第37話


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 リーンの告げた真実から逃げ出したガイアが訪れた場所は、ラムタル王城でも王族と一部の人間だけが入ることを許された小さな庭の一角だった。
 小さな庭といっても王城内である為に規模はそれなりにある。
 その中に建てられた小宮のような美しい東屋の柱にもたれ掛かりながら、誰にも聞かれない程度のため息をひとつ。
 ファントムにはニコルとルクレスティード以外にも子供がいる。リーンと、もう一人。
 ガイアが産んだのはニコルとルクレスティードだけだ。
 リーンを産んだのはクリスタル王妃で間違いはないだろう。
 息子のコウェルズに殺されたエル・フェアリア前王デルグの妻、クリスタル。
 元々ファントムがロスト・ロードのままエル・フェアリア王となっていたなら、クリスタルは彼の妻になっていたかもしれない。
 四年前に亡くなったクリスタル王妃をガイアが実際に目の当たりにしたことはない。
 ガイアはニコルを無理矢理引き離されたというのに、彼女は。
 その黒い僻みが胸を押し潰すようだった。
 あまりに突然告げられた真実に逃げてしまったが、ファントムの子供はもう一人。
 それが誰かなど、見当もつかない。
 だがファントムの事だ。何か目的があって産ませたはずだ。
 そうでなければ、産ませるはずがない。
 ニコルは最初の実験だった。そう告げられた。そして“失敗”だったが為に、取り上げられてしまった。
 リーンは、何かしらの策を以て産まれた。ファントムの計画の為に、五年もの間を苦痛に身を浸す為に。その計画の全貌は未だにガイアには掴めない。
 ルクレスティードは…
 ルクレスティードのように、ニコルを自分の手で育てたかった。
 迎えに行けたなら。自分が母親だと名乗れたなら。だが、ファントムに囚われ続けたガイアの心は、ファントムの機嫌を窺うばかりで身動きが取れない。
「お母様!!」
 不甲斐ない自分を責めるように俯いた最中、愛しい声に呼び掛けられてガイアは顔を上げた。
 自分とよく似た癖のある髪質の、闇色の紫を持って産まれたルクレスティードが、両手で何かを優しく被いながらパタパタと元気良く駆け寄ってくる所だった。
「あら…どうしたの?」
 柱に預けていた背中を離して、まだ小さなルクレスティードに近付くように中腰になる。
 ルクレスティードが特別に持って産まれた千里眼を操る訓練以外では自由に王城内を遊んでいるので何か見つけたのだろうと思えば、
「見て!綺麗な蝶を見つけたんだ!!」
 ガイアに見せたくて捕まえたらしい美しい蝶を手のひらから離した。
 蝶は羽を広げれば10センチほどもある大型で、少しの汚れも見えない純白の姿をしていて。
「…真っ白な蝶なんて初めて見たわ…とても綺麗ね」
 蝶は逃げるでもなくガイアの周りをふわりふわりと漂い、そっと肩に留まった。
「しかもこの蝶、魔力持ちだよ!!」
「え?」
 ルクレスティードの告げるままに蝶にそっと手のひらをかざせば、確かに微力ながら魔力の流れを感じ取る。
「本当…不思議な蝶ね…」
「どこかに籠無いかな?」
「あら、だめよ。離してあげなさい」
「えー、でも…」
 逃げないよう閉じ込めるべく籠を欲しがるルクレスティードに、そっと注意して。
「せっかく自由に飛べるのよ。閉じ込めてしまったら可哀想よ」
 自由に空を舞うことを許された蝶なのだ。その自由を奪うなど、悲しすぎる。
「…じゃあ閉じ込めないから」
「放し飼いにするの?あなたの言うことを聞いてくれるかしら?」
 いかにも子供らしい感性に思わず笑みが溢れた。
 ルクレスティードは蝶を放し飼いにするべく色々と策をねるように頭をひねって考え、その姿を肩に留まり続ける蝶と共に見守って。
 ふわりと、蝶が離れたと思った瞬間。
「--ガイア」
 響き渡る低い美声に、呼ばれたガイアは肩を震わせた。
 身をこわばらせて体を向けるガイアとは違い、ルクレスティードは声の主に無邪気な笑みを向ける。
「お父様!--あ!」
 ガイアとルクレスティードが訪れたファントムに視線を向けた時、白い蝶はまるでファントムを攻撃するようにその眼前近くを飛び回った。
「…何だこれは…」
 目の前を飛び回る大型の蝶を鬱陶しそうに手で振り払うが、蝶は離れようとしない。ファントムの苛立ちが目に見えて、ガイアは自分のことのように緊張を走らせた。
「駄目!乱暴にしないで!僕が見つけたの!!」
 今にも蝶を殺してしまいそうなファントムに、ルクレスティードは慌てて蝶をかばいに向かう。
 蝶は人の声がわかるかのように素直にルクレスティードの手のひらに収まり、救われた蝶に安堵のため息をついた。
 そのまま蝶を離してあげてとガイアは心の中で呟くが、ルクレスティードは母が駄目ならとばかりにファントムに願い出てしまう。
「魔力持ちの蝶だよ!ねえ、飼っていい?」
 ペットが欲しいとは今まで言わなかった子だ。そしてなかなか賢しいルクレスティードは、ガイアがファントムに逆らえないことも、ファントムがあまり何に対しても興味を持たず放置するように許してくれることも知っている。
 それらを踏まえた上で父親に甘えた声を出すルクレスティードだったが、
「捨てなさい」
 にべもなく言い放たれて、幼い表情が哀しみよりも困惑に揺れた。
「…でも」
「ガイア、来なさい」
 なおもすがろうとするルクレスティードを放っておいて、ファントムはガイアに手を伸ばす。
 拒む術を知らないガイアはわずかに俯きながら足を動かしてファントムとルクレスティードの元に向かい、
「お母様、飼っちゃ駄目?」
 ルクレスティードを置いてファントムについて歩く、そのわずかに早く、ルクレスティードにそっとドレスの袖を掴まれた。
 見上げてくるルクレスティードは、どうしてもこの人懐っこい蝶を手放したくない様子で。
「捨てなさいと言ったんだ。聞こえなかったのか?」
 足を止められてわずかに苛立つファントムに反抗するように、ルクレスティードはガイアだけを見上げた。
 自分にも、これくらい反抗できる意志があるなら。
 しかしガイアの中をどれほど探そうが、それは有り得ないのだ。
「自由にしてあげましょう。その方がこの蝶も幸せのはずよ…好きにさせてあげればいいの」
「…はい」
 蝶の自由に。願いが叶わずしょぼくれるルクレスティードの頭を撫でてやれば、ようやく納得したように手のひらから蝶を離して。
 しかし蝶はまたも逃げる様子を見せず、ルクレスティードの頭に留まってしまった。
「…来なさい」
「ぁ…」
 事が済んだならばとファントムはガイアの手首を掴み、無理矢理腕を引いて歩き始めた。
 ポツンと取り残されるルクレスティードは、まるで普段通りのガイアとファントムを見送るように何も気にしてはいない。
 それが悲しくもあり、どうしようもなくて虚しくもあった。
 強く握られた手首が軋んで痛むが、気にしてくれる人でないことは重々理解している。
 理解はしているが、今は。
「自分で歩けるわ…離して…」
 子供の件が、頭から離れない。
 ガイアに許されたルクレスティードですら、ファントムは我が子として大切にはしてくれないのだから。
 ガイアの手首を掴んだまま、ファントムの歩みが止まった。
 場所は庭の外れ。
 鬱蒼と生い茂る木々に隠されて、ガイアとファントムの姿は周りからは見えないだろう。
 振り返るファントムはすぐ近くからガイアを見下ろし、ややしてから手首を離してくれる。
 女にしては背の高いガイアでさえ、ファントムは見上げなければならない人で。痛む手首を胸の近くに寄せて、もう片側の手のひらでさすって。
「あれの言葉が気になっているのだろう?」
「っ…」
 ガイアの心に突き刺さったまま抜けない針を指摘されて、涙が滲んだ。
 堪えるように唇を噛んで、両の手で自らを抱き締めて視線を逸らす。
 その姿をファントムはクスクスと笑い、
「可愛い事だ」
 ガイアの闇色の藍の髪を愛おしむように梳いた。
 触れられた箇所がくすぐったく疼く。甘い雰囲気を醸すのは、彼なりの負い目の現れなのだろうか。
 リーンがファントムの娘で、さらに他にもう一人いる。
「…本当なのね」
「何を嘆く?必要だから産ませたまでだ」
 まるで話が噛み合わないほどに、ファントムにはガイアの悲しみが届かない。
 必要だから産ませたなど、その子供を思う母親がいることを知りながら何故言える。
「あなたにとって子供達はいったい何なの!?まるで道具のように…」
「…聞きたいことはそれではないだろう?」
 拒絶など出来ないまま、腕を捕まれ引き寄せられた。
「愛しくて抱くのはお前だけだ。何も思い詰める必要は無い」
 腕の中にガイアを捕らえて、籠の中の鳥を愛でるように額に口付けを落として。
「やめて…今はそんな言葉…聞きたくないわ…」
 拒絶しきれない。でも、両手をファントムの胸に置いて、逃れるようにわずかな空間を作った。
 たったそれだけで。
 上から落とされる視線が冷たいものに変わる。
 ファントムは拒絶を許さない。
 もしそんなことをしてしまったら、身をもって一から教え直される。
 それを理解しているから、恐怖に怯えてただ従ってきた。従ってさえいれば優しくしてくれるから。だがこればかりは。
「…もう一人の…あなたの子供は誰?どこにいるの?」
「知る必要は無い」
「その子もクリスタル王妃に産ませたの!?」
「二度言わせるな」
 懸命に振り絞った勇気は、ファントムを苛立たせるには充分で。
 捕らえられていた体を離されて肩を抱かれ、
「…おいで」
「--やめて!」
 まぐわいの合図を、全身で拒んでしまった。
 ファントムが許してくれるギリギリのボーダーラインを、母でありたいと願う心が踏み越えさせてしまった。
 踏み越えてから、ザアッと全身から血の気が引いていくのを感じて。
 恐る恐る見上げれば、完全に冷えきった眼差しがガイアに降り注いでいた。
 すぐに目を逸らせる為に下を向いて、だが許されずに顎を摘まみ上げられた。
 これほどまでに怒らせてしまったのは何年ぶりだろう。
 全身が小刻みに震え始め、今までその身に味わってきたいくつもの恐怖が呼び起こされる。
「あの蝶を自由にしろと言っていたな。その方が幸せだと…それは私に言ったのか?お前を自由にしろと」
 俯きたいのに許されない。
 冷たい美声を浴びて、身体は芯から凍りついていく。
 なけなしの自我で懸命に涙だけは堪えたが、どうしようもなくてひとしずくだけ溢してしまった。
 怖い。
 これからどうなるのか知っている。
 今すぐこの場から逃げ去りたいのに、身体は言うことを聞かない。
 ならせめて、少しでも早く嵐が過ぎ去るのを。
「…ニコルは会話が無駄だと悟ると諦めて黙り込む癖があったな。今のお前によく似ている」
 静かに耐えようとしていた矢先にニコルの名を出されて、胸が掻き毟られた。
 我が子の、ニコルの癖なんて知らない。
 知りたくても教えてくれなかったのに、なぜここで口にするのだ。
 ニコルを取り上げたくせに。
 ガイアの手から無理矢理離して、だが自分はのうのうとニコルに父親だと名乗って。
 父親らしい振る舞いなどしていないくせに。
「--自由になりたいか?」
 訊ねられても、返答は口に出来ない。だが悔しくて、せめて懸命に見上げて。
「私から逃れて、自由に生きたいか?」
 痛みに耐えるように噛んだ唇を、指先でなぞられた。
 自由になりたい。
 ファントムから逃げたい。
 だがそれは許されない。
 そんな選択肢は元より存在しない。なのに。
「…お前が望むからルクレスティードを与えたというのに」
「----」
 冷めた口調でルクレスティードを物のように扱われて、産まれて初めてファントムに手を振り上げた。
 だがすぐにその手は掴み捕らえられ、簡単に捩じ伏せられる。
 捩られた腕が痛むが、それ以上に心が叫んだ。
 ニコルは実験の為に産まれた。
 リーンは策略の為に産まれた。
 ルクレスティードは、ファントムがガイアを完全に手中に留める為だけに産まれた。
 都合良くそこにファントムの欠けた虹の魂が宿っただけだ。
「っ…最低な人!」
 こらえたはずの涙はもう止まらなかった。ぼろぼろとこぼれ落ちて、頬がびしょびしょに濡れていく。
「…だがお前は私からは離れはしない」
「ええ、ええ!離れないわ!あなたがそうしたのでしょう!!」
 ガイアはファントムからは離れられない。
 長い間積み重ねられてきた“躾”と、何重にも重ね掛けされた魔術と、ルクレスティードという人質と。
 逃げ場の無い鳥籠の中にいるのだ。離れられるはずがない。
「…離れんならいい」
 ファントムもガイアの返答にわずかに溜飲を下げるが、
「…たとえ体は離れられなくても…心は自由よ」
 せめてもの意志という自由を口にした瞬間に、世界が激流に飲まれた。
 気が付けば地に伏していて、じくりじくりと頬に痛みが発生していく。
 ぶたれたのだと気付いたとたんに鈍痛は激痛に変わり、全身がひきつけを起こすように震え始める。
 ファントムは倒れたガイアの二の腕を掴んで、無理矢理その場に引き摺り立たせて。
 足に力が入らず、結局はへたり込むように芝生の上に置かれた。
「お前に何ひとつ自由なものなど無い…忘れるな」
 魔力の発生する流れに気付いて無意識に見上げれば、彼の手に見慣れた魔具の鞭が出現していた。
「--躾直しだ。脱ぎなさい」
 ガイアがずっと幼い頃からファントムの手にあった、細身の鞭。
 それに打たれ続けた過去を思い出して、今度こそ心は完全に折れた。
「ごめ…なさ…」
 消えてしまいそうな声が呟いたのは謝罪だ。
 まるで幼子のように身を縮こまらせて、鞭を凝視して。
「また二度も言わせる気か?」
 冷たい声が降り注いで、パシ、と軽く、ファントムは鞭を自らの手のひらにしならせる。
 その音が恐ろしくて、慌てて言われた通りに行動した。
 ファントムの好みに合わせて身に纏うマーメイドラインの妖艶なドレス。震える手で胸元の編み上げをほどけば、緩くなったドレスの上半身部分がわずかな衣擦れの音を響かせながら落ちて、豊かな胸が外気に晒された。
 秋風は保護されていた肌にはわずかに冷たくてきゅんと乳房の先端が固くなり、それがさらに羞恥を煽って頬が熱くなる。
 身を守るように両腕を引き寄せて胸元を隠せば、ファントムの微笑が耳を苛んだ。
「この木に両手をつきなさい」
 命じられた木はファントムのすぐ側の太い木で、折れて抗えない心を閉ざすように言われたままに移動した。
 芝生の上にぺたんと座り込んだままそっと両手を木に合わせて、白い背中をファントムに向ける。
「何故私に逆らった?」
「--きゃあぁっ!!」
 ファントムの言葉の終わりと同時に空気を切る音が聞こえて、背中に灼熱の痛みを刻まれた。
 痛い。だがまだ悲鳴を上げられる程度の痛みだ。
 手加減された鞭捌きは、次第に威力を増していくだろう。
 呪われたこの身体は死ぬことはおろか、身体に傷が残ることも許さない。
 痛みは次第に薄れて消え去るが、だからといって打たれた恐怖が消え去る事はない。だからいつも、与えられる痛みは新しいもので。
「ごめんなさい!もう逆らいません!」
 鞭の痛みと恐怖がガイアを幼少時に引き戻していく。
 ファントムの機嫌を損ねることは許されなかった。
 もし損ねてしまったら。
 ファントムから逃れようとしてしまったら、酷い罰が待っているから。
「…聞き飽きた言葉だな」
 こうなってしまえば謝罪の言葉も受け入れてくれない。
 再び鞭がしなり、今度の痛みは言葉にならなかった。
 それでもガイアはひたすら謝罪することしかできない。
 全ては自分が悪いのだ。
 ファントムに逆らおうとした自分が。
 理不尽であろうが、ガイアはファントムという世界に囚われ育ったのだから。
 絶対的な存在であるファントムの世界に。
「お前に自由はあるのか?」
「ありません…私は…ロードのいない世界では生きていけません」
 形骸化した言葉の後に、また鞭で打たれた。
「お前の自由とは何だ?」
 問われてもわからない。
 ガイアの自由がわからないわけではなく、ファントムの望む答えが、だ。
 何と答えればファントムから与えられる“躾”が終わるのか。どれほど思考をめぐらせようが、答えなど出てくるはずがない。
 押し黙る背中に、四度目の鞭が打たれる。
「っう…」
 背中を仰け反らせて、くぐもる悲鳴を。
 痛みを堪えるために木の幹に爪を立てた両手の甲にも鞭が打たれた。
「っあ!」
 太いみみず腫のように赤い痕が甲に浮き上がり、ややしてから消え去っていく。
 消え去れば痛みも無くなる。でも恐怖は溜まる一方で消えてくれない。
「…お前の望む自由とは何だ」
 再度訊ねられて、懸命に喉と唇を動かした。
「…あなたの傍に…」
 どうか怒りを沈めて。
 それだけを望んで。
 次はいつ鞭を振るわれるか。
 木の葉が風にさらされて鳴る度に、小鳥が飛び立つ度に。
 音に満ちたこの世界で微かな音が耳に入る度に、びくびくと怯え震える。
「…随分と都合の良い自由だな」
 それでも、ファントムの声は幾分か普段の穏やかさを取り戻し始めていた。
「こちらを向きなさい」
 命じられて、両手を幹から離す。
 そっと振り向き、すがるように見上げれば、極上の微笑みを湛えたファントムが。
 許されたのだろうか?そう考える間もなく、
「お前の望んだ自由を忘れるな」
 ファントムの傍にいることが自由だと宣言した言葉を忘れるなと、最後に乳房が鞭に打たれた。
 目の前に黒い残像が走り、豊かな胸が激しく揺れて電撃のような痛みが全身に流れる。
「っうあ!」
 うずくまるように胸を押さえて、ただひたすら痛みの消え去るのを待って。
 涙はまだ止まらない。
 ぼろぼろと決壊したような涙は落ち着いたが、涙腺が壊れてしまったかのようにゆるやかにこぼれ続ける為に頬が乾くことはなかった。
 痛みが疼きに変わり、少しずつ消えていくのを感じながら、恐る恐るファントムに目を向ければ。
「…立ちなさい」
 いつの間にか消え去っていた鞭の代わりのように、手を差しのべられた。
 優しい笑顔。嵐は過ぎ去ったのだろうか。
 震える身体は自然と動いて、ファントムの手に自らの手を重ねる。
 情け容赦無く鞭を振るったはずの大きな手は、そんな暴行など働いたことが無いかのように優しくガイアを引き寄せた。
 恐怖を与えられた後の慈愛に、たまらず自らその胸に飛び込む。
 寄る辺を見つけた幼子のように、ファントムという檻に自ら。
 逞しい身体に全てを委ねるように傾いで、頭を撫でられて。こぼれる涙が恐怖から安堵に変わり、しゃくりあげながらファントムの温もりを味わった。
 “躾”そのものは、今まで味わった中で一番短い時間だっただろう。
 だが数年ぶりの暴力は、ガイアの心を新たな鎖で繋ぐには充分すぎた。
 止めどなくあふれる涙をファントムの指が掬い上げて、また微笑まれて、深い口付けを。
 恐怖に怯えるくらいなら、自分を偽ってでも優しい檻に入れられたい。
 打たれたばかりの身体は、大切なはずの子供達よりも自分自身を優先しようとする様だった。
 なんて浅ましいのだろう。
 自分で自分が嫌になる。だが蹂躙され続けた身体は、身を守ろうと必死なのだ。
 ファントムの愛に答えるように自らも舌を絡ませ、その先を円滑に進ませる為にドレスを全て脱ぎ下ろす。
 裸体の女と、それを抱き締める男と。
 艶やかな色事を連想させる姿は神秘的な庭に溶け込んで、美しい景色の一部と化した。

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