第45話


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 昼前にニコルがガウェと共にガウェの個人邸を訪れてから随分時間が経ってしまった。
 44年前のロスト・ロード王子暗殺当時に騎士として王城にいたネミダラから細部の話も聞き終わり、結局夕食も個人邸で取ることになって。
 ネミダラの紹介で会えることになったかつての王族付きとの対話は、明日に持ち越されることになった。
 ハイドランジア家の次男に当たるネミダラの兄が王都にいたのだ。
 それも、ロスト・ロード王子付きの騎士だった人物だ。
 先方にはすでに伝達鳥を送り了承を得ている。
 場所を記した地図も手に入れ、明日はニコル一人でハイドランジアの屋敷に向かう予定となった。
 ネミダラの去った書物室で、夜の室内を薄闇に変える淡い灯りの中をガウェは歩き、中央の丸テーブルに備えられた椅子に所在なく座るニコルはガウェの腕の中に大量に抱えられた厚みのある書物に唖然と目を向ける。
「…そんなにあるのか」
「まだ半分だ。こっち持て」
「うわ!放り投げるな!」
 そろそろ持ち歩くにも限界だったのか、ガウェは重ねただけで紐で縛ってもいない数冊の厚い本を勢いをつけて投げ寄越した。
 ニコルを潰す勢いでうまい具合に投げられた書物達は、反射的に動けたニコルのお陰で一冊も取りこぼすことなく事無きを得る。
 書物の選別から何からなんの役にも立てないニコルは文句もほどほどに書物をテーブルに置き、その一番上の表紙を何気なく開けて。
 いくつかの模様と馴染み始めた名前が目に入った。
「…メディウム」
 かつてエル・フェアリアに十数名存在した治癒魔術師の女達。
 彼女達のあらゆる情報を記したらしいその中に見知った模様を見付けて、ニコルは息を飲んだ。
「…似ているだろ?アリアの礼装に施された模様に」
 ファントムがニコルとアリアに寄越してくれた見事な礼装。
 礼装には個人を印す特別な刺繍が模様として施され、それにより個人が何者であるかを知らしめるのだ。
「ああ…だが」
「アリアの礼装の模様はもっと複雑だった」
 ニコルはファントムの真実に近付く為に、ガウェはリーンを取り戻す為に手を組んだ。
 礼装を調べ、その先にあるかもしれないファントムの情報を求めて。
 アリアの礼装には、メディウム家の証である模様に似た刺繍が細かく刻まれていた。
 それは母がかつて王城にいたという何よりの証拠だった。

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 兵舎内周の自室に戻ったアリアは、厚みのある柔らかなベッドに腰掛けた後、すぐにそのままパタリと上半身を倒した。
 考えないようにしても脳裏を過るのは、シーナというあの娘の事だ。
 数ヶ月前に一度だけ会った。
 会ったと言えるのかどうかは疑問だが、互いに覚えていることは今日わかった。
 アリアの目の前で、あの人に愛おしむように抱き締められた人。
 下位貴族だが平民と結婚したとガブリエルは言っていた。
 きっとあの人だ。
「っ…」
 胸が締め付けられる。
 駄目だ。やはりまだ、自分はあの人を。
 泣きたくなくて、痛むほど腕を掴んだ。服の上から爪を立てて、泣くものかと天井を睨み付ける。
 きっとガブリエルは調べ上げたのだろう。そしてアリアが苦しむとわかった上でシーナを自分の付き人にした。
 そう考えて、考えることを放棄しようとさらに爪を立てる。
 ゆっくりでもいいから忘れたかった過去を。時間が癒してくれるはずだった心の傷を。
「…ざけんな」
 えぐられてたまるか。
 アリアが欲しかった場所にいる女性。
 シーナ。
 あの人の隣にいる彼女が憎い。
 でも。
 あの人が選んだのは彼女なのだ。
 ならばもう気にしない。
 気にしていないように見せてやる。
 ガブリエルを楽しませるものか。喜ばせるものか。
 辛かろうが苦しかろうが。
 胸の奥に抑え込んで。
 ああ、でも。
 今この状況で兄に会えない事が悲しい。
 甘えちゃいけない。負担になってはいけない。
 それでも、少しだけ支えになってくれたら。
 レイトルへの思いは、まだわからないから。
 支えになりたいと言ってくれた男性だが、微かに胸にレイトルの居場所があることは自覚していても、まだ。
 まだ今のアリアには、ニコルだけが唯一無条件で心から信頼出来る人なのだ。
 ニコルはいつだってアリアの拠り所だった。
 手紙のやり取りだけで、どれほど慰められていたか計り知れない。
 今のアリアにとって唯一の家族なのだ。
 ニコルには実父がいてくれて、彼はアリアの事も大切な子供だと頭を撫でてくれたが。アリアにはもう。
「兄さん…ととさん…」
 二人に会いたい。
 兄に会いたい。
「…ドレス」
 彼がくれた、ニコルと揃いの礼装。
 彼はいつだって、何でもお見通しだった。
 兄に会えない寂しさから、昨日の明け方も手に取った礼装を引っ張り出そうとベッドを下りて、体をかがめてベッドの下に手を伸ばして。
 そこにあるはずの、隠していた革のケース。
「----」
 だが、手のひらに感触は広がらなかった。
 どういうことだと頭を床すれすれまで近付けてベッドの下を覗き込めば、そこには何も存在していなくて。
 ザアッと血の気が引く感覚に苛まれて意識が遠退く。
 だがそんな場合ではない。
「…無い…なんで?」
 青ざめながらもアリアは身を起こし、もう一度ベッドの下を覗き込んで、改めて無いことを確認した。
 昨日の朝は確かにあったのに。
 昨日、ケースを引っ張り出して、中の礼装を眺めて、また直したのに。
 直したことを確認もしたのに。
 なぜ存在しないのだ。
「なんで…」
 あまりのことに心臓が激しく脈打ち始める。
 呼吸が難しくなる感覚。
 大きな革のケースだ。どこかにあるはずだから。
 慌てすぎたアリアはサイズ的にも有り得ないタンスや物入れに手を伸ばし、衣装棚に手を伸ばし。
 見つからない事に気を取られすぎてしまった。
「きゃあ!!」
 衣装棚を引き倒してしまい、アリアの悲鳴を遮るほどの凄まじい音が響く。
「--アリア!?」
 途端に扉は開かれて、護衛として扉の向こうにいてくれたレイトルとアクセルが飛び込んできた。
 アリアは尻餅をついた状態で、ぎりぎりのところで衣装棚の下敷きにならずに済んでいて。
「…ご、ごめんなさい!引き倒しちゃって…」
 慌てて立ち上がろうとしても、混乱した頭は足をもつれさせた。
「はあ!?」
「大丈夫かい?」
「…ごめんなさい」
 唖然とするアクセルをそのままにして、レイトルが身体を支えて起こしてくれる。
 そしてアリアを少し離れた場所に移動させてから、レイトルは衣装棚も起こしてくれた。
 何着も用意され吊るされていた魔術師団の女性用ローブを拾ってくれて、簡単に棚に戻して。
「賊が入ったわけじゃないよね。何があったの?」
 レイトルの優しい声に涙腺が緩みそうになる。
「…あの…無いんです」
 泣いている場合じゃないと自分を戒めてみても。
「何が無いの?」
「あの、あれ…あれ」
「…落ち着いて」
 困惑した頭は言葉を浮かばせてくれない。
 無くなったものを口にしようとしても、焦って慌ててうまくいかないのだ。
 レイトルとアクセルは急かさず待ってくれて、
「ふく…礼装…ベッドの下に置いてたのに…」
 ようやく口に出来た無くした物の正体に、二人は目を見開いて驚いた。
 礼装を調べてみようとレイトルに提案されたのは、つい昨日の昼前の事だ。
「本気で言ってる?」
「他の場所には?」
「探しました!でも見つからないっ…」
 礼装を調べる件については結局ニコルが捕まらなかった為に流れてしまったが、大切なものであることに変わりなくて。
「落ち着いて…」
 動揺して呼吸の乱れるアリアの両腕を優しく掴むレイトルにベッドに促される。
「…盗まれた?」
「そんな!!」
 しかしアクセルに盗まれた疑いを教えられて、アリアは頭の中を真っ白に染めてしまった。
 盗まれたなど。
 大切なものなのに。
「…アクセル、みんなを呼んで。私はアリアと部屋を片付けながらもう一度探すから」
「わかった。ニコルにも?」
「ニコルは今日は城下に降りてる。帰ってからだ」
 こんな時に、一番傍にいてほしい人がいないなんて。
「すぐ戻る!」
 部屋を出るアクセルが扉を閉めて、駆け足を微かに響かせて去っていく。
「…どうしよう…なんで…」
「落ち着いて」
 残ってくれたレイトルは片膝をついて、ベッドに座るアリアに視線を合わせてくれる。
 レイトルの方が目線が下にある状態で、小刻みに震えるアリアの手を握りしめて。
「最後に礼装を見たのはいつ?」
「…昨日の朝はありました」
 昨日の朝は確かにあったのだ。ベッドの下にも直した。全て覚えている。
 なのに。
「どうしよう…大事なものなのに」
 無くしてしまった。その事実に改めて気が遠退き、意識を留める為にレイトルの手のひらを強く握り返す。
 大きくて熱い手。
 アリアの体温が焦りから下がりきってしまったせいで、異様なほど熱く感じた。
「アリア、落ち着いて。とりあえず片付けよう。みんなが来るから」
「…はい」
 室内はアリアが引き倒してしまった衣装棚の中身が軽く散乱してしまっており、このままではさすがに体裁が悪すぎると。
 落ち着かせる意味合いも込めて提案してくれるレイトルに言葉だけで頷いたが、結局アリアは強張った身体をほぐすこともままならず、レイトルに全てを任せる結果に終わってしまった。

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 星々の瞬き始める時間帯にハイドランジアの屋敷の屋根の上で寝転がったのは、外の空気に当たりたかったわけでも一人になりたかったわけでもない。
 いや、ある意味では一人になる為か。
 両手を合わせて固い屋根から後頭部をかばうようにして。
 パージャは肌寒い微風を感じながら彼の話を聞いていた。
 仲間と言うには信用することなど出来ない恐ろしい彼の言葉を。
「--へえ、じゃあお姫様けっこう順調なんだ」
 脳内に届く声はラムタル王城で保護されているリーンの現状を伝えるもので、声の主はファントムだ。
 パージャの体には、ファントムから無理矢理切り離された魂が闇色に変化して宿っている。
 云わばパージャは、パージャという個でありながらファントムの分身でもあるのだ。
 そのおかしな能力を使い、交信を続けて。
『お陰でお前達への頼み事が間に合いそうだ』
「え?なに、こっちでの仕事マジであるんだ」
『でなければお前達をエル・フェアリアに戻すはずがないだろう』
 パージャとエレッテが早々に王都に戻された理由はあると告げられて、普通に驚いてしまう。
「ふーん?俺はてっきりウインドの件だけだと思ってたんだけど」
 エレッテが他の男と二人で手の届かない場所に行くなど、一応エレッテの恋人であるウインドに許せるはずもなく、近々ラムタルで開催される剣武大会でウインドを勝たせる為だけにエル・フェアリアに戻されたと思っていたパージャの脳裏に、鼻で笑うファントムの声が響いた。
「…あんたってホント、何考えてるかわかんないよね」
 闇色の虹を身に受けた者達の中で、パージャはガイアとルクレスティードに次いでファントムとの交流が長い。
 期間にすれば十年前後か。その程度でファントムを理解しようなど無理だとはわかっていても、小言くらいは言いたくなる人使いの荒さだ。
『生きた年数が違うんだ。それとお前に言われるのは心外だな』
「えー、俺はとってもわかりやすいでしょ」
『ぬかせ』
 数えればファントムは72歳になるのか。だが見た目は呪いのせいで暗殺事件があった44年前当時のまま。
 28歳のままファントムの時は止まってしまった。
 それとも、エル・フェアリアの王子ロスト・ロードとしては44年前に死んでしまい、新たにファントムが産まれたと考えるべきなのだろうか。
 果たしてパージャが手を貸すファントムは人間なのか、亡霊なのか。
「…ま、こっちはあんたからの指示を待つとしてさぁ、そっちはどう動くのよ?」
 考えても意味のない事に頭を使うなど馬鹿らしい。パージャは現状はもういいからと今後の展開を訊ねて、
『ウインドに“存在を知られるように暴れろ”と命じた所だ』
 既に次の段階に入っていた事実に、目が回るかと思った。
『ラムタルの闇市でな』
 ファントムの言葉の軽さはいつも通りとして、どうして早めに動きを教えてくれないのか。
 ラムタルの闇市でウインドの正体が発覚すれば、すぐにエル・フェアリアの闇市にも伝わるだろう。
 闇市なら今日行ったばかりだというのに。
「…黄都領主様が飛んでくぜ?」
 エル・フェアリアの闇市をさらに陰で牛耳るのは最上位貴族である黄都領主ヴェルドゥーラで、今の黄都領主はリーンを盲愛するガウェだ。
 ラムタルの闇市で存在を知られたら必ず動くではないかと心配するが、ファントムはどこまでも見通している様子だった。
『いや、あれは来ないさ』
 ガウェが何らかの形でファントムの駒にされる可能性には気付いていたが、こんな形では危なすぎるだろうと懸念してもさらりと否定されて一瞬だが言葉に詰まってしまった。
「…なんでわかるのさ?ガウェ・ヴェルドゥーラのリーン姫への執着心は異常だぜ?」
 パージャは目の前で見たのだ。ガウェの異常性を。それでも。
『来たくても来られん理由がある。それに釣りたいのは別の者だ』
 次から次に、ファントムは大事な件をさも当たり前であるかのようにさらさらと流していく。
「…あんたの計画に必要なのって、黄都領主だけじゃないの?それとも今更ニコルどんを呼び戻すつもり?」
『待っていればわかるさ』
 呆れながら誰を釣りたいのか訊ねても、結局秘密にされて。
 そしてその秘密も、きっとふとした拍子にさらっと暴露されるのだ。
 人使いが荒いのか、馬鹿にされているのかわからない。
「…待たされる身にもなってくれないかなぁ…」
 待っていてねとミュズが言ってくれたなら喜んで待っていられるが、悲しい事に現実は無情にも72歳のジジイだ。
「まあ…大人しく待ってるとしてさぁ…」
 そろそろ交信が終わりそうな様子を察しながら、パージャは今日の出来事を一応伝えておく。
 闇市に向かった先で、魔術兵団が動いている事実を。
 魔術兵団がパージャだけでなくファントム達全員の脅威であることは、揺るぎない事実なのだから。

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 部屋の隅で静かに瞳を閉じるファントムにちらりと瞳を向けてから、ガイアは話の途中だったリーンへと浮かない表情のまま顔を戻した。
 ファントムは恐らくエル・フェアリアに戻らせたパージャと交信しているはずだが、内容までは知らない。
「…父上は結局、子の名を明かさぬようだな」
 リーンの痛みを引き受ける為だけに生まれたと口にする大人びたリーンは、ベッドに横たわったままそう話し、ガイアはさらに表情を暗くする。
 リーンが父と呼ぶのはファントムで、ファントムにはニコル、ルクレスティード、リーンの他にもう一人子供がいて。
「…知りたいか?」
 リーンはそれが誰なのかを知っているのだろう。冷めた中に宿る真剣な眼差しは、ガイアにファントムの子供の最後の一人を早く知るべきだと告げてくるが。
 寂しく微笑んで、ガイアは首を横に振る。
「…私に教えてしまったら…いくらあなたでもロードが怒るわ」
 ファントムはガイアに最後の一人を話そうとしない。
 いつものようにガイアには意味の無いことだから教えてくれないのだろうが、胸に刺さる小さな痛みの理由は何だろうか。
 ファントムは子供すら道具としてしか見てはいない。その事に対する不満か、それとも妻という立場にあるから悲しいのか。
 誰に産ませたのかもわからない、どんな子かもわからない。
 リーンがファントムの娘だとわかった瞬間、確かにガイアは悲しかった。
 その悲しみの本質となる理由は、ガイアが“母”でありたいという願いで。
「健気な奥方だ」
 健気な。
 そう成らざるをえなかっただけなのに。
「お主の末の子は健やかで優しい。異母姉として誇らしい限りだ」
 リーンがどこまで知っているのかはわからないが、ルクレスティードが優しいと言われた理由のひとつを知っているので、ガイアはようやく少しだけ心から笑うことが出来た。
「蝶を譲ったとか」
「ああ。今は父上がいるので隠れているが…あの蝶はリーンを癒してくださる」
 ルクレスティードが見付けた、魔力を持つ純白の不思議な蝶。
 蝶は知性があるかのような振る舞いを見せて、ファントムがいない時はいつもリーンに寄り添っている。
 同時にルクレスティードもよくリーンの元に訪れるようになり、リーンとの繋がりを知るかはわからないが、二人は姉弟、あるいは兄妹のように親しくなっていた。
 リーンの言葉では、幼い当時の人見知りの激しかったリーンも、ニコルにはすぐ心を開いたらしい。
 ガイアが産んだルクレスティードとニコルは確かにリーンと血の繋がりがあるのだ。そして。
「…父上の子はリーンを含め四人だ。早いうちに存在を知っておけ。でなければ…」
 最後の一人をと、わずかに焦る様子を見せながらリーンは語り、
「…父上はそなたを失うことになる」
 物騒な言い回しに、悪寒がガイアの背筋をゾクリと舐めた。
「…それは、私が死ぬと?」
 最後の一人がどれほど重要な存在か。
 そう教えようとするリーンの様子は、おぞましい化け物を相手にするかの様だった。
 早くガイアは知らなければならないと。でなければファントムがガイアを失うと。
 それは不死であるはずの肉体が滅ぶことを意味すると思ったのに。
「いや。そなたが父上から離れる選択肢を選ぶことになる」
「--…」
 死ぬよりも有り得ない未来に、思わず笑ってしまった。
 自分自身を抱くように腕を組んで、リーンから視線を逸らして。
 ガイアがファントムから離れるなど有り得ない。
「…そんなこと…出来ないわ」
 ガイアの身体には、何重もの魔術がかけられているのだから。
 ルクレスティードという切り離せない緊縛のような絆をあてがわれて。
 躾と銘打つ恐怖に縛られて。
 強すぎる魔力に囚われて。
 その身で、どうやって逃れられるというのだ。
 卑屈な思いに口元が歪む。いっそ腹から笑ってしまいたいのに、心が許さなかった。
 だがリーンはまるで未来が見えているかのように、ガイアを見つめたまま遠い目をして。
「……父上の魔力は無理矢理分かたれた今でも凄まじい。だが結局は不安定な魔力で縛り付けているに過ぎぬ。それすら振り払うほどお主を苛む苦しみに耐えられるほど、今の父上の魔力は万能ではないわ」
 今の完全でないファントムでは、ガイアを永久に束縛することは不可能だと。
 その言葉が真実なら、なぜ今のガイアでは敵わないのだ。
「…私から聞くつもりがないなら、早く父上の口を割らせよ…そうでなければ…」
「--無駄口を叩く暇など無いはずだが?」
 ふと肩を引き寄せられて、頭上から低い美声が静かに響いた。
 慣れた感覚に一瞬強張る身体はすぐにほどける。
 ファントムに肩を抱かれて、そっと見上げて。
 目が合えば、優しい微笑みを返された。
 ガイアが拒みさえしなければ、ファントムは優しく穏やかに接してくれる。
 彼から逃れるなどやはり有り得ないと改めて痛感するのは、その優しさに身を委ねてしまうガイアが確かに存在するからだ。
 それすら躾られた結果なのだろうが。
 ガイアの肌は、ファントムの機嫌を敏感に察知する。
「つくづくおぞましい男だ」
「知った口を」
 本当に父娘なのかと問いたくなるような腹の探り合いを見せるファントムとリーンに、挟まれたガイアはただその場にいることしか出来なくて。
「忘れたか?リーンは彼の流れの中に五年もの間浸されておったのだぞ?」
 突然ゾッと、ガイアの背筋が粟立った。
 ファントムに触れられた箇所から広がる恐怖。
 リーンはいったい何を知っているのだ。
 恐らくファントムの策略から土中に生き埋めにされたリーン。
 ただ埋められただけでないことはわかっているが、何を味わわされたと言うのだろうか。
 15歳の幼い姫が、ファントムの機嫌を損ねるほどの何を知っていると。
「彼の流れは苦しみと共に多くの情報を与えてくれた。父上が知らぬ情報も、勿論--」
「…行くぞ」
 会話の途中で強い力で肩を引かれて、無理矢理リーンから離される。
 抗う術などわからないガイアには、ファントムに引かれるままになるしかなくて。
「…ロード」
「金輪際この部屋には入るな。ここでのお前の果たすべき義務はもう無い」
 ファントムから溢れる苛立ちが触れられた肩からダイレクトに伝わって、全身が強張ろうとする。
 引かれるままに扉から部屋の外に出され、リーンに目を向けるより先に扉を閉められ。
 強引で、勝手で。
「…リーン姫にはまだ治癒が」
「お前でなくともラムタルに任せていればいい話だ…次は無いぞ」
 同じことを何度も言わせるなと。
 ファントムの怒りを受けて、いつものように自立の芽は潰えた。
 こんなに弱い意志しか持たないのに、どうやってファントムから子供の最後の一人を訊ねろというのか。
 それとも、このまま知らないままでいたら、ガイアはファントムから離れられることが出来るのか。
 邪な思いが脳裏によぎり。
「…無駄な足掻きはするな」
 思考を読まれたように頬を撫でられて、ガイアは全てを諦めるように俯いた。

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