第45話


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 完全に日が暮れて夜の闇に包まれた王城内の正門近くで、ガウェと共に馬から降りたニコルの元に駆け寄る人影があった。
「ニコル!大変です!」
 馬の手綱を手にしたまま振り向けば、モーティシアが彼に似合わない険しい表情を浮かべながら叫ぶところで。
 呼ばれたのはニコルだからと、ガウェは我関せずを貫くようにとっとと馬を戻すべく引いて行こうとするが。
「どうした?」
「…アリアの礼装が盗まれたかもしれません」
 足を止めるモーティシアは、眉をひそめたまま他の警護の騎士達に聞こえないように小声で事情を教えてくれて、その内容にニコルは固まってしまった。
 アリアの礼装なら昨日ガウェが持ち出し、ニコルの礼装と合わせて内密に調べることにしていた矢先に。
 いつか無くなった事に気付かれるとはわかっていたが、その瞬間というのはやはり心臓が跳ねるもので。
 表情が不自然に強張ってはいないかとふと思ってしまったが、モーティシアが怪しむ様子はなかった。
「…アリアは」
「酷く動揺しています」
 礼装の件はニコルの正体に繋がる可能性があるのでアリアにも話せない。
 ふと握り締めていた手綱が引かれたので無意識にそちらに目を向ければ、離れていたはずのガウェが戻り、ニコルの騎乗していた馬の手綱を引いてくれていた。
 ガウェは口を開かないが、馬は任せて行けと暗に示していることに気付いて、手綱から手を離す。
 行け。だが話すな。
 周りに知られたくないのはニコルの個人的な事情だ。しかしその事情は下手をすれば国を覆す。
 礼装を用意したのはエル・フェアリアが探すファントムであると同時に死んだはずの王族なのだから。
「…悪い」
 ガウェに馬を任せて、ニコルはモーティシアと共に駆け足でアリアの元に向かう。
 愚かな感情に気付いてからは意図的に避けてきたアリアと、こんな形で顔を合わせるなど。
 走るには地味に遠い距離で、これならガウェに馬を任せないか、城内用の馬に乗ればよかったかとまで考えて、已む無く足を止める。
 アリアはきっと礼装を無くして泣いているだろう。その衣服がアリアにとってどれだけ重要なものか知らないニコルではない。
 たとえ盗んだ犯人がニコルだったとしても、その涙は。
「ニコル?」
「…乗ってくれ」
 立ち止まるニコルにどうしたのだとモーティシアも足を止め、一瞬にして姿を現したニコルの唯一の生体魔具である巨大な鷹に言葉を無くす姿を視界の端に捕らえる。
 飛んだ方が早くアリアに辿り着く。
 妹の涙を止めるのは家族である兄の役目なのだと自分に言い聞かせて。
 先に鷹の背に乗ったニコルの後ろにモーティシアが乗る。
 モーティシアは初めて体験する飛行型の生体魔具にやや強張っている様子だが、ニコルは構わず飛び上がった。
 万が一に備えて、大の男が三人乗っても飛べるようにコントロール訓練は行っていた。
 鷹は狂うことなく一気に兵舎の三階の高さまで浮かび、全力の馬よりもわずかに速い速度でアリアのいる内周棟へと向かう。
 もっと速く飛べる。だが後ろには不馴れなモーティシアがいるのだ。
 勢い余って落とすことは出来ないが、走るよりも格段に早く目的の部屋の窓が見えた。
 肌寒い風は速度の分だけ冷えて先頭のニコルに襲いかかるが、まだ優しい程度だ。
 明かりの灯る窓は閉じられていたが、隠すつもりのないニコルの魔具の気配に気付いたセクトルが丁度良く窓を開けてくれて。
「--アリア!」
 有事の際には戦闘にも使えるよう設計された大きな窓に飛び込み、部屋の中央で鷹を止める。
 ニコルはすぐに飛び降りてアリアに目を向けるが、泣いていると思っていたアリアはベッドの上で両膝を抱えてはいたが、泣いてはいなかった。
 モーティシアも降りると同時に魔具は消え、部屋の隅に寄ってくれていた護衛部隊全員が壁から背を離す。
 その中にはニコルの代わりに来てくれたミシェルも勿論いた。
「…兄さん」
 アリアは突然窓から現れたニコルに呆けたような表情を見せる。
 泣いていると思っていた。
 だが泣いてはいなかった。
 泣けなかったのだと気付いたのはすぐだった。
「兄さんっ!」
 ベッドから飛び下りるアリアが、安堵したように落涙しながらニコルの腕に飛び込む。
 泣けなかったのだ。
 アリアにとってあまりの出来事だったから。
「…アリア」
 ニコルの胸に顔を埋めて見境無く泣きじゃくり始めるアリアに、周りの仲間達も居た堪れないような表情で互いを見回す。
 カタカタと震える肩を抱いてやり、アリアが落ち着くように何度も背中を撫でた。
 泣きすぎで引き付けのような呼吸になるから、壊れない程度に抱き締める片腕に力を込めて、赤子をあやすように背中を撫でていた手でトントンとゆっくり軽くリズムを取る。
 アリアが落ち着くまで、誰も口を開かなかった。
 時間にすれば十数分はかかっただろう。
 それだけの間アリアは泣きじゃくり続けたが、それ以上に泣けない時間が長かったのだ。
 混乱する頭でどれだけ考えを巡らせたのだろう。でも結局考えの行き着く先は礼装が無くなった事実なのだ。
 衣服がどれだけ大切で、重要な意味を持つか。
「ごめんなさい!!ととさんがくれた服なのにっ…」
 ようやく少し落ち着いたアリアが口に出来た言葉は謝罪で、泣き濡れた表情で見上げられてただ胸が痛んだ。
 アリアを泣かせているのはニコルで、だがアリアはそのことを知らずにニコルに身を寄せる。
 家族であるニコルに。兄であるニコルに。
 ニコルがアリアに抱く思いを知らずに。
 謝罪の後は再び言葉に詰まってしまい、アリアはくしゃりと表情を歪めてニコルの胸に戻った。
 悲しい嗚咽が耳に届くから、抱き締めてやる以外に方法がわからなくて。
「昨日の朝まではあったって」
「…そうか」
 近付くレイトルが、アリアが礼装を見た最後の時を教えてくれる。
 昨日の朝。なら、その後にガウェが入り込んだことになるのか。
「お前は大丈夫か?」
 壁にもたれてアリアの泣き止むのを待っていたセクトルから、わずかに思考の止まる質問をされる。
「え?」
「…お前の礼装だよ」
 固まり訪ね返すニコルに、セクトルはアリアの礼装が無いのだからとニコルの礼装の行方も懸念してくれて。
 びくりと反応したのはアリアだった。
 アリアの礼装だけでなく、ニコルの礼装までもがと怯えたのだろう。
「兄さん…」
 怯えながらもすがる眼差しで見上げられて、微かに視線を外して。
「…見てくる。少し待ってろ」
 アリアの背中に手を回して、ベッドまで歩かせ、座らせる。
 心細いのか袖を少し摘ままれて離そうとしなかったから、大丈夫だからと無言で言い聞かせるように頭を撫でた。
 ようやく袖を離してくれたのを確認してから、名残惜しむように最後に涙を指先で拭ってやる。
 隣の自室に向かう為に扉に向かい、レイトルとセクトルが心配してくれているのかついてこようとするから、アリアの側にいてくれと目線だけで合図を送った。
 まるで葬式のように沈み込む空気の部屋を出れば、壁にガウェが背中を預けていて。
 互いに無言になるのは、共犯だからだ。
 ニコルはガウェを通りすぎて自室の扉に手をかけて。
「形だけでも探してろ」
 ぼそりと呟かれて、わかってると短く返す。
 自室に入り、どうしようもなくて休憩するように自分のベッドに腰掛ける。
 溜め息は静かな空間には響くが、隣のアリア達には届かない。
 ニコルの礼装が部屋に有るわけがない。昨日のうちに二着の礼装は、ニコルが宝物庫に運んだのだから。
 ニコルとアリアの情報を詰められた礼装。
 ニコルの存在を知られない為に、そしてファントムの存在を知る為に盗み出した。
 アリア達には何と言えばいいのだろうか。
 素知らぬふりは何よりも簡単だが、何よりもニコルの胸をえぐり取るだろう。
 アリアを苦しめたくないのに。
 礼装が無くなったとわかればアリアが苦しむとわかっていたはずなのに。
 しばらく考えたところで何の妙案も浮かぶはずもなく、ニコルはすぐに部屋を出た。
 アリアにはやはり言えない。
 ニコルが礼装を調べるなど、ファントムであった父が怪しいとアリアに確信させるようなものなのだから。
 ただでさえ、アリアは昨日の時点で訝しんでいたのだ。
 部屋を出た通路に先ほどいたはずのガウェの姿が見えず、どこかに行ったのだろうとニコルもすぐにアリアの部屋に戻り。
 一斉に向けられた仲間達の視線。
 その中でベッドに座ったままのアリアの眼差しだけはすがるような悲しい色に満ちていて、思わず目を逸らしてしまった。
「ありましたか?」
 一番近くにいたモーティシアに問われて、首を横に振る。
「…いや、俺の礼装も盗まれたみたいだ」
 無いと嘘をつけば、視界の端でアリアが身を強張らせた。
 青ざめふらつくアリアを支えてやりながら、レイトルも心配そうに眉根を寄せて。
「君が最後に礼装を確認したのは?」
 問われてわずかに言葉に詰まったが、ニコルはすぐに貴族の習慣を思い出した。
「…晩餐会の夜に脱いでそのままだ」
 貴族の大半が、一度着た礼装は捨ててしまう。捨てずに残す場合は非常に少なく、それでも公の場で着るなど有り得ないのだ。
 お陰でニコルの嘘を怪しむ者も存在せず、ただアリアだけを残して仲間達は思案顔となった。
「…では昨日からの間に盗まれた可能性で探しましょうか」
「内周を出入りした侍女達に聞くか?どうせ知らぬ存ぜぬで話も通じないぜ」
 無くした、ではなく盗まれたことは確実だとして。
 全体像を掴もうとするモーティシアとは異なりトリッシュが侍女を怪しむのは、苛められている婚約者を持つからだろう。
「侍女が犯人と決めつけるのは…」
 アクセルは物騒な発言を気にしている様子だが、トリッシュが気にするはずもなく。
「そうか。王城騎士も内周に来ようと思えば来れるもんな」
「盗まれたから犯人探してるなんて言えないって」
「そんなんじゃ見つかるもんも見つからないだろ」
 押しの弱いアクセルに溜め息を付くトリッシュの隣で、ミシェルが妙案を思い付いたように顔を上げた。
「フレイムローズ殿に依頼するのはどうだ?魔眼の力があれば探し出せるかもしれない」
 以前王城中を監視し続けたフレイムローズの力ならば、礼装くらい簡単に探し出せるだろうと。
 犯人ではなく礼装を見つけようと言うミシェルの案に誰もが賛同の表情を見せる中で、ニコルはわずかに慌てた。
 フレイムローズはニコルやファントムの正体を知ってはいるが、礼装が盗まれたという件をどう解釈してくれるかわからない。
「…俺が頼んでくる」
 誰かが頼むより先に、フレイムローズには事実を。
「君は多忙だろ。私達が行くよ」
「いや、大丈夫だ。俺とアリアの問題だ…巻き込みたくない」
 コウェルズから別任務を与えられているニコルをレイトルは心配してくれるが、家族の問題だからと切り捨てる。
 レイトルの表情がわずかに曇るが、知られる訳にはいかないので仕方無かった。
「…盗まれたのは簡単に見つかる場所に置いていた俺達の責任だ。それに親父のくれた礼装くらい無くなった所で困らない」
「困るよ!!」
 礼装くらいと告げるニコルに、激昂は鋭い剣となって何本も突き刺さった。
 アリアの声の剣。
 ニコルの心に深く突き刺さる理由は。
「ととさんがくれたのに…なんでそんなに冷たいの!?」
 ベッドから勢いよく立ち上がるアリアが、自分の胸にも剣が刺さったように押さえて痛みに泣きながらニコルを睨み付ける。
 大事な礼装を。大切な理由を。
「…アリア」
「兄さんにはととさんがいてくれるからわからないんだ!!」
 家族というひとくくりで見るなら。
 アリアにはもう実の両親はいてくれない。
 そして虚弱だった母の命を奪ったのはニコルの過ちだ。
「……」
 声が出なくなる。
 ニコルが過ちを犯しさえしなければ、母はきっとまだ生きていて。
 母がいたなら、母の癒しの力で父の病も抑えられていて。
 何もかも、ニコルがアリアから奪った。
「アリア!」
「っ…」
 わずかに強い口調でレイトルが咎めるようにアリアを呼ぶが、アリアもぼろぼろと涙を溢れさせてしまい。
「…悪かった」
 ようやく戻った声は、発したニコルにすら聞き取り辛いほど小さくくぐもっていた。
 静かに近付けば、アリアが涙を堪えるように俯いて両手で顔を被い。
「…ごめっ…今、兄さんの顔…見れない…」
 つっかえつっかえに話すアリアに触れる、その一瞬早く。
「見たくないっ…」
 完全な拒絶に全身が固まった。
 耳から聴力が消えていく感覚。指先から冷えていく感覚。
 頭がアリアの拒絶を理解して、ようやくアリアに触れようと向けられていた腕が動き、だらりと力無く下がった。
 視界が、見えてはいるのに闇に染まったように認識できない。
 ただ「見たくない」というアリアの拒絶だけが身体中をえぐりながら進む。
 身体が動いたのは恐らく無意識で、ニコルは誰に何を告げることもなく、アリアの部屋を後にした。

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