第45話
第45話
夕暮れ時の王城内、侍女達が生活する為に割り当てられた区画の扉の前で、レイトルはアクセルと共にやや俯きながら待機していた。
今はアリアの護衛時間なのだが、アリアの入浴の為にこちらに訪れているのだ。
いくらアリアが兵舎内周棟に部屋を割り当てられたとしても、風呂場まで男達と同じ場所は使わせられない。
その為にアリアの入浴には毎回侍女達の風呂場に向かうのだが。
「すっごい恥ずかしいんだけど…」
照れて顔を赤くするアクセルの呟きに、レイトルは同意見だと頷いた。
扉の前で待つことに不馴れな二人には、侍女達のクスクスと微笑む視線はただただ痛いものだった。
貴族階級が中位の中でも高い位置にあるレイトルと、下位とはいえ魔術師団の若き実力者として出世頭であるアクセル。
未だ婚約者のいない二人は、夫探しに余念がない侍女達にとっては見逃せない存在で。
「ニコルはこれに毎回耐えてたんだね」
侍女達のあからさまな眼差しを避けながら、レイトルは今までこの場所でアリアを守っていたニコルに感心する。
ニコルはニコルで下位貴族達の注目の的だったはずで、そうでなくても彼の容姿が娘達の目を引く事をレイトル達は充分すぎるほど知っていた。
同時に平民という立ち位置にあるニコルに向けられる眼差しは好意的なものばかりではないはずで、見下し蔑む眼差しも受けていたはずだ。
「…天空塔を治癒魔術師専用に使えるよう本気で申請しようかな」
「せめてエルザ様が治癒魔術師として活躍されるようになれば有り得る話だけどね」
アクセルの要望は天空塔の本来の使用法を知っていれば治癒魔術師の当然の権利なのだが。
「アリア一人だけの為には難しいか…」
天空塔は、以前は治癒魔術を操る巫女の一族であるメディウム家の居住塔だった。
だが数十年前にメディウム家が忽然と姿を消した今となっては王家の力の象徴という認識が強く、アリアの為だけに天空塔を使うなど平民を嫌う貴族達から一斉に批判の声を浴びるだろう。
上層部にとってアリアはようやく取り戻したエル・フェアリア唯一の治癒魔術師ではあるが、平和に慣れた者達にはアリアの存在価値はわからないのだから。
国にとってどれほど重要な娘か。
だから、国はアリアに良質な魔力を持つ子供を産ませたいわけで。
「どうかした?」
「…いや…何でもない」
表情を暗くするレイトルに気付くアクセルに顔を覗き込まれて、無意識に苦笑いを浮かべた。
レイトルの魔力ではアリアは手に入らない。
アリアがレイトルに心を許してくれるなら話は別かもしれないが、アリアの心を占めるのは未だにかつての婚約者なのだから。
恐らくはニコルを苦しめる為にガブリエル・ガードナーロッドが仕組んだ偽りの恋人。
しかしアリアはそこまでは知らない。
全てを言ってしまえたら楽になれるのに。
「--レイトル様!?」
もどかしい気持ちに心を締め付けられていたレイトルに驚いた様子で話しかてきたのは、レイトルが忌々しく思う女の妹だった。
扉から出てきたジュエルはわずかに嬉しそうに頬を染めたが、
「今晩は、ジュエル嬢」
「…こんばんは」
婚約者の件にジュエルが絡んでいなかったとしても、必然のように声に険が宿る。
ジュエルも気付いたのだろう。俯かれてしまい、さすがに申し訳なく思ってしまった。
「夜番?…なわけないね」
まだジュエルは未成年の少女で、以前はどうであれ今はアリアに歩み寄ろうとしていて。
それを知っているから、レイトルはなるべく親しみを込めて話しかける。
「あ、はい…」
夕方近くに侍女が区画の外に出るのは、大半が仕事だ。後は王城内にいる恋人との逢瀬に向かうくらいだろうが、ジュエルの思い人は恐らくレイトルで。
成人を迎えていない侍女は夜番からも外される事が多いので、ならジュエルが区画を出てきた理由を問おうとして。
「あの…アリア…さんを待ってるんですよね?」
先に問いかけられて、レイトルとアクセルは同時に顔を見合わせた。
「そうだけど、どうかした?」
「あ、今ならまだ中だから会えるよ?」
少し困惑の表情を浮かべるジュエルはアリアに会いたいという様子ではないが、会いたいならと笑うアクセルにジュエルは顔を向けて、さらに困惑も強く眉尻を下げてしまう。
「あの、お姉様が戻られるので…」
ジュエルの姉であるガブリエルがアリアと不仲であることは当然ジュエルも気付いており、困惑の理由はそのせいらしい。
アリアとガブリエルが鉢合わせしてしまったら。
ジュエルはアリアと仲良くしたいと思ってはいるが、家族である姉を嫌うことも出来ないはずで。
「時間的にもお姉様が戻られるのはすぐなんです…なので」
出来るならガブリエルが戻らないうちに。
しかし無情にもジュエルの願いが潰えた瞬間を、彼女の表情から知ってしまった。
「あら、ジュエルったら。手が早いのね」
レイトルとアクセルが背中を向けていた通路から聞こえてきたのは高慢な女の声で、幼い恋心を相手のいる前で笑われたせいか、ジュエルは恥辱を受けたように顔を真っ赤にして俯いてしまう。
冗談で言ったにせよ、手が早いなど。
「こんばんは、レイトル様。ジュエルとどんなお話を?」
侍女でありながら姫と見紛うほど美しい藍のドレスを纏うガブリエルは、背後に付き人の二人を従えてレイトルだけに話しかけた。
下位貴族であるアクセルは完全に眼中に入っていない様子だ。
簡素な薄藍色のドレスを纏う付き人は二人共俯いているが、一人はニコルに変質的な恋愛感情を抱くイニスで、もう一人は見たことのない娘だった。
「いえ。我々は治癒魔術師の護衛でこちらに」
卑怯なものに、こそこそと隠れ逃れるつもりはない。
レイトルはガブリエルに向き直りながらアリアの為にいることを告げれば、隣でアクセルと、背中側となったジュエルが息を飲む様子に気付いた。
何があってもアリアは守ってみせるとガブリエルと対峙するように見据えるレイトルの前で、ガブリエルはまるで望んでいたかのように口元を笑みの形に変える。
「こんな時間なのに大変ですのね。お可哀想に…」
可哀想。
それはレイトルがこの世で最も嫌う言葉だった。
考えないようにしても瞳は鋭くなってしまう。
「何かご用でも?」
「あら、用がなければ話しかけてはいけませんの?」
「私達は護衛中の身ですからね」
仕事の邪魔をするなと暗に告げても、ガブリエルにはどこ吹く風だ。
レイトル達を見つけた時点でガブリエルはアリアがいることにも気付いたはずで、アリアに何かしでかすつもりなのだろう。
「ずっと拘束されていますものね…ゆっくりと落ち着ける時間が無いなんて酷いですわね」
世間話の体を装いながら、アリアが出てくるのを心待ちにしながら、アリアを蔑む。
「…お心遣い感謝します。ですがご安心を。アリアの平穏な姿を見られるだけで私共は安心して心を落ち着かせられますので」
あからさまにガブリエルを非難する言葉は使えない中で、アリアの為に言葉を選ぶ。
胸中穏やかでないのはレイトルよりジュエルだろうが、まだ幼いジュエルには姉を連れてどこかに向かうなり部屋に戻るなりといった強引な手段はまだ出来ない様子だった。
「何でしたら私から進言して差し上げましょうか?治癒魔術師の護衛にここまで力を使う必要は御座いませんでしょう?」
「アリアはこの国で王家に次ぐ重要な存在です!勝手な判断はやめてください!」
上位貴族の出自であることを鼻にかけた危ない発言には、アクセルが目を見開いて怒りを見せた。
ぴりつく場では基本的におろおろと弱い立場に回ってしまいがちなアクセルが強い口調で責めるが、下位貴族というだけでガブリエルには完全に流されてしまう。
だがモーティシアやトリッシュが口を開くよりはましだったろう。
ガブリエルの発言を堂々と馬鹿にする二人がガブリエルに口を開いてしまったら、下手をすると御鉢は全てアリアに回る。
ガブリエルはアクセルをまるで汚れでも見るかのように一瞥しただけで、すぐに視線をレイトルに戻した。
ここまであからさまな差別を受けたことが無かったのか、アクセルはそれだけで言葉を詰まらせてしまう。
そして悪いことは続くもので。
小さな音を響かせて、大きな扉が開かれる。
力の弱い侍女達でも簡単に開けられるよう見た目のわりには軽く作られた扉から姿を見せたのは、ニコルとよく似た銀の髪を艶やかに濡らしたアリアだった。
「あ…」
最初はジュエルを目にして微笑もうとするが、ガブリエルもいることに気付きアリアは固まって。
「アリア。忘れ物は無い?」
レイトルはすぐに動いた。
アリアの肩を軽く引き寄せれば、ジュエルの瞳が悲しそうに揺れてしまう。
それでもレイトルはジュエルを気にするつもりはなくて。
「…はい。大丈夫です」
「じゃあ行こうか」
アクセルにも合図を送り、兵舎内周に戻る為に通路を進む。
「それではジュエル嬢、ガブリエル嬢、我々はこれで」
レイトルの言葉にジュエルは小さく頭を下げ、ガブリエルは嫌な笑みを浮かべたまま佇み。
ガブリエルとイニス達付き人の隣を通り過ぎた時だった。
まるで時間が止まってしまったかのようにアリアが固まり、数秒してから恐ろしいものに目を向けるかのようにゆっくりと付き人に顔を向ける。イニスにではない。もう一人の知らぬ娘へ。
同時にその付き人も悲しむような表情をアリアに向けて、二人の目が合った。
その付き人の年の頃はアリアと同じくらいか、少し上か。
わざとらしく振り返るガブリエルが、固まるアリアに今気付いたかのように付き人の両肩に手を置いた。
親しみというよりは勝ち誇るかのような笑みを浮かべて、ガブリエルは娘を軽く引き寄せる。
「ああ、紹介がまだでしたわね。こちらは下位貴族のシーナ。結婚したばかりなのですが、これから私の付き人としてこちらで働くことになりましたの」
ガブリエルの紹介の後にシーナは黙ったままお辞儀をする。
扉の前ではジュエルが訳もわからず首を傾げるが、アリアの表情がスッと消えて、一瞬俯きかけたがすぐに持ち直した。
シーナ。
シーナ・スルーシア。
セクトルの兄が掴んでくれた情報の中にあった、アリアの元婚約者の本来の恋人。
なぜ彼女がここにいるというのか。
レイトルは気遣うようにアリアに目を向けるが、レイトルが思うよりアリアは強かった。
以前レイトルに涙を見せてくれたアリアはここにはいない。
「とっても素敵な方ですのよ。侍女ではありませんが皆さんも是非仲良くしてあげて。旦那様は平民の方だから王城には入ることは出来ませんが、王都にいらっしゃいますの。ね?シーナ」
「は、はい…」
わざとらしい親しげな猫なで声に、シーナはびくりと肩を震わせる。
ここまでするか。
七年前、ニコルに相手にされなかった恨みを、ここまで。
アリアが未だに元婚約者を思っていることに気付いているかどうかはわからないが、ガブリエルの行為は確実にアリアの心を潰すものだ。
アリアの心の支えになりたいと願ったのはレイトルで、きっと今のアリアは苦しいはずで。
「…ア」
アリアを庇おうと伸ばした手は、無意識に引いてしまった。
アリアが微笑んでいたからだ。
アリアは決して弱くない。
むしろ強い娘なのだと改めて理解するように。
「そうですか。初めまして。治癒魔術師のアリアと申します。治療に関してお困りの事がありましたら、医師団の方へ申請なさって下さい。選別は行いますが、治療いたしますので」
事務的な声と笑顔は固い。
喉に張り付きそうになる言葉を無理矢理出しているかのような、微かにかすれ震えた声。
それでも、アリアは微笑み続けた。
「…ありがとう、ございます」
「では失礼します」
シーナはアリアの笑顔に戸惑いを隠せないように視線を泳がせ、先頭を切るようにアリアは歩みを再開させた。
ちらりと後ろに目をやれば、ガブリエルの苛立つような眼差しがアリアに向けられており、それ以上レイトルも顔を向けることをやめてアリアの後に続く。
無言のまま歩くアリアの今の表情は後ろにいるレイトルにはわからない。
「新しい子も大変だな…ガブリエル嬢に捕まるなんて。下位貴族なら拒否権も無いだろうし」
「…そうですね」
アクセルのぼやきにアリアは身の入らない返答をして。
レイトルがシーナを知っていることをアリアは知らない。
ここで抱き締めることが許されるならよかったのに、レイトルはまだ簡単にアリアを抱き締められる立場にはいないのだ。
だから。
少し歩みを早めて、アリアの隣に立って。
自分よりわずかに低い位置にあるアリアの頭を優しく弾ませるようにポンポンと撫でれば、アリアが驚きながら見上げてきた。
「…何ですか?」
「ん?何となく」
理由など言えないが、慰めたかった。
きっとアリアは強がるだろうから、強がらせないように行為に意味など無いのだと笑って。
「…変なレイトルさん」
つられて笑ってくれたアリアの笑顔は、先ほどと違い柔らかく、少しだけ嬉しそうな色を灯していた。
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