第37話
第37話
「しゅーっりょーっ!!」
縮小された簡易医療棟である兵舎外周の一棟、さらに治癒魔術師が缶詰で怪我人達の治癒に当たる医務室で、アリアは心から満面の笑みを浮かべて楽しげな大声を上げた。
自ら終了と告げるその前では、腕の怪我を治された騎士が拳を握ったり開いたりしながら完治した腕に見入っている。
室内には他に魔術師のモーティシア達三名の姿はあるが、ニコルどころか後の二人も珍しく別室にもいなかった。
「お疲れ様でした」
モーティシアの労いの言葉にアリアは嬉しそうな笑顔を返し、
「ありがとうございます。こんな単純な怪我なのに」
「何言ってるんですか!任せてください!」
騎士からの礼には力強く己の自信を告げる。
治癒はアリアの大事な仕事なのだ。姫の為に戦って傷を負ったというのに単純もくそもあるものか。
アリアの意志強い眼差しを真っ直ぐ受けて王城騎士は戸惑って視線を泳がせながらも照れて頬を赤くする。
やや離れた所で整理作業を行っていたアクセルとトリッシュも一連の様子を眺めながら安堵の笑みを浮かべて。
「これで暫くはゆっくり出来るだろうな。アリアが落ち着けるならニコルも安心してくれるだろうし」
「肩の荷がひとつ降りればいいけどな。いったいいくつ積み込んでんだか」
「だな」
二人がまだ心残りであるように心配するのは、護衛部隊の副隊長でありながらコウェルズに別件で呼び出されまくっているニコルの精神面だった。
ファントムが現れてからこちら、おかしな災難に見舞われているニコル。
「レイトルとセクトルも惜しいな。肝心な時にいないし。せっかくのめでたい瞬間なのに見逃すなんて」
「兄さんはコウェルズ様の所でしょ?レイトルさんとセクトルさんはガウェさんの所かな?」
アクセルの言葉に反応するように、アリアは騎士達の居場所を推測する。
アリアの護衛にはなるべく騎士一人はついていたので、今日のような護衛体制は珍しかった。
だいたいニコルかレイトルが側にいてくれるのだから。
特にレイトルはアリアの治癒魔術のサポートに重宝されたが、怪我人達の傷が浅くなり始めた辺りからサポートからは外れている。
「まあ、いずれ顔を見せるでしょう。私は医師団と今後について話してきますから、しばらくここで休んでいて下さい」
「あ、お願いします」
アリアに任された全ての治癒が終わったので今後の展開を話し合う為にモーティシアは部屋を出ようとして、
「あの、アリア嬢--」
「はーいはい、あなたは私と一緒に医師の元に行きますよ。怪我が癒えただけで治療はまだ終わってませんからね」
アリアに積極的に話しかけようとした騎士の襟首を掴んで立たせた。
「…はい」
素直に従う騎士は、アリアへの下心に気付かれたとばかりにシュンと項垂れる。
下心といってもまだ純粋な好意だろうが、モーティシアはアリアの次代を考慮して今まで何度となく普通レベルの魔力しか持たない騎士のアプローチはアリアに気付かれない程度にへし折っているのだ。
「番犬が板についてきてるよな」
「番犬か?モーティシアお得意の防御壁の間違いだろ」
「聞こえていますよ」
魔術師達三人の会話にも騎士はもはや苦笑いを浮かべることしか出来ず、モーティシアと共に出ていく。
その様子を眺めてから、トリッシュとアクセルは口煩いのがいなくなったとばかりに整理作業の手を中断して椅子に座り込んでしまった。
「缶詰めもこれで終わりか。医師団の見立てのお陰でアリアも前みたいに疲れきってないし良かったな」
簡単な片付けを始めるアリアの横で項垂れながら話しかけてくるトリッシュに、アリアは「ですね」と疲れていない身体を肯定する。
「明日からはどうなるんでしょう?軽傷の方の治癒でしょうか?」
「ないない。軽傷者回ってたら終わりが来ないよ。その程度で治癒魔術師動かしてたら有事に支障を来すから」
アリアの質問にはアクセルが座りながらも整理作業をゆっくり進めながら答えてやり、地味な片付けを少しずつ進めていく年下二名に挟まれたトリッシュは少しの間は我を張ったが、やがていたたまれなくなったかのようにガタリと強く立ち上がった。
「よっしお前ら手を止めろ。暫くは休めるだろ。気分転換に庭に出ようぜ」
それは自分が堂々と休みたい為だけの言葉だ。
「え…いいんですか?」
「騎士も付けずに外に出たらモーティシアに怒られないか?」
「出てすぐの場所なら平気だろ。ひと仕事終わった後の外の空気は美味しいはずだから行こうぜ!」
困惑気味のアリアとアクセルを強引に立たせて、トリッシュは部屋から二人を連れ出してしまった。
扉の向こうは回廊となった通路で、アリア達のいた兵舎の内側に位置するそこから柱の外に出た場所は兵舎外周棟と内周棟間の、騎士達が勝手知ったるとたむろするグラウンドだ。
中庭と呼ぶものもいるが、兵舎内周以内の王城を囲う中庭とは違い美しい庭という訳ではない。
騎士達が訓練に明け暮れる事が出来るように設けられたそのグラウンドの地面には、至るところに蹄跡があった。
あまりにも広い王城内の移動用の馬達のものだろう。
そこに一歩ふみ出れば、見慣れたはずの景色であるはずなのに、治療の全てを終えたからか清々しさが三人の全身に染み渡った。
「--もう夕暮れ…」
アリアの見上げる空は茜に染まり、兵舎内周棟に阻まれて夕日こそ見えないが美しい光景が広がっている。
はぁ、と疲れたため息は耳に心地よい充実感に溢れたものだった。
「天空塔で見た朝焼けとはまた違って気持ちいいな」
「なんか一気に力抜けたわ…俺は別に疲れてるつもりなかったんだけど、やっぱ疲れてたのか?」
アクセルとトリッシュも同じように肩の力を抜いて、まるで自由を謳歌するように腕や肩を回して。
「みんなずっとあたしと居てくれたじゃないですか。疲れない方がおかしいですよ」
「--あら、やっぱりあの噂は本当だったのですね」
アリアの労うような笑い声に反応するように、背後から高慢な女の声は突然響き渡った。
誰に向けられた言葉だったのか、その時に理解できたのはアリアだけだ。
声の聞こえてきた背後の回廊内に三人そろって振り返れば、そこには二人の侍女を従えた、美しい藍のドレスを纏った女がいた。
女は蔑むような眼差しをアリアに向けてから、勝ち誇るように鼻で笑ってみせて。
「…どちら様ですか?」
訊ねたのはアクセルだった。
トリッシュは女を知っているらしく様子を窺うように口を閉ざしているが、アリアとアクセルは女を知らない。
それでもアリアには察することが出来た。
「まあ、あなたガブリエル様を知らないとおっしゃるの!?」
「下位貴族ごときが、上位のガブリエル様に気安いのではありませんか?」
女に従う二人の侍女がそろってアクセルを非難すれば、ようやく理解できたようにアクセルはトリッシュに目を向ける。
トリッシュは傍目には肩をすくめるだけに留めるが、誰に知られるともなく利き手に魔力を集めていた。
相手が侍女とはいえ万が一を考えアリアを守る為だ。
これがアクセルには出来ない辺り、二人の意識にはまだ差がある。
「騎士の皆様が休む暇無く働いているというのに、こんなところでのうのうと休んでいるなんて。治癒魔術師などやはり不要な証拠ですわね」
「はは。虹の七家の一色を司るガードナーロッドの令嬢が治癒魔術師の重要性も知らないなんてね」
再び口を開いたガブリエルは休憩に入っていたアリアをすかさず責めるが、間髪入れずにトリッシュが彼に似合わない落ち着いた口調で返した。
その様子はモーティシアの雰囲気に似てはいるが、恐らく任務中の本来のトリッシュの姿はこちらなのだろう。
「何か言いまして?」
「どう聞こえましたか?」
鋭く睨み付けられても爽やかな微笑みで返して、ガブリエルの注意をアリアでなく自分に引き付けるように。
その小バカにするような態度にガブリエルの頬はわずかな怒りで少し赤くなるが、
「…ふん。しょせん平民の薄汚い女に使える程度の下位貴族など、相手にするだけ無駄ですわね。どうせ平民の女くらいにしか相手にされないのでしょうが」
ガブリエルの視線は再びアリアに戻ってしまった。
ガブリエルが言い負かしたい相手はアリアであると誰もが気付く様子にアリアも身構える。
私はあなた達とは違うのよ。そう態度の全てで示すガブリエルは、藍都ガードナーロッドの特産である上等なレースや刺繍の施されたドレスをわざとらしく翻しながら、回廊を抜けてグラウンドに降り立つ。
多くの娘達が憧れるだろう夢のようなドレスを纏うガブリエルとは違い、アリアが着ている服はエル・フェアリア魔術師団の女性用ローブどシンプルなもので、侍女達のドレスより華やかさに欠ける。
アリアは別に気にはしない。だが衣服が女同士の勝負に使われることはよく理解している。
村にいた時も、働き先の町でよく巻き込まれていたのだから。
貧乏なボロを纏うアリアを、町の娘達もよく嘲笑っていたものだ。
貧しい娘だと。
しかし身体のラインがまず違う。
ガブリエルも最初こそ勝ち誇ってはいたが、次第に気付いたようだった。
元々アリアは女にしては背が高すぎるのでその点も嘲笑のネタにされていたが、見れば見るほどアリアの肉付きは女達の癪に障る。
アリアがコンプレックスに思う胸も、腰のベルトで絞られたローブのお陰で女らしいラインをさらに引き立たせてくれる。
ローブがシンプルな分、余計にだ。
アリアはまだひと言も口にしてはいない。それでもやはり、ガブリエルは自分が身に纏うドレスの中にある肉体とアリアの体を比べた様子だった。
「…エル・フェアリアの治癒魔術師は娼婦上がりという噂は本当ですのね。はしたない身体ですこと」
突如切り出された噂という言葉に、トリッシュとアクセルが首をかしげ、アリアはわずかに目を見開く。
ガブリエルが言っている噂とは、ニコルが教えてくれたものと同じはずだ。
「…噂?」
トリッシュとアクセルは知らないのだろう。互いに顔を見合わせるのをガブリエルが見逃さずに微笑みかけた。
「あら、はぐらかすことはありませんのよ。そちらの治癒魔術師が婚約者に逃げられた挙げ句に強姦されて性に目覚めた噂なら、もう王城中に広まっていますもの。そちらの下位貴族達ともさぞ毎晩楽しまれているのでしょうねぇ?」
クスクスと気味の悪い微笑みを浮かべるガブリエルに倣うように、その背後に従える二人の侍女も小バカにした嘲笑をアリアに向ける。
「…はぁ?」
「え…」
いったい何だその噂は、とトリッシュとアクセルが眉をひそめる中で、アリアは冷静だった。
動揺するでもなく、嘆くでもなく。
スッと静まる表情は完全に腹が据わっており、ガブリエルに隙を与えなかった。
「…あなただったのね」
そして全て理解したように、小さなため息を。
「何がですの?」
そんなアリアを前にしてもはぐらかそうとするガブリエルは、まだアリアが何に対して自分と決めつけたのか、いまいち理解をしていない。
だがすぐに理解することになる。
「…勝手な噂くらい流したいだけ流せばいいわ。それであたしが悔しい思いをすると思ってるならね」
人を貶める噂を流した張本人。
ガブリエルの瞳から嘲笑う色が消える。
「…自分から名乗り出すなんて」
「証拠でもありますの?」
「19まで適当に生きてた訳じゃないもの。証拠なんかなくてもわかるわ。あなたみたいな意地悪な人を何人も見てきたから」
面と向かって意地悪と口にされて、ガブリエルが言葉をつまらせた。
そんな様子もアリアからすれば滑稽なだけだ。
アクセルやトリッシュを馬鹿にしておいて、アリアを馬鹿にしておいて、自分が言われたら傷付くのか。
なんて甘やかされた性格だろう。
以前のジュエルによく似ている。
唯一の違いは、ガブリエルの言葉はガブリエル本人がそう自覚して口にしているということだ。
周りに影響されやすい幼いジュエル。恐らく一番の影響力は、姉であるガブリエルだったのだろう。
「…ガブリエル様…」
わずかに拳を握り締めたガブリエルを心配するように侍女が声をかけるが、それは完全に無視された。
「貧民ごときがこの私を他の者達と同じように見るつもり!?」
怒りをアリアに。
怒りのせいで穴だらけ隙だらけの言葉を浴びせかけるのかとも思ったが、恐らくガブリエルはそれこそが絶対だと信じて疑っていないのだ。
上位七家に連なる藍都ガードナーロッドのガブリエル。
それこそが自分が至上である理由なのだと。
そんな理屈、アリアには通じないと知らないのだろう。
「どこがどう違うのか教えていただけますか?」
ポツリと訊ねるアリアに、ガブリエルはさらにキレた。
「まあ!なんて馬鹿なんでしょう!何もかも全てよ!あなたみたいな下品な方にはわからないでしょうけどね?まあ殿方に捨てられる程度の女なんてたかが知れていますものね!」
平民など下品なものだと決め付けた上で。
さあ、どう返すべきか。
わずかに言葉に迷ったアリアだが、自分のことはかまわないが、アクセルとトリッシュが馬鹿にされた発言は許せなかった。
許せなかったからこそ、言うまいと思っていたそれを口にする。
「…完全に相手にされないよりマシだと思いますけど」
ガブリエルがニコルに気があった事を知りながら、ニコルが記憶に残さないほど相手にしなかった事を知りながら。
恋人に裏切られる方がましか、片想いの人物に覚えてもらえないほど相手にされない方がましか。
当人からすれば、どちらも最悪だ。
そして恐らくガブリエルはまだ失恋を引きずっているのだろう。
全身が凍り付いたように、固まってしまった。
だが悪いことをしたとはアリアも思わない。先に傷をえぐり、塩を揉み込んでくれたのはガブリエルだ。
端から見れば、互いに睨み合うように見えただろう。
だがアリアは冷静で、ガブリエルは言葉も出ないほど。
「--アリア、みんな!」
そこへ、兵舎内周側からレイトルの声が近付いてきた。
振り向けばレイトルとセクトルが異変に気付いた様子で走ってくる途中で。
重い鎧を身に付けているというのに、それを微塵にも感じさせない早さでレイトルがアリアに近付き、その肩を引き寄せた。
「アリア、平気?」
「…はい」
肩から広がる熱いほどの温もりに何故だか涙が溢れそうになって、アリアは懸命にこらえた。
「何の用だ?治癒依頼なら医師団に申請書を届けてくれ。勝手を通していたら埒が明かない」
数秒遅れて到着したセクトルはガブリエル達に冷めた視線を向けて、あくまでも事務的に話しかける。
セクトルの淡々とした口調はガブリエルの硬直を解く助けとなったらしく、強くアリアを睨み付けてから背中を向けて、早歩きで回廊に戻り去っていった。
侍女達も慌てて後を追い、静けさに包まれたのは数分してからだ。
「怖かったー…」
安堵するようにため息をついたのはアクセルだった。
「すみません…」
「女の人ってすごいね」
一触即発の状況を謝罪するアリアにアクセルはさらに力を抜くように話しかけて、普段ならモーティシアが止めるだろう状況を代わりにトリッシュがアクセルの頭を叩いて止めてやる。
馬鹿なことを今言うな。アリアの状況を見ろ、と。
「で、何だよ、噂って」
いつになく真面目なトリッシュの声に、アリアは静かに視線を落とす。
まだ落涙はしたくないのだ。
アリアのプライドがそれを許さない。
「…話せない?」
「とりあえず部屋に戻ろう。ここだと人目に付く」
アクセルも心配してくれるが。
状況をわずかに理解したのか、レイトルはそう提案してくれた。
誰かに聞かれていい話ではないと理解しているということは、彼は噂を知っているのだ。
レイトルが知っているなら、セクトルも知っているのだろう。
アリアを貶める酷い噂。
知られていたことが怖くて、レイトルに触れられた肩をわずかに強張らせた。
「…一人になりたいって言ったら…我が儘ですか?」
懸命に発した声は、これ以上無いほどに弱りきっている。
この場にニコルがいなくてよかった。
もしアリアの肩を引き寄せてくれたのが兄のニコルだったら、アリアはガブリエルの前だろうが泣きすがっていた事だろう。
「…君を一人には出来ないよ」
嫌がる気配を察してレイトルが手を離してくれるが、アリアの護衛という立場にある以上それは聞き入れられないと、申し訳なさそうな言葉と眼差しが向けられる。
そんなことわかっているが。
レイトルが引き寄せる為に触れてくれた肩の位置に自分の手を置いて、アリアは唇を噛んだ。
何を話せばいいかなどわからない。話したくない、と暗に告げるように。
しばらくの沈黙を破ってくれたのはレイトルだった。
「…セクトル、事情を二人に話してくれるか?私はアリアを落ち着ける場所に連れていくから」
噂についてはアクセルとトリッシュも知っておくべきだという台詞。だがそこにアリアは居なくていいと。
「…場所は?」
「私達の訓練場にいるよ」
以前レイトルがアリアを連れて案内してくれた秘密の訓練場へ。あそこなら、滅多に人はこないから。
頷くセクトルはアクセルとトリッシュと共に部屋に戻り、アリアの肩には、背中を抱くようにレイトルの腕が回された。
アリアも素直に従ったのは、それが今の最善なのだろうと理解したからだ。
どうせもう、噂は取り消せない。下手をすればさらに酷い噂が流れる。アリアはそれだけのことをガブリエルに言ってしまったのだから。
全身が緊張しているのがわかる。その緊張を解きたくて、アリアは温もりを求めるようにレイトルの添えられた手の暖かさに身を任せた。
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