第38話


第38話

 今から数ヵ月前。
 アリアが心から慕う男性は、突然アリアに別れを告げた。
 別れの言葉は今でも覚えている。

「ごめん

 ごめん

 愛してない

 愛したことなんてない

 全部

 全部嘘だった」

 出合ってからの六年間を、婚約してからの五年間を。
 全てを否定して去っていった。
 彼は今どうしているだろうか。アリアに愛を語ってくれた唇で、別の女性を愛しているのだろうか。
 裏切られ、傷付けられた。
 それでもまだ、アリアの心には彼がいる。
 まだ愛しているのかと問われたら強く頷けるほどに。
 その心に。

 「君が好きだ」

 昨日するりと、別の男性が入り込んだ。
 彼に裏切られてから怯えるほどに怖かった愛の告白が、レイトルに限ってだけは怯えはしなかった。
 代わるように泣きじゃくり、みっともない姿をさらしたが、それでも好きだと。
 レイトルに好意を抱いたのかと訊ねられたら、それはまだわからない。
 わからないが。

 昨夜から結局一睡も出来ないまま、アリアは朝日に照らされた窓の向こうに目をやる。
 今日一日は王城警護と護衛など外せない職務につく者以外全員が、突然の休みをコウェルズから言い渡された。
 アリアには最良のタイミングでの休日だろう。
 噂を蒔いた主であろうガブリエルと対峙し、レイトルの前で泣きじゃくり。もし今日何らかの仕事があっても、きっと手につかなかったはずだ。
 自分でもよくわからないが、胸に悲しみと高鳴りが交互に訪れるのだ。
 悲しみはかつての恋人を思い出して。高鳴りは、今も扉の向こうに居てくれているかもしれないレイトルが気になって。
 兄であるニコルに抱き締められた時とはまた別の、くすぐったいような感触が今も身体に残っている。
 ふと思い出してしまって、頬が熱くなるからパタパタと手で扇いで。
 扉を叩く軽い音が室内に響いたのは、少し落ち着こうと深呼吸をした時だった。
「レイトルさん?」
 思わず立ち上がって、慌てて前髪を少し直すようにいじる。
 だが扉の向こうから顔を見せてくれたのは、レイトルではなかった。
「兄さん…」
「あ…悪いな…レイトルと夜に替わってもらったんだ」
 いつの間にか戻ってきていたらしいニコルが、アリアのわずかに落胆したような声に気付いたのか謝罪をはさんだ。
「悪いとか…べつにあたしは、そんな」
 慌てて否定しても、違和感ばかりが先に進んでしまいそうで、思わず二人で立ったまま黙り込んでしまう。
 気まずい静寂は数秒続き、先に口を開いてくれたのは用があって扉を叩いたニコルだった。
「セクトルが食事を持ってきてくれたんだ…一緒に食べないか?」
 言いながら、盆に乗せられた二人分の朝食を器用に片手で掲げる。
「うん」
 朝だなぁ、とはアリアも考えていたが、食事の事はすっかり忘れていた。
 ニコルに入るように促して、足の低いテーブルと対になったソファーに案内して。
 ニコルは手際よく盆から食事を下ろし、アリアとは向かい合いに座った。
「今日の朝食当番、ジュエル嬢だとよ。セクトルからお前に持ってくって聞いて、サラダ多目に入れてくれたらしい」
「え、嬉しい。お礼言わなきゃだね」
 最近少しずつ仲良くなり始めている未成年のジュエルはいつもしかめっ面ばかりだが、ふとしたところで仲良し特有のおまけをしてくれるようになった。
 以前のジュエルは顔を合わせれば嫌みばかりで敵対されていたが、今となっては懐かしい。
 ジュエルや騎士のミシェルがガブリエルと同じ親から産まれたなど、正直考えられないほどだった。
 しかしミシェルや他の騎士曰く、ガブリエルの性格こそが藍都ガードナーロッドの特色らしい。だからミシェルは家では膿扱いを受けているのだと以前聞かされた。
 ジュエルも実の兄であるミシェルを膿扱いしていたが、今では仲良しの兄妹にしか見えない。というよりも元々ジュエルはミシェルに甘えていたらしいのだが。
 サラダを見れば確かに普段より多く果物が入れられており、思わず表情がほころんでしまう。
 アリアのその様子を眺めるニコルもつられて微笑みを浮かべて。
 それでも互いに酷い顔だった。
 アリアは泣き腫らして目元が赤く、ニコルは疲れきったように顔色が悪い。
「昼からレイトルと護衛を交代するが、どこか行きたい場所はあるか?」
 朝食をはさみながらレイトルの名前を出されてわずかに肩を跳ねさせたが、朝の時間帯の過ごし方を訊ねられてアリアは考えるように頭をひねる。ひねった所で何も出てきはしないのだが。
「ううん、今日はゆっくりしてたい」
 結局は静かに過ごすくらいしか思い付かないのだ。
「そうか…城下に降りることも出来るぞ?」
「んー…いいや。まだあんまり興味わかないし」
「そうなのか?」
「へん?」
 ニコルからの提案も蹴れば、少し驚いたように目を見開かれてアリアの方も驚いてしまった。
 ニコルは「いや」と返すが、事実まだ興味がわかないのだから仕方無い。
 わかないと言うのか、見たくないと思っているのかは自分でも理解できてはいないが。
 王都の美しさは、嫌でも村との比較となってしまう。今はそんな卑屈な気持ちになりたくないと無意識に拒絶したのかもしれない。
 結局は静かに過ごすことに落ち着いて、また食事を進めて。
「怪我人の治癒、ありがとな」
 突然の感謝の言葉に、今度はアリアがパチクリと目を見開く番だった。
 何を会話のネタにするかと思えば。
「あたしの仕事だもん。任せて」
 昨日ようやく区切りのついた治癒。医師達がアリアの状態を見ながら治癒の順番などを決めてくれたお陰でアリアには負担がかからず済んだので、感謝するなら医師団に告げたほうがいいだろうほどだ。
 何かあったのだろうか。
 心配してしまうほど、今のニコルは落ち込んでいる気がした。
 レイトルは昨日、ニコルにも拠り所が出来たと言っていた。恐らくはエルザ姫の事だろうが、今のニコルを見る限りではあまりそうは思えない。
 それとも、相手に弱味を見せたくないのか。
 有り得る、と思うのは家族だからだ。強がるのはアリアも同じなのだから。
 たとえ血の繋がりが無かろうが、同じ親の元で育ったのだ。それなりに似てはいる。
 胸中を教えてほしいとは思うが、アリアはニコルの負担になりたくないし、ニコルは妹に弱い部分を見せたくないだろう。
 それは何となくわかっているけれど。
「…何かあったの?」
 いつもの兄じゃないのは、見ていてつらい。
 アリアに問われてニコルは食事の手を止めるが、ちらりとアリアに視線を向けるだけで。
「…兄さんらしくない」
「…それはお前もだろ」
 お互いに思うところは同じか。
「あたしは…噂、どうしたもんかなぁって…それだけだよ。兄さんは?」
 これは嘘ではない。
 気にするつもりはないが、完全に忘れられるほど強くもない。
 それ以上の思いは自分自身すらもはぐらかして、アリアはもう一度ニコルに向き直る。
 自分は教えたのだから、兄さんも教えて。
 力になりたいのは、互いに同じはずだから。
 ニコルはしばらく口を閉ざすが、見つめられ続けて、やがて観念したように利き手のフォークを置いた。
「…仕事が山積みでどれから手をつけるべきか迷ってるだけだ」
 わずかに逸らされた視線が引っ掛かるが、確かにニコルはコウェルズから頻繁に呼び出されている。
 アリアの護衛をしながら、王子の対応もなど。
「そんなに?コウェルズ様からのあれなんだよね?その間くらいあたしの護衛から離れても」
「やめろ言うな」
 自分は大丈夫だからと告げようとした言葉は、焦るような声に阻まれてしまった。
「いや…悪い…あれだ、護衛の仕事中の方が体が休まるんだ」
 すぐにニコルはばつが悪そうに眉根を寄せて謝るが、どこかで聞いたような休憩方法に思わず笑ってしまう。
「…何それ。騎士団の人達って、そればっかり」
 レイトルやセクトル、ミシェルも口にしていた決まり文句だ。
「騎士は元々体力仕事だからな。頭を使う仕事には慣れてないんだよ」
 ということは、王子からの頼まれ事は頭脳勝負ということか。それは確かに、アリアの知るニコルには難しそうだ。
「兄さん昔から体力任せだったもんね」
「…そうか?」
 自分が覚えている微かな記憶と父の思い出話を脳内で再生しながら笑えば、不満そうにニコルは顔をしかめた。
 自覚がないのだろうか。それとも、頭を使わないという点に引っ掛かったのか。
「そうだよ。短気だし、すぐ喧嘩になるし」
「…そうだったか?」
「お父さんから聞いてるもん。村であたし達家族のことバカにする子達に片っ端から喧嘩ふっかけてたんでしょ」
 母が一人に父が二人。特殊な家庭は、格好の嘲笑のネタだったはずで。
 アリアは覚えていないが、父曰く、家族を笑う者には年上年下構わず殴りかかり蹴りかかりと大変だったそうだ。
「…子供の頃の話だろ」
 当時を思い出したのかサッと明後日の方を向くなどわかりやすい。
「お父さんが剣術教えてくれて、なんでか少しマシになったんだよね」
「…懐かしいな」
 これはアリアもしっかり覚えている。
 剣術に優れた兵士だった父からニコルは剣術を学んでおり、アリアはいつだってその訓練風景を眺めていた。
 剣を握るのは男の勤めで、女は殺傷の武器は手にしない。
 それはエル・フェアリアに長く続く風習だ。
 男は敵を殺す刃を。女は命を頂く刃を。
 だから愛する者を守る兵士は男の仕事で、愛する者を力付ける料理は女の仕事なのだ。
 それでもずっとアリアは憧れていた。
 剣を振るう兄の姿に。
「…兄さんが村を出てから、あたしも少し剣術習ったんだよ」
 兄がいなくなってからは、こっそり隠れて父から剣を少しだけ学んだ。
「…お前が?」
「実は気になってて…でも兄さんの前では恥ずかしくて…」
 ニコルは驚いているが、アリアの恥ずかしがる姿につられるように笑う。
「もう!」
 恥ずかしくて頬が熱くなった。
 でも、兄の剣術はそれほどに魅力的だったのだ。
 三年前の剣武大会で、ニコルは剣術で見事にエル・フェアリア代表として優勝してみせた。
 父の亡くなる前だったか、後だったか。
 だがニコルの出場が決まった時には父は確かに生きていて、雲行きの怪しかった容態ではあったが戻ってくるなと釘を刺していた。
 戻って心配そうにするくらいなら、国の代表として、俺の教えた剣術で栄光を勝ち取ってこい。
 そっちのほうが親孝行だと、父は最期まで笑っていた。
「…小さい頃は俺と結婚するとかも言ってたもんな。覚えてるか?」
「私は覚えてないけど、お父さんはしっかり覚えてたよ。『娘が一番最初に結婚したがるのは父親のはずだろ』って…死ぬ間際まで言ってたんだから」
 懐かしくて悲しい思い出達。
 指の間をすり抜けて去っていった家族との時間だが、確かに暖かな温もりに溢れていた。
「みんなよく笑ってたよな」
「うん…楽しかった…」
「…だな」
 母がいなくなり、父がいなくなり。
 思い合いながらも遠く離れていた兄妹は、不思議な因果で再び再会した。
「…こっちに来て、兄さんと再会できて…びっくりしたんだよ」
 手紙のやり取りは欠かさなかったが、会えない時間は十三年に及ぶ。
 面影はとうに影に隠れた頃にようやく再会して、そしてアリアはニコルという兄に驚いた。
 ニコルはアリアを見て不思議そうな顔する。
 何にびっくりしたんだと訊ねたそうな顔だった。
 アリアが知っている兄はいつの間にか父の語る思い出の中の兄ばかりになって、その姿はいつまでも代わらずわんぱくな子供で。
 そんなイメージばかりが先行していたから。
「だって兄さんったら大人ぶっちゃってさ」
「大人ぶってんじゃなくて大人なんだよ」
 すかさず反論されるが、こんな他愛ないお喋りすら、数ヵ月前までは夢のまた夢だったのだ。
「…ふふ」
「…何だよ」
 ふいに笑い出すアリアに、ニコルは怪訝そうに眉を寄せる。
「大人になっちゃったんだなって。あたしも兄さんも」
 そうしみじみ語れば、「はぁ?」なんて小バカにするような相づちをうたれて。
「お前まだ成人四年目だろ。俺と比べんな」
「ひど!兄さんだってたかだか十年でしょ!」
「二桁舐めんな」
 自分の方が大人の先輩なんだと胸を張る姿はまるで子供だ。
 でも、確かにニコルはアリアより長く生きた先輩なのだ。
 母との思い出は勿論、父との思い出も、ニコルのほうがきっと沢山持っている。
 羨ましい。同時に悲しい。
 ニコルが村を出ていったのは。
 ニコルが村を追い出されたのは。
 母が死んだからだった。
 その事件さえなければ、きっとまだ両親は生きていて、ニコルとアリアも共に育ったのだろう。
 しかし現実は、ニコルとアリアを子供のままではいさせてくれなかった。
「ちょっと前まで子供だった気がするのにな…お父さんやお母さんにも子供の時があったとか信じられないよね」
 思い出に浸りながら、想像もつかない両親の幼少期にも目を向けてみる。
「そうか?」
「そうだよ。ととさんにだってあったんだよね…子供の時が。一番信じられないけど」
 両親だけでなく、ニコルの父である彼も。
 アリアにとって最も大人である彼にも幼少期があったなどと一番信じられなくて。その思いが頭を満たすから、ニコルがわずかに固まったことにアリアは気付けなかった。
「ととさんの子供時代ってどんなのだったのかな?案外兄さんみたいに短気だったとかあるのかな?…あ、やっぱり想像できない…お父さんがととさんと並んで話してる時って、たいがいお父さん子供扱いされてたもんね」
 黙り込むニコルを放置するように、アリアは記憶の中の両親と彼とのやり取りを思い出す。
 滅多に会えない人だったにもかかわらず、彼のことはほとんどはっきり覚えている。
 さすがに会話などは覚えていられないが、仕草や、頭を撫でてくれる手の大きさは今も忘れられない。
 ととさんは、不思議で妖しい魅力のある大人。
 そんなイメージがあるから、幼少期など考えもつかない。
「…兄さん?」
 そこまで考えてようやく兄に目を向けて。
 思い詰めた顔で俯くニコルに、わずかに胸が苦しくなった。
 どうしたのだろうか。問いかける前に、視線が合わさって。
「…親父な」
 親父、ととさん。
 ニコルの。
「…俺と親父、血が繋がってると思うか?」
 問いかけられて、心臓が跳ねた。
 アリアは知っている。だがニコルはまだ知らないはずだ。
 血の繋がりについてを。
 それをニコルは、母でなく父を疑う。
「本当は父さんの子供だったとかないかな…」
 否、疑うというよりも、それを願うかのような切実な表情だった。
 ニコルは血の繋がった父を親父と、育ての父を父さんと呼び分ける。
 産みの親より育ての親とはよく聞くが、その垣根を越えて、ニコルは“家族”という逃げ場を求めているようだった。
「俺と親父、似てるか?」
 頼む、似ていないと言って。
 ニコルの言葉の裏にそう願われて、しかしアリアは父を二人とも愛している。
 ニコルが壊れないように今を汲むか、現実を告げるか。
 一瞬迷って。
 でもアリアは、共鳴石をニコルに渡してほしいと願う彼を見たのだ。
 ニコルにはまだ受け入れられなくても、彼はニコルを息子として愛しているはずだから。
 今はまだ溝があったとしても、いつか隔たりを無くして仲良くなってほしい。
 だって彼はまだ生きているのだから。
 手の届かない場所に逝ってしまった両親とは違うのだから。
「…あたしが小さい頃のととさんのイメージしかないけど…今の兄さん、ととさんそっくりだよ。見た目の話だけど」
 中身は全然違うよ。そう付け足しながらニコルを見れば。
「--…そうか」
 まるで夢を諦めるかのような寂しい笑顔だった。
 そんな顔をしなくてもいいのに。たとえ血が繋がらなくても、アリアとニコルは家族なのに。
 血の繋がりなど、絶対ではないだろう。
 血の繋がりこそが家族だというならば、両親はどうなるというのだ。
 それでもきっと、今のニコルは無い物をねだるのだろう。
 心を落ち着かせるために。
「ととさん格好いいもんね。顔焼けちゃったって言ってたけど…どれくらい酷いのかな?ガウェさんの顔の傷が綺麗に治せたときはあたしもびっくりしたけど…それならととさんの火傷だって綺麗に治せるはずなのに」
 ニコルを元気付けたくて彼の良いところを見つけようとして、顔を仮面に隠してしまった彼を思い出す。
 綺麗な人だったのを覚えている。
 嘘偽りなく、ニコルとよく似た人だった。
 違いを上げるとするならば、彼の方が作り物めいた知的な繊細さに溢れて、ニコルの方が短気な分か、人間味に溢れている。
「今度会ったら、また逃げられる前に二人で捕まえようね。絶対に火傷治してやるから」
 何がなんでも治して、おかしな仮面なんて外させて、ニコルと親子として語らえばいい。そしてそこに少しだけアリアを交ぜてくれたら嬉しい。
 そんなアリアの思いとは裏腹に、ニコルはただ寂しい笑顔を浮かべるだけだった。

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