第42話


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 背中を支えられ、座る体勢を維持する。
 しかしわずかでも支えが無くなれば、体はいとも簡単に体勢を崩して倒れた。
 ラムタル首都の王城内。リーンの為に用意された明かりの灯る一室で、リーンはベッドの上で癒術騎士のアダムとイヴに支えられて何度目かの体勢の維持を懸命に行っていた。
 ゆっくりと、焦らずに。
 動かない体を必死に。
 しかしほんの少し支えを無くしただけで。
「……」
 維持できずに体はまたすぐにベッドに倒れた。
 苛立ちに唇を尖らせる。
 それは毎日の事だった。
 身体中のマッサージと、食事。そして訓練。
 どの時間をとっても、体が自由に動いた試しが無い。
「リーン様…どうか気を楽に」
 イヴの切ない声が涙腺を刺激して、リーンは堪えきれずに涙を滲ませた。
「っ…」
 涙は溢さない。必死に止める。だが滲んだ分を拭う力も今のリーンには存在しないのだ。
「リーン様…」
 察したイヴが代わりに目元を拭ってくれるが、そんな簡単なことすら自分の力で出来ないことが悔しかった。
「に、さま…おね、さ、ま…」
 かすれる声で優しい兄と姉を呼ぶ。
 ラムタルで目覚めてから多くの疑問を胸に秘め続けた。
 なぜ自分はラムタルにいるのか。
 なぜ体は動かないのか。
 なぜここまで苦しいのか。
 胸に秘め続けた理由は、声すら上手く出ないからだ。
 上手く話せないから、胸に秘めることしか出来なかった。
 しかし最近はようやく、声はゆっくりとなら出るようになった気がする。
「今は我慢なさって下さい。リーン様のお体が治らなければ会えないのです」
 イヴとは反対の位置から、アダムに静かに告げられる。
「…ど、して?」
 会えない理由を、初めて問うた。
 飲み込み続けた疑問。
 アダムとイヴはリーンが問わないのは納得したからだろうと思っていたのだろうが、納得など一切してはいない。
 話せないから諦めていただけなのだ。
 その諦めも、リーンを癒す為に懸命に力を使ってくれた二人のお陰で消え去った。
「どうして、うごかな、ぃ、の?」
 枷を無くし、胸に秘め続けた思いを問う。
 なにもわからないリーンが、現状を納得する為に。
 しかし二人は困惑するように口を閉じてしまい。
 リーンがもう一度訊ねようとした所で、ふと白い何かが視界に現れた。
「---…」
 それは最近リーンの側にいてくれるようになった純白の蝶で、
「--リーン、お前は酷い病気を患ったのだ。それが治るまでは皆には会えん」
 蝶のさらに後ろから。まるで闇から現れるように、バインドが静かにそう教えてくれた。
「…びょうき?」
「ああ」
 母親も病弱だ。だからリーンは、病気がどれほど悲しいことか知っている。
 自分も病気だったなんて。
 そう思い目を伏せるリーンの隣に、バインドは静かに腰を下ろして。
「難しい病気だ…家族は好きか?」
 頭を撫でられて、その手のひらの大きさに胸が高鳴る。
 同時に問われた返事に少し頷いて、リーンは懸命にバインドを見上げた。
 横たわる状態のまま、懸命に。
「…お前は、今自分が感じている苦しみを兄や姉妹に味わわせたいか?」
「や!」
 こんなつらい苦しみを、大好きな皆に。
 考えただけでも涙が溢れそうだった。
 兄や姉だけではない。リーンにはまだ小さな妹だっているのだ。
「今会えば、その苦しみを移すことになってしまう」
 バインドは何度も頭を撫でて、リーンの心を落ち着けてくれる。
 癒術騎士の治癒よりも何倍も、その手のひらはリーンを癒す効果を持っていて。
「…いや、です…」
「…ならば、治るまで辛抱するんだ」
「…はい」
 この苦しみを大切な家族に味わわせない為に。
 しかし一人で耐えるなど。
「安心しろ…私はずっとお前といる」
 リーンの胸中に気付いたように、バインドはリーンの不安を消してくれる。
 リーンの傍にいてくれて、リーンの苦しみを軽くする為に。
「…はい」
 その優しさが嬉しくて、染み渡るように全身を包んで。
 目覚めてからずっと苦しみ続けた。その中で懸命に涙を堪え続けたリーンは、バインドに心を許すように一雫の涙を初めて溢し。
 ふわりと舞う蝶を視界に映しながら、リーンはそっとバインドの温もりに身を委ねた。

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 中庭に面した回廊を歩きながら、澄んだ空気を全身に浴びる。
 重苦しい牢から出されたフレイムローズはクルーガーと共にコウェルズの側に立ち、ファントムに手を貸した理由をコウェルズが語ると共に解放された。
 狭い場所に長くいたので体は鈍っているだろうとコウェルズに散歩を言い渡され、ついでに現実を受け入れておいでと命じられ。
「……」
 一人で歩く回廊。だがこの世界に自分一人しかいないわけではなく。
 周りの視線は、フレイムローズが思う以上に痛く刺さった。

『当分は針のむしろに座ることになるよ。だが堂々としていなさい。リーンを救い出せたのは君がファントムに力を貸したお陰なんだからね』

「……」
 俯きそうになるのを堪えて前を見据える。
 侍女達の怯えた眼差し。
 騎士達の蔑みの眼差し。
 フレイムローズに甘く優しかった魔術師達ですら困惑して。
 その中にいながら、懸命に自分を奮い立たせた。
 コウェルズの言う通りだ。
 何も疚しい事など無い。
 ファントムに手を貸さなければ、リーンは救えなかったのだから。
 姫を救い出す為に。
 愛する王家を守る為に。
 自分にだけ許された魔眼を使ったのだ。
 そこに恥ずべきものなど存在しない。
 存在しないが。

「裏切り者」

 冷たい言葉に、すぐに顔を向ける。
 振り返れば、慌てたように数名の騎士達が逃げるのを目の当たりにした。
 裏切り者。
 裏切ってなどいないのに。
 違うのに。
 リーンを救い出す為にフレイムローズが出来ることを懸命に頑張ったのに。
 ファントム、ロスト・ロードと共に。
 心が悲しみに支配されて、俯いてしまう。
「…奇異の眼差しで見られることには慣れていたのではなかったか?」
 ふいに現れた気配と声に、フレイムローズは顔を上げなかった。
「随分と窶れたな。コウェルズ様は使えん騎士を追い出す準備を整えていらっしゃる。このままではお前も追い出されるやも知れんな?」
「…魔眼を持つ限り有り得ません」
 魔術兵団長ヨーシュカ。
 隣に訪れる老いた男は、まるで挑発するようにフレイムローズに笑みを向ける。
 それを無視して、散歩を再開して。
「騎士としては何の役にも立たんがな」
「っ…」
 図星を指されて呼吸まで止まった。
 知っている。
 コウェルズが必要としている存在が“魔眼を持つ”自分だということを。
 フレイムローズは騎士としてはあまりにも脆弱なのだ。
 本来なら魔術師団入りするはずだった。
 しかし魔術師団では王族付きとしてコウェルズの側にいられないから、無理を言って騎士団入りしたのだ。
 コウェルズが使えない騎士達を間引きするつもりであることは知っている。
 その中に自分の名前が上がるはずがない。だが“騎士”という概念だけを自分に当てはめたなら。
 頼りない筋力、下手くそな剣術。
 騎士としては、フレイムローズはあまりにも。
 その心理を見越したように、ヨーシュカは静かに微笑む。
「お前の居場所は魔術兵団にこそある。いずれ新たな王も立つのだ。身の振り方を改めて考えなさい」
 フレイムローズが魔眼を持っていなければ視界にも入れなかっただろうに、ヨーシュカはまるでフレイムローズの全てを受け入れるかのように優しく諭す。
「…俺は…」
「コウェルズ様が王になれば…お前は今までのようにコウェルズ様の側にはいられんぞ?王を御守りするのは我ら魔術兵団の勤めだからな」
 コウェルズが王となったら。
 エル・フェアリア王を守るのは騎士団ではない。
 そうなればフレイムローズはコウェルズの側にはいられなくなるが。
「…ニコルを推してるくせに」
 ヨーシュカが望む新たな王はコウェルズではない。
 そうなればフレイムローズはまだコウェルズの側にいられる。
 相反する二つの思いがフレイムローズの中で激しくぶつかり合う。
 ニコルが王になれば、でもコウェルズこそが。
「そう。早く考えを改めてくださればよいのだがな。エル・フェアリアの王座に相応しいのはコウェルズ様よりニコル殿なのだから」
「…国民が認めない」
「だがニコル殿が王座に就かれれば…お前は魔術兵団に入らずともコウェルズ様の側に…今まで通りいられる」
「……」
 あらゆる思惑と自分自身の思いがぐちゃぐちゃに掻き乱されて気持ちが悪くなる。
「魔術兵団には来たくないのだろう?」
 答えなんてわからない。フレイムローズはいつだってコウェルズに言われた通りにしてきたのだから。
 大事な場面を自分で考えて行動したことなどほとんど無い。
「お前はどちらを望む?愚鈍の息子か、賢君の息子か」
「…どっちが王様になっても…俺はエル・フェアリア王家に仕えるだけだよ」
 コウェルズに言われた通りに訓練に励み、ファントムに命じられるまま動き。
 そうやって、フレイムローズはエル・フェアリア王家に仕えてきたのだ。
「…甘いな」
 それが甘えだと言われても、フレイムローズにはわからない。
 そういう生き方しか知らないのだから。それに。
「…あなたが本当に仕えたいのはニコルじゃないでしょ」
 ヨーシュカはニコルを王にしたい。だがヨーシュカが本当に仕えたいのはニコルではなくファントムだ。
「ロスト・ロード様の憎しみは果てが無いよ」
 フレイムローズは彼の憎しみの欠片を見せられた。
 大国の王にと望まれ育てられながら、全てを失った彼の憎しみを。
 だが。
「それすらも捩じ伏せ飲み込む強大な力が有るのだよ」
「…え?」
 フレイムローズの知識を凌駕するように、ヨーシュカは全てを知った上でさらにそれ以上があることを告げる。
「エル・フェアリアの王になるということは、その強大な力を押さえ込むということだ」
「…力?」
「魔術兵団に来い。そうすれば、王にならずとも真実を知ることが出来よう。お前の力は真実を抑え込む為に必要なものだ」
 ヨーシュカが何を言いたいのかがわからない。
 まるでエル・フェアリアを恐れるような口調。
「…いったい何を…」
「この国に平和など有り得ん…真実を知りたければ…こちらに来い」
 フレイムローズ達が信じて疑わないものを否定するように、ヨーシュカは語り、そして身震いする。
 これ以上は語れないといましめを恐れるように、フレイムローズに背を向けて。
 立ち去る老兵の背中を、フレイムローズはただ見送ることしか出来なかった。

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 夜の闇がエル・フェアリア王都を包んだとしても、宝物庫に留まり続ける今のニコルには時間など無意味な存在だった。
 ガウェはとうに去った。
 食事は食堂に向かえばいつでも手に入るので、腹が空けば宝物庫を出よう程度に考えて。
 似たり寄ったりの文献に飽きてうんざりしながら、書き出した名簿に目を向ける。
 王城内で44年前から働く者は、三団長と医師団の医師数名。
 その中で核心を知っていそうな人物は、魔術兵団のヨーシュカ団長のみ。
「--はぁ…」
 疲れのたまる溜め息をつきながら、名簿をテーブルに放って床に座り込む。
 テーブルの脚に背中を合わせながら、ふと思い出したのはエルザを抱いた夜の事だった。
 媚薬香がまだ体内に残っていたとはいえ、完全に後戻りの許されない道に踏み込んでしまった。
 愛せないアリアの身代わりにエルザを愛し、その体を貪り。
 結局あの日から、ニコルはアリアに会っていない。
 どんな顔をして会えばいいのかもわからない。
 兄でありながら、家族でありながら、アリアに劣情を抱いて。
 報われないからと自棄になりエルザを抱いて。
 ニコルの胸中を知らずに素直に喜ぶエルザの笑顔が苦しかった。
 何も知らずに、愛されたと喜ぶ姿が。
 アリアとエルザ。
 七年間。会えない妹への思いをエルザに押し付けて特別視し、それを愛だと勘違いした。
 そしてようやく会えたアリアを頭では妹と認識しながら、本能で女と位置付けて。
 会えない時間の方が長かったのだ。
 ニコルが生を受けて今まで。
 アリアよりエルザと共にいる時間の方が長かったのだから。
 エルザを愛していないのかと問われれば嘘になる。
 しかしエルザへの愛は、エルザがニコルに求める愛とは違うのだ。
 二度目の深い溜め息をつき、テーブルの上の資料や文献を簡単に纏める。
 体を少し伸ばして、アリアに会いたい思いを強く抱いて。
 少し文献のことは忘れたいと、ニコルは宝物庫を出ることに決めた。
 宝物庫を抜けて、特殊な結界を張り直して。
 以前は警備が扉の前にいた。
 だがファントム襲撃の件から、騎士は他の任務を命じられて宝物庫は手薄にされている。
 手薄とはいっても魔術師団の結界は強力なので並の者では侵入することも出来ないが、もし警備がいたならエルザが訪れることも、宝物庫で淫らにまぐわうことも無かったのではと考えてしまう。
 考えた所で結果は今なのだが。
 窓から完全に暗くなった夜空を見上げ、アリアを思い。
 王城の露台のひとつに向かい、ニコルはそこから生体魔具である鷹を生み出す。
 慣れた背中に乗り上げて、翼を羽ばたかせて。
 向かった場所は、薄い明かりの灯る王城上層階の一室だった。
 アリアに会いたい思いを消す為に。
 身代わりであるエルザに。
「---…」
 エルザの部屋の露台に降り立ち、魔具を消す。
 そっと中を覗けばエルザはまだ眠らず、真剣な眼差しで一冊の本に目を向けていた。
 読み耽るエルザはニコルには気付いていない。
 扉が開いていたなら驚かせたのにと、ニコルは軽く窓を叩いた。
 音に気付いたエルザは少し眠たそうな呆けた眼差しを向けてきて。
「ニコル!」
 訪れたことに気付くと一瞬で目は冴えたように見開かれ、慌てて立ち上がった。
 嬉しそうに駆け寄ろうとして、ニコルが窓側にいたことに気付いて慌てて扉に向かい開ける。
「ニコル!」
 扉から露台に飛び出したエルザは我慢など出来ないかのようにニコルに抱きついた。
 全体重をニコルにかけるが、いとも簡単に抱き留めて。
 あまりにも嬉しそうな笑顔に、それだけでニコルの胸はわずかに痛んだ。
 痛ませながらも、彼女を身代わりに選んだのだからと自ら言い聞かせ、半ば強引に口付けを贈る。
 突然の行為にエルザは驚くが、すぐに身を委ねてきた。
 互いを確認するように口付けて、惚けるエルザを支えながら唇を離して。
「…会いたかった」
 吐息混じりの呟きに、エルザは感極まるように涙を滲ませてニコルの胸にすがりついた。
「私もですわ」
 なかなか会えない恋人がようやく再会できたかのように。
 実際には数日程度だが。
「勉強中だったのか?」
「少し復習を。アリアからも基本が大事だと教わりましたので」
「そうか」
 互いに抱きしめあったまま小声で会話をして、もう一度軽く口付ける。
「…中にどうぞ」
「いや…顔を見たかっただけだ。邪魔して悪かった」
 エルザは室内にニコルを呼ぶが、夜ももう遅い。
 長居はしないと暗に告げれば、エルザの表情はみるみるうちに悲しげに曇ってしまった。
 甘えるように見上げてきて、それだけでほだされてしまうほどに。
「…少しだけ」
 まるで切実な願いを神にでも願うように。エルザはキュッと力一杯ニコルの兵装を握りしめて、瞳を潤ませる。
「…わかった」
 そんな姿を見せられて、誰が拒みきれるというのか。そうなる可能性は勿論わかっていたが、ニコルは自分自身のくだらなさに思わず失笑を漏らしてしまった。
 エルザは無邪気によろこび、ニコルの手を引いて自室に戻って。
 恐らく深く考えずの事だろうが、エルザは自分のベッドにニコルを座らせ、自分も寄り添うように隣に密着しながら腰を下ろした。
 瞳は完全にニコルを恋慕い、周りなど見えていないかのように潤んでいる。
「その…痛みは?」
「え?…あ…平気ですよ」
 あまりにも潤む眼差しで見上げられ続けてニコルは咄嗟に以前の情交後の体調を気遣うが、エルザはさらに頬を赤く染めてしまった。
「出血もすぐに止まりましたし…痛みもすぐに治まりましたわ」
 エルザにとって初めての経験。
 不安ばかり感じていたのではないかと思っていたが、エルザはニコルを完全に信用している様子だった。
 痛みすら宝物だと言い出しそうな姿は純真無垢すぎて、申し訳無くすら感じてしまう。
「…痛まないなら、よかった」
 そっと肩を抱いて、自分に引き寄せて。
 たったそれだけの仕草をエルザは喜び、舞い上がり。
「ニコルから来てくださったのは初めてですわね」
「…前にも一度来たじゃないか」
「あれはお兄様も一緒に来られましたでしょう?それに、誤解を解くためであって、私に会うことが目的だったわけではありませんわ。あんなの無効です!」
 必死に告げる姿が可笑しくて、思わず笑ってしまう。
「わ、笑い事ではありませんわ!…私ばかりお慕いしているみたいで…寂しかったのですから」
 会いに来てと。
 約束を交わしたのだ。
 会いに来てくれるという事がエルザにとってどれほど重要な事かを少し理解して。
「俺も…寂しい」
「…ニコル」
「エルザに会えない日が続くのは…つらい」
 胸中を隠して、ニコルは頬を染めるエルザにまた口付けを。
 何度も味わい、エルザの淫らな姿を思い出しながら。
 ベッドに押し倒してしまいそうになる。しかしニコルは理性でそれを押し留めて、エルザからわずかに離れた。
「突然来て悪かった…また来る」
 ベッドにエルザを残して立ち上がり、理性が働く間に去ろうとするが。
「…まだいてほしいです」
 袖を弱々しく掴まれて、悲しむ眼差しを向けられて。
 甘える姿に今までは無かった色気が交じる。
「ニコル…」
 全身で訴えるように、エルザは立ち上がって、ニコルの背中にすがってきた。
 可愛らしい甘えた仕草に気持ちは軟化してしまいそうになるが、何とか堪えて。
「…今の護衛は?」
「夜のですか?クラークですが…」
 訊ねた現在の騎士の名前から、時期を見計らって。
 護衛の順番は変わらないはずだ。なら。
「…三日後にまた来る」
 ニコルの指定する日にエルザは首をかしげたが、すぐに気付いて顔を真っ赤にした。
 三日後。
 その夜と朝の護衛なら。
「…愛している」
 今さら恥ずかしがるエルザが可笑しくて、背中から前に引き寄せて。
「私も…」
 何度目かもわからなくなった口付けを。
 ニコルの嘘がばれないように。
 エルザだけを思うような深く激しい口付けで、知られるわけにはいかない胸中をひたすら覆い隠し続けた。

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 災難はいつだって突然で、時間を選ばず襲いかかる。
 モーティシアと夜に話し合う事になっていたミシェルだったが、突然ジュエルに伝達鳥で呼び出されてしまった。
 切実な様子に仕方無く向かったのは王都城下の藍都ガードナーロッド家の別邸で、そこに勢揃いしていたガードナーロッド三姉妹に胸中だけで溜め息をついた。
 恐らく末のジュエルは無理矢理連れてこられたのだろう。まだ未成年だというのに遅くまで起こされて、眠たそうな様子の中に困惑を含ませている。
 ミシェルが訪れたことでジュエルは安堵に表情を少しほころばせたが、
「あらお兄様、どうしてここに?」
 冷めたガブリエルの言葉と。
「お久しぶりですわね、ミシェル」
 数ヶ月ぶりだろうか。三姉妹の長女である姉に会うのは。
 アンジェ・ガードナーロッド。
 藍都にいるはずのアンジェがなぜここにいるのかはわからないが、ミシェルは兎に角ジュエルを自身の元に引き寄せた。
「ジュエルが部屋にいないと侍女達が騒いでいたのでまさかと思ってな。ジュエルはまだ未成年だ。王城に帰すぞ」
 本当はジュエルからの救助要請を受け取ったのだが、それは隠してジュエルの肩を引く。
 三姉妹だけでなくミシェルが訪れた事でもガードナーロッドの別邸の使用人達は困惑していたが、すぐに出るつもりでいたので気にはしない。
 しかし。
「お待ちなさいミシェル。私達はジュエルの今後を話し合っていましたの。邪魔をするつもりなら一人で戻りなさい」
「こんな時間に話すことじゃないだろ。日を改めてくれ」
「可愛い妹の婚約について話していますのよ。結婚に繋がることですから急ぐのは当然でしょう?ジュエルが可愛くないというならどうぞ連れ帰りなさいな。お父様には連絡しますけれど」
 ジュエルの婚約話だと聞かされて、ミシェルは思わずジュエルに目を向ける。だがジュエルも困惑しきったようにわずかに首を横に振るだけだった。
「私としてはラシェルスコット家のルードヴィッヒ様がジュエルに似合うと思っていたのですけどね。昔から良くしていましたし」
「あら、いくら貴族第三位だとしても、あんな子ジュエルには合いませんわよ。女みたいに着飾って、背だって低いし子供みたいですもの。性格も子供だわ。訓練のことしか頭に無いみたいですし、裏切り者の平民とも仲が良かったんですから、ろくな性格ではありませんわよ」
 アンジェは黙るミシェルを無視して王族付き候補筆頭であるルードウィッヒの名前を出すが、ガブリエルはすぐに却下する。
 ガブリエルが口にした裏切り者の平民とは、恐らくパージャの事だろう。
「でもガウェ様の若い頃にそっくりよ。城下でガウェ様を見かけましたが、顔の傷も治ってとても素敵でしたし。ルードヴィッヒ様はガウェ様の従弟ですもの、将来は有望よ」
 ガブリエルはルードウィッヒを否定するがアンジェは推したい様子で、黄都領主となったガウェの名前をも出して。
「それにガウェ様も若い頃はとっても暴れん坊だったと聞きますし、16歳なんてまだまだ子供。ルードヴィッヒ様も歳を重ねれば落ち着きますわよ」
 二人の話を聞きながら、ミシェルはなるほど、と納得してしまう。
 恐らく姉を呼び寄せたのはガブリエルだろう。そして何も知らないジュエルも夜更けに関わらず呼び出して。
 次にガブリエルが口にするだろう名前をミシェルは予想して。
「でもやっぱり…ジュエルにはレイトル様がいいと思いますわ。ジュエルもレイトル様を思っているのですから」
 案の定。
 そして思い人の名前を出されて、ジュエルも一気に顔を赤くする。
 以前のジュエルなら流されるままに何の不信感も抱かず姉達に従っただろう。
 だが自立心が芽生え始めたジュエルにとって、姉達の行為行動は自分の片想いをもてあそぶものでしかない。
 ジュエルが相談したなら別だったろうが、ジュエルの為と言いながら二人は一切ジュエルを見てはいないのだから。
 以前のジュエルならばそこには気付かなかった。だが今はもう、以前のジュエルではないのだ。今のこの最低の場で、その成長だけは嬉しくはあった。
「ふふ、仕方ない子ね。まあ中位貴族とはいえミシュタト家ならガードナーロッドの三女とも何とか釣り合うでしょうが、お父様やお母様と相談しないといけないわね」
 ジュエルの片想いをアンジェはクスクスと笑い、それがさらにジュエルの自立心を潰そうとしていく。
「わ、私一人で出来ますわ!放っておいてください!」
 ミシェルの腰周りの衣服を掴みながら、ジュエルは自分の恋は自分で成就させると宣言しても、二人は一切耳を貸さない。
「あら、心配しなくてもいいのよ、ジュエル。私はあなたの為にわざわざ藍都から出向いたのですからね」
「そうよ。どうして私も侍女に戻ったと思っているの?全てはあなたの為なのよ?ガードナーロッド家の娘たるもの、もう相手を決めておくべきですからね」
 ジュエルの自立心を完全に無視して、わざわざ出向いたのだからと押し付けて。
 ジュエルは返す言葉を見失い俯いてしまう。
 まだ幼いジュエルには、今までしたがってきた姉達に言葉で勝てと言う方が酷だろう。
 救いを求めるようにミシェルの衣服を掴む手の力が強くなるから、ミシェルはそっとジュエルの肩を引き寄せて安心させてやった。
 ここで二人と喧嘩はしたくはなかったが、仕方無い。
「二人共、自分が結婚に失敗したからってジュエルを巻き込もうとするのはやめてくれないか」
 冷めきった声で、二人が触れられたくない箇所を。
 途端に鋭い眼差しを向けてくるガブリエルとアンジェに、ジュエルがビクリと肩を竦める。
「…ジュエル、じいやの所に行っておいで。すぐに迎えに行くから」
 ジュエルも姉達の醜い姿は見たくないだろうと背中を押せば、部屋に数名いた使用人達がミシェルの合図に従うようにジュエルを連れて部屋を後にした。
 ジュエルが部屋を出てすぐに口を開いたのはアンジェだ。
「…未だに婚約者を見つけられないガードナーロッドの膿の分際で、よくも言ってくれますわね?」
 怒りに顔を歪ませながら、過去の恋愛遍歴でも思い出しているのだろうか。
 二人とも以前は侍女として王城にいた。
 そして当時の二人にまつわる話題は未だに当時を知る騎士達の肴なのだ。
「姫付きは婚期が遅れがちだからな」
 自分に婚約者がいないことはさらりと認めて、心根の醜い二人を見据えて。
「下位貴族にも相手にされなかった姉上に、平民にすら存在を覚えられなかったガブリエルか」
 ニヤリと笑えば、二人の肩は震えた。
「姉上、未だにあなたの醜態は笑い種として語られているんだぞ?リーン様の護衛であった双子騎士に同時に色目を使った挙げ句に両方から本気で拒絶された姿は」
 今から十年以上昔になるか。
 怒りと恥辱にアンジェの顔が真っ赤に染まるがミシェルは止めなかった。
「いい年の大の男二人に遊ばれるならまだしも本気で拒まれるなんて、ある意味最強だな」
「黙りなさい!…あの二人なら相応の罰を受けていますもの。自業自得ですわ!」
「おや、まだ知らないのか?リーン様が生存なさっていた事が発覚したから、二人は近々騎士として呼び戻されることが決まったんだ」
 リーン生存の件については城外には箝口令が敷かれてはいるが、姉のアンジェが知らないはずがない。
 そして舞い戻る二人の件をアンジェは知らなくて当然だが、わざとらしく教えてやればアンジェは一気に血の気を引かせて。
「騎士をやめてからは画家として瞬く間に売れたし、ダニエル殿は二児の父だとか。覚えているか?姉上が苛めぬいて侍女を辞めさせた可愛い女の子。彼女がダニエル殿の結婚相手だ。因みにビアンカ嬢は侍女長にまでのし上がったよ。っと、これは言うまでもないか。でもまあ、未だに独身の王族付き達の一番人気だから、ビアンカ嬢の魅力はまだ当分褪せないだろうな」
 さらさらと現在の城内の様子を教えてやれば、アンジェの顔色は青からまた赤に変わっていく。
 アンジェは侍女時代、気に入らない娘達をことごとく苛めぬき辞めさせてきた。
 特に侍女長ビアンカは双子騎士のジャックと噂になることがあったので、一時期悲惨な状況にまで追い込まれたが。
 それでも褪せない魅力を、ミシェルは静かに語る。
「…男とは決まって見る目の無い生き物ですもの。行き遅れの女が一番人気ですって?それこそ見る目の無い証拠ですわね」
「見る目は人それぞれ違って当然だろう?それよりこぞって結婚したくない女と付き合いたくない女に選ばれる方が快挙だ。おめでとう姉上。殿堂入りどころの快挙じゃないな」
 不動の不人気を告げれば、今度こそアンジェは言葉を無くして唖然と黙り込んだ。
 姉の方は放っておいて、ミシェルは次にガブリエルに目を移す。
「お前も、そろそろ大概にしておけよ。お前が無理矢理騎士と侍女を別れさせようとしてるせいで野郎共の文句が全部こっちに回ってきてるんだ。今はまだイラつかれてるだけだが、そのうち魔具で刺されるぞ」
 ガブリエルの被害は既に出ており、警戒しているレイトルの非ではない。
 ガブリエルは気に入りの侍女の恋を成就させる為に、その侍女の片想い相手である騎士や魔術師の恋人や婚約者に嫌がらせを始めているのだ。
 奇妙な女社会は揺らぎ、既に別れてしまった者達も存在するかもしれない。
 刺される云々は、誇張でも何でもなく騎士の一人が怒りを隠さず呟いた言葉だ。
「治癒魔術師に手を出すのもそろそろやめておけ。お前がどれほど動こうが、ニコル殿がお前に目を向けるわけが無いだろう」
 アリアへの嫌がらせについても。
 アリアに良い顔をするならまだしも敵対して、それで未だにニコルを諦めていない辺りミシェルには意味がわからない。
「それにニコル殿にはすでに恋仲の娘がいる。いい加減諦めて夫と上手くいくよう頭を使うんだな。離縁したいと以前相談されたぞ」
「っ…」
 夫が離縁したがっていることに反応したか、それともニコルに恋仲の娘がいるという所に反応したか。
 どのみちニコルと恋仲の娘についてはガブリエルの手にかかるはずのないエルザ姫なので、ここを心配する必要は無いだろう。
「お前がイニス嬢とニコル殿を無理矢理繋ぎ合わせて、そこからニコル殿を自分の手中にしようとしている事くらいもうわかっているが…何かあっても私には止められないぞ。ニコル殿は私より魔力も剣術武術も上なんだからな。それに女相手でも彼は容赦しない」
 ニコルがキレたら手に終えない。
 その点についてはガブリエルはあまりわかっていない様子だが、黙らせるには充分だった。
「兎に角、お前達の道化にジュエルを巻き込むな」
 静寂に満たされる室内で、ミシェルは最後だと言わんばかりに釘を刺して。
「ふふ…うふふふ…」
 突如笑い始めたガブリエルに、ミシェルだけでなくアンジェも眉をひそめた。
「まさか治癒魔術師だったなんて…さすがあの方の妹ね」
 気味の悪い笑みを浮かべて、ここにはいないアリアを笑う。
「…治癒魔術師に何をするつもりだ?」
「あら怖い。現実を教えてあげるだけじゃない。貧民と中位貴族が釣り合うわけがないことをね?」
 ガブリエルはレイトルがアリアに思いを抱いていることを知っている。
 ジュエルの為などでなく、自分に恥をかかせたニコルの妹であるアリアを苦しめる為に。
 歪みきったガブリエルを嘲笑うようにミシェルは鼻を鳴らし、
「平民として育っていようが、アリア嬢はエル・フェアリア唯一の治癒魔術師。恐らく母親は王城にいたメディウムだ。中位どころか、上位貴族が相手でも尊い女性だよ。すでに何人もの王族付きに求婚されているしな」
 ガブリエルはアリアに勝っているつもりでいるのだろうが、真実はそんなはずがない。
 冷静に教えてやれば、それでもガブリエルは笑みを絶やさなかった。
 ミシェルが人払いした為に自分達以外いなくなった室内。そこに、ガブリエルはテーブルに置かれた鈴を鳴らして誰かを呼び寄せる。
 慌てた様子で室内に入ってくるのは、一組の男女だった。
 女には見覚えがある。
 藍都のパーティで何度か見かけたことのある下位貴族の娘のはずだ。
 そして男は。
「紹介しますわ。少し前に結婚した夫婦で、シーナとケイフよ。シーナは私の付き人として近々王城に入りますの」
 ガブリエルは嬉しそうに女を紹介し、
「…それとケイフは治癒魔術師の“元”婚約者ですの」
 勝ち誇る笑みの理由を。
 紹介されたケイフは戸惑うように口を閉じたまま、目も合わさないまま頭を下げる。
 藍都に任された領土内で下位貴族の娘と平民の男が最近結婚したことならミシェルの耳にも入っていた。
 その正体を明かして、ガブリエルはアンジェと共に笑い続けた。
「…失礼するよ」
 二人の姉妹を見ないようにして、一組の夫婦を放置して。
「あら、お話はもう終わりですの?お兄様」
 ミシェルが扉を開けると同時にガブリエルは甘えるように問いかけてきたが、聞こえなかった事にして部屋を後にした。
 闇に包まれた廊下。
 溢れそうになる激情を堪えて歩き進み、ミシェルは明かりのついている部屋の扉を開ける。
 そこにいたのは一人の老いた使用人の男と、まだ若い使用人が一人。そしてソファーで静かに寝息をたてるジュエルだった。
「…眠ったのか」
「はい。こちらに来てすぐに」
 まだ幼いながらも懸命に侍女として働き始めたジュエルには、この時間まで起きておくなど辛いだけだろう。
「面倒をかけたな。馬車はいい。私の馬だけ用意してくれ。その方が早くジュエルを王城に帰してやれる」
 深く眠りについてしまったジュエルを抱き上げながら指示を出せば、若い使用人の男が頭を下げて静かに部屋を抜け出した。
「お話し合いの方はどうでしたか?」
「なかなか楽しめたさ。馬鹿の次の一手が楽しみだ」
 冷めながらも楽しむようなミシェルの言葉に、老人はぞくりと背筋を粟立たせる。
「…宜しいのですか?治癒魔術師様を思われているのでしょう」
「…だな。レイトル殿がジュエルと繋がれば、最大の敵が消え去る事になる」
「それをわかっているのになぜ」
 ガブリエルとアンジェはジュエルとレイトルを結ばせる為に訪れた。
 それはジュエルの為などではないが、そうなればミシェルにも好都合のはずだと老人はミシェルを窺うが。
「それじゃつまらないだろう?私が欲しいのはそれだけじゃない」
 何も知らずに眠り続けるジュエルの頭を撫でながら、ミシェルはミシェルの楽しみを。
「…やはり貴方様こそ…ガードナーロッドの血を最も濃く受け継いでおられる」
 怯えるように、咎めるように。
 長くガードナーロッドに仕える中位貴族の老人を見下ろして、ミシェルはクスクスと笑う。
「だからお前は私の側にいるんだろう?私が最悪の道を選ばないように」
 本来なら嫡子に仕えるはずだった彼がガードナーロッドの膿と呼ばれるミシェルに仕える理由は、ただひとつだ。
「…もし治癒魔術師様に危害が加わったら…」
「もう遅い」
 いとも簡単に言い捨てて、ミシェルはジュエルを抱いたまま扉を開ける。
 開けた向こうには先ほど馬の用意をしに部屋を出た使用人が驚いた顔で立っていた。
 自分が部屋をノックするより先に扉を開けられたことに驚いているのだろう。
「ご苦労だった。君はもう休みなさい」
 労えば、ミシェルの本性を知らない若者は安堵したように去っていく。
「…私も王城に帰るよ。じいやも体に気を付けてくれ」
 わざとらしく年老いた監視役にも労いの言葉をかけて、ジュエルを起こさないように部屋を後にする。
 廊下を過ぎ去り、外に繋がれた馬にジュエルを抱いたまま騎乗し。
 軽く手綱をしごかせて、馬を走らせる。
 走らせながら、先ほどの激情が再び頭をもたげようとして、ミシェルは必死に笑みを堪えた。
 馬鹿なガブリエル。
 守る価値も無い愚かな妹。
 だがここまでしてくれるとは思わなかった。
 まさか、アリアの元婚約者をここまで連れてきてくれるとは。
 ミシェルは直接会った事はない。
 全てはガブリエルが仕組んだことだ。
 ミシェルはただ教えてやっただけなのだから。
 ニコルには遠方に、藍都に任された領土に妹がいるのだと。
 酷い失恋に嘆くガブリエルに、ただ教えてやっただけだ。
 そうすることでアリアが苦しむことを見越して。


 到着した王城内で馬を降りて、ジュエルを抱いたまま侍女達の生活する区画に入る。
 本来なら男は入れないが、愚かな姉に巻き込まれた可哀想なジュエルを部屋に戻してやる為に特別に出入りを許可されて中を進んだ。
 まだ起きていた娘達はミシェルに驚き、恥じらい。
 その内の一人にジュエルの部屋を教えてもらい、妹をベッドに寝かせた。
 ジュエル。
 醜いガードナーロッド家で、唯一真っ当に生きられるだろう妹だ。
 ミシェルは自分の家の血を知っていた。
 物心ついた時から。
 醜くねじくれ、よじくれた血を。
 だからすぐに気付いた。
 自身の中に流れるガードナーロッドの醜い血はひた隠しにして穏やかな自分を演じながら。
 ジュエルだけは、唯一奇跡的にガードナーロッドの悪癖を持たないと。
 幼さ故に醜いガードナーロッドに染まりかけたが、今はもう自力で考える力を手に入れた。
 ジュエルだけは唯一。
 唯一、ガードナーロッドの血から逃れられる術を持っているのだ。
 それを摘むことはミシェルには許されない。
 ガードナーロッドの中で最も醜いミシェルだからこそ、ジュエルという清涼剤は潰してはならないのだ。
 その思いを抱きながら。
 自分の中に宿るおぞましい本体を切り離す事も出来ずに。
 なぜ。
 これほどまでに心地好い感覚を、なぜ切り離す必要があるのか。
「お休み、ジュエル」
 ジュエルを寝かせて、頭を一度だけ撫でて。
 侍女達の生活区画を足早に立ち去る。
 ミシェルが訪れたことを聞かされたのか、最初よりも廊下にいる侍女の数は多いが、わざと困ったような笑みを浮かべて立ち去って。
 区画を抜けたその先で。
「…待たせてすまなかったな」
「いえ。まだ幼い妹君を優先させるのは当然ですよ」
 ようやく話がつけられると、ミシェルは遅くまで待ってくれていたモーティシアに申し訳無さそうに微笑んだ。
 同い年のモーティシアは同じ年に王城入りを果たしたらしいが、互いに騎士団と魔術師団に分かれていたので最近まで接点など無かった。
 そのモーティシアにミシェルが話しておきたいことは。
「…早速だが…私は私のやり方でアリアと恋仲になりたいんだ。治癒魔術師の次代を心配していることは知っているが、出来れば当分は見守ってくれないだろうか」
 闇に包まれた中庭の一角で、ミシェルは紳士的に、比較的穏やかにそう願い出る。
 ミシェルはミシェルのやり方で。
 手出しは無用だと。
 モーティシアは静かにその言葉を聞いてくれて。
「…私もあなたに聞いておきたいことがありました」
 答えは返さずに、モーティシアはミシェルを正面から見据えた。
 何だ、と軽い言葉で返して。
「…ミシェル殿。あなたがアリアと初めて出会ったのは、何年前でしょうか?」
 問われた質問に。
 モーティシアの言いたい所を理解して、ミシェルは“じいや”以外の人間に、初めて本性の笑みを浮かべた。

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「や、ニコル」
「コウェルズ様!?」
 エルザの部屋の露台から魔具の鷹で飛び降りて、階下の露台に下り立つ。
 そこに一人でいたコウェルズに、ニコルは動揺を隠しきれずに心臓を跳ねさせた。
 以前エルザを抱いた時は、コウェルズとは宝物庫で話した。
 エルザの件には一切触れられなかったが、今は。
「…エルザはまだ起きていたのかい?いいかげん夜更かしはやめさせたいんだけど…君から言ってくれないかな?あまり無理をさせたくないんだ」
 エルザの部屋からニコルが飛び降りたことは明白で、同時にコウェルズなら、もうエルザの様子の違いに気付いているだろう。
「…責務を果たしてくれて嬉しいよ。媚薬香を使われたと聞いた時は流石に驚いたけどね」
 媚薬香の件は王城で話し合われるとはモーティシアから聞かされていたが、わざわさコウェルズから口にされてニコルは静かに警戒を強めた。
 次に何を言うつもりだとコウェルズを睨み付けるように見据えて。
「…私としても一応気を使ったんだよ?エルザだって、初めてなんだから身を清めておきたかっただろうし」
「なっ!?」
 エルザとの初夜が仕組まれたものだと聞かされて、ニコルは完全に頭の中を白く染め上げた。
「っと、エルザには内緒だよ?」
 エルザは何も知らないんだからね。
 言葉が耳に入りはするが、意味を理解できないまますり抜けていく。
「騎士に命じて、エルザを宝物庫に連れていかせたんだ。後は野となれ山となれ、さ」
 まだ完全に媚薬香の効き目が切れていない男の元に、身を清めさせた初々しいながらも艶やかな娘を。
「…あなたという人は」
「人のせいだけにしないでほしいね。最終的な判断は君だろう?エルザと恋仲になることを君は選んだ…たとえそれがアリアの身代わりだったとしても、こちらは構わないさ」
「っ!?」
「あ、テューラ嬢が口を滑らせた訳じゃないよ。彼女達高級妓楼の娘は口が固いからね…まあ、国の力ってやつさ」
 テューラを抱きながら、その先でアリアを抱いていた事まで見透されて、ニコルは完全に言葉を無くす。
 固まるニコルの肩を諭すようにコウェルズは叩いて。
「エルザに手を出したからと君を無理矢理こちらに引き入れるつもりは無いから安心してくれ。こっちは王家の血さえ守られればそれで構わないんだ」
 アリアの身代わりにエルザを抱くことを了承して。
 コウェルズはどこまでも清々しい笑みを絶やさなかった。
「愛し合いたいなら王城の賓客室を使えばいいよ。さすがにエルザの部屋では難しいだろう?侍女長には他に内緒で言付けておくから」
 好きな時にエルザを抱けと。まるでエルザを物のように語りながら、コウェルズは思惑通りに動いたニコルにこの上無い笑顔を浮かべて。
 笑いが止まらないとは、こういう事を言うのだろうか。
「…勿論、君が王家に来てくれることが一番好ましいんだけどね。まあ無理強いはしないさ。ただしエル・フェアリアの第二姫に手を出したということは…しっかり覚えておくことだね」
 何もかもを見通したまま。最早ニコルに逃れる道など存在しないと。
 エルザに手を出した事については逃れるつもりなど毛頭無かった。
 だがアリアへの思いを知られてしまっては。
「……」
 強く拳を握り締めて、苛立ちを必死に噛み殺す。
「…アリアを守りたいなら、こちらに来るべきじゃないかな?君はもう、アリアと家族や兄妹という概念の世界では生きていられないんだから」
 苦しい現実が言葉として深く刺さる。
 アリアとは、もう。
 それに気付いたのはニコルで、その思いを抱いてしまったのもニコルだ。
 誰に唆されたわけでもなく、ニコル自身が。
「エル・フェアリア王家として君の決断を歓迎するよ…私個人としては、エルザを宜しく頼むよ」
 最後の最後に。
 ニコルと違い“兄”の立場でいられるコウェルズは、まるで挑発するようにニコルにエルザを託し、夜の闇に紛れて消えていった。

第42話 終
 
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