第42話


第42話

 朝日も登り、空の明るさの落ち着いた時間帯。
 王都城下の貴族の屋敷が建ち並ぶ区画の一軒、ハイドランジア家の階段を、パージャは軽い足音を響かせながら上階へと登っていた。
 ハイドランジア家は現在老夫婦と数名の若い使用人達が住んでおり、そこに転がり込んだパージャとエレッテは他国に嫁いだ親戚の子供ということにされて、髪の色も闇色のまま受け入れられた。
 エル・フェアリアでは暗い色の髪は珍しいが、他国からの観光客も多い王都では非常に目を引くという程でもない。それでも一、二日に一人くらい目にする程度だが。
 それでも他人に合わせやすいパージャはすぐに使用人達と打ち解け、適当な出自を語りラムタル出身ということにしておいた。
 パージャもエレッテもラムタルに馴染んでいるので無理なく嘘をつけるという腹だ。
 ハイドランジア家に入り込んでから今日で三日目になるか。
 パージャは朝食の為に老夫婦に言われてエレッテを呼びに来た所で、
「ミュズ…じゃなかった。エレッテ、いい?」
 ノックも無しにエレッテにあてがわれた部屋の扉を開ければ、黄色い小花模様の可愛らしいシンプルな衣服を纏ったエレッテとかち合った。
 エレッテは突然扉を開けられて驚くが、すぐにパージャとわかり肩から力を抜く。
「パージャ…おはよう」
「お、可愛いじゃん。ジジババしか住んでないのにそんな可愛いのあったんだ」
 普段のだぼついた衣服からは想像も出来ない女の子らしい可愛い様子にパージャは家の住人を思い浮かべながら好印象の感想を述べて、エレッテは照れたように頬を微かに染めながら俯いた。
「おばあさんが貸してくれたの」
「え、ばーちゃんの服!?それはそれで引くんだけど」
「違うよ…前に住んでた親戚の娘さんの服だって」
「おぉ、なら納得」
 普段のエレッテならば絶対に選ばないだろう衣服だが、煩いウインドがいない事も手伝っての心境の変化だろうか。
 女の子ならば可愛い衣服を着たいと思うのは自然なはずで、しかしエレッテはウインドを刺激することを躊躇っていたから。
 口先だけの歪な恋人関係。エレッテは自身の辛い過去を恐れて、ウインドにあまり体を許さなかった。
 少しずつでも変化が見られるなら良い兆しだと、パージャは下心なくもう一度エレッテの衣服を上から下までさらりと眺める。
「ここの人達…パージャの体のこと知ってるの?」
 エレッテが口を開いたのは、パージャと再度目が合った時だった。
 体のこと。
 何も知らない者が聞けばまるでパージャが病気を抱えているかのような言葉だが、実際はそれよりもえげつない。
 呪いという名の、死なない体。
 パージャと同じくエレッテもだ。
 どれだけ切り刻まれようが、体全てをすり潰されようが。
 再生して、死なせてくれない。
 ハイドランジアの老夫婦はそれを知っているのか。
 エレッテの問いかけに、パージャは静かに肩をすくめてみせた。
「二人は知らないよ。エレッテは?前の男」
「…知られてるはず…死なないまでは知らないと思うけど」
 ハイドランジアの老夫婦には体のことは隠していた。しかしエレッテの方は。
 王都城下の市場の外れで出会った、エレッテの過去を知る男。
 エレッテが奴隷として生かされていた子供時代、呪われた体は重宝された。
「そか。エレッテは当分外出は控えた方がいいかもね。変な挑発したからあちらさんも気が立ってるだろうし」
 過去を思い出して身震いするエレッテの肩を叩いてから、パージャは静かに背中を向ける。
 一階に降りようという暗黙の合図に、しかしエレッテは俯いたまま凍り付いたように足を動かさなかった。
 仕方無く再びエレッテに体を向けて、暗い表情を飛ばすように額を軽く指先で弾いてやる。
「大丈夫だって。あんな男の一人や千人、今のエレッテの敵じゃないんだぜ?」
 今のエレッテなら。
 その言葉の幅の広さに、エレッテはキョトンと呆けてからようやく笑顔を浮かべた。
「…ずいぶん幅があるね」
「ホントのことじゃーん」
 気楽に、気さくに。
 エレッテの恐怖心を消す為に。
 凍り付いた体はようやく暖まり、エレッテは落ち着きを取り戻して肩から力を抜いた。
「前も言ったけど、俺が守ってやるから心配すんな」
 その様子にパージャも安心して、さらりと格好をつけて。
「…ありがとう」
「おう。感謝しろ」
 もう一度額を弾こうとしたら、今度は先に両の手で防がれてしまった。
 生意気なと代わりに鼻先を弾いて、エレッテは「痛い」とクスクス笑って。
「パージャはここの人達とどれくらい一緒にいたの?」
「ん?住んでた場所は王都じゃなかったけど、半年くらいかな。俺が居着いた家で唯一まともな夫婦だよ。ホントの子供みたいに扱ってくれたから」
 訊ねられたハイドランジアの老夫婦との思い出の時間に、唯一まともに“普通の子供”としていられた日々に、気付いたエレッテがせっかくほころんでいた表情をまた固くしてしまった。
「そんな顔すんなよ。俺は器用に立ち回ってただけなんだから。それに男と女じゃ状況も違ってくるだろ」
 エレッテほどではない。
 だがパージャも、人に話して聞かせられる子供時代を送らなかった。
「俺は上手く自分を売ってただけだ」
「…売るとか…そんな」
 パージャがエレッテの過去を少し聞かされて知っているように、エレッテもパージャの過去を少し聞かされている。
 追いかけてくる何かから逃げ回る日々の中で幼いパージャに出来た手っ取り早い商売は、好色家に体を開く事だった。
「仕方ないじゃんか。それがその時の俺に出来た唯一の商売なんだから。生きる為ならなんぼでも体売ったわ。まあ一応綺麗なオネーサン狙ってたけど」
 幼すぎて他を知らなかった。だが充分そちらの知識を蓄え生き長らえるほどに、淫靡な大人達は後を絶たなかった。
 探せば簡単に見付かる。
 体を差し出すだけで束の間の安全を提供してくれる者達など。
「私もパージャくらい吹っ切れてたらよかったのかな?」
 幼少期をあるがままに受け入れているパージャを羨むようにエレッテは問うてくるが、
「…エレッテは無理だったろ。状況からして」
 もしパージャがエレッテの状況下に置かれていたら。
「…俺達の中で一番恨みを宿しててもいいくらいなんだぜ?」
 もしパージャがエレッテだったなら。
 恨みに押し潰されて、人格などとうに破綻していただろう。
「まぁ、当分ここでゆっくりしてな。俺もファントムから呼び出し食らうまで羽伸ばしまくって遊び尽くすつもりだし」
 せっかくのリラックスタイムだと体を伸ばせば、階下からふいにバタバタと騒がしい音が響いてきた。
 何だと二人で耳をすませると、
「--サクラ!まだか!?」
 老いた老人の声とは思えないほどの声量で、ハイドランジアの主人がパージャを呼んだ。
「いっけね忘れてた!朝飯!行くぜ!」
「う、うん!」
 パージャがパージャの名前を手に入れる以前。
 唯一子供らしく扱ってくれて、日の光の下で遊ぶ意味を教えてくれた人達が与えてくれた名前。
 サクラという名前は、パージャに真っ当な幼少期があった証拠なのだ。

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 泉に映るその光景を眺めながら、ファントムは静かに微笑みを浮かべていた。
「…何見てんの?」
 そこに訪れるのは日々不機嫌な様子を募らせていくウインドだ。
「見るか?」
 ファントムは泉に浮かび上がらせたその光景を見せる為に、自らその場を一歩退いた。
「---……」
 ファントムが退いた場所に訪れて、ウインドは泉に映し出されたそれに息を飲む。
 シンプルだが可愛らしい衣服を纏ったエレッテが、パージャに手を引かれてどこかの屋敷の階段を降りていく光景。
 二人とも慌てながら、エレッテは少し楽しそうだった。
「エレッテの笑顔は久しぶりに見たな」
「…嫌み?」
「さあな」
 ファントムの目の前で、ウインドは隠すつもりのない苛立ちを露にしていく。
 拳を握り締め、睦まじい姿を見せる二人の、パージャだけを殺すように泉の水面を叩いた。
 激しく波打つ泉は映し出した遠方の光景を消し去ってしまうが、ウインドの怒りは冷めるはずもなく。
 邪魔なものを全て壊す勢いで立ち去るウインドを見送りながら、ファントムはどこまでも笑みを絶やさなかった。

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