第41話
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横抱きにされたことは今までも何度かあった。
それでも今日ほど満たされた気持ちの中で抱き上げられたことは無いはずだ。
ニコルが愛を告げてくれた。
曖昧な思いではなく、はっきりとした愛を。
エルザを見つめてくれて、エルザを愛していると。
そして、心も体もひとつになったのだ。
今日という日は、きっと素敵な記念日になる。
だけどひとつだけ不満なことがあったから、エルザは緩みそうになる頬を懸命に膨らませていた。
ニコルがエルザの体を労るようにゆっくりと歩いてくれる、その心地好い振動に身を委ねながら。
「拗ねるな。朝まで一緒にはいられないだろ」
宝物庫を出て、夜の通路を歩き進んで。
「…ですが…今晩くらい…」
愛し合う営みが終わり、ニコルはエルザの身なりを優しく整えてくれて。
今晩くらい一緒にいてくれるものだとばかり思っていたのに、ニコルはひと息つくとすぐにエルザを自室まで送ると告げたのだ。
まだニコルと共にいたかったから「ここから動かない」と言ったら、体に負担をかけたことを負い目に思われたらしく、抱き上げられて。
まだ夜は長いのに。
せっかく恋人同士になれたのに。
「…わかってくれ。俺がつらい…」
「…私も肉体的につらいです」
「…………」
ニコルが負い目に感じている体の負担をわざとらしく告げれば、本気で言葉に詰まらせてしまった。
「…冗談ですの…痛かったのは本当ですが…嬉しかったです…」
それまでのくすぐるような甘い疼きを吹き飛ばすほどの、突然の衝撃だった。
酷く痛かったわけではない。
だが未知の痛みは、エルザを怯えさせるには充分だった。
それと同時にニコルが切実にエルザを求めてくれる姿が嬉しくて。
ニコルにすり寄りながら、エルザはニコルの熱い吐息と鼓動を思い出す。
男の人の、激しい鼓動。
普段から護衛の騎士に囲まれてはいるが、それとは全く別のものだった。
「…しばらく痛みが続くかも知れないが、最初は出血もあるし痛いものだ…次からはそこまで痛みは無いはずだから」
少し口ごもるように教えてくれる初めての体験に、次と言われてしまいエルザは思わず頬を染めてしまう。
あの痛みが毎回あるなら少し怖いが、次から痛みが無いならまだ平気かな、などと考えてから、ニコルの言葉の不要な部分にまで気付いてしまった。
「…あんな場所で…その、悪かった」
謝罪をくれるが、そんな謝罪はどうでもよくて。
「…エルザ?」
再度膨れるエルザに、ニコルは困惑するように見つめてきた。
きっとニコルはわかっていない。エルザがなぜ今膨れっ面なのか。
行為の最中もそうだった。ニコルの言葉はどこまでも経験に溢れていて。
「…慣れてますのね」
自分以外の人とも、ニコルはきっと経験があるのだ。
知りたくなかった過去。
でも初めて出会った時でもニコルは18歳で成人をとうに迎えていたのだから、おかしいことではないのだろうが。
ニコルにはニコルの過去があるのだからと思っても、やはり悲しかった。
自分はニコルしか知らないのに。
ニコルは、他にも。
「…これからはエルザだけだ」
不貞腐れたまま落ち込んでしまうエルザに、ニコルはそう約束してくれた。
無意識にパッと顔を上げて、申し訳なさそうなニコルを見上げてしまって。
今までは仕方無かったのだ。
自分にもそう言い聞かせて。
「…絶対ですよ?」
「ああ」
「……約束ですよ?」
「ああ」
必死に願うエルザにニコルは苦笑を浮かべる。
これからはエルザだけを。
この約束は、破られてはいけない約束だ。
だって今のエルザとニコルは恋仲なのだから。
以前、エルザがニコルに思いを告げた時にニコルが約束してくれた、エルザ以外は好きにならないという不確かな約束とは違うのだ。
愛し合う者達の、破ってはならない約束。
「…大好きです」
「…俺もだ…好きだ」
求めた口付けをニコルはすぐにくれた。
野生の狼のように激しい口付けとは違う、紳士的な優しくて甘い口付け。
それが終われば、ニコルは再び歩みを再開して。
訪れた場所は、王城の外れの露台だった。
そこから空を飛んで、エルザの部屋の露台まで向かうのだ。
王城内を歩いたら、エルザが部屋にいないことがばれてしまうから。
エルザは今日も部屋を抜け出してニコルに会いに来たのだと嘘をついた。
本当はイストワールが宝物庫まで連れてきてくれたのだが。
兄からニコルが不調だと教えてもらい、いてもたってもいられなくて。
すぐにでも向かいたかった。でも遅くなってはいけないからと、先に兄に入浴を済ませるように言われたのだ。
そして、ニコルが怒るからイストワールが連れ出してくれたことは内緒にするんだよと言われて。
嘘をつくのは悪い気がしたが、イストワールが咎められるのはつらかったから。
「…部屋まで飛ぶ。掴まっていてくれ」
「はい」
何度か乗ったことのある魔具の鷹が現れて、ニコルと共にその背中に乗り込む。
鷹は何の苦もなくふわりと浮き上がり、静かにエルザの部屋の露台に向かった。
「…どうやってここから抜け出せるんだ…」
「ふふ、秘密ですの」
今日は抜け出したわけではない。でも何度か抜け出している。
その方法はまだニコルにも秘密だ。
この方法はまだ誰にも教えない。
とは言っても、恐らく一部には気付かれているだろうが。
露台に到着して、鷹が消えて。
開けていた扉から中に入り、ニコルはそっとベッドにエルザを寝かせてくれた。
まだ離れたくなくて、離れようとするニコルの裾をつまんで。
「…次はニコルから会いに来てくださいませ…いつも私からですわ」
いつだって。
だから。
愛しているなら、会いに来て。
約束してくれるまで離さない。そう念じるように裾を離さないでいたら、ニコルは静かにエルザのベッドに腰を下ろして、頬を撫でてくれた。
「ああ。会いに来るよ」
何度か交わした約束。
でも今まで一度も果たされなかった。
「…でしたら」
次こそ叶えて。
そう思いを抱きながら、エルザはニコルの前にそっと右手の小指を立てて差し出した。
「…?」
「オデットに教えて頂きましたの。約束を確実なものにするおまじないだとか。同じように小指を出して下さいませ」
「…こうか?」
「はい」
エルザの小指の前に出されたニコルの小指を、エルザはそっと絡め取る。
同じ小指のはずなのに、大きさが全然違う。
これが男女の違いで。
アリアが訪れるまでは、ニコルはこの力強い指でエルザを守ってくれていて。
「…ラムタルでは、運命で繋がった男女の小指には、運命の赤い糸が通じているのだそうです」
ふと、昼間の小さな悲劇を思い出してしまった。
「…初めて聞いたな」
「私もです。お昼頃に…私の手袋の、小指の糸が切れてしまいまして…通りがかったヴァルツ様が教えて下さいましたの」
お気に入りの手袋。
侍女に相談したら、直してくれると約束してくれた。
不器用なエルザや裁縫に不得手なセシルでは不可能だが、相談した侍女はちょうど裁縫が得意だった様子で、糸の切れた手袋を何度か見つめて、この程度ならすぐに直せると約束してくれたのだ。
手袋は直る。
でもヴァルツが教えてくれた運命の赤い糸の話はどうしても引っ掛かって。
「…昼頃…」
糸の切れた時間帯を、ニコルも何かを思い出すように口にする。
「…私達の糸は切れませんわよね?」
運命の赤い糸。
目には見えない糸だと教えてくれたその糸は。
「…ニコル」
「…ああ。切れないよ」
エルザの不安を拭い去るように、ニコルは口付けをくれる。
甘い甘い口付け。
今日だけで何度目だろうか。
でも今日は特別な日だから、何度だって。
今日からは特別な二人だから、何度でも。
うやうやしく靴まで脱がせてくれて、最後に頭を撫でられて。
「おやすみなさい、ニコル」
「ああ…おやすみ」
ニコルが去っていくのは悲しかった。
でも、これで終わりではないから。
名残惜しむように露台の扉の近くでニコルが微笑んでくれて、少し手を振って。
魔具の鷹が現れて、ニコルを乗せて行ってしまう。
あっという間にニコルの姿は見えなくなって、静寂がエルザを包み込んだ。
それでも。
昨日までの毎日とは違う。
ニコルに愛されて、エルザの全ては喜びで満たされていた。
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宝物庫に戻ったニコルを迎えたのは、なるべく会いたくなかったコウェルズだった。
「…やあ」
「っ…コウェルズ様」
先ほどまでエルザとまぐわっていたテーブルの上に腰かけて、ニコルのメモ書きを手にしながら。
「…こんな時間に…何を?」
まさか見られていたのか。そうなら厄介だと肝が冷えたが、コウェルズはさらりと懐から何かを取り出してニコルに放り投げて寄越した。
「行かないだろうけど、一応渡しておこうと思ってね。地下の幽棲の間の鍵だよ」
「…鍵?なぜ」
「あ、あとミモザが明日こっちに来るらしいから、それを伝えたかっただけさ。根を詰めないようにね。暗殺の件は気楽に解明してくれていいから」
本当にそれだけの用事だったのか、それとも何か隠しているのか。
いつもの笑顔を浮かべるコウェルズの真意などニコルにはわからない。
だがコウェルズはすぐにそのまま立ち去ってしまい。
残された宝物庫の中で、ニコルは渡された鍵をもて余すように握りながら、床に直に腰を下ろした。
コウェルズの意味深な出現を警戒しながら。
エルザと絡めた小指を思い出す。
思い出して、小指を眺めて。
--切れるわけがない…
運命の赤い糸。
エルザは二人の糸は切れていないと願っていた。
不安がるその理由は、手袋の小指の糸が切れたからだと。
昼間に。
ニコルがテューラを抱いていた時に。
テューラを介して、アリアを抱いていた時に。
だから。
--切れるわけがない。
エルザの不安など杞憂だ。
なぜなら。
最初から、繋がってすらなかったなら。
--切れようが無いんだ…
エルザをアリアの身代わりに仕立てて。
嘘をついたニコルを、誰が戒めてくれるというのか。
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