第29話


第29話


 昏々と眠り続けるガウェに意識を集中させて、アリアはその体に魔力を送り込んでいく。
 癒すべき傷は全て癒した。
 今のガウェには傷ひとつ存在しない。
 ひとつもだ。
 その姿に誰もが驚いた。
 穏やかな寝顔とは決して言えず、時おり呻くのは辛い夢を見ているせいだろうか。
 ガウェの噂は風呂場で侍女達の声の大きな内緒話からよく聞いていた。
 上位貴族の嫡子で独身で見目麗しいと揃って、若い女の子達が思いを馳せないわけがない。
 今回も侍女達の大半が大っぴらに口にはせずともガウェの看病に訪れたかったと聞かされたので、アリアがこうしてガウェの看病を行っていると知られたらまた変な嫌がらせでもされるのだろうなぁ、と少し憂鬱になる。
 唯一救いとなったのはジュエルの存在だろう。
 ジュエルがアリアに対しての悪口嫌味を止めてからは、面と向かった悪口は無くなった。
 ただし姿の見えない嫌がらせは増えたが。
 気にしていたらきりがないと言い聞かせて、仲良くしてくれる数少ない侍女達との交流を大切にしようと。
 少し悲しいのは、イニスが話しかけてくれなくなった事くらいか。
 ジュエルと入れ替わるように、初期から話しかけてくれていた内気な侍女のイニスがアリアを避けるようになった。
 そしてその裏には、どうやらまた厄介な上位貴族がいるらしい。
 ジュエルの姉だという、ガブリエルという侍女。
 ジュエル達から聞かされたのは、ニコルはガブリエルと痴情の縺れから一悶着あったらしいという内容だが、兄はガブリエルという名前にすら反応しなかった。
 すでに王城内で働いているそうだが、時間や場所が合わないのだろう、アリアがガブリエルに会ったことはない。
 それとも気付いていないだけか。
 すでに結婚して侍女を辞めた身でありながら、なぜ戻ってきたのか。
 ガブリエルが訪れた辺りから見えない嫌がらせの質が上がったので、正直悪い予感しかしなかった。
 アリアの勝手な予想だが、ジュエルに入れ知恵を行いアリアに嫌味を言わせていたのもガブリエルではなかろうか、と考えてしまう。
 ジュエルには大切な姉だろうから、アリアの胸中は絶対に口にはしないが。
「----……」
 ガウェがまたわずかに呻いて、しかし目覚める素振りは見えなかった。
「…苦しそうだね」
 心配そうに話しかけてくるのは、アリアの向かいに回っているレイトルだ。
 はい、と返しながら、アリアの手の上にかざされた大きな手を見つめる。
 アリアの治癒魔術の漏れを逃がさないように上手くサポートしてくれるレイトルの力は有り難かった。
 今まで自分がどれほど魔力を効率悪く使っていたかがわかる。
 ニコルもそうだから兄妹似ているんだよとレイトルは笑ってくれたが、実際にアリアとニコルに血の繋がりは存在しない。
…ととさん。
 ニコルの実父は今どこで何をしているのだろうか。
 今のこの状況も知っているのだろうか。
 そういえば、騎士達も侍女達も、ニコルとガウェは似ていると口にしていた。
 ガウェの顔をじっと見つめて、アリアはやはり首をかしげる。
 体格は似ているのかも知れないが、どうしても似ているとは思えなかった。
 恐らくそれは、ガウェよりももっとニコルと似ている人がいるからだ。
 周りはそれこそ似ていないと否定するが。
 ニコル。兄さん。
 どこに行ったのだろうかと脳裏に兄を思い浮かべたところで、部屋の向こう側が慌ただしくなった。
「…急患でも来たのかな?」
「それにしては、なんだか親しそうですが…」
 一度手を止めようかと話してガウェへの処置を一旦区切ったと同時に、奥の部屋にあたるアリア達のいる部屋へと大柄な男は顔を覗かせてきた。
「--…ガウェはどうだ?」
「ニコル!いったいどこにいたんだい!?」
 顔を覗かせたニコルのやや疲れた様子にアリアはすぐ気付いたが、レイトルはそれどころではないとでも言うように立ち上がる。
「…さっきからボーッとしたり突然いなくなったり、お前らしくないぞ…」
 扉の替わりに取り付けられたカーテンの向こうから、セクトルがニコルの背中を押して中に向かわせつつ自分も入ってくる。
「…悪い。緊急の話があって…」
 どうやらふと騒がしくなったのは、向こう側にいたセクトルが、ニコルが戻ってきたことに驚いたかららしい。
「…ガウェはまだ目を覚まさないよ。アリアが定期的に治癒魔術で安定させてはいるから大丈夫だろうけど」
「…そうか」
 レイトルがガウェの容態を告げれば、疲労の濃い顔にさらに影が深くなった気がした。
「ニコル?戻ってたんですね」
 そこに、別件で少しだけ部屋を抜けていたモーティシアも戻ってくる。
「離れてすまなかった」
「構いませんよ」
 名目上とはいえ、ニコルは治癒魔術師護衛部隊の副隊長だ。勝手な真似を謝罪すれば、隊長であるモーティシアは仕方無いと肩をすくめて笑うだけに留めてくれた。
「アクセルとトリッシュは我々の食事を取りに行ってくれています。治癒魔術を必要としている怪我人もまだまだ数十人いますから、当分はここを拠点に缶詰めになるでしょう」
「そうか…わかった」
「…本当に君らしくないよ。少し休んだら?」
 モーティシアの簡単な現状説明にもわずかに上の空の様子にレイトルも心配そうに休憩を促すが、ニコルは引きつるように無理矢理笑って首を横に振った。
「大丈夫だ。…魔力を使いすぎただけだろう」
「…フレイムローズの魔眼の術下にありながら生体魔具を出したんだ。仕方無いな」
「…悪い」
 アリアにはわからないが、ニコルとガウェは相当な無理をして天空塔から無理矢理飛び離れたらしい。
 以前アリアも乗せてもらった飛行型の魔具。
 ニコルの魔具は鷹の姿で、ガウェの魔具は巨大な烏の姿らしい。
 フレイムローズの魔眼の下にいながら、無理矢理。
 もしかして、ガウェが目覚めないのも、強引に力を使ったからなのだろうか。
 アリアも魔力の使いすぎで数日眠り続けた過去があるので、有り得ないとは言えない。
「さあ、座っていてください。体力係に体力が無いのは困りますからね」
 モーティシアはニコルを椅子へと促し、体力係などというわかりやすい形容に皆が笑う。
 アリアがもどかしくなったのは、それくらいからだ。
 ニコルがアリアを見てくれない。
 というか、わざと視線を避けていないだろうか?
「…なあセクトル、フレイムローズに会いに行ったんだろ?どうだった?」
 段々もどかしさが不満に変わっていくが、それでも兄はアリアを見ようとはしなかった。
 椅子に座り、壁に背を預けているセクトルに目を向けてフレイムローズの心配を。
「食事を取らないが、それ以外では大丈夫そうだ。意識もある…だけど…」
 そこで口ごもるセクトルに、ニコルだけでなく全員の目が向かう。
 この中でフレイムローズに会いに行っているのは食事を運ぶセクトルだけだ。
「何かあった?」
「ああ…まるでコウェルズ様に接するように、ファントムに心酔している」
 その言葉に、全員同時に息を潜める。
 フレイムローズがどれほど王家に、特にコウェルズに忠誠を誓うか。まだ日の浅いアリアでも理解出来ているのに、そのフレイムローズがファントムを?
 それほどまでに驚ける内容であった為に、アリアはニコルが唇を噛む一瞬を見逃してしまった。
「…闇色の髪をしたパージャは、自分がリーン様と同じ存在だと言っていましたね…後から現れた青年も、同じく闇色の髪をしていましたし」
「ファントムの一団と交戦した部隊も言ってたな。全員が闇色の髪をしてたそうだ。リーン様とよく似た闇色だったと…」
 モーティシアがふと思い出した言葉に、セクトルも頷いた。
 ファントムの仲間だったパージャ。
「…リーン様は死んだとされた五年前から、何も食べていないらしい」
 そしてセクトルがフレイムローズから聞かされた事実に、アリアとレイトルは眉をひそめる。
「…有り得ないだろう、そんな…」
「そう言い切れるか?パージャを見た後で…」
「…何が?」
 五年間も何も口にしないなど信じられるはずがない。アリアと同じことを考えたらしいレイトルが否定するが、またもアリアとレイトルがいなかった天空塔での話をされてしまった。
 闇色の髪のパージャを、アリアもレイトルも見ていないのに。
 首をかしげる二人にセクトルも困惑しており、レイトルがどこまで共にいてどこからアリアを連れて天空塔を後にしたのかわからない様子だった。
「…パージャは、何度体を切り刻まれても再生したんだ。ガウェに全身をバラバラにされても、魔術兵団に首を切り落とされても…そんなことなんか無かったかのように生きてた」
 そして一部始終を見ていたからこそ教えることの出来る有り得ない事実に、ただ言葉を無くして。
 体を切られても、首を落とされても?それで生きていた?
 そんなこと、治癒魔術でも不可能だ。
 たとえ傷を癒せても、死は免れない。
「あの場にいた全員が目撃しました。恐らくは呪いの一種かと」
「…呪い?」
 呪い。
 そんな呪いがあるというのか。
 死なないなど。
「…年を取らない、ってこともあるか?」
「…そこまでは何とも」
 ふと呟いたニコルに、モーティシアも困惑した返答しかできない様子だ。
 あらゆるものの答えを導き出すには、あまりにも経過した時間が短すぎるのだ。
「以前、パージャは自分の年齢がわからないと言っていたな」
「…平民なら、よくある話ですよ。あたしのいた村でも何人かいましたし」
 以前とはアリアがまだ王城にいない頃だろうか。だが自分の年齢をはっきりと知らない平民は珍しくはない。
 アリアとニコルは、両親が指折り数えてくれたが。
「…私達も天空塔を下りた後、闇色の髪の女性に会ったんだ」
 レイトルの言う女性とは、天空塔に戻ろうと躍起になったアリアを止めた人物だろう。
 どこか影のある、だがその影がさらに美しく彩るかのような印象的な美女。
「でもすぐにいなくなった。今思えば…あの女性もファントムの仲間だったんだね。歳はパージャより少し上くらいに見えたよ」
 年齢は、たしかにそうだ。
 見た目なら20代後半辺りで、落ち着いた雰囲気はもっと上にも思わせたが。
「ファントムの一団は、女が二人、男がパージャを入れて三人、子供が一人の六人組だったとか」
 モーティシアが思案するように口にしたところで、ニコルを纏う空気の何かが変わった。
 どうしたのかアリアが問いかける前に、口を開いてくれて。
「……七人だ」
 呟かれた言葉は、ニコルが上空からファントム達を間近で見たからだろうか。
「もう一人いたか?」
「フレイムローズやクルーガー団長は数には入りませんでしょう?」
 セクトルとモーティシアは首をかしげるが、ニコルは力なく首を横に振る。
「違う…リーン様を含めて七人だ」
 そして、自分でも信じられないと言うように。
「…何を言ってるんだ…」
 まるで拐われたリーンまでファントムの仲間であるかのような口調に、レイトルは咎めるように口調を少しきつくする。
 それでもニコルは思い当たる節がある様子だった。
「全員を俺は近くで見た…闇色の髪だったが、それぞれ異なる色だった。…全員がそれぞれ、虹の色を持ってたんだ」
 エル・フェアリアでは珍しい、闇色の暗い髪と瞳。
 それだけでも目立ちはするが。
「…考えすぎでは…」
「…いや、パージャは緋の色、パージャを助けた奴は青だった」
 否定しようとするモーティシアを押さえて、セクトルがパージャと、仲間の一人を思い出す。
「私達が会った女性は藍の色をしていたよ」
 レイトルは、アリアと共に見かけた女性の髪の色を思い出す。
「リーン様は緑…ファントムと思われる中心人物の髪は赤かったそうですが…」
 まだ半信半疑であるモーティシアも、自分が聞いたファントムの髪の色と、リーンの闇色の緑を思い出す。
「もう一人の女は黄色で、子供は紫だった」
 ニコルは全員を見たのだ。
 よく似て、だがそれぞれ異なる色の髪を。
「闇を交ぜた、虹…」
「--ぐぅっ!!」
 ガウェが発作を起こすように身をよじらせたのは、ニコルが呟いてすぐ後の事だった。
「ガウェさん!」
 突然体を仰け反らせたガウェに、すぐに反応できたのはアリアだけだ。
「っがあ!!」
「錯乱してます!体を押さえて!!」
 驚いて目を見開いているニコル達に、真っ先にガウェの体を抑えながらアリアは強い口調で命じた。
 アリアの力だけでガウェを押さえきれるわけがない。
「ガウェ!!」
「目を覚ませ!!」
 慌てて体を押さえるのはニコル達騎士三人だ。
「医師を呼んできます!」
「お願いします!!」
 この場にいない医師を呼び戻す為に背を向けたモーティシアに、アリアはがむしゃらに願った。
「この馬鹿力!!」
 足を、腕を、胴体を、頭を。
 錯乱して暴れるガウェは四人がかりでも大変だった。
 鍛えぬいた騎士の、さらに精鋭に名を連ねるガウェだ。
 振り上げようとする腕や足のあまりの力に、アリアの心に恐怖が芽生えた。
「アリア下がってろ!」
 ようやくアリアを見てくれた兄は、罵声のような声でアリアを下がらせようとする。
 だが無理だ。
 怖いが、下がることも出来ない。
 ガウェの肩を押さえたまま、アリアは強く首を横に振った。
 どうして突然錯乱したのだ。今まで呻いたりわずかに身をよじることはあっても、こんな酷く暴れ狂うなど。
 どうして。
 考えろ…
 全体重をかけて暴れるガウェを押さえつけながら、アリアは必死に考えた。
 意識は無いはずだ。眠った状態だった。
 時おり悪い夢を見るかのように呻くくらいで--
…夢?
「--リーン様は無事です!!」
 疑問が浮かんだ瞬間に、その言葉は口をついて出た。
「--っ…」
 ガウェの瞳が開き、最後に強く体を跳ねさせてから意識を取り戻し、静かになる。
 ぽっかりと空白の時間が存在するなら、今のような状況を言うのだろう。あまりに突然静かになるガウェに、ニコル達も呆けている。
「…気付いた?」
 訊ねるのは両腕と胴体を押さえていたレイトルだ。
 ガウェは目覚めたばかりの為か状況を理解するように浅い呼吸を繰り返す。
 完全に落ち着いた。そう誰もが気付いてガウェから体を離せば、ガウェも起き上がろうと両肘を下について上半身を持ち上げる。
「リー…さま」
 声が掠れて上手く言葉にならない。だがガウェは自分の居場所を探すようにリーンを呼ぶ。
 まるで迷子だ。
「急には動かないでください…まだ安静にしていないと」
 ガウェが起き上がる手助けに背中を支えながら、アリアはゆっくり動くように告げる。
「っ…」
 だが起き上がって頭痛が来たのか、ガウェは痛みを堪えるように背中を丸め、右手で顔を押さえるように俯いた。
 そして、違和感に気付いたらしい。
 驚くように、呆けるように、触れた顔の右側に、何度も何度も指を這わせて。
 無くしたものを探す仕草。あるはずのものが。
「…傷が……」
「ガウェさんの全身の傷を塞いで治す時に一緒に治ったんです。…眼球はもう存在しないので治しようがなくて、右目は空洞のままになりますが」
 ガウェの顔の右側に存在した醜い刀傷が、跡形も無くなっていたのだ。
 滑らかな皮膚は、傷の引きつりに慣れていたなら違和感しかないだろう。
「医師が義眼を作って入れられると言っていたよ」
 信じられないのだろう、何度もそこを押さえるガウェに、レイトルは医師の言葉を教えてやる。
 聞こえているのかいないのかわからないが。
 落ち着いてくれたなら、後は医師を待つだけだ。
 そう皆で顔を見合わせたと同時に、ガウェはベッドから降りようとした。
「…リーン様を探す」
 ふらりと倒れそうになったのかと思った。だが、ガウェは意志強い口調で立ち去る旨を告げてくる。
「落ち着いて。今ガウェが勝手に動いても見つからないよ」
「まだ城内は混乱してる。それにお前が一番酷い傷を負ったんだ。休んでろ」
「休んでなどいられるか!!今すぐにリーン様を探しに向かう!!」
 体を軽く押さえるレイトルとセクトルに、先ほど暴れた時と同じように暴力的にガウェは噛み付く。
「駄目です!冷静になってください!」
「私に構うな!!」
 アリアも止める為に動くが、ガウェの返答にカチンと腹が立った。
「あたしがいなかったらガウェさんは死んでたんです!!命の恩人のあたしに偉そうにすんな!!」
 早口で捲し立てれば、ガウェどころか全員が毒気を抜かれたように呆けて。
 アリアが怒らないとでも思っていたのか。辺境で逞しく生きた女を舐めてくれるな。
「ガウェさんはまだ絶対安静です。リーン様を助けたいなら、まずは自分の体を先に治してください!!」
 アリアの力などガウェの前には赤子も同然だろうが、それでもベッドに戻すアリアに素直に従ったのは驚きが勝りすぎたからだろう。
 あるいは女には強く出られないとでも言うつもりか。
「--じきに医師が来る。ガウェ殿は?」
「ちょうど落ち着いた所です。ありがとうございます」
 ようやく戻ってきたモーティシアは目覚めているガウェを見かけて胸を撫で下ろす。
 どこまでガウェが我慢してくれるかはわからないが、こうなればとことん止めてやる。
 治癒魔術師として決意を固めるアリアに、ガウェはその様子を眺めながら、やがて気になるのだろう、再び右頬や目元をしきりに確認するように触れ始めた。

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