第39話


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 それの意識が流れ込んできた時、ファントムは今後の展開に思いを馳せながら小さく笑った。
 薄闇に包まれた室内の、大きなベッドの上。
「--どうやら気付いた様だな」
 座った体制でいるファントムの腰の辺りで疲れ果てて横たわるガイアの頭を撫でてやりながら、面白がるように。
 ガイアは何の事かわからないと視線を向けてきて、潤む瞳を揺らしている。
「真の思いに」
 ファントムが渡した二つの共鳴石。
 それはかつてエル・フェアリアから他国へと流れた宝具である首飾りの欠片だった。
 共鳴石は互いに反応しながらも、母体を持つファントムにも情報を与える。
「…誰の事?」
 真の思いなどと真摯な言葉に訝しむように眉根を寄せるので、ガイアが悲しむとわかりながら教えてやった。
「息子の事だ」
「っ…」
 案の定涙を浮かべるガイアをあやすように頭を何度も撫でて、自分の機嫌が良いことを暗に知らしめる。
「気付いた所でどう出るか…あれの内面は私よりお前に似たようだからな」
「…なら正しい選択を選ぶわ…」
「…口の減らん」
 子供の事になると途端に母親の顔になるガイア。
 それが発端で躾直したばかりだというのに、また愚かにも歯向かうつもりか。
 体勢を沈めて、背中越しのガイアの首筋に舌を這わせる。
「ん…」
 まだ熱の冷めていないガイアの身体は敏感に反応し、自身から漏れる甘い吐息に悔しそうに唇を噛んだ。
「だがあれは、もっと重要な事に気付いてはいない」
「…あなたにとって重要でも、あの子にとっては不要かも知れないわ」
「それはないな。…アリアの平穏を脅かす災いの元が自分である事実が不要か?」
「そんな!」
 告げてやった事実にガイアは飛び起きようとするが難なく組み敷いて、汗ばみ淫らに艶めく乳房にも舌を這わせた。
「まあ見ていろ。あれがその事実に気付く事は無いだろうが、見物であることに代わりない」
 何もかも、ファントムの描く道筋通りに事が運んでいく。
 今のところは順調だ。
「お前に似ていようが…あれには確かに私の血が流れているのだからな」
 ファントムの血を受け継いだ、無意味の息子。
 無意味を無意味なりに役立ててやっているのだ。感謝すべきだろう。
 ファントムがかつて手にするはずだった全てを、今度こそ手に入れる為に。

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 王城に戻ったニコルとモーティシアを迎えてくれたのは、心配そうな表情のトリッシュと、普段通り無表情ながら駆け寄ってくれるセクトルの二人だった。
 先に馬車を下りたニコルにセクトルが様子を窺うように近付き、モーティシアは御者に馬車を戻してくれるよう指示を出してから下りて。
「災難だったな」
 最初に口を開いたのはセクトルだった。
 ゆっくりとしたスピードで去る馬車の音を全員で聞き流しながら、夕暮れの王城敷地内を進んでいく。
「ああ…アクセルは?」
「イニス嬢の様子見。侍女長が話を聞きたいってさ。アクセル達と一緒に医務室にいる」
 達、ということはまだトリッシュの婚約者も共にいるのだろう。
 ニコルは「わかった」と呟いて、少し進んでから足を止めた。
「…一人で大丈夫だ。巻き込んで悪かった」
 この流れだと、全員かあるいはモーティシアが共に医務室まで付き添う事になるだろうと気付いたからだ。
 ほんのわずかでも構わないから、今は一人になれる時間が欲しかった。
「…ならまた後で経緯を聞かせてください」
 その思いを汲むようにモーティシアは了承してくれて、言葉の代わりに頷く。
「レイトルには言っとくぞ」
「頼む」
 セクトルはアリアの護衛に立つレイトルにも報告する旨を伝えてくる。護衛部隊の中でまだ事態を知らないのはレイトルだけなのだとそこから察することが出来た。
 三人にひとまずの別れを告げて、ニコルは一人で歩みを再開する。
 医務室とは道がわずかに違うことを誰も咎めずにいてくれたのは有り難かった。

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「…まだ本調子ではないので心配ですが」
 医務室に向かうには遠回りとなる道を選んだニコルを見守りながら、モーティシアはやや疲れたように溜め息をつく。
「向こうにはアクセルもいるし平気だろ」
 医務室には確かにアクセルがいるが、トリッシュの楽観的な見方には頷けなかった。
 媚薬香など使われたのだ。様子がおかしいのは当然だろうが、何かを隠されている気がしないでもないのだ。
「…アリアに嫌がらせが通じないからニコルに?」
 そしてニコルに起きた災難を、セクトルは静かに分析する。
 有り得る話に言葉は出てこず、気まずい沈黙は数秒続いた。
「…とにかく、私達はアリアに危害が加わらないよう注意しましょう」
 ニコルはどうあれ、モーティシア達はアリアの護衛なのだ。守りを優先するべきはアリアで、ニコルには自分で自分の身を守ってもらうより他にない。
「アリアの部屋に行くか。レイトルもいるはずだ」
 最初に歩みを再開したのはセクトルで、普段の彼よりもわずかに早い足取りは、顔には出さないにしてもセクトルも焦っているか苛立っていることを知らしめてくれた。

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 医務室へ向かう前に頭を冷やしたいと遠回りの道を選んだニコルは、妓楼での件を思い出そうと記憶を探り続けていた。
 正気を無くしたままテューラを抱いた。
 そのテューラから、何度も恋人の名を呼んでいたと告げられた。

『   』

 確かに誰かを求め、呼び続けていた記憶がある。

『アリア』

 そこに、アリアの名前はピタリと当てはまった。
 エルザではなく。
 妹を。
 テューラに教えられて、自分の中に燻り続けていた欲望に気付いて。だがまだ、受け入れられない。
 受け入れられるはずがない。
 アリアを抱きたいなんて。
 そんな思い、許されるはずがない。
 何故アリアなのだ。
 大切な妹に。
 ニコルが唯一守りたい家族に。
 淫らな欲望を求めるのか。
 兄でありながら。

「--あら、お一人ですの?」
 呼びかけられたのは、外周棟に足を踏み込んだ時だった。
 人気の無い夕暮れの通路は茜に彩られ、ニコルが進む先に二人の人物の姿を見つける。
 一人には見覚えがあった。
 ジュエル・ガードナーロッド。
 最近アリアと打ち解け始めた未成年の侍女だ。
 その隣には知らない女が立っていた。
 夜会が開かれるわけでもないのに、王城内で王族でもない女がなぜ豪華なドレスを纏っているのか。
「お久しぶりですわね、ニコル様」
 女はジュエルを置いてニコルに近づいてくる。
 久しいと言われてもニコルには覚えなど存在しない。
 だが後から慌てて駆け寄るジュエルが不安そうにニコルを見上げながら女のドレスの袖口を掴む様子を見て、ようやく女が誰なのか気付いた。
 これが、ガブリエル・ガードナーロッド。
 ジュエルやミシェルと同じ藍の髪の。
「ジュエル、また後でお話ししましょうね。仕事に戻りなさい」
 ニコルが口を開くより先にガブリエルは妹にそう告げ、ジュエルは混乱したように姉とニコルに交互に目を向けてくる。
 どうすればよいのかわからないのだろう。
「外してくれ」
 ニコルもガブリエルに話がある。だからジュエルにこの場を離れるよう言えば、ようやくジュエルは頭を下げてから駆け足で去っていった。
 ジュエルの姿が見えなくなってから、ニコルは睨み付けるようにガブリエルに目を向ける。
「本当にお久しぶり…髪を伸ばされたのですね。素敵ですわ」
 まるで懐かしむようにガブリエルはそっとニコルに近付き、慣れなれしく勝手に髪に触れてくる。
 だが触れた途端にひくりと頬が引きつったのは、髪がまだ濡れていることに気付いたからだろう。
 それをガブリエルがどう取ったか。ニコルが気にするほどの事でもないが。
「イニスは医務室に連れて行ったとか。紳士ですのね?」
 ガブリエルの方もすぐに微笑みを戻し、ニコルが聞くよりも先にイニスの件を知っている口振りを聞かせてくれた。
「せっかく取り持って差し上げたのに…彼女以外に貴方に似合いの娘はいなくてよ?」
 レイトルやセクトルの話ではガブリエルはどうやら自分に気があったらしいが、今のガブリエルを見る限りはよくわからない。
 イニスと強引に繋がらせようとした事も、嫌がらせ以外の何物でも無いだろうに。
「彼女、申し訳程度の下位貴族ですの。それに内気な性格だから友達もいないようなので、せめてお友達になってあげればよかったのに」
 平民ごときでも充分釣り合いが取れる娘ですのよ、と。
 完全にニコルを見下した口調で、ガブリエルはクスクスと笑い続ける。
 友達にさせる為に媚薬香を使うとは、随分物騒な話ではないか。
「…何がしたい」
 不愉快が先立って、苛立ちに全身を苛まれる。それでも怒りを噛み殺したのは、アリアの為だ。
 アリアの噂の出所がガブリエルである可能性については、すでにレイトルやモーティシアから聞かされている。
「俺に嫌がらせをしたいのか、アリアに嫌がらせをしたいのか…どっちだ」
 ニコルが忘れている数年前の衝突に対する嫌がらせならば、アリアは巻き込まれただけなのだろうが。
 ガブリエルはニコルの苛立つ眼差しにビクリと怯えたが、最初だけだった。
 すぐに元の笑みに戻り、しなだれるようにニコルの胸に両手を置いて見上げてくる。
「…本当に、変わらないのですね。昔のニコル様のままだわ」
 吐息がかかるほど近すぎる距離にニコルは一歩引くが、ガブリエルが離れることはなかった。
「ニコル様が以前私にしたことを償って下さるなら、水に流してさしあげますわよ?」
 離れないまま、女の顔をしながら。
 だが償うも何も、
「悪いな。お前の事は未だに思い出せないんだ。人違いじゃないか?」
 言い放った瞬間に、ガブリエルの表情は遠目から見てもわかるほどに凍り付いた。
 昔何があったなど、ニコルは覚えてはいない。
 思い出そうにも、ガブリエルの顔も出てこないのだから。
 ガブリエルの手が離れ、傷付いたように俯かれる。
 その姿に同情する訳でもなく、イニスの件に絡んでいる証言をはっきりと聞いたのでもう用はないと立ち去ろうと背中を向けるニコルの耳に、危険な言葉は呟かれた。
「…あなたの秘密、知っていましてよ」
 ニコルが足を止めるほどの。
 聞き捨てならない言葉。
 振り返るニコルが見たものは、これ以上無いほどに傲慢に微笑む女の顔だった。
「…ばらされたくなかったら…私の言うことを聞いたほうが身の為でしょうね」
 再びニコルに近付いて、再び胸元に手を這わせるように置いて。
 女が男を誘う際の仕草に、ガブリエルが何をニコルに求めているのかを知る。
 ならなぜイニスと関係を持たせようとしたのかまではわからないが、ガブリエルがニコルと性的な関係を持ちたがっていることは明白だった。
「安心なさって。私も鬼ではありませんもの…ニコル様が柔順に従うなら、酷いことは致しませんわ」
 指先はニコルの腕を伝い、手のひらにまで下りてくる。
 あとわずかで指を絡め取られるという時に、ニコルはようやく口を開いた。
「どれだよ」
 問いかける形で、二択ではなく多くの秘密を持っていることを示しながら。
「俺の秘密。どれを言ってるんだ?」
 首をかしげたガブリエルにさらに詰め寄り、ガブリエルの持つというニコルの秘密を訊ねる。
「っ…」
 答えられない様子には思わず笑ってしまった。
 ニコルには秘密が多く存在する。
 未成年時代から今まで。
 ならず者と共に死と欲望にまみれた世界で生き続けたニコルには。
 それは、何もかも墓場まで持っていくものばかりで、誰にも打ち明けられない。
 戦場の最前線に立ち続けた兵士時代。
 死と隣り合わせの地獄の日々は人々を狂わせ、問答無用でニコルをも襲った。
 ニコルはその中で、ただ金の為だけに。
「言えよ。知ってるんだろ?」
 そして新たにニコルを拘束する秘密は。
「…秘密によっては、ガードナーロッド家ごと消え去るぜ」
 脅しでも何でもなく。
 ニコルの出自は、最高の秘密だろう。
 ニコルが隠したがる以上。
 虹の七都に数えられるガードナーロッドの存続すら危うくなるなど誰も信じないはずだ。
 ガブリエルにもそれは同じだろうが、ニコルの蔑む眼差しには怯えきった様子だった。
 無言の時間は茜の空が闇色に滲むまで続き、
「…ハッタリなら上手くやれよ」
 これ以上は時間の無駄だと視線を逸らして、ようやくガブリエルも言葉を取り戻したように声を上げた。
「ハッタリなどでは…あなたの妹だって酷いことになりますわ--」
 アリアの存在をちらつかされて、身体は勝手に動いた。
 凄まじい勢いでガブリエルを壁に追いやり両手をも壁に押し付ける。
「っ!!」
 あまりの衝撃と突然の出来事にガブリエルは痛みを堪えるように顔をしかめた。
 自分から煽っておきながら怯えるしか能がないのか。
 やがて恐る恐る見上げてきたガブリエルに、ニコルはガブリエルが望んでいただろう願いを叶えてやろうと笑った。
「…お前があのバカ女に使わせた媚薬香の効果な…まだ残ってんだよ」
 片手でガブリエルの両手首を拘束し、首筋に頭を下ろす。
 突然の行為にガブリエルは驚いたように首をすくめたが、すぐに身体の緊張は解れて開かれた。
 空いた片手でドレスの上から身体をもてあそび、
「…やっぱ勃たねえか」
 興が削がれて身体を離す。
 解放されたガブリエルは頬を赤く染めながらも困惑したようにニコルを見上げてきた。
 女のその仕草は普通なら欲望を煽っただろうが。
「…ニコル様?」
「媚薬の効果があればいけるかと思ったけど、それ以前の問題だな。その年で色気もへったくれも無ぇのは珍しいぜ」
「---」
 完全に凍り付くガブリエルを捨て置いて、今度こそニコルはその場を離れる為に足を動かした。

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