをどういう目で見ているか、ミモザは気付かずともコウェルズは悟っていて。
 苦笑いを浮かべた後はわざと視線を逸らしたコウェルズを、ガウェはその奥を推し量るように見据え続けた。

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 ふらつく足取りでニコルが何も考えずに辿り着いた場所は、王城一階の、幽棲の間に続く閉ざされた地下階段の扉がある近くだった。
 幽棲の間は44年前にロスト・ロード王子が暗殺されたとされる可能性を秘めた場所だ。
 一度コウェルズと下りた際は、あまりのおぞましさに気が遠退いた。
 幽棲の間には何もない。
 だが何かがある。
 知りたくもない何か。それは女の姿をしている気がした。
 アリアに拒絶され、傷心のまま訪れる場所ではないことはわかっていた。
 しかし何かをしていないと潰れてしまいそうだったのだ。
 親から貰えた大切な衣服なのに、ニコルはそれを知りながら軽んじたから。
 両親がすでにいないアリアにとって思ってもみなかった贈り物となった礼装。
 たとえファントムが寄越したものだったとしても、アリアが貰えるはずだった花嫁衣装は村のしきたりで奪われた後だったのだ。
 ニコルはそれを知っている。他の誰が知らなくとも、ニコルは。
 だというのに、無用なものだとしてアリアを裏切ってしまった。
 傷付けたなどと生温い。
 だがアリアの気持ちを裏切る結果になったとしても、礼装に記されているかもしれないニコルやファントムの正体を知られるわけにはいかなかった。
 アリアの涙を忘れるように幽棲の間へと続く地下階段に近付こうとしたニコルだったが、複数の気配を感じて思わず身を隠してしまう。
 誰が来たのか。
 見守るニコルが目にしたのは、ヴァルツを先頭に、第五姫フェントと彼女の護衛を勤める二人の騎士の姿だった。
 眠るにはまだ早い時間帯だが、いつものフェントならば自室に戻っている頃のはずだというのに。
 ヴァルツが無理矢理連れ出した様子でないことは、地下階段に続く扉を興味深く見上げるフェントを見ればわかる。
 フェントの後ろに立つ二人はフェントが産まれた頃から彼女を守るウィーフとメイゼルという騎士で、ヴァルツとフェントという子供二人を前に、やれやれとあきれ気味だ。
「ここに“何か”があると?」
「はい。何も無いけれど、何かがあるとお兄様達が」
 ヴァルツの問いかけに、フェントは真面目な表情のまま頷く。
 フェントはコウェルズからファントムの奪った宝具について調べるように告げられており、その過程で幽棲の間と宝具の繋がりにも行き着いたとは聞きかじり程度には知らされている。
 かつてエル・フェアリアに存在した七つの宝具は最初は国を滅ぼすほどの古代兵器と言われたが、幽棲の間に封じられた何かを解放する鍵である可能性もあると。
 封じられた何かがファントムとどう関係あるのかはわからないが、フェントは何が封じられているのかを解明したがっているはずだ。
「…ふぅむ…入るか!」
「はい!」
「いけません!!」
「なぜだ!!」
 ヴァルツとフェントが二人そろって地下階段への扉に手をかけようとした所を、ウィーフが二人の肩を掴んで押さえる。
「というより、鍵が掛かっているので入れませんよ」
 慌てたウィーフとは違い、メイゼルは失笑気味だった。
「鍵だと?…うぅむ…確かに開かぬ」
 ヴァルツはウィーフの押さえつける手を離させてから改めるように扉の大きな取っ手に手をかけて押したり引いたりと繰り返すが、まるで壁を相手にしているようにびくともしない。
「ですが鍵穴らしきものは見当たりませんわ」
「…結界が張られているわけでもなさそうだしな」
 フェントもしゃがんだり扉の端に移動したりして鍵穴を探すが、細やかな模様が彫られているだけで、それらしき穴は見つけられず。
 ヴァルツとフェントは途方に暮れるように顔を見合わせ、妙案を求めるようにウィーフとメイゼルに目を向けて。
「入るには、コウェルズ様達の許可を頂かないと」
 溜め息をつくのはメイゼルで、困ったとも呆れたともつかない声色だった。
「…許してくれませんわ。近付かないように言われてますもの」
 途端にフェントがしょんぼりと肩を落としてしまうが、その様子が計算である事くらい十三年間フェントの側に立ち続けた二人にはお見通しだった。
「コウェルズのあんぽんたんめ。調べろと言っておきながら中に入ることを許さんなどと…横暴だ!開けてやる!!」
「私も!!」
 どうしても地下が気になるヴァルツが強引に開けようと引っ張り、釣られるようにしょぼくれていたはずのフェントも普段の内気な様子を取っ払ってヴァルツに続く。
「フェント様!」
「ヴァルツ殿下!」
 ウィーフはヴァルツを、メイゼルはフェントを扉から引き離そうと背中から羽交い締めにした。
「はーなーせー!!私に無体を働くなど国際問題だぞ!!」
「国際問題に発展する前に兄王様に叱られますよ!」
 フェントはすぐに諦めて大人しくなるが、ヴァルツは負けてはいなかった。
 暴れて暴れて、ウィーフと格闘の一歩手前にまで進んで。
 その様子を静かに見守り続けていたニコルにとって、コントのような一部始終は肩の重りを外すには充分な光景だった。
「…皆様、何を?」
 気が楽になった分だけ心にもゆとりが出来て、自ら姿を表してヴァルツ達の元に向かう。
「おおニコル!ちょうどよいところに来た!こやつらを取り押さえておけ!!幽棲の間に入りたい我々を愚かしくも止めようとするのだ!!」
 ヴァルツはニコルの姿を見た途端に、仲間を発見したかのように満面の笑顔を浮かべてくる。
 恐らく同じ王族であるという秘匿された真実が勝手にヴァルツの中に仲間意識を生み出したのだろうが、今のニコルはただの騎士だ。
「許可は?」
 静かに訊ねれば、ヴァルツはキョトンと首をかしげる。
「何のだ?」
「幽棲の間に入る為の許可で」
「無い!」
 元気いっぱいに食い気味に宣言されて、さきほどのメイゼルのように苦笑いを浮かべるしかなかった。
 ニコルはエルザを抱いた夜にコウェルズから幽棲の間へ向かう為の鍵を持たされてはいるが、それを使うつもりは更々無い。
「…駄目ですか?」
「……私に上目使いは通じませんよ」
 フェントは愛らしくもニコルを見上げてくるが、可愛らしいとは思いはしても願いを叶えてあげたくなるほどでもなくて。
「…大好きなエルザお姉様だったら通じるのね」
 おねだりが効かないとわかるや否や光の早さで普段通りの表情に戻るフェントは、やや唇を尖らせながらニコルとエルザの関係を知るかのような意味深な発言をした。
 まだ未成年であるフェントがどこまで知っているのかはわからないが、ニコルはそっと視線を逸らすことしか出来なかった。
「で、お前はなぜここに?」
 ニコルの考えすぎだったのか幸いな事に誰に突っ込まれる事もなく、流れでヴァルツが話題を変えてくれる。
「それは…」
 傷心からあまり深く考えずに歩きはしたが、頭のどこかには幽棲の間で行われたかもしれないロスト・ロード王子の暗殺の件があった。だが今それを口にしたら、ヴァルツとフェントはさらに地下へと興味を持ってしまうだろう。
「…少し頭を冷やそうかと」
 嘘ではないが真実を隠した理由を告げれば、皆が無意識に地下階段への扉に目を向けて。
「…確かにここは冷えるが」
 ヴァルツが呟いた瞬間だった。
「---!?」
 突然ガチャリと扉が音を立て、独りでに扉が開いたのだ。
 不気味に軋む音を発する扉に、怖くなったのかフェントがメイゼルに身を寄せる。
「…勝手に?」
「…開いた…馬鹿な」
 特殊な鍵がなければ扉は開かないはずで、ニコルはまだ鍵を鍵穴に通してはいなくて。
 鍵はごく普通の形だ。
 それを魔力で描かれた模様に隠された鍵穴に入れて回せば、ようやく扉は開かれるはずなのに。
 開かれた向こう側は、闇が口を開けて下に下にと引きずり込もうとする様で。
「…!」
「ヴァルツ殿下!!」
 好奇心が勝ったのかヴァルツは幽棲の間へ続く地下階段へと飛び込み、ウィーフが慌てて続く。
 地下階段は以前ニコルがコウェルズと共に下りた時のように、魔術師達の防御結界のわずかな輝きがあるだけだった。
「ただの広いだけの螺旋階段で何もないぞ!!入ってこい!!」
「入ってこいじゃないんです!早く出てください!!」
「はーなーせー!!」
 ウィーフに掴まれて暴れるヴァルツを眺めてから、フェントがニコルとメイゼルにそわそわと視線を送ってくる。
 王家の子供達は幽棲の間へ下りないようにと固く命じられてはいたが、ファントムの奪った宝具について調べるフェントには幽棲の間は魅力的な場所になっていて。
「…入りたい。いい?」
 フェントが訊ねたのはメイゼルだった。
 メイゼルの袖を少し引っ張りながら、窺うように見上げながら。
 その姿にメイゼルは軽い溜め息をひとつ溢す。
「…覗くだけにしてください」
「はい!」
 許可を得るや否やフェントは扉に体をくっつけて、恐る恐る地下階段を覗き込む。
 メイゼルはその後ろから同じように中に目を向けて、ニコルはまだ数歩離れた場所から動かなかった。
 以前感じた嫌な気配は一切感じないが、あの当時の恐怖は忘れられるものではない。
 フェントは上を見たり下を見たりと忙しくしていたが、突然腕が伸びてきてフェントを掴み、中へと引きずり込んだ。
「きゃ!」
「だだっ広いだけの階段だ!!入ってこい!!」
 引っ張る腕の正体はヴァルツで、フェントをあっという間に薄闇に身を踊らせる。
「ヴァルツ殿下おやめください!!」
 ウィーフとメイゼルも慌てて止めに入るが、ヴァルツは無邪気に笑うだけだ。
「ここまで足を踏み込んだのだ!下まで向かうぞ!!ニコルもぼさけてないでとっとと来い!」
 ヴァルツはフェントの腕から手を離さないまま目を向けてくるから、ニコルも已む無く扉に近付いた。
 怖気は感じない。何もだ。
 ウィーフとメイゼルは既に諦め気味で、事態はニコルを待つ状況に早変わりしていて。
 わずかに息を飲みはした。
 だが地下に恐れを抱かない状況と全員の視線が注がれる中で、ニコルは決心して足を踏み込ませる。
 螺旋状に下へと伸びる階段はただの薄暗い場所でしかなく、ヴァルツを先頭に五人で降りていく。
 ニコルは最後尾に付き、遠くなる地上を思いながらも前だけを見続けた。
 地下であるせいか、季節も手伝って肌寒さが身に染みる。
「ヴァルツ殿下、これ以上は…」
「血迷うな!これは冒険なのだ!!」
 降り続ければやがて二つ目の扉が現れて、先頭のヴァルツが少し重たそうに押し開く。
 その先はニコルも進めなかった未知の領域、幽棲の間だ。
 まだ恐ろしい感覚には苛まれていないが、進むことはやはり躊躇われる。
「それにしても広いな!!」
「もう充分でしょう…戻りませんか?」
「いやだ!!まだ奥が待っている!」
「待ってないですよ…」
 ヴァルツとウィーフのコミカルなやり取りはニコルの耳をすり抜けて、しかしヴァルツを先頭にやはり先に進むことになり。
 扉を少し越えて。
「…フェント様?」
「…どうしたのだ?ニコルまで」
 最初に歩みを止めたのはニコルより前にいるフェントだった。
 ニコルもすぐに身を強張らせて、様子の変化にヴァルツ達は眉をひそめる。
 ヴァルツや騎士達にはわからない。
 エル・フェアリア王家の血を引くフェントとニコルを襲うその気配が。
「…何か…います」
 震える声で、涙をにじませながらフェントはドレスを強く握り締める。
「…フェント様?」
 そしてその目には見えない気配は、突如荒れ狂う渦のようにフェントとニコルに襲いかかった。
「--出して!」
「---!!」
 フェントの命令にウィーフとメイゼルはわずかの無駄も無い動きを見せてフェントを抱き上げ、扉の向こう側へと移動させた。
 彼らにはわからないはずなのに、まるでその扉が境界線であるとでもいうような判断だった。
「…何だ?」
 残されたヴァルツは首をかしげながらニコルに少し不安そうな視線を向けてくるが、ニコルは既にどうしようもない状況に陥っていて。
「…何かが…」
「ニコル?」
 突然襲いかかった悪寒の渦。それはフェントとニコルではなく、ニコルだけに襲いかかっていたのだ。
 フェントはニコルより前にいたからその流れにぶち当てられただけで。
「…何かが私の体を---っ!?」
 足を何かが絡めとる感覚。しかしすぐにそれは、ニコルの言葉を止めた。
 突然首に絡み付いた何かをニコルは必死に引き剥がそうと足掻き、
「何だ!?」
 わけのわからない状況で、ヴァルツにはニコルが狂ったように見えただろう。
「きゃあああぁぁっ!!」
 先に離されたフェントも甲高い悲鳴を上げるが、フェントを何かが襲ったわけではなかった。
「フェント様!?」
「ニコルを助けて!!死んじゃう!!」
 他の誰にもわからない中で、フェントだけには見えていたのだ。
 フェントの懇願にウィーフはすぐにニコルの元に訪れ、
「ここを動かないで下さい!!」
 メイゼルはフェントに移動しないよう願ってから動く。
「何だというのだ!?」
 何もかも、わけもわからない中で。
 何かに容赦なく首を絞められてニコルの呼吸は止まり、意識が遠退いた。
 何かは確実にニコルを殺す気でいる。
 それを肌で感じるのに、ニコルは動くことが叶わなかった。
「ニコル殿!!」
「っ…」
 ウィーフとメイゼルがニコルの身体に触れるが、石像のようにニコルは動かない。
「駄目だ動かない!担ぐぞ!!」
「ああ!!」
 しかし鍛えた男が二人がかりでも、まるで押さえつけられているかのようにニコルは動かず。
「…あ、兄上に言うでないぞ!」
 その様子をただ見守っていたヴァルツも事の重大さに意を決し、左の袖を強引に捲り上げた。
 ヴァルツの左腕にはラムタルの技術により生み出された戦闘型の絡繰りが細い金ベルトのように絡まり、そこにヴァルツの魔力が注がれて形が変わった。
 二メートルを越しそうな大きな虎型となった絡繰りは、動かないニコルを強引に頭で押し、その強い力にようやく縫い付けられていたかのような身体が動く。
「引っ張れ!」
 メイゼルはウィーフと共に、動いたニコルを扉の向こう側へと容赦なく投げ出した。
「っぐあ!!」
 投げ出されたニコルは受け身もろくに取れないまま段差ばかりの階段に身体を打ち付けるが、呼吸が出来るようになったことに無意識に気付き、痛みに喘ぐよりも空気を吸い込む事に全力を使った。
「ニコル!ニコル!!」
 一部始終を見守り続けたフェントは涙をこぼしながらしゃがんでニコルにすがり、弱い力で何度も揺さぶってくれる。
「…何だったんだ?」
「…酷く重かったぞ…」
 ウィーフとメイゼルも困惑しながらニコルの元に訪れて、ヴァルツは絡繰りの虎と共に最後に扉を抜けて。
「---」
 突然、まるで腹の奥から苦しむかのような低い軋みを発しながら、扉が独りでに強く閉じた。
 それは最初に地下階段に繋がる扉が勝手に開いた時と似ていて、扉が閉まると同時に、特殊な魔力により灯っていた明かりも力を失い始めた。
「---離すな!!」
 その異変に真っ先に気付いたのはヴァルツで、虎を操り一気にフェントとウィーフ、メイゼルを虎の背に乗せ、自分は新たな獅子の絡繰りを発動させて背中に乗り上げ、うずくまるニコルを遠慮もなく咥えさせて地上へとかけ上がった。
 人の足では限界がある。だが巨大な絡繰りの獣達は凄まじい早さで地上へと向かい、明かりを失い闇に染まり始めた地下階段から地上へと跳び出した。
 それと同時に地下階段へ続く扉も強く閉まり、間一髪の状況にニコルを除いた全員が息を飲む。
「ッゲホ!!」
 ニコルは全身を何度も階段に打ち付けられたせいで痛みに全身をかばいながら床にうずくまる。
 ヴァルツ達が降りれば二頭の絡繰りはヴァルツの左腕に戻り、全員ですぐにニコルを囲った。
「大丈夫か!?」
 ウィーフがニコルを支えながら座らせて、怪我の確認をしてくれて。
「何があったんだ…」
 メイゼルは首を押さえて苦しんだニコルに状況を問うが、
「…ニコルの首が絞められたの…見えました」
「!?」
 声が出ないニコルの変わりに答えたのはフェントだった。
「虹色の髪の…女の人が…」
 ニコルが突然苦しんだのは、謎の女がニコルの首を絞めたからだと。
「…我々以外誰もいなかったぞ?」
「本当です!!」
 ヴァルツは反論するが、フェントは涙をまたひとつこぼしながら必死に訴える。
「落ち着いてください。人など」
「いえ…」
 メイゼルもフェントをなだめようとするが、今度こそニコルが説明の為に口を開いて。
 全員の眼差しが向けられる中で、ニコルは首を擦りながら、かすれる声を懸命に捻り出した。
「細い腕が…私の首を絞める腕が見えました…」
 ニコルにはそれの全体像は見えなかった。
 ただ、華奢な女の手だけは鮮明に目の当たりにしたのだ。
 そしてフェントが口にする女を、ニコルは以前コウェルズと降りた際に直感で感じ取っている。
「“何か”…いえ、地下には“誰か”がいます…」
 あまりにもおぞましい気配を持つ、王族にしか感じ取ることができない謎の女が。
 そして首を絞められる感触は、ニコルが幼い頃に苛まれ続けた悪夢に酷似していた。

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 嗚呼--

 口惜しい


 また邪魔をするのか

 私とあの方の逢瀬を


 ようやく逢えるのに

 じきに逢えるのに


 その前に
 


--してくれる


第45話 終
 
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