第37話
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訳有り騎士であるニコル、ガウェ、フレイムローズ、レイトル、セクトル。
年齢的にまだ若手の分類である五人が滞り無く訓練する為に王城敷地内に勝手に作られた秘密の訓練場。そこにアリアが訪れたのは今日で二度目だ。
レイトルに肩を支えられるように共に歩いて、レイトルに促されるままに切り株に腰を降ろして。
「ここなら人もいないし、ゆっくり出来るだろう」
今にも泣き出しそうなアリアに、いつも通りの穏やかな声色をくれる。
レイトルも近くの切り株に座って、背もたれが無いからか、リラックスするように膝に肘を置いて上体をわずかに前へ傾けて。
「…ありがとうございます」
気を使ってくれるレイトルに贈る感謝の言葉には、少し戸惑うような笑顔を返された。
レイトルはアリアがガブリエルとどんな対話を繰り広げたかは知らない。
だがアリアを心配して駆けてきてくれた姿は、レイトルがガブリエルを知っていることを告げている。
兄のニコルは覚えがない様子だが、ガブリエルがニコルに思いを抱きながらも報われなかった過去は知られており、ガブリエルの性格も知っているのだろう。
噂についてはとうに知っている様子がなぜか胸に応えて、涙をこらえるべく俯いて両手を強く握り合わせる。
互いに座ってから数分は沈黙が守られた。
梢の音を聞きながら、遠くから聞こえてくる誰かの声を聞きながら。
「…黙ってるべき?それとも…聞いていい?」
レイトルが問うてきたのは、秋の風が一度強く吹いた後だ。
「噂は知ってるよ…最近知った」
恐らく今現在一番アリアを圧迫しているのだろう噂について。
やはり知っているのか。
そうだろうなぁと思ってはいたが、確信を持たされるとやはりつらい。
「…どうせ嫌がらせです。気にしてません」
口先ばかり強がって、中身が伴わない。
アリアの声は誰が聞いても弱々しいとわかるもので、そんな声で強がられても誰も信じないだろう。
だとしても。
誰にでも弱さを見せられるような性格ではないのだ。
兄にすら負担をかけたくなくて強がってみせるアリアだ。
唯一弱さを見せられた人は、アリアの心をえぐりとって去っていった。
もう、アリアには心から全てを許せて委ねられる人など。
「…私じゃ力になれない?君の力になりたいんだ」
ふと、レイトルが立ち上がったとは思っていた。しかし顔を上げずにいた矢先に両手を柔らかく握られて、片膝をついた彼が目前に。
アリアの力になりたいと、真剣な眼差しで見つめて。
言葉に含まれた他意に気付きそうになる心を何かが押し留める。気付くなと、警告を発するように。
片膝をつくレイトルと木の幹に力無く座るアリアの視線はほぼ同じ高さで、普段ならわずかに見上げなければならなかったのに、わずかな違いだけで様子は変わってしまう。
同じ目線で見つめ合ってしまったからか、レイトルが照れたようにくすりと一度笑った。
「ニコルは何でも自分で背負い込むんだ。私達の手を借りようともしない。でもニコルも、拠り所を見つけたんだ…私は君の拠り所になりたい」
苦しむ胸を癒すような言葉に、涙がこぼれそうになる。
このまますがってしまいそうになる心を、また何かが押し留めた。
駄目だ、泣きたくない。
必死にこらえて、すがる先に待つ悲しみを考えてしまい、気持ちが下降し続けようとする。
「…あたしなんて」
自嘲じみた笑みは、いったいレイトルにどう見えた事だろう。
握られていた手のひらが離れて、今度は力強く両方の二の腕を掴まれた。
力強く、だが思いやるように。
「アリアだから支えたいんだよ。治癒魔術師だからじゃない、ニコルの妹だからでもない。アリアだから…守りたい」
堪えたかった涙がこぼれたのは、レイトルの言葉の内側に隠された思いに気付いてしまったから。
「好きだよ。初めて君と出会った時から…好きだ。君を知っていくうちにもっと好きになった」
レイトルの思い。
情熱的な瞳を向けられて、胸の奥が情け容赦無くちぎり取られるような痛みに苛まれる。
涙が止まらない。
胸が痛い。
「っ…ごめんなさ…っう、あたし、ごめんなさいっ…」
「…アリア」
しゃくり上げながら謝罪するアリアに、レイトルの表情がわずかに傷付くように動いた。
違う、拒んだわけではないのに。
言葉がうまく出てきてくれない。
「ま、まだ…」
それでも懸命に謝罪の理由を口にしようとして、レイトルは聞き漏らさずに汲んでくれた。
「…婚約者が忘れられない?」
「っ…」
訊ねられて、顔を泣きはらして歪めながら何度も頷いてしまう。
裏切られたのに。
捨てられたのに。
アリアの心にはまだ彼がいる。
同時に傷つけられた苦しみも存在して、愛の言葉そのものが恐ろしかった。
愛していた分だけ、裏切りに切り裂かれた傷は深くなる。
未だに癒えていない傷は、アリアの治癒魔術でも治せないものだ。
時間が経てば癒えていくと思ったのに、時間が経つごとに腐敗も始まり深く広く傷が広がっていく。
袖で涙を拭っても、後から後から溢れて意味がない。
そっとアリアの二の腕から離れたレイトルの手のひらが、まるで子供をなだめるように頭に乗せられて、何度も優しく撫でられた。
その心地好さが少しだけ傷を癒してくれている気がしたから、そのまま撫でられ続けて。
ニコルもよくアリアの頭を撫でてくれた。同じはずなのに、全くの別物のような感覚。
ニコルの手のひらは、ただ安心できた。
レイトルの手のひらは、どこかくすぐったい。
それは恐らく、完全には身をゆだねられない緊張感がわずかに働いているからで。
ほんのひとつまみ程度の緊張感だったが、今はそれが逆に心をくすぐり、優しく癒してくれている気がしたのだ。
永遠に流れ続けようとしていた涙が少しずつ収まり始めたのは、数分もの間レイトルの手の温もりを味わった後だ。
この涙が完全に収まったら、きっとレイトルの手は離れていく。
すぐ近くに迫った未来が少し悲しくて、しかし涙は最後のひとしずくを頬に流して止まってしまった。
潔く最後の涙を拭き取って、レイトルの温もりが離れるのを待って。
だが手が離れるより先に、レイトルが口を開く方が早かった。
「…聞いてもいい?どうして別れたのか」
アリアをここまで苦しめる理由を問われて、心臓を掴まれたように呼吸が止まる。
「あ…嫌ならいいんだよ」
すぐにレイトルは撤回しようとしてくれたが。
「…聞いてください…」
彼にならば。
そんな思いが生まれて、アリアはレイトルに涙で濡れた瞳を向ける。
レイトルにならば、聞いてほしい。
アリアの胸を苦しめ続ける痛みの原因を。
好意につけこんで甘えてしまっているだけなのかも知れない。だが今は、この痛みを口にしたかった。
レイトルに聞いてほしかった。
数秒見つめ合って、やがてレイトルが頷いてくれて。
「…初めて会ったのは…六年前なんです。村長と町まで買い物に出かけて…その帰りに」
最初の出会いから、その一部始終を。
六年前、アリアが年齢を偽り働いていた13歳の頃。
「町に住んでる人で、あたしより2つ年上で…“少し話せないかな”って…」
男性から話しかけられることはよくあった。だが彼は、他の男達とは違っていた。
実年齢より上に見られるほど発達していた身体は格好の視線の的で嫌気がさしていた頃だ。男の人なんて父二人と兄と村長以外みんな汚いと思っていたアリアの心に、彼はするりと入り込んできた。
「…それから何度も話して、村にも来てくれて…一年くらいして…あたし、その人のことが好きになってて…そしたら、告白してくれたんです」
町で仕事を終えて、少し話して、帰ろうとした時に。
帰路に向かおうとするアリアの手を掴んだ彼は。
「…その人の都合で遅くなるけど、結婚してほしいって…」
一年かけてゆっくりとかき混ぜるようにほだされた心が舞い上がらないはずがなかった。
「あたし嬉しくて…いくらでも待てるって…ずっと…」
幸せだった頃の記憶が鋭利なナイフに変わってアリアの心を貫いた。何度目かもわからない痛みに涙がひとしずく溢れて、少し動きを止めていたレイトルの手が再び頭を撫でる。
「それから…町で会ったり村に来てくれたりが続いてて…みんなにも話してて」
婚約関係に入り、アリアなりに愛を育んでいたつもりだった。
少しずつ少しずつ彼を知り、アリアを教えて。
三年前、アリアの花嫁姿を見ることなく彼岸の地へと向かってしまった父。哀しみに嘆くアリアを支えてくれたのも彼だった。なのに。
「…あたしの19の誕生月に、時期が来たから…町に来てほしいって言われて…あたし、やっと一緒になれるんだって浮かれてて…」
涙が溢れる度に、レイトルは何度も頭を撫でてくれた。
甘い思い出が刃物に変わった瞬間は。
「町に行ったら…待ち合わせた場所にあの人がいたから駆けよったら、馬車があたしの後ろで止まって…その馬車から知らない女の人が出てきて…」
「…馬車から?」
今まで静かに聞いてくれていたレイトルが、何かに引っ掛かったようにそう訊ねてきた。はい、とだけ返したのは、それ以外アリアにも何もわからないからだ。
「女の人があの人に駆け寄って…二人で…抱き締め合って…あたし、あたしの前で…それでっ…」
異常な光景。
有り得ない風景。
アリアの目の前で、彼は別の女を抱き締めた。
アリアには何のことなのかさっぱりわからない。
その後も、彼を問い詰めなかったから余計に。
問い詰められるほどの気力もなかった。
アリアとの全てを否定する言葉を、彼は最後の別れにアリアに与えたのだから。
「--ごめん
ごめん
愛してない
愛したことなんてない
全部
全部嘘だった」
傍らに愛しげに女に触れながら、アリアには育んだはずの愛の全てが偽りであったと。
「わけわかんなくて…だってずっと…何年もっ…好き…」
出会ってから六年間。婚約してから五年間。
愛しい人との幸せな結婚を指折り数えていたというのに、全て瓦礫と化して崩れ去った。
いや、瓦礫ですら。最初から何も存在しないかのように幻が消え去ったのだ。
「…アリア」
「…あの人が女の人とすごく愛し合ってるのが一目でわかって…じゃあ…あたしは?…あたし、何で?」
レイトルに名前を呼ばれても、嘆く心は止まらなかった。
「アリア、もういい…」
「っ…あたし…最初から愛されてなかったんだって…だって…あの人の笑顔…いつも悲しそうで…手だって…あの人から繋いだことなかったって今さら気付いて…」
再び涙が激流のように溢れて、視界が完全に滲んで前が見えなくなった。
世界が闇に染まる感覚。
泣きすぎで視力を失うなんて事があるのだろうか。
だがアリアの視界が闇に染まったのは、涙など全く関係が無い理由からだった。
身体全身を包み込むのは、柔らかな温もりと、心地好い硬度の冷たさだ。
「…ごめん…思い出させて…」
レイトルに抱き締められたと気付いたのは、レイトルの穏やかな声が頭上から響いたからだった。
レイトルの暖かな手のひらと正反対の、鎧の冷たさ。
だがその二つの、なんと優しい事か。
話したかったのはアリアだというのに謝罪されて、泣いたまま首を横にふる。
胸元の鎧が額に当たるが、その冷たさは今のアリアには必要なものだった。
止まらない涙を拭うこともせずにレイトルに身を傾ける。
しゃくり上げながら、詰まる鼻をすすりながら。
こんな風に男性に抱き締められる日がまた来るなんて思いもしなかった。
ニコルは兄だ。数には入れられない。
村での一件以来、男性が側にいるだけで恐怖を感じた。
王城に来てからは随分と馴れて平気になってはいたが、近すぎる距離は恐ろしくてたまらなかったのに。
自分を守ってくれる存在の大きさが気持ちを落ち着かそうとしてくれる。
護衛としてのレイトルでなく、男としてのレイトルに。
涙は少しずつ収まり、滲んだ視界も元に戻り始め。
呼吸も辛かったのが随分と楽になり、アリアはそっとレイトルからわずかに身を引いた。
「…その、後は…噂の通り…」
これで話は終わりだとその後を話せば、レイトルの眉間に深い皺が寄る。
「あ、ちが…強姦なんてされてないですよ」
城内で流れている噂が誇張されていたことを思い出して慌てて否定した。
強姦はされていない。
レイトルにはそんな風に見てほしくなかった。
「でも…未遂があったんです…村長と奥さんが助けてくれたけど、あたしが婚約破棄されてから…村の人達の態度が変わって…」
強姦未遂の真相を。
助けてくれた人がいるのだと。
「…その後はずっと村長と奥さんの家で匿われてて…もし治癒魔術師として呼ばれてなかったら…危なかったんです」
未遂が終わった後も、何度か危険な状況はありそうだった。それらを回避できたのは二人が目を光らせてくれていた事と、アリア自身が一人にならないように気を付けていたからだ。
それでも年老いた二人では限界がある。
王城に呼ばれたことは、ある意味では天の助けでもあったのだ。
ただし、その天の助けは無償ではなかったが。
「…どうしてそれが王城で流れたか、だね」
「…わかりませんけど…貴族の情報網ならわかるんじゃないですか?調べようと思えば調べられるだろうし…聞かれて黙ってるような村の人達じゃ…なかったし」
わずかにやさぐれるような声色になってしまい、レイトルが口を閉じる気配を感じた。
それだけの恐怖を味わったのだ。閉ざしたい過去。だが誰かが勝手に暴いて晒した。
ご丁寧に誇張し、事実と異なる現在まで作って。
全員がその噂を真に受けることは無いだろう。
だが真に受けずとも、嘲笑のネタにはする。
アリアを慮ってくれる人ならば、端からそんな噂は知らないというように流してくれる。それ以外の者達は。
「あの…」
離されて急速に温もりの去っていく身体を縮こまらせながら、アリアはレイトルを見上げた。
話したくて話した過去。だが。
「…婚約者のこと…兄さんには言わないでください…兄さんには話してないんです…何があったのか」
心配をかけたくなくて、負担になりたくなくてニコルには話さなかった。
だから兄には話さないでいて。
いつか自分の中で消化出来たなら、自分から話すから。
アリアの小さな願いを、レイトルは頷いて聞き入れてくれる。
「…わかった。約束するよ」
少し悲しそうに微笑まれて、頬に残る涙の後を指先で拭い取られた。
「…もしまた泣きたくなったら、いつでも私を頼って」
そして、今度はレイトルが願い出る。
泣きたい時は自分を頼って。
どうしてそこまでしてくれるのかわからずに首を傾げるアリアを、レイトルは寂しそうにクスクスと笑った。
「…言ったろ。君の拠り所になりたいって」
「…でも」
「…君がまだ婚約者を忘れられないのはわかった…それでも、私の気持ちは変わらないよ。君が好きだ」
好きだから、頼ってほしいと。
レイトルの告白を完全に拒みはしなかった。だがアリアの中にはまだ婚約者への思いが強く残っている。
泣いて曖昧に濁してしまったのに。
「無理に答えてくれなくていいから…他に頼れる人が…他に好きな人が出来るまででもいいから…それまでは私を頼ってほしい」
「…どうして…あたしなんか…」
自嘲気味に笑いそうになったアリアの身体は、再びレイトルに引き寄せられた。
「アリアだから…」
抱き締められて、アリアを見てくれる。
友の妹だからという訳でなく、護衛対象だからでもなく、治癒魔術師だからでもない。
アリアだからと。
そう告げられて、胸が甘く疼いた。
まだアリアには自分の気持ちを整理できる余裕は存在しない。だが確かに、その胸の奥にレイトルの居場所が生まれたのだ。
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