第38話


ーーーーー

 ニコルとアリアのゆったりと落ち着いた談笑が途切れたのは、室内にノック音が響いたからだった。
 軽い音が二度響き、首をかしげながら扉に向かおうとするアリアを制してニコルが立ち上がる。
 時間は昼前なので、この頃合いに訪れる者は一人しかいないだろうと目星を付けながらニコルが部屋の扉を開けば、
「交代だよ」
 目星通り、穏やかな笑顔を浮かべたレイトルが護衛を代わる為に一人で立っていた。
「午後はどうする?寝てすっきりさせる?」
「そうだな…外の空気に当たってから休む」
 気まずいわけではないが、昨夜の件で互いに目を合わせられないまま少し間が空いて。
 入れよ、とようやくニコルが扉を完全に開けば、遠慮がちにレイトルは顔だけを中にいるアリアに見せた。
「やあ、アリア」
「レイトルさんっ…」
 訪問者がレイトルだと気付いたアリアは慌てたように、どこか照れたように頬を染めながら立ち上がる。
「どこか行きたい所はある?」
 朝にニコルが訊ねたと同じ問いかけには冷静に首を横に振っていたが、上気した頬はすぐに治まることはないだろう。
「いえ…今日は部屋で過ごそうかと」
「そう?なら何かあったら呼んで。扉の前にいるから」
「あ…」
 いつも通りの護衛に徹しようとするレイトルに名残惜しむようにアリアが間の抜けた悲しい声を発し、耳敏く気付いたレイトルも向けかけていた背中を元に戻す。
 だがアリアは上手く言葉には出来ない様子だった。
「…午前中は俺も部屋にいたんだ。お前もいればいい」
 アリアの胸中の細部まではわからないが、レイトルに傍にいてほしいのだろう。そう感じ取ったから中へと促すが、なぜか警戒するようにニコルの顔色を窺ってきた。
「いいの?」
 二人きりという場面をレイトルなりに懸念したのだろう。
「ただし変なことしてみろ。ぶっ殺すからな」
「…しないよ」
 構いはしないが不貞を頭の片隅に置いているならば実行に移した瞬間制裁を与えると威圧するニコルに対し、レイトルはただ苦笑いを浮かべた。
 そしてそんな憎まれ口を叩く程度には気分を持ち直したニコルに安堵した様子で。
「少し落ち着いたみたいでよかったよ」
「…悪かったな。変なこと口走ってた」
「そんなことないさ」
 互いの思い人の確認は昨夜あった。
 レイトルはアリアを。ニコルはエルザを。
 だがニコルは言い切ったのだ。
 恋慕うエルザを前にしようが、第一に守る存在はアリアだと。
 任務など関係無く思い人より家族を選ぶと口にしたニコルは、誰が見ても精神を滅入らせていた。
 扉から離れて室内に戻ったニコルは、アリアと二、三言ほど会話をしてから朝食用の盆を手に再び扉まで戻ってくる。
 わざわざ引き継ぎなど行うほどの業務連絡があるわけもなく、そのまま交替しようと。
「あ、食器置いときなよ。後でセクトルが来るから」
「いや、外に出るからな。ちょうど良いから片付ける」
 整頓するように積まれた食器の乗る盆を片手に、ニコルはひらひらと手を降りながら部屋を出ていってしまった。
 その後ろ姿は普段のニコルを知る者が見れば疲れている事がすぐにわかる。
 大丈夫なのか。不安になるレイトルは、ふとアリアが近くに寄ってくる気配を感じでそっと身体をアリアに向けた。
「…あの」
「あ、ごめんね。外にいるから」
 ニコルは中にいてもいいと言ってくれたが、噂の内容を踏まえてレイトルは普段通りの待機を行おうとする。その袖を、アリアは女の子らしい力の弱さできゅっと引っ張った。
「いえ…いてください」
 朱色の頬と、伏せ目がちの睫毛と。
 そんな姿を見せられて下心など完全に無く接することなどレイトルには出来ないのに。そして昨日の告白の時点でアリアも気付いているだろうに。
「レイトルさんがよければ…」
 それでも、頼ってくれているのなら。
「…じゃあ、お言葉に甘えて」
 一度は引こうとした身体を完全に室内に向けて足を進め、レイトルはそっと扉を閉めた。

-----

 兵舎内周棟を抜けて、外周棟へ向かう。
 季節は涼しくはなったが昼の太陽は直接だとまだ少し暑く、ニコルは空に顔を向けながらわずかに目を細めた。
 手にした盆に乗る食器がカチャカチャと鳴り響く以外は静かなもので、騎士の大半が突発的休暇を身体を休めることに使っているのだとわかる。
 連日の激務はコウェルズに呼び出されているニコルだけではないのだ。
 それでも耳をすませると遠くから訓練に勤しむ者達の声も聞こえてきて、ファントムの件さえ無ければ必須訓練が行われるだろう時期だと思い出す。
 以前は魔具訓練だったので、次は剣術か、総合か。
 そんなことを考えながら兵舎外周に入ったニコルは、背中側から足音が駆け足で近付いてくることに気付いた。
 足音の軽さから侍女だとわかり、自分には関係無いかと食堂に向かおうとして。
「ニコル様!」
 まさか呼び止められるとは思わず、警戒のこもる目を向けてしまった。
 侍女は二人だが、一人は不安そうに俯き、もう一人は生意気そうに微笑んでいる。
 どちらにも見覚えなど無く、前に出ている侍女の高慢な表情には苛立ちすら覚えそうだった。
 平民を小馬鹿にしている者達特有の表情だったからだ。
 呼び止めたということは、好意を寄せる騎士でも呼んでほしいのか。たまにそういう形で呼び止められる場合があったのでそれかと考えて。
「お休みなんですよね?少し宜しいでしょうか?」
「忙しい。他をあたれ」
 意地悪でも何でもなく、面倒臭い事には巻き込まれたくないので断る。
 せっかくの休みをどうでもいいような存在の為に潰されたくはない。ニコルの仲間達が呼ぶならまだしもだ。
「食器の片付けくらい任せて下さいませ。ほら、行きなさい」
「は、はい…」
 だが引く様子は無く、申し訳無さそうに俯く侍女が命じられるままにニコルから盆を引き取った。
 ニコルは一瞬拒もうとはしたが、俯く侍女に同情した結果だ。
 パタパタと逃げるように走り去る足音を聞きながら、仕方無くニコルは一人残った侍女に目を向ける。
「…何の用だ?」
「実はある人に頼まれまして…ニコル様に片想いをしている子がいるんですけど…お話だけでも聞いて差し上げてほしくて」
 どうせろくでもない事だろうと思えば案の定か。
 ニコル目当てで呼び止めてくる侍女もいるにはいるのだ。
 だいたいが階級目当ての下位貴族ばかりだが。
「君の方から断っておいてくれ。そんな暇は無い」
 そもそも侍女に興味を持たないニコルにはどうでもいい話なので立ち去ろうとすれば、慌ててすがられてしまった。
「それはさすがに可哀想ではないでしょうか?」
 前方に回り込まれて、生意気な表情を一変させて。
 ニコルの腹部の装備に触れながら押し留めようとしているが、その力の弱さはわざとなのか本気なのかわからない。
「ようやく告白する決心がついた子です。せめてお話だけでも」
「話したいなら自分から来いと言っておいてくれ。他人を使うなど言語道断だ」
 慌てる様子は何か含みがありそうだったが、ニコルは気にせず後ろに一歩下がり、侍女の手を離させた。話はこれで終わりだとばかりに侍女を置いて去ろうとして。
「…でしたらアリアさんにお願いしようかしら?」
 出された名前に足を止める。
「お兄様がお話を聞いてくださらないから、貴女からも仰ってと。恥じらう乙女心を分かってくださらないなんて酷いですわ」
 表向きはあくまでもアリアに相談するていで、その実には脅しを含ませて。
「…どうかしら?」
 本気でアリアに何かしようものならニコルがどうなるか、この侍女はわかってはいない。だがニコルを連れていく程度なら充分な言葉だろう。
 たかが娘の告白くらいで事が済むならばそれに越したことはない。
「…行こう」
 ため息まじりに已む無く頷いたニコルに、侍女は勝ち誇るような笑みを浮かべた。
「良かったぁ!とってもニコル様にお似合いの子ですのよ!きっと気に入られますわ」
 口調からしても、この侍女が本当に仲間の侍女の恋路の為に動いているとは思えない。
 どんな裏があってニコルを呼び出す係についたかはわからないが、面白がっていることは明白だった。
 案内されるままに兵舎外周を抜けて、内周棟すら通り抜けて内側へ。
「どこまでいく気だ?」
「もうすぐですわ!」
 王城内だと厄介だ。
 ただでさえエルザの事で気を使っていたというのに、これでまた女との噂が立ってしまったらと考えると億劫にしかならなかった。

-----

「--うわ!ジャスミン気を付けろそれ大事な文献!」
「きゃっ!」
「あっぶねーっ!!」
 王城書物庫から数種類の書物をいくつか借りて持ち歩くのはモーティシア、トリッシュ、アクセルの三人と一人の気弱そうな印象薄い侍女だった。
 四人連れ立って歩きながら、侍女が落としそうになった古い文献をトリッシュが寸前でキャッチする。
「トリッシュ、ジャスミン嬢の文献は全部持ってあげなさい。落とされたらたまりません」
「…もう少しオブラートに包んでやってくれよ。手伝ってくれてんだから」
 モーティシアの少し冷めた口調に侍女ジャスミンは悲しそうに俯いて、トリッシュが非難がましく注意する。
「もちろん、手伝って下さった事には感謝していますよ。ジャスミン嬢がいなかったら文献探しは手間取っていたでしょうからね」
「うわ、打算的。だから良い娘が逃げてくんだよ」
「モーティシアって優しそうにしてれば女の子寄ってくるのに、チクッて言葉で刺してくるもんな」
「な。それさえなけりゃな」
「放っといてください」
 アクセルと一緒になってモーティシアの難点を口にするから、ジャスミンは慌てたように三人に目を向けて。
 ジャスミンはトリッシュの婚約者の娘だった。
 内気な性格が災いしてあまり王城では一緒にいられない所を、今日は全体の多くが休みだということで勇気を振り絞ってトリッシュに会いに向かった先でモーティシアに捕まったのだ。
 内気とドジが災いして侍女階級は上がらない。だが本を読むことは昔から好きだったので、書物庫に関してならそれなりに把握している。
 モーティシアのことはトリッシュの上司ということで名前は聞いていたが、まさか向こうがジャスミンは書物庫には強いという唯一の得意分野を知っているとは。教えたのはトリッシュだろうが。
 斯くしてトリッシュと二人きりの時間は無情にも消え去り、手伝ったにも関わらずドジを呆れられたジャスミンは、
「…ニコル様?」
 王城の窓から見える向こうに有名な人物を見かけて、足を止めた。
 平民騎士を知らない侍女など王城にはいない。それでなくても最近は特に侍女達の間で彼にまつわる不穏な空気が渦巻いているのだから。
「ホントだ。なんで侍女と?」
 ジャスミンが足を止めたことによりトリッシュも隣に立ってくれ、同じようにニコルを見つけて首を傾げた。
「あの侍女に見覚えはありますか?」
 モーティシアの質問に、目を凝らしてみる。
 ジャスミンには仲の良い侍女などほとんどいない。魔術師団の出世頭であるトリッシュと付き合うようになって多くの僻みを買ったからだ。
 だが見覚えについては。
「…確かガブリエル様と仲の良い方のはずです」
 最近戻ってきた藍都ガードナーロッド家のガブリエル。
 侍女に戻ったとは名ばかりで仕事の一切を周りに任せきりのガブリエルと親しくしていた所を思い出してポツリと呟くように伝えれば、三人が一斉に身を強張らせるように纏う空気を変えたことに気付いた。
「…話でもつけに行くつもりか?」
「にしては、ニコルが連れてかれてる感じだよ」
 ガブリエルとニコルに関しての噂ならジャスミンも知っているが、詳しいところは三人の方が知っているのだろう。
「…二人にはならないようにと言われたでしょうに」
 どういう経緯で何をしに向かうかは知らないが、人気のない場所に騎士と侍女が二人でいるなど、それだけでも話のネタにされてしまう。
 ニコルの脇の甘さに苛立つようにモーティシアはため息をついた。
「行く?」
「文献をどこかに置きましょう」
 ジャスミンの前で、言葉少なく次の行動が決まっていく。
 果たしてその中に自分は加わっているのかいないのか。立ち尽くすジャスミンにはわからないまま時間ばかりが流れていった。

-----

 ニコルが連れてこられた場所は、王城からほど近い裏庭に建てられた小さな小屋だった。
 裏庭の掃除用具が置かれているはずの小屋はニコルが足を踏み込んだ事のない場所で、それだけで警戒心は跳ね上がる。
「…ここか?」
「ええ!中に居ますから、是非会ってあげて下さいませ!では私はこれで」
 侍女は自分の役目は終えたとばかりに満面の笑みを浮かべながら走り去ってしまい、このまま帰ってもいいだろうかとふと考えてしまった。
 小屋とはいっても馬が三頭は飼育できる程度には広さがある。
 今まで何度か告白のていでの呼び出しはあったが、こんな薄気味悪い場所など侍女の方が嫌がりそうなものだが。
 溜め息をひとつついてから、仕方無く扉に手をかける。
 適当にあしらって早々に帰ろう。
 そう思いながら一歩踏み込めば、内部の暗さに目を凝らすはめになった。
 外が明るいので余計だろう。
 小屋には窓があるが全て締め切られ、
「…香煙?」
 噎せ返るような香りと白い煙に驚く。
 なんの香りだと脳内をさらうが、薬草に長けたニコルにも香煙の知識までは存在しない。
 小屋の埃っぽさを消す為にでも焚いているのかなどと適当に考えて扉を閉めて中に進み。
「--ニコル様」
「!?」
 聞こえてきた声に目を見開いた。
「本当に、来てくださった…」
「…なんでお前が…あいつら」
 薄暗くてまだ輪郭しか掴めない。だが小屋にいたのはイニスだった。
 イニスが侍女の任は解かれたが、ガブリエルの付き人となり王城に留まることになったのは知っている。
 だが場所的に滅多に会わないだろうと言われていたのに。
「信じてました!やっぱりニコル様は私を愛してくださっていると!だから来てくださったのですよね」
 煙に包まれて未だにイニスはぼやけた姿でしか見えない。だか勝手な思い込みは健在で、どうやら香炉の側に座り込んでいたらしく、輪郭だけがふらりと立ち上がる。
「ここなら…人目にもつかないと教えてもらいました」
「おま--」
 ふざけたことばかり口にするイニスを黙らせようと言葉を発した瞬間に、身体がドクンと熱く脈打った。
 下腹部から熱を灯すような、有り得ない感覚。何故。
「な…んだ?」
「ガブリエル様に頂きましたの…お互いを素直な気持ちにしてくれるお香だとか」
 イニスは愛しそうに香炉から舞い上がる煙を指先でなぞる仕草を見せる。それでようやく理解した。
--媚薬香か…
 兵士時代にも一時期流行ったものだ。
 高級品の為に一般的な平民には手が出せない。だがここは王城で、金に困らない者達が多く住む。
「ニコル様…」
 ゆっくりと近付いてくるイニス。
 ニコルはわずかに後退するがイニスの姿がはっきりと目に映る方が早く、あられもない下着姿に無意識に足は止まった。
「私、ちゃんと気付いてましたよ…ニコル様が本当に、心から愛しているのは私だけだって」
 勝手なことばかり口にするイニスの身体に目がいってしまう。
 着痩せするタイプだったらしく、豊かに膨らんだ胸もさわり心地の良さそうな腰から尻にかけての肉厚も、何もかもがニコルの劣情をそそった。
「他の騎士の方がいる手前、あのような振る舞いをされたこともわかっています…怒ってるわけじゃないのですよ…」
「--触るなっ…」
 すがるように目前に訪れたイニスがニコルの身体に触れようとして、なけなしの理性で拒絶する。
 媚薬香さえ無ければすぐに小屋を出たというのに、それすら出来ないのだ。何とか自分の微かに残る理性を奮い立たせようと強く拳を握り締めた。
「…どうして?ニコル様だって私に触れたいのでしょう?」
「ふざけんな…誰がお前みたいな気持ち悪い女に興味持つかよ…」
 早く外に。そうは思うのに、目の前にある女の身体が欲しくてたまらない。
「…くそっ」
 それが気味の悪いイニスだったとしてもだ。
 アリアがこちらに来ることになってから今まで、女を抱く機会は無かった。それも媚薬香に上乗せされたのかもしれない。
「まだエルザ様の術下にいるのね」
「マジで話通じねぇな…」
「素直になって…私のニコル様…」
 ふらりと身体が傾いで壁に背中を預ける。そこにイニスが抱きつく為にすりよったのを、またギリギリの所で拒絶して。
「やめろ!!」
「きゃ!」
 遠慮など出来るはずもなく突き飛ばされたイニスは床に倒れ込んでしまう。
 その姿からも目を離す事ができず、足も言うことを聞かないまま。
「…どうして…私、こんなにもニコル様の事が…」
「っ…」
 上半身を起こすイニスは悲しみに暮れながらも欲情に濡れた眼差しを向けてくる。
 そっと足を開き、上品なイメージのある貴族の娘には似合わないような淫らな姿勢になり。
「見てください…ニコル様…私、ニコル様を思うとこんなに…」
 自ら下着をずらして、しどとに濡れた秘部を細い指でなぞる。
 卑猥な水音が小屋中に響き渡り、理性を保つことに精一杯のニコルの意識をさらに削ぎ落とした。
「…馬鹿が…乗せられやがって」
「お願いします…私の全てをニコル様のものにしてください…夢の中で激しくしてくださったように…」
 女の身体の柔らかさを知っている。
 その中に精を放つ快感も知っている。
 このまま理性を手放してしまおうか。
 本能が命じるままにイニスを抱いて、もう嫌だと許しを乞うまで。
「--…」
「ニコル様…」
 ふらりと足が動く。うっとりと見上げてくるイニスの傍に向かい、片膝をついてしゃがみ込み。
 熱を帯びた瞳と上気した頬、艶のある唇と、甘そうな身体。
 その腹部めがけて、
「---」
 ギリギリまで残された理性を筆頭に、ニコルは容赦無く拳を落とした。
 イニスの表情が驚きと苦痛に歪み、気絶したらしく力無く倒れ伏す。
 ニコルは何とか立ち上がると奥の香炉めがけて魔具を放ち破壊して、そのまま魔具を操り小屋中の窓を割った。
「…っ」
 とたんに内部に秋の風が侵入して媚薬香を消し飛ばし始めるが、新鮮な空気を吸い込んでもニコルの体内に灯ってしまった熱が消え去る様子は見えなかった。
 倒れたイニスに目が向かい、無防備な姿に喉が鳴る。
「っくそ…」
 少しは頭が冴えたがイニスをこのまま放置することも出来ず、仕方無く荷物を運ぶように腰近くに持ち上げて扉に向かい、
「--ニコル!!」
 扉を開けたところで、モーティシア達三人と見慣れない侍女が向かってくる様子を目の当たりにした。
「わ!?」
 一番に近付いたアクセルがイニスの姿に驚き、
「…お前」
 トリッシュは疑いとも驚きとも取れない様子で見てくる。
「勘違いすんな…これに手なんか出すかよ…」
 見慣れない侍女は赤面したまま俯いてトリッシュの服の袖を摘まんでいる。
「…何があったのですか?」
 モーティシアは冷静に小屋の様子やニコルとイニスを見比べるが、声はわずかに固い。
「ガブリエルとかいう女に嵌められた。媚薬香だ…こいつもがっつり吸ってるから冷水にでも浸けといてくれ」
 一番近くにいたアクセルにイニスを託せば、慌てふためきながらイニスを地面に寝かせる。
 そのままにすることも出来ず已む無くマントを外してイニスの身体を隠すようにかければ、トリッシュの背後に隠れていた侍女がそっと出てきてマントでイニスの身体を巻いてくれた。
「…あなたも媚薬香を?」
「……」
 モーティシアの質問には思わず押し黙る。だがそれこそが肯定の証で。
「二人で彼女を医師団に連れていってくれますか?トリッシュは小屋の始末を。香炉は捨てずに保管しておきなさい」
 モーティシアの指示にアクセルは「わかった」と、侍女も不安そうではあったが素直に頷き、トリッシュは溜め息をついた。
「アリアがいなくてよかったぜ…」
 溜め息と同時に呟かれた言葉は確かに切実だろう。ニコルもこんな状況を知られたくはない。
 そして未だに強く昂る体は治まる様子を見せず、わずかに背中を預けていた小屋から身体を離して。
「…俺は風呂場に行く」
 とりあえず抜かなければ何も手につかないだろうことは明白で、立ち去ろうとした所をモーティシアに止められてしまった。
「待ちなさい。媚薬香を嗅いでおいてその程度で収まるはずがないでしょう」
「大丈夫だ…ほっといてくれ」
「微かに媚薬香の香りが残っています。男側に強く症状の出るタイプですよ」
 どうやら香に詳しいらしくモーティシアはニコルにまとわりついた香煙から媚薬香の特色を言い当てる。
「え」
 慌てるのは今から小屋の始末に入るトリッシュだったが。
「あなたに症状が出たところでジャスミン嬢が居てくれるでしょう」
 モーティシアの落ち着いた口調が向かうのはイニスの近くにしゃがむ侍女で、彼女は言われた意味に気付いて顔を赤らめながら先程よりさらに俯いてしまった。
 そのやり取りでようやく侍女がトリッシュの婚約者なのだと気付いたが、ニコルはジャスミンを何度も眺める事はせずにただ顔を背け続けた。
 女が傍にいるというだけで理性が飛びそうなのだ。
「城下に降りますよ」
「…いい」
 モーティシアの腕を振り払おうとするが、それすら出来ないほど身体が言うことをきかなくなっている。
「何の為に妓楼があると思っているのですか…私はニコルを連れていきますから、後をお願いします」
 モーティシアは冷静なまま告げ、トリッシュ達に後を任せて腕を引き始めた。
「媚薬香を早く打ち消したいなら、女性を抱きなさい」
 くらりと傾ぐ身体はモーティシアに連れられるままに足を運ばせる。
「…まだエルザ様を抱くわけにはいかないでしょう?」
「っ…」
 そして告げられた名前に、ただ息を飲むことしかニコルには出来なかった。


第38話 終
 
5/5ページ
スキ