第40話
ーーーーー
エル・フェアリア城下で最大規模を誇る市場の片隅で、髪の色をよく見かける薄茶に変えたエレッテは一人ポツンと立ちつくしていた。
なるべく空気になるよう人々には背中を向けているが、魔力で透明化しないのは離れたパージャもエレッテを見つけられなくなっては困るからだ。
ひとまず当面の宿探しをすることになったのだがパージャには当てがあるらしく、待っていてと言われたのが数十分前になる。
夕暮れだというのに市場のせいで人の流れが激しく誰もエレッテに興味を示さないが、それでもビクビクと怯える肩に突然手が置かれた。
「!?」
「ビビりすぎ」
慌てて振り返ればエレッテと同じく髪色を薄茶に変えたパージャが立っていて、肩をちぢこめながらも胸を撫で下ろす。
「いい宿見つかったよー」
「ほんと?」
「ホントホント。三食昼寝つき。難を挙げるなら俺のコト覚えてくれてるかだけ心配」
さらさらと口にする宿泊先の紹介に、普通の宿屋ではないのかと首をかしげた。
覚えているいないとは、場合によっては物騒だろうに。
不安な表情をしていたのだろう。パージャは心配するなとばかりに少し笑った。
「昔お世話になった人達がこっちにいたんだよ。すっごい偶然超ラッキー。忘れられてたら最初から宿屋を探し直しだけど」
驚いたのは、パージャが優しく笑ったからだ。
口達者だが表情には乏しい。それがエレッテの中のパージャの姿だっただけに、ミュズの事以外で優しげな表情を見るなど思いもしなかった。
「パージャがそんな風に話すなんて珍しいね」
口達者だが無表情。そんな機械的な彼が心を許すような宿泊先とは。
「ん?何かいつもと違った?」
「うん。何だか嬉しそう。子供みたい」
「…言うじゃん」
パージャの嬉しそうな雰囲気につい口が軽くなったエレッテだったが、パージャからの返しに途端に全身が凍り付いた。
「ごめんなさ」
口は無意識に動き、悲観的な表情と共にエレッテは謝罪を口にする。その唇を、パージャは親指一本で触れて止めた。
「ほらまた。今の、俺怒ってるように見えた?」
問われて、パージャを見上げて。
「…見えない」
唇から指が離されて、エレッテは目を伏せながら、今一番無難だろう答えを口にした。
パージャが怒っているのかいないのか、これから怒るのか。
どうしてもエレッテは、今をやり過ごす為の言葉を探してしまうのだ。
「…上手くいけば、エレッテのその癖も直してもらえるよ」
意識して直せと言われた悪い癖。パージャに溜め息をつかれて、エレッテの視線はさらに下に向かった。
「そいじゃま、とりあえず向かいますか」
これ以上は話しても無駄だとばかりにパージャが背を向けて、先に歩き始める。
人が多いので何とかパージャの背中にはりついて、通行人にぶつからないよう注意しながら進んでいく。
先頭のパージャはたまに人とぶつかるらしく、軽いノリのような謝罪が聞こえてきて、その気さくさは羨ましかった。
歩く速度も歩く場所もエレッテに気を使ってくれている様子で、上手い具合に守られ続けて。
どうすればパージャのようになれるのだろうか。
憧れに似た気持ちが芽生えたのは、市場を抜けて通行人の数が減り、隣に並んでも誰ともぶつかる心配が無くなった頃だった。
パージャに気を使わせるのが申し訳なくて隣を歩き始めて、綺麗な街並みを眺められるほどの心のゆとりが出てきた時。
「---お前、エレッテか?」
名前を呼ばれて、足が凍り付いた。
野太い男の声に聞き覚えなどない。
聞き覚えなどないが、ならなぜ名前を呼ばれたのか。
声の方へパージャも足を止めて顔を向けるから、必然的にエレッテも一瞬顔をあげてしまい。
「やっぱりエレッテじゃないか。相変わらずシケたツラじゃないかよ」
知らない中年の男と若い女。
だが男の纏う兵服には、見覚えがあった。
「…あの子だれ?」
男に身をすり寄せる小奇麗な女が、少し拗ねた口調でエレッテを知りたがる。
女は身なりがシンプルな分、腰に下げた上等な馬用の装飾具が妙に目立っていた。
パージャも相手の出方を探すように様子を窺い、男は何ら気にする素振りもなく無精髭にまみれた大口を開ける。
「随分前にいた傭兵軍で飼われてた奴隷だよ。まさかこんな所で会うなんてな。髪の色が違うから最初わからなかったぜ」
「っ…」
奴隷などという物騒な単語に、周りにいた通行人達が足早に過ぎ去りながらもエレッテに目を向ける。
その視線が針のように胸に刺さるから、救いを求めるようにパージャの服の袖を掴んだ。
男は目敏くその仕草に気付き、エレッテとパージャを交互に目を向けて。
「…お前が今の飼い主か?ウインドはどうした?」
「うわ、初見でお前とか言っちゃう人なんだ。信じらんなーい。親の顔が見てみたーい」
ウインドまで知っている男に、パージャは馬鹿にした口調でおどけてみせる。
「パージャ…」
エレッテは怖くなりパージャを見上げるが、女は面白かったらしく、すっきりとした笑い声を上げた。
パージャに馬鹿にされたのが癪に障ったか、連れている女に笑われたことが不愉快だったか。
女の肩から手を離した男は見た目に違わぬ喧嘩っぱやさで苛立ち交じりに数歩近付いた。
「…てめえケンカ売ってんのか」
「そっちこそうちの大事なお姫様をよくも奴隷なんて言ってくれちゃって。信じらんなーい。親の顔が見てみたーい」
「てめえ!!」
どこまでも小バカにするパージャに、男が勢いで掴みかかる。
始まってしまった喧嘩に辺りは騒然となるが、パージャはエレッテをこの場から離すようにトンと背中を押してから垂直に高く飛び上がり、
「ぐうっ!」
驚く女や通行人の前で、男の顔面に両足を揃えて降り立ってしまった。
そのまま軽く蹴り飛ばすように男の顔面をジャンプ台に見立てて跳ね降りれば、男は背中を退けぞらせながら地に伏して。
パージャの方は軽々と着地し、まるで最初から喧嘩など無かったかのようにエレッテの元へと戻る。
「さ、行くよエレッテ」
女に笑われながらも起こされる男に背中を向けて、困惑するエレッテの背中にエスコートするようにパージャの手が添えられる。
「ほっときな。どうせ今の俺達の敵じゃねーんだ」
俺達と、頭数の中には勿論エレッテも含まれている。
「くそっ!待ちやがれ!ぶっ殺すぞ!」
恥をかかされた男は女を背後に押しながら再びパージャに近付こうとするが、
「殺ってみろよ。ただし、殺られる覚悟決めてから来いよ」
パージャのひと睨みで足を止めた。
パージャに怯えたわけではないことは男の表情からも一目瞭然だった。
男の方も場数を踏んでいるのだろう。無意識に危険度に気付いたのだ。
敵にもならない程度と思っていたが、少し厄介かもしれない。そう思いはしたが、その後は静かなものだった。
軽く突き飛ばされた女は男の元に戻りそのたくましい腕に身を寄せ、パージャはエレッテを連れてその場を立ち去る。
もっと派手な喧嘩を楽しみにしていたのだろう外野が文句を投げてよこしたが、パージャと男の眼光を浴びて慌てながら視線を落としていた。
しばらく無言で歩き続け、街並みは次第に静かな居住区に変わっていく。
「…さっきの、エレッテのトラウマのひとつだったりするよね?」
ようやく口を開いてくれたパージャの問いかけには、エレッテは答えることが出来なかった。
しかし答えないこそが返事となり、パージャは歩みを遅くさせながらストレッチするように腕を伸ばした。
「…さすが王都。いろんなもんが集まりますな」
古い兵装を着ていた男。
エル・フェアリアでは兵服のデザインでどの地方に住む者かわかるようになっていたが、男の兵服はどこの地方にも属さないものだ。
それはエル・フェアリアの闇市に籍を置く傭兵の証。
男は非正規の兵士だろう。
「私…どうしたらいい?」
パージャの軽い口調とは裏腹に、エレッテは全身に重石を取り付けられたかのような感覚に苛まれる。
足を止めて、救いを求めるようにパージャに訴えかけ。
「何かされたらどうしよう…私、また…」
あの男には見覚えがない。だがあの兵装には見覚えがあり、男はエレッテを覚えていて。
奴隷時代のエレッテには男達の顔を覚えている余裕など無かった。
指先が震え始め、やがて全身に回る。
毒のような震え。
悪夢の方が優しかった過去。
全身から血の気が失せて気が遠退いた瞬間に、震える両の手を大きな温もりが包み込んだ。
「大丈夫だよ」
その温もりが全身に伝わるように、意識は戻って。
エレッテの手は、パージャの手にしっかりと握られていた。
「不安なら俺から離れるな。エレッテ一人くらい余裕で守ってやれるからさ」
「--…」
見上げる距離にいるパージャが、安心という名の温もりを分けてくれる。
エレッテを暗い過去ごと守りぬいてくれそうな絶対的な安心感に、不意に胸が高鳴った。
頬が熱くなるから隠すように俯けばポンポンと頭を撫でられて、止まっていた歩みが再開する。
「…どこまで行くの?」
「貴族の屋敷が集まる地区」
パージャが宿を見つけたと言った時に普通の宿屋ではなさそうな気配はしていたが、向かう先は完全に王都城下の居住区であり、旅人向けの宿泊施設などあるはずがない。
「…でも」
「無理なら他当たるから、取りあえずついてきて」
それに貴族の多い地区など下手をすれば王城にいたパージャはバレてしまう可能性があるのではと懸念したが、パージャはさほど気にしている様子ではなかった。
「…覚えててくれてるといーんだけどねー」
軽い口調で、少し緊張を交ぜながら。こんなパージャを見るのも初めてかもしれない。
屋敷のひとつひとつの大きさは王城で働く者達に割り当てられている個人邸宅用の敷地より広く、一軒を過ぎるのに徒歩ではなかなか時間がかかる。
それでも何とか十数件目を数え終わった時に、ようやくパージャの足が止まった。
「ここだ。中位貴族ハイドランジア家の王都の屋敷」
そこは、今まで見たどの屋敷よりも立派な小規模庭園に囲まれた屋敷だった。
色とりどりの草花は、屋敷を囲むように植えられている様子だ。
「今はハイドランジアの隠居老夫婦が移り住んでるって情報もらったんだよねー」
柵から漏れた花のひとつにパージャは優しく触れて。
「さーてと」
「待っ、勝手に入ったら怒られるよ!」
あろうことか、パージャは堂々と正門から中に勝手に入ってしまった。
「平気平気ー。気配的に庭だな。あ、髪の色戻しといて」
「パージャ!!」
いうが早いかパージャは髪の色を闇色の緋に戻してしまい、慌ててエレッテも髪を闇色の黄に戻す。
まるで自分の家を歩くように勝手に庭を進んで奥に向かうパージャを追いかけるが、人目を気にしている分だけエレッテの歩幅は小さくなってしまい、パージャに付いていくのがやっとの状態だった。
勝手に入ってどうしようと頭が混乱する中で、裏庭に辿り着いたらしくパージャはピタリと足を止めて。
「たーのもーう!!」
「!?」
突然止まるものだからエレッテはパージャの背中にぶつかってしまい、背中ごしに裏庭に目を向ければ、そこにはパージャの突然の来訪に目を見開いて驚く二人の老夫婦の姿があった。
老夫婦は丸テーブルに灯籠を置いて夜の庭を楽しんでいた様子で、他に人の姿は見当たらない。
「うーわ…歳取ったね、じーちゃん、ばーちゃん」
その二人に向けて、パージャは懐かしむような色を灯した声で呼び掛けた。
じーちゃんばーちゃんと、親しみを込めるように。
「……」
二人はまだ固まった様子でパージャにまじまじと目を向けているが、驚きすぎたせいなのか言葉は出てこず。
「…覚えてないか」
悲しみを帯びた声で、パージャがわずかに視線を落とした時だった。
「…サクラ?」
呼び掛けるように、老人がしわがれた声で訊ねてくる。
エレッテは最初、老人がなぜ花の名前を呟いたのかと思った。
「…サクラなの?」
首をかしげそうになった矢先に、老婆まで花の名前を口にする。
パージャに目を向けながらだ。
桜とは、パージャとミュズが一番好きな花の名前ではなかったか。
エレッテは訳もわからないままパージャを見上げ、呼び掛けられて驚くパージャが、嬉しそうに笑う様子を目の当たりにする。
「…ただいま」
まるで子供が親に甘えるような声色。満ち足りた時間を懐かしむような、物悲しさも交じった。
それをパージャから聞いたのは、後にも先にもこの一度だけだった。
-----